『風船』(1956)

森雅之は写真工業会社の社長。若い頃は天才画家と持て囃されたが、金のために絵を描くことを嫌い、筆を捨て逆に実業界へ転じた。今では高台の豪邸に妻と二人の子供と暮らしている。娘の芦川いづみは、小児麻痺のせいで身体が不自由だが天真爛漫な少女。世間や家族からも知恵足らずのように扱われることを苦にしつつ、大好きな絵を励みに生きている。息子の三橋達也は、森の会社の営業部長をつとめ、戦争で夫をなくした新珠三千代を愛人にし、金を与えている。だが三橋は、ナイトクラブマネージャー二本柳寛から紹介されたシャンソン歌手、北原三枝の誘惑になびき新珠を裏切る。新珠は落胆し自殺を図る。芦川は孤独な境遇の新珠に同情し、夜も眠らず看病する。その甲斐も虚しく、新珠はガス自殺する。森は三橋の不品行と非人情を責め、会社を依願退職させる。自分も社長を辞め、家を三橋に譲ると妻をおいて一人京都で暮らすことに。芦川への愛情を胸にしまい、扇作りに精を出すうちに、ある夏祭りの晩、思いがけない再会をする…。
原作大佛次郎。『鞍馬天狗』のような時代小説のみならず、こうした都会的なメロドラマも書いていたのですね。衣装は森英恵。何気に数百もの映画の衣装を担当した偉人。芦川いづみが登場する際に纏っている丸襟のチェックのコートは、腰まである髪を一つにまとめた大きなリボンとともに可憐さを強調しているし、酒場で働く新珠三千代は、修道服を思わせるシックな黒のワンピース姿で、うらぶれた環境にそぐわず気品を失わない。北原三枝の全身豹柄も、エキゾチックで蠱惑的な美貌に似あっている。今時の流行に通ずる50年代ファッションの数々が、見た目にも飽きさせない。
主人公は森雅之芦川いづみ。でも『風船』という題名は、女たらしの二本柳寛と、いつまでも身を固めようとしない北原を指している。森雅之の妻が最たるものですが、彼女のように厳格な人々からは蔑まれがちな浮ついた職業につき、夜の街を根城にしている。その生きざまが「風船」に喩えられている。二人はしばしば行動をともにし、一見恋人同士のようだけれど妙に冷めたところがあり、二本は北原に三橋達也と結婚するよう勧め、北原も「命令」どおり相手をものにする。恋愛は競争であり、奪いとる側が正義となる、というのはもっともらしい考えだけれど、どこか疚しさが潜んでいる。それは、計算高く立ちまわることで他人の誇りを傷つけるどころか、死に追いやろうと意に介さず、そのくせわざわざ自己正当化に理屈を費やすことからもわかる。北原が新珠の死後、自分は「生活のためにふらふらせざるをえない女」だと笑って言い放つ場面がまさにそう。また「風船」として生きる者の、自棄気味な諦念も織りこまれている。川島雄三監督は、『しとやかな獣』の金儲けに突き進む一家、『雁の寺』の女を囲う和尚など、俗物を立体的に描くのがうまい。この二人も、卑怯ではあれどなぜか憎めない輝きを放っており、善悪をそうたやすく裁断できない現実の苦さを知らしめてくれます。
「風船」は北原たちばかりでない。森雅之一家も落ち着きがなく、終いには散り散りに流される。森は京都や九州に出張し、いつも家をあけている。芦川いづみが心配でも、してやれることは少ない。三橋達也は仕事を放りだし、恋人の下宿に入り浸っている。母親も出かけることが多い様子。芦川は彼らの不在を寂しがるけれど、同時に三橋と母親が自分を軽んじているのに気づいている。学校の勉強についていけず辞めたいと言い、部屋に閉じこもっては絵を描くことで寂しさをまぎらわせている。森を駅に見送りに行く、京都へ旅する、新珠と仲よくなるなど活発にふるまおうとするも、周囲の無理解に阻まれる。「風船」とは縁遠い生き方を強いられてきた芦川が、自分をみつめなおすきっかけは、傷ついた新珠に付き添うことによる。好きな人にみすてられる哀しみを、誰よりも知っているからこそ新珠に同情し、臥せっているところへ「眠り姫」の童話を聞かせる。芦川なりの精一杯の励ましにもかかわらず新珠は死に、芦川は彼女の墓前で、わたしは「眠り姫」の王子にはなれなかったと悔しがる。まるで恋の告白のような切ない場面。哀しいできごとは続き、今度は森が家を離れることで家族が崩壊してしまう。家族もまた「ふらふら」と頼りない絆で結ばれていたのが明らかとなり、芦川にはひきとめる術もない。でも新珠から生きる意味を教わった芦川は、ひとり閉じこもらず外へ向かう。夢中で盆踊りの列にくわわるラストでは、親子愛の感動はもちろん、北原たち「風船」とは違い、自分の「ふつう」からずれた部分も受け入れてくれる人々とともにあるための、居場所を定めたことへの祝福に包まれています。
葬式の場面からはじまり、恋に破れた女の自殺を中心とする、死の匂いが濃厚な物語。それを芦川のひたむきな心がすくいだす。なんらかのハンデキャップを持つ=純真な性格という設定は、単純すぎるきらいがあるけど、人の死も笑い話にしてしまうような、理屈家の俗物がひしめくなか、これくらい典型的な善人を描かなければ均衡がとれないとも思います。なにより芦川の妖精じみた愛らしさの前では批判する気も萎える。ちなみに森雅之の役名は「村上 春樹」。無関係は承知でくすりときました。

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『猫と庄造と二人のをんな』(1959)

芦屋で荒物屋をいとなむ森繁久彌は大の猫好き。「リリー」と名づけた飼い猫を、四年連れ添って別れた妻(山田五十鈴)や、再婚した妻(香川京子)よりも愛している。だが山田の申し出により、彼女にリリーを譲ることに。山田は森繁の母親(浪花千栄子)が香川の持参金欲しさに自分を欺き、無理やり離婚させたことを恨んでおり、リリーをだしに森繁家を揉めさせようと考えたのだ。計略はまんまと成功。森繁がリリーの姿を一目みようと山田の居候先へ出向いたのを、香川は山田に会いに行ったのだと誤解し、母親とぐるになり今度は自分を騙したと怒る。森繁はうんざりして再びリリーに会いに行くが、香川も追いかけてきて山田と取っ組みあいになる。女たちの争いに怖れをなした森繁はリリーを抱きしめ、二人でよく遊んだ思い出の浜へ逃げる…。
静かな抒情を秘めたどたばた喜劇。舞台が芦屋や西宮などの阪神間なので、人々はのべつ幕なしに関西弁でまくしたてる。金のためなら平気で家族を裏切り、短絡的に感情をむきだしにし、物や猫を放り投げる。ほんと景気よく猫が飛びます。主人公の森繁は、この猥雑なエネルギーに終始押される。母親べったりで、ろくに働きもしない無能な彼は、猫を頼りに生きるしかない。それが仇となり、家庭さえ壊れてしまう。駄目男の孤独が、人の都合にふりまわされる飼い猫の、「畜生ゆえのかなしみ」と響きあう一篇です。
谷崎潤一郎の原作では、香川が山田の手紙を読み、その下心を推しはかる場面からはじまります。森繁と山田は既に離婚しており、香川は森繁の猫好きに嫌気がさしている。対して映画は、まず山田が森繁家を追いだされ、妹夫婦の家の二階を借りる、入れかわりに香川が森繁と一緒になる…という風に出来事が時系列に沿って紹介される、よりわかりやすい構成になっています。
原作には無い印象的な場面も。森繁と香川が海へ遊びに行き、日焼けしようと砂浜に寝そべる女の子たちの足をさわったり、膝枕をしてじゃれたり。森繁は「びろうどみたい」と香川の足をさすり、猫にするように顎や首筋をくすぐる。香川も喜んで受けいれる。いかにも深い仲かと思いきや、香川は知りあいのダンスの先生をみつけると、森繁をほっぽりだしてダンスホールで踊る。香川=蓮っ葉な不良娘という設定をうまく生かしたくだりです。香川京子は、清純派女優のイメージが強いのですが、本作では水着や短パン姿で太ももをさらし、わがまま放題に暴れる役を好演しています。森繁と言い争いになり、酒をひっかけ唾を飛ばす、姑が土下座しても泣き叫びやまない、なんて身振りは別人かと思うほど、定着した像を壊しています。
もう一人の女、山田五十鈴は自棄を起こし、森繁にしつこくつきまといます。結婚していた四年間、ずっと家に尽くしてきたのに裏切られたことは、同情できるのですが、猫を人質にとり森繁をおびき寄せようとするのは滑稽。嫁として働いた給金を計算する、浜でふいに突堤から飛びおりる、森繁が来たと知ると化粧をなおし勝利の笑みを浮かべるなど、ちょっと怖いところもある。雨のなか帰宅し、下駄の汚れを落として縁側にたてかけるという何気ない演出も、几帳面というより、いやらしいほどの気配りが感じられてぞっとする。この怖さが最も際だつのは、復讐が成功したあと。森繁に、おまえはおれより自分の意地が大事なのだろう、と本音をみぬかれたばかりか、恋愛中なのは猫だけ、人間はみんな嫌いだとまで言われ、いきりたって猫を窓から放りだしてしまう。そして追いかけてきた香川と家の玄関先で衝突。鬼の表情で物を投げつけ、殴り髪をつかみあう壮絶なキャットファイトに。これも原作には無い場面ですが、二人の女の意地をつきつめた結果として、下劣ではあるけれど真に迫る展開です。
そして森繁は居場所をなくす。これは原作の一節からきている。「品子も、リリーも、可哀そうには違いないけれども、誰にもまして可哀そうなのは自分ではないか、自分こそほんとうの宿なしではないかと、そう思われて来るのであった」。映画は思うだけにとどまらず、森繁をとことんまで追いこみ、「ほんとうの宿なし」にしてしまう。絶望的な結末ではあるけれど、金や女の意地とは無縁な、自分をしんから大事にしてくれる猫がいるかぎり、まだ幸せではないかとも楽天的に思います。そこまで入れこめる存在を、誰もが持てるわけではないから。
ちなみにリリーについて。「茶色の全身に鮮明な黒の斑点が行きわたっていて、つやつやと光ってい」る「鼈甲猫」とのことですが、ここでは耳と鼻、尻尾に模様があるだけの白地の猫で、まだ若いらしく瞳が大きい。さすがに魚を口にくわえて森繁と引っ張りあいっこする描写はなし。大人しく抱きすくめられたり、雨に煙る浜で、濡れて毛羽だった背中を丸めた様子が、ちんまりしていてかわいらしい。確かに投げ飛ばしやすそうな(…)儚い感じのやつでした。

『雁の寺』(1962)

2月のチャンネルNECOでは、「【特集】女優・若尾文子×監督・川島雄三」と題して、『女は二度生まれる』『しとやかな獣』『雁の寺』を放送していました。そのなかから川島監督らしさ、といってもわたしは有名な作品しか知らないのですが、「ちょっと狂騒的なところ」(双葉十三郎)がひかえめな、『雁の寺』についての感想を。
原作水上勉。第45回直木賞受賞作。水上が京都の瑞春院を出奔した経験をもとにしているとのこと。『雁の村』『雁の森』『雁の死』とつづく連作の第一部です。
洛北の禅寺「孤峯庵」には、襖絵師(中村鴈治郎)が仮住まいし、母子雁の絵を描いていた。彼の死後、妾である若尾はいまさら貧しい実家へ戻れず、今度は寺の住職(三島雅夫)に囲われる。また住職があずかる小坊主(高見国一)も、故郷の若狭へ二度と戻れない理由があった。高見は利発な働きものだが、無口で少し鈍いところがあり、住職からくりかえし折檻をうける。中学でも教練の行進を嫌がり、元僧侶の教師(木村功)の心配をよそに欠席を重ねる。若尾ははじめ高見を気持ち悪がるが、住職との情事を見られていると意識するうちに、彼に多大な関心を寄せる。若狭で高見を世話していた住職(西村晃)から、彼の出生の秘密を聞くと同情し、進んで身体をあたえる。高見はひた隠しにしてきた過去をあばかれたためか、住職と同じ俗物になりさがったように思うためか号泣する。ふっきれた彼は若尾に、庭へやってくる鳶について語る。鳶が木の天辺にこしらえた大きな壷には、半分生きた蛇や魚がうじょうじょしている、などと若尾をおどかして笑みを浮かべる。その夜住職は、仲間の僧侶や若尾にさえ何も告げず失踪する。「旅に出た」と高見は言うが、若尾は信じない。檀家の商人の葬式の後、学校をやめた木村が寺の「留守坊主」となると、高見は自分も寺を去る決意をする。若尾は、高見が失踪の理由を知っていると疑い、問いつめるが…。
神聖な場所によこしまな欲望がはりつめ、揃って堕落するというのは、ありふれた題材ですが、若尾文子の堂々たる存在感が、この映画を単なる通俗からすくいだしています。住職に腰をべたべたさわられ、白粉の香りを嗅がれ、むりやり身体を奪われてもすぐに受け流す、自分を見失わないしぶとさこそ本領。また寝みだれた姿、着物がはだけて脚がむきだしになるなどの露骨なお色気よりも、柔らかいが図太い、凛と通る声に個人的には惹かれます。火鉢で煙草を吸うのもさまになっている。『女は二度生まれる』でも、山村聡の妾となる芸者を演じていて、高潔さと俗悪さをあわせもつ、つくづくふしぎな女優だと思います。
でも主人公は若尾ではなく、小坊主の高見国一なんですよね。
物語は彼の苦悩と悪事を追う。
高見は「若狭の寺大工の子」と紹介されるけれど、実は「乞食谷」に住む白痴女が産み捨てた子で、父親が誰かわからない。そのせいで幼い頃は「捨吉」と呼ばれていた。養母の忠告どおり、雪深い故郷との縁を切り、過去を封じこめようとするが、頼みの住職たちにばらされる。一方、若尾も父親のない身で、実家には帰れず職もないため、寺で世話になるしかない。若尾が同じく帰る場所のない高見を憐れむのも当然といえます。が、彼が若尾に母親代わりとして甘えることはない。恋いしたうのは本当の両親だけであり、若尾の片手間の慰めをはねつけるほど、彼の苦悩は深い。
高見の孤独は『炎上』(『金閣寺』)の青年僧に通じるけれど、彼らの行動には隔たりがある。高見は青年僧のように、凝った理屈で寺を焼いたりせず、自分の思いを直接ひとにぶつける。映画の後半、それまで住職に叱られ学校を無断欠席し、若尾の色気のとりことなるばかりの愚図だった高見が、「完全犯罪」を成しとげます。実際の凶行がどのようなものかは、木戸に阻まれ、はっきりと描かれない。この映画では庭を見渡せるようひらかれた寺の障子戸、高見が住んでいた家の隙間があいた扉など、大抵は戸が外に向けてわずかながらでも開放されている。ただ肝心の場面ではふさがれている。つづく高見の行動も、夜の闇にまぎれていて、確かなことはわからない。葬式をすませた後、埋葬するために棺を担ぐひとびとの驚きや、棺の重さに耐えかねて踏み破れる橋から、はじめて何がつめられているかわかる。この一連の、曖昧に伏せられた演出のうまさには感心しました。若尾が母子雁を探す際の、襖の激しい開閉にも。戸に幾重にも阻まれているような焦燥が伝わってきます。
パートカラーのラストは、とんまな坊主が観光客に修復された襖を見せ、絵葉書買ってねと呼びかける、なにがなんだかという感じのもの。それでも『炎上』のような倫理的な決着はさせず、若尾や高見がどうなったかも明らかにしない、一転して破れかぶれにせよ核心を伏せることに変わりはない幕切れだと思います。

『下女』(1960)

九条シネ・ヌーヴォで。ほうぼうで絶賛されているのを真に受けて、どれほど壊れた映画かと期待していたけれど案外、端正な映画でした。あれを端正と言いきる自分の感性がおかしいだけかも。物語は陳腐とさえいえる家庭崩壊劇ですが、登場人物たちの心がすさんでいく道筋をつぶさにとらえています。奔放にふるまう女工と下女=洋服/耐える妻=チョゴリの対比もわかりやすい。昔の日本映画においても、夫に浮気される妻は和服姿で描かれることが多いと思うので。目玉の怪奇演出も丁寧。ここぞとばかりに雷鳴が轟き、耳障りな音楽が容赦なく場を盛りあげ、ふとすると窓の外や階段に誰かが突っ立っている。罪をなそうとする親を睨む娘に度肝をぬかしつつも、異界と化した「家」でのできごとゆえ、予期していたもののように受けとめられる。衝撃の、というか茶番じみたラストも、ピアニストが象徴的な磁場のひとつである窓を向いて説教するあたり考え抜いてあるなと。下女ならぬ観客は見た、的に下種な欲望を指摘されては、でたらめな茶番に突っこむひまなく苦笑するしかない。
もっとも驚いたのは、1960年の時点で韓国がこれほど西欧化していること。わたしはかの国の歴史に無知なので、同時代の日本映画となんら遜色ない、洒落た服装の女たちがあらわれるたびにいちいち感心しました。家族が病んだ妻の寝台に寄りそい、なごやかにライスカレーを食べるのもいいですね。後の破滅との落差を強調する。儒教が根強く影響力をもつ社会で、夫の給料だけに頼らず妻が日々ミシンを踏んで稼いだ金で新居を建てる、そして夫婦仲が険悪になると今度は夫を捨てて家を出るための資金をつくろうとする、その潔い積極性も興味深い。もちろん女工たちと下女の暴走も、自殺から階段落ちにいたるまで、恐怖をつきぬけて呆然とさせられるほどの強じんな意志がこめられている。その呪縛をふりきり、ピアニストが妻に「魂」だけは捧げようとする場面がまた感動的。誰もが純粋におのれの欲望をつらぬこうとして半狂乱となり身を削る、たがのはずれたさまに大いに魅惑される映画でした。

『タデ食う虫と作家の眼』『憑かれし者ども』他

愛のイエントル

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タデ食う虫と作家の眼―武田泰淳の映画バラエティ・ブック

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松本清張傑作選 憑かれし者ども 桐野夏生オリジナルセレクション

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魔女たちの饗宴―現代ロシア女性作家選

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  • 作者: ヴィクトリヤトーカレワ,タチヤーナナバートニコワ,ニーナカテルリ,ナターリヤバランスカヤ,ニーナサドゥール,Viktoriia Tokareva,Tat’iana Nabatnikova,Nina Katerli,Natal’ia Baranskaia,Nina Sadur,沼野恭子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1998/03
  • メディア: 単行本
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『アバター』(2009)

なんばパークスシネマで。映画体験に吐き気や頭痛は要らない。快楽だけが欲しい。物語がどれほどグロテスクで陰惨でも人の不幸は蜜の味、暗い快楽が生じるけれど形式というか、視界&体感責めで来られると歯が立たない。慣れると大丈夫とは聞いたけど、よほど体調が良くなければ人体実験は避けようと通常版を観たのですが、こっそり飲んだ無印良品のエンボスティーを胃が受けつけず、結局吐き気をこらえての鑑賞となりました。
最近すっかり涙もろくなり、近所のスーパーが閉店すると知っただけでこみあげてくるものがある体たらくですが、この『アバター』でも、主人公たちの危機に異星の生物たちが群れをなして助けに来る場面で号泣しかけました。まず象のような巨大な獣にカブトムシの角をつけるという、「ぼくがかんがえたつよくてかっこいいかいじゅう」的なストレートな発想にしてやられた。『ロード・オブ・ザ・リング』のエントを思わせる頼もしい自然の脅威。できれば彼らが地球人を一掃する勇姿を延々と眺めていたいほど。が、反転した西部劇といえる本作は、獣の反乱はそこそこの描写に控え、性急に男同士の対決へと見せ場を移す。勿体ない。ヒロインが形見の弓矢で仇討ちする展開には、胸が空きましたが。
予告編を観たときは、青い肌の種族の造形を気持ち悪く感じたけれど、次第に見慣れ、長大な手足を使いしなやかに飛び跳ねる、その躍動感を美しいとさえ思うようになりました。彼らのライトアップされた集落も、海遊館の「ふあふあクラゲ館」にまぎれこんだような気分に。生物学者を超自然の力で再生させようとする場面では、大勢のアニメ好きが思わずランランと歌いかけたのではと想像しますが、監督自身もナウシカからの影響を認めているようです
物語は疑問が湧く箇所も多く、手離しの賞讃とまではいかずとも、映像の迫力には素直に気圧されました。でも一つだけ。異星人も性愛表現は地球人と変わりないのか、音を立ててキスするのか、としょうもない違和感を覚えたことも付け加えておきます。

『活発な暗闇』他

読書メモ。仕切りなおし。

活発な暗闇

活発な暗闇

ちいさなちいさな王様

ちいさなちいさな王様

さすらい

さすらい

窓の灯

窓の灯

やさしいため息

やさしいため息

ひとり日和

ひとり日和