Homare's Diary

組織人事コンサルタントの徒然日記です

この仕事をしてきて良かったこと

高校卒業から30年の節目の同窓会が台風、コロナで延び延びになりようやく開催できたのが昨年の秋。今年の5月には大学卒業の30周年同窓会の案内。高校の同窓会は4年も延期されたのってすごいよね・・

それと同時に大学卒業から30年ということは、社会人30年目に入ったということで。結構な年月が経ったということですよね。今年も自分の会社に入った32名の新入社員に対して研修を受け持ったわけですが、コンサルティングの仕事を30年も続けてこられるなんて当時は思わなかったですね。

大して出来の良い部類ではなかったですから、こんな知的ハードワークができるのは、頭が切れる人間にしか務まらないのだ・・なんて思ったときもありました。これも一重に、自分が探求できるテーマを試行錯誤の上に選んだことと、期待を寄せてくれるお客様があってこそのキャリアだなと思うわけです。

先日、代表に僕を照会する電話がかかってきました。その方には今の小さな会社に転職したことはしっかりお伝え出来ていませんでした。一方で10年にも渡るお付き合いをしてきたクライアントのメンバーの方でもあり、苦楽をともにした戦友でもありました。


その方は、昨年の春に人材開発部長に就いたのだそうです。人事企画の畑が長く、人材開発については経験値が低い。この分野に明るくて自分の会社の事を誰よりも知ってくれている人は僕だと思い。そこでGoogleで検索をしたところ今の会社にいることが分かり、それで電話をしたのだとのこと。電話をしたときには、ちょっとドキドキしましたよ・・と。

打ち合わせに参加した配下のメンバーは、社内公募制度で人事を希望して来てくれた人で、僕が素案を作り3年前に導入した公募制度の成果なんです・・と。新しい立場でまた一緒にやっていきたいのでよろしくお願いします。


映画「男はつらいよ」で満男が寅さんにこう尋ねるシーンがあります。
「あのさぁ?人間ってさあ?」 『人間?人間どうした』
「人間は・・何のために生きてんのかな?」 『おまえ、難しいこと聞くなぁ。うーん、なんていうかな。ほら、あぁ生まれてきて良かったなって思うことが何遍かあるじゃない。ねえ、そのために人間生きてんじゃないのか?』
「うーん」 『そのうち、お前にもそういう時はくるよ』


このシーンとても好きなんです。この仕事を続けていると、やっていて良かったなと思うことがあるわけですが。そんなことを感じさせてくれる一言でもありました。

我孫子と鎌倉を分けたもの

僕が小学校時代から大人になるまで過ごした我孫子は、今住んでいる鎌倉との共通項があり、北の鎌倉とも呼ばれた場所。その理由は、都心からほどない距離にありながらも湖沼を臨む情緒豊かな場所であり、鎌倉と同じ別荘地であり、白樺派の文人たちが拠点を構えたことに由来しています。

 


白樺派は、学習院の同級生が創設した芸術集団であり、志賀直哉、武者小路実篤、柳宗悦、バーナード・リーチ…なかなかそうそうたる顔ぶれです。ちょうど今、原田マハさんの『板上に咲く』を読んでいるのですが、世界的な版画家である棟方志功さんが芸術家を志すきっかけを創ったのは、雑誌白樺において柳宗悦氏が紹介した『ゴッホ』のひまわりに感銘を受けたことだったりします。

 


白樺派というのは大正、昭和期において最先端の芸術家集団であり、大きな影響力を持ったタレント集団だったわけです。最先端のアート集団が選んだ場所が、鎌倉ではなく我孫子だというのも興味深い。

 


実際に志賀直哉邸があった場所を見ると、戦後の宅地造成で見る影もなくなった我孫子の市街地において、鎌倉と同じような景色があったことがうかがい知れます。

 


ここは手賀沼公園からほどないところですが、昭和50年代前半に我孫子に越して来たときには、沼の汚染が激しく情緒の欠片も感じられませんでした。今は沼も綺麗になり公園も綺麗に整備され、少し当時の雰囲気を感じる事ができます。

 


我孫子と鎌倉を分けたものは、イギリスのナショナルトラスト運動を知る大佛次郎さんを中心とした自然保護活動にあります。これが無かったら鶴岡八幡宮の裏山はすべて宅地化されて鎮守の山はハゲ坊主になっていたはず。

 


僕の住んでいる谷戸においても聡明な知識人たちが、谷戸の景観を維持するために市と長い時間をかけて交渉を重ねてきた歴史があります。

 


同じような無計画な開発は日本中の至るところで行われたわけで、鎌倉というのは心ある人たちによって自然が残された奇跡的な場所であるとも言えます。ちょうど、先日旧華頂宮邸開放のボランティアの際に昔からこの場所に住む人たちと話をしたのですが、道の脇の側溝に蛍が住む小川が流れ、今時期はウグイスの大きな声が響いているこの場所、70年前から全然変わっていないそうです。

 


もし、我孫子において白樺派の文人たちがナショナルトラストを行っていたら、今は全然異なる景色が拡がっていたかもしれませんね。

f:id:ishibahomare:20240415220927j:image
f:id:ishibahomare:20240415220736j:image
f:id:ishibahomare:20240415220832j:image
f:id:ishibahomare:20240415220754j:image
f:id:ishibahomare:20240415220943j:image
f:id:ishibahomare:20240415221018j:image
f:id:ishibahomare:20240415220848j:image
f:id:ishibahomare:20240415220911j:image
f:id:ishibahomare:20240415220811j:image
f:id:ishibahomare:20240415221002j:image

ランナーズトラブル

ランニングの目的はレースタイムではなく、生活の質の維持。ゆったり週一ペースを崩さないことが基本。体調や天候によってやむを得ずスキップすることはあっても、穴埋めはどこかでやる。

 


足や腰に関するトラブルにこれまで遭わなかったことが幸いしたともいえます。そこまで追い込んで走っている訳ではないですから。

 


しかしながら、先日は天候も体調も悪くないのにランニングを見送りました。右足の親指の付け根がずきずき痛むからです。前々から少し痛いところがあったのですが、柔らかいランニングシューズを履くと痛みはなく、走る分には問題なかったのです。

 


ところが先日、様々なところを歩き回ってナイトランをした翌日から足の甲が痛み始めいつもと様子が違います。

 


いけるかなと走り始めるも、家の前の坂を駆け下りると痛みが走ってだめな感じ。無理をして歩けなくなるのも嫌なので暫くロキソニンテープを貼って様子見です。

 


どうもこの症状は種子骨炎というものらしく、ランナーにはよく起こる症状みたいです。にしても、名前の通り小さな骨の炎症で走れないなんて…

 


サポーターとテープを付けて一週間。走ることはできるのかしら…

大家さんとの共通項

僕の鎌倉の家を貸してくださっているオーナーの方が、僕の家の隣の友人とともにお近づきになった印にと懇親の場を設けてくださった。

 


鎌倉らしいお店とのことで、鎌倉駅前にある田楽のお店。マスターは二代目で裁けた博識の女将。オーナーは先代の時からよくこの店に来たのだという。

 


場ではオーナーの学生時代のこと、仕事のことなどを色々と聞かせてもらった。経済人でもあり、文化人なので交友関係が広いこと広いこと。

 


野坂昭如さんとジャズフェスティバルを企画したこと、そこにはジャズトランペット奏者の日野皓正さんがいつも来るのだ…とか。学生時代の写真仲間は、三島由紀夫の薔薇刑の写真集を作ったのだ…

 


僕も子供たちも興味津々でいろいろお話を聞いたのだが、面白かったことがある。それは、オーナーとお隣さんと僕の3人を結ぶ共通点が笹塚だったということ。

 


オーナーと隣に住むTさんは20年来の笹塚に住む時からの友人づきあいだったのだそうだが、僕も小学校2年までは笹塚に住んでいたのですよ…と話すとどこに住んでいたんだ?と聞いてくる。僕が方南二丁目で、そこにあるT社の社宅でした…と答えると、知っている。自分の家はな…そこの裏から坂道をすこし上がったところにあったんだ…とのこと。

 


幼稚園は、宮代幼稚園に行って方南小学校でした…と話をしたら、自分の息子も宮代幼稚園だったなどという話になり、不思議な繋がりがあるものだ…と。

 


世代もバックグラウンドも全く違うもの同士が、家を貸借するという中で交流を持つということ自体がとても新鮮。人と人との繋がりが濃い鎌倉という土地ならではだなと思ったのでした。

エコスタイルに必要な覚悟

腕時計においてソーラー充電型のモデルとボタン電池交換モデルとどとちらがエコか?というと後者なんだよね。結局、充電バッテリーがへたると交換しなくてはいけないし、下手をすると交換不能で買い替えになる。スマートウォッチに至っては、耐用年数せいぜい5年で論外。

 


ボタン電池交換型なら、20年くらいはメンテナンスフリーで使い続けられますからね。

 


自動巻きも3-4年ごとに値の張るオーバーホールが必要で、年がら年中身につけてゼンマイを巻かないと動かないし、時刻も正確ではない。これはもはやエコ以前に趣味になってしまう。とはいえ、お金を度外視すればエコとはいえます。

 


これを移動手段だと考えると、ボタン電池のクオーツはガソリン車。ソーラードライブがハイブリッド。スマートウォッチがEV。ガソリン車が意外とエコだったりする。

 


自動巻きのモビリティにおいて相当する自転車は完全にエコ。一方で使い続けるためには、体のメンテナンスをお金と時間をかけてすることが必要。本質的なエコを貫く上では労力が必要という点では、オートマティック時計と同じといえますね。

花粉症は寛解するか?

もともと大して重い症状ではないのですが、ハウスダストと杉花粉のアレルギーがあります。薬を飲まなくても日常は過ごせるレベルで時々点鼻薬や目薬をさせば何とかなります。ですがたまに鼻づまりがひどくなることもあるので、耳鼻科で薬を処方してもらいひどいときだけ飲んでいます。

 


花粉が出始めて飛散がひどい時には、目がなんだかゴロゴロするので何となく分かります。

 


今年はそんなこともないままに2月を迎え、さてや花粉症が完全寛解なのか…そんなことあるのか??

 


そう思っていたら先週の金曜日はあまりにも鼻詰まりがひどく、慌てて耳鼻科にかかり薬を処方してもらったのですが、どうもただの鼻風邪だったようで。治ってしまったら、鼻の症状は治まっています。

 


どうも加齢とともに花粉症の症状は治まる人も中に入るようで。免疫力との関係があるようです。とはいえ、いくら歳をとっても花粉症に悩まされている人は多く。ある意味でラッキーなのかな、本当なのかなあ…

 


家の息子の一人は、鎌倉は花粉が多い、八丁堀の比じゃあない…と大変な様子。うーむ…

西御門サローネでの話

雪になりそうな寒い日でもあり、鎌倉八幡宮の北東に位置する西御門サローネに先客はなく、ストーブを焚いた暖かなダイニングで初老の館長さんは里見惇さんや鎌倉の事について色々教えてくれました。


・鎌倉というのは昔から住んでいる人がいる一方で、華族や富裕層といった高い人たちが住む場所だった。また、戦前は海軍将校が多く住んでいた(僕の借家の前の持ち主もそうだ)。横須賀線で東京まで出ることが出来る便利な場所で、海があり山もあるため保養地には最適な場所ということらしい
・戦後は鎌倉の立派な家はGHQに接収されて士官の邸宅やホテルになっていた。西御門サローネもホテルになっていた(小規模ながら軽井沢万平ホテルのような雰囲気が残っている)
・鎌倉山は不便な場所にあるが戦後は米軍が接収していたので、電気、水道、ガスといったインフラがしっかり通っている

・戦後は太陽族と呼ばれるやんちゃな若者たちが鎌倉を多く訪れたが、石原慎太郎は地元できわめて評判が悪く、横須賀が地元の小泉慎一郎も鎌倉で女性がらみのトラブルを起こしており、地元では彼奴が首相になるなら世も末だと言っていた
・里見惇さんは、薩摩藩にルーツを持つ官僚の息子で、学習院だった。そこで、志賀直哉、武者小路実篤などと出会って白樺派を作った

・白樺派を離れた後は、小津安二郎さんと仲が良く小津さんの映画のイメージは里見惇さんの原作によって作られた作品も多かった
・鎌倉は大船撮影所が近かったことから、映画俳優が食事をよくするレストランも多かった。中井貴一さんのお父さんの佐田啓二の奥様は撮影所近くのおそば屋さんの娘さんだったそう

 

・邸宅は和の設計ながらも、初代帝国ホテルのライト建築を模して取り入れたものが随所にある。アプローチの階段であったり、階段の吹き抜けから見えるステンドグラスなど

・里見惇さんは大阪の南で置屋の娘と結婚し、身分で差別をするような人ではなかったが、邸宅にある使用人の部屋というのはやはり相応に貧相な作りになっている。

・離れになっている数寄屋造りの茶室は京都から大工さんを呼んで作らせたもので、茅葺きの屋根に白樺の天井などかなり凝った作りになっている
・トイレは浄化槽を備えた水洗式のものを当時から採用していた

・この邸宅を離れて里見惇さんは長谷に住むのだが、関東大震災の津波の影響で海抜の低いところは根こそぎ被災した記憶があったからだと思う

 

館長をしている方は、東京オリンピックの時から鎌倉に住んでいるそうですが、この地域の歴史や文学、映画に詳しかったですね。やっぱり、里見惇さんの作品や小津映画とか見ていると話の味わいがもっと分かるのでしょうね。


その西御門サローネの側にある、邸宅を喫茶店にしたカフェ。前を立ち寄ったところ週末しかやっておらず、気になって翌日に寄ってみました。そこは、古いパイオニアのステレオセットがおいてあり、もっぱらビートルズをLPで流しています。入り口には巨人の高橋由伸さんが送った植物があり、店内には野球のバットなども飾られています。


初老の夫婦と息子さんの3人で経営しているのですが、息子さんが交通事故に遭って働けなくなったことから鎌倉でお店を開いたのだそうです。後で調べてみると、息子さんは慶応高校で甲子園に手が届くところまでいき、大学野球では高橋由伸のチームメイト。社会人で明治安田でプレイをしていました。ですが、37歳の時に彼を不幸が襲い、飲酒運転の車に20mも跳ね飛ばされ、意識不明で瀕死の重傷を負ったそうです。一命を取りとめたものの、脳に高次機能障害と左半身不随となり、ご両親と鎌倉でカフェを開いたのだそうです。


マスターは、あまりこの店は宣伝をしたくないらしく、ガイドブックなどや取材などは一切お断りしているそうです。とはいえ、大河ドラマなどでロケ地となると多くの人が来ることになり、なかなか大変なのですよ・・なんて話していました。


リーズナブルですし、ビーフシチューがとても美味しいのです。テラス席も素敵で暖かくなったら来てみたいところ。しかし、ここに住む人にはそれぞれ人生のエピソードがあるのですよね・・


時間の流れがのんびりしていて人との距離感が近いので、仕事に関係のない知り合いが増えます。そんなことがSHONAN TIMEという雑誌に書かれていましたが、確かにそうですね。

 

f:id:ishibahomare:20240225203526j:image
f:id:ishibahomare:20240225203620j:image
f:id:ishibahomare:20240225203501j:image
f:id:ishibahomare:20240225203450j:image
f:id:ishibahomare:20240225203600j:image
f:id:ishibahomare:20240225203549j:image
f:id:ishibahomare:20240225203514j:image
f:id:ishibahomare:20240225203631j:image
f:id:ishibahomare:20240225203537j:image
f:id:ishibahomare:20240225203644j:image
f:id:ishibahomare:20240225203612j:image

f:id:ishibahomare:20240225213616j:image
f:id:ishibahomare:20240225213628j:image