ネタバレなしでは語れない

映画大好き。感想はネタバレしないと語れないので、思いっきり結末にふれています。

かぐや姫の物語

悔しくて泣いた場面がある。
姫の名付けを祝う宴で、客に美しいと噂の姫を見せろと迫られた翁がそれを断ると、その男性たちは「どうせひどい顔なんだろう」と笑う。それを聞いていたかぐや姫が、怒り、屋敷を飛び出していく場面だ。
頼んでもいないのに、女としてされたくもない評価をされ、その怒りで貝殻を握りつぶしたとき、涙が出た。
何枚もの扉を体当たりで破る。姫が走り去った後にはたくさんの着物が脱ぎ捨てられている。扉も着物も姫を縛る象徴だ。
屋敷は翁が姫を「高貴な姫君」にするために求めたもの。高貴な姫君になって、位の高い男性と結婚することこそが女の幸せと信じて疑わない翁。
高貴な姫は池で泳いではいけない、汗もかかないし歯を見せて笑ってはいけない。着物は、たくさんのこうでなければいけないという縛りの象徴。
帰る場所がないと分かったかぐや姫は雪の中で倒れてしまう。次の瞬間、目を覚ますと着物を着て屋敷に戻っている。あれは夢だったのか?と思うが、ふと目をやると、怒りで握りつぶした、貝殻の破片が転がっている。夢ではない。
月の住人の力で元に戻された。まるで何事もなかったかのように。でも、たとえ周りがそのことをなかったことにしても、かぐや姫が感じた怒りはなくならない。確かにあったのだ。

月に帰ることが避けられなくなって、かぐや姫は、なぜこの地にきたのかが分かったと言う。
「生きるために生まれてきたのに」
野山を駆け回るのが大好きだった「たけのこ」、獣と戯れたり池に飛び込んだり、目に映るすべてのものに興味を示すような、好奇心旺盛だった「たけのこ」。それがかぐや姫にとって「生きる」ということだったのだろう。
かぐや姫に結婚を申し込んできた男性の一人、石作皇子の、都会を捨てて自然の中に帰ろうという言葉。結局それは、彼が女を口説くときの決まり文句なのだけど、かぐや姫はその言葉に心を動かされる。姫の中に「たけこの」がいるのだ。どんなにおしとやかに振る舞っても、眉を落とし、おはぐろをしても、姫自身がどんなにごまかしても、「たけこの」はずっとずっといるのだ。「生きたい」と叫んでいるのだ。
それがようやくわかった姫は、「たけのこ」として生きようと、捨丸の元を訪れる。高貴な姫になってしまったかぐや姫に捨丸兄ちゃんは、お前はここでは生きられないと言う。姫は、ボロを着ることも、木の根をかじることも、泥棒まがいのことをすることも、「生きる手ごたえさえあれば」なんてことないと返す。一緒に逃げようと姫を抱きかかえようとする捨丸兄ちゃんを拒んで、姫は「私も走る」と、自分の足で駆けだす。躓くけれど、また立ち上がる。自分の足で地面を踏みしめられる喜び。
誰かにここから連れ出してほしいわけではない。自らの足でここから出ていく、ここではないどこかへ向かう。それが姫にとっての「生きる」ことなのだ。

姫の「罪」は、「自らの望むように生きたい」願ったこと。その生き方は翁の望むもの、当時の世間に良いとされるものではなかった。だから、姫の怒りも望みもなかったことにされる。そんなことを感じる方がおかしいのだ。だって、高貴な姫君となって、位の高い男性と結婚することは、この世に生まれた女性として最高の幸せだから。
月の衣をまとえば、悲しみも悩みもなくなる。「清らかな月の都へお戻りになれば、そのように心ざわめくこともなく、この地のけがれもぬぐい去りましょう」
そう言ってかぐや姫に衣をまとわせる女官が怖い。翁や媼との別れを惜しむ姫の感情などないかのように扱う。
物語の中で、かぐや姫の感情はなかったものとして扱われる。それがどんなに残酷なことか。
その悲しみも、怒りも、すべて姫自身のものだ。私にはその悔しさがわかる。なかったことになんかされてたまるか。

めぐり逢わせのお弁当

サージャンが待ち合わせ場所に現われない。その日の朝、鏡の前で身支度をしていると祖父の匂いがした。電車の中で「おじさん座りますか?」と席を譲られる。自らの老いを自覚したサージャンは、待ち合わせのカフェには行くが、若く美しいイラを見て声をかけることができない。

この展開がね、いいなと思うの。
手紙を通じて心を開いていった2人。夫が浮気していると知ったイラは、ブータンに行きたいとつづる。「ブータンでは誰もが幸せだそうよ。大切なのはGDPより国民総幸福量。インドもそうだといいのに」
それを読んだサージャンが「あなたとブータンに行けたらいいのに」と返す。
(日本でも一時期ブータンが流行っていたことを思い出す)
イラがおばさんに「サージャン」という曲をかけてと頼む。それは恋愛の歌。同じ曲を電車に乗っている子どもたちが歌って、サージャンにも届く。
サージャンはシャイクに、イラという名前の恋人がいるとか言っちゃうし、このまま2人が会って恋愛関係になるのか、安易だななんて思ってしまっていたので、いい意味で裏切られた。
男性が自らの老いを自覚するって、あんまりみないなと思った。自覚しても、まだ行ける、まだ現役みたいになりがちだけど、サージャンは、イラにも会わず、早期退職もやめると言っていたのを翻し、田舎に帰ろうとする。結局田舎に帰る電車で、自分よりおじいちゃんと一緒になって、まだ先でもいいのかなと思ったのか、元の家に帰ってくるんだけど。
ラストはイラの家へ向かうサージャンが電車に揺られているシーンで終わる。2人が会ったのかどうかは分からない。イラが本当にブータンに行ったのかどうかも分からない。
はっきりしないラストが嫌だという友達もいたけど、私はこの終わり方が好きだ。イラが、いままでだったらできなかったことに一歩踏み出したのだ。

イラの行動範囲が狭い。前半は家から出ることなく、会話をするのは夫、娘と上の階に住んでいるおばさん。やっていることは家のことだけ。外出したと思ったら、実家。実家では母親が病気の夫の面倒をみている。おばさんも、寝たきりの夫の世話をしている。女性たちが家に縛られているように感じる。
ラスト近くは、それまでよりイラの行動範囲が広がる。サージャンと待ち合わせたカフェ、サージャンの会社まで会いに行く。

「母がよく言ってました。”人は間違えた電車に乗っても、正しい場所につく“」
たとえその初めの一歩が間違っていたとしても、自分で選んだのであれば、たどり着いたゴールは正しい。そんなメッセージに聞こえる。
ちなみにこのセリフを言ったのはシャイク。「あれ、孤児じゃなかったっけ?」と心の中で突っ込むと、サージャンからも同じ突っ込みが入り、「「母が」というと皆真剣に聞いてくれます」としれっと言うシャイク。彼のたくましさというか、図々しさ。でも、この社会ではこうならないと生きてこれなかったんだろうなと思わせる。

インドの学歴社会を思わせるような描写がある。イラの弟の自殺だ。原因は試験に落ちたこと。超がつくほどの学歴社会であるインドでは、どこの大学を出たかでその先の人生が決まると言われているらしい。いい大学を出ないと政府の仕事や大企業には就職できない。家族からのプレッシャーも強く、精神的の追いつめられて自殺してしまう若者が多いそう。
サージャンの会社の規模は分からないのだけど、1等車両で通勤しているくらいだから、ある程度の規模の会社だと想像する。その会社にシャイクが入るには資格を偽って、人懐こい性格と図々しさで押し通すしかなかったのかなと、そう思った。
こうした社会の見せ方が説明臭くならず、うまく物語に織り込まれている。
人口増加のあたりは、サージャンの「自分の墓を買いに行ったら、垂直型をすすめられた」とか、笑ってしまった。

先日、リテーシュ・バトラー監督の「ベロニカとの記憶」見て、サージャンぐらいの年齢だと思っていたら1979年生まれと知って驚いた。次はどんな作品撮ってくれのか楽しみ。

スポットライト 世紀のスクープ

この映画で覚えた英単語がある。「responsibility」責任。
マイクがある文書の開示を求める。それは、枢機卿が神父のやっていたことを知りながら、黙認していたことを示す証拠。判事が言う。
「この文書を記事にした場合の責任は誰がとる?」
「では記事にしない場合の責任は?」とマイクが返す。
映画は1976年から始まり、記事が出た2002年で終わる。記事になったことを報告しに、マイクが弁護士のガラベディアンの元を訪れる。そこには、2週間前に被害にあった子どもがいた。
もっと早く事実が明るみになっていれば、あの子たちを、もっとたくさんの子を助けられたかもしれない。社会がこのことを知りながら放置した、その責任を描き出す。

被害者団体の一人、サヴィアノが持っていた様々な証言や資料に、スポットライトのチームは騒然とするが、サヴィアノは憤る。「5年前にも送ったじゃないか」と。
弁護士のマクリーシュが被害者を言いくるめ、教会側と直接和解させていたことが判明する。ビリーとサーシャが抗議に行くと、彼は言う。「虐待をしていた20人の神父のリストを送った。何年も前に。黙殺したのはそっちだ」と。
どうして見過ごされていたのか。
マイクがベンに問うと、ベンは「サヴィアノが迷惑野郎だからだ」と言う。被害者の弁護をするガラベディアンは「変わり者」と呼ばれている。
被害にあった家庭は、秘密を守るように圧力がかけられる。教会から友達から教区の人たちから。子どもの中には親にも言い出せない子がいる。そのくらい教会は、神父は絶対なのだ。
だから、そんなことはなかった、変わり者が勝手に騒いでいるだけだと、そうやって矮小化されてしまう。

サーシャに被害者は言う、「どうして従ったのかと思うだろう。ゲイだと認めてくれたのは彼が初めてだった」神父が狙うのは「罪悪感と羞恥心が強く、信仰が深い地域の子」
被害にあった子とあわなかった子の違いは何か?
ビリーは、加害者の神父のリストに知っている名前を見つける。それは彼が在学中に学校にいた神父、タルボットの名前だ。
学校側の広報は被害があったことを認めようとしない。その広報も同じ学校の卒業生。被害にあっていたケヴィンはホッケー部、広報担当者はフットボール部(アメフトだったかも?)、ビリーは陸上部。タルボットはホッケー部の監督だった。「つまり、運がよかったんだ、君と僕は」とビリーは言う。
その帰り、サーシャがふと、こうもらす。「皆がストーリを知っているみたい」ビリーが応える。「ああ、まだ俺たちが書いていないのに」

証拠は揃った。しかし、ビリーは教会側の弁護士に加害者神父を認めさせることにこだわる。そうしなければ枢機卿が謝罪して終わり、教会という組織の体質を問わなければだめだと。
その弁護士は、ビリーの友人のジミー。「何かあると知りながら誰も何もしなかった」というビリーを一度は追い返すが、「何かあると思っていた」と、神父のリストに印をつけるジミー。一人ひとりの名前は見ない。全員を囲う大きな丸。「だが、お前は?」とジミーが問う。

記事が出る前日、「情報が集まっていたのに何もしなかった」と後悔するビリーに、ベンは「このネタは、今、俺たちが見つけてきた」と言う。
ビリーは取材中にサーシャが見つけてきた「ポーター事件の弁護士20人の神父を告発」という1993年の記事のことを口にする。当時担当していたのはビリー自身で、調査をしてこなかったことを告白する。
これが、ビリーがこだわった理由だと思う。同じ過ちを繰り返さないために。

「世紀のスクープ」と副題がついているが、それから連想するような派手さも、ヒーローもこの映画には存在しない。事実を淡々と積み重ねていく。そうやってでしか真実にはたどり着かないのかもしれない。
記事は反響を呼び、被害者から続々と電話がかかってくる。今まで口をふさがれていた人たちが、どんな思いで記事を読み、電話をかけてきたのか。
これがきっかけに全米での神父による性的虐待の事実が明るみにでる。だが、枢機卿はローマに栄転したと字幕が出て映画は終わる。そのことが腹ただしく悔しい。

これが私の人生設計

久々に見たけど、やっぱり面白い!
イタリアの男女差別を描いた作品だけど、ラストには女性だけにではなく、マイノリティーへの前向きなメッセージを届けてくれる。

海外で実績を残してきた建築家のセレーナ。故郷イタリアが恋しくなり、イギリスから帰ってくるところから物語が動き出す。
セレーナが会社の集まりか、同業者の集まりの中で「イタリアに帰る」と宣言すると、その場にいた全員が固まって、セレーナを振り返るという、思わず笑ってしまうシーンがあるのだけど、これが、イタリアの建築業界がどういうものかを端的に表わしている。男性社会のため、女性であるセレーナは仕事が見つからないのだ。業界では有名な話なんだなーと思わせる演出がうまい。
そして、イタリアに帰ったセレーナが安さだけで選んだ部屋は、天井が低いため、立つことができない。頭が抑えつけられているという、セレーナの状況が視覚的に表現されている。

仕事が見つからず、貯金も底をついたセレーナは、偶然見つけた公営住宅のリフォーム建築案に応募し、見事当選!しかし、浮かない顔のセレーナ。実は、プレゼンの場で男性建築家のアシスタントと間違われ、そのまま訂正せず、当選してしまったのだ。セレーナはバイト先のレストランオーナー、フランチェスコを身代わりに立てて、なんとか乗り切ろうとする。
テレビ電話で打ち合わせを行うこととなり、セレーナはパソコンでフランチェスコに指示を出し、その通りに演じてもらう。この打ち合わせでは、建築事務所の社長(男)が秘書のミケーラ(女)に耳打ちで指示をもらうという、まるでフランチェスコとセレーナと合わせ鏡のような出来事が描かれる。

やってることだけ見たら、セレーナもミケーレも同じなのだけど、根本は違う。男性上司の案と偽ってはいるが、リフォーム案はセレーナ自身が考えたもの。フランチェスコもそれを承知しているし、男性社会の業界ではこの戦い方でいくしかないと、決意されたもの。セレーナが嘘をついている相手は、社長や建築事務所で働く人たち。
それに対し、ミケーレは、女性が男性の仕事を支えるのは当たり前と内面化してしまっている。この事務所では、女性社員だけが残業している。ミケーレが嘘をついているのは自分自身に対してだと思うのだ。

とあるきっかけで、事務所の社員の1人がゲイであることが分かる。彼は社長の前ではプレーボーイで通していて、毎日セレーナのお尻を触っていた。なぜと問うセレーナに、「応募200人で誰がオカマを採用したいと思う?」と答える。(ここ、字幕が「オカマ」になってるのは、意味があると思う。彼自身が自分のことを卑下する意味合いでそう呼んでいるのだ)そこに、つわりの女性が駆けこんでくる。「妊娠したら解雇」と契約書に書かれる業界。彼女も妊娠を隠していた。
仕事のためにみんな嘘をついている。

市との最終契約の段階で、社長が共同スペースをなくし、商業施設を誘致すると言い出す。共同スペースは、設計する上でセレーナが一番大事にしていたもの。居場所がなくてたむろしている男の子たちの遊び場で、狭い部屋に大家族で住む女の子には勉強する場所が必要。団地がどこも同じ作りだからおばあちゃんはいつも階段を探している。社長は人を見ていない、彼らが本当に必要としているものが分かっていないと言うセレーナを、女性だからと鼻で笑う社長。セレーナは設計したのは自分だと言い残し、事務所を去る。
翌日、事務所に書類を取りに来たセレーナ。10時いつものように社長のご出勤。が、様子が違う。妊娠していた彼女はお腹を隠さず堂々としている。ゲイの彼も恋人との写真を掲げる。そして、毎朝社長のためにコーヒーを用意していたミケーレは、そのコーヒーを社長の前で飲み干す。
社員たちに見送られて会社を去るセレーナ。このシーンは思い出すだけでジーンとしてしまう。建築業界でマイノリティーだったセレーナが、自分が大切にしているもののために戦った。同じような境遇に置かれていた人たちがそれに励まされ、行動をおこした。
そのことに胸を打たれるのだ。

THE YELLOW MONKEY IS HERE.

「天国旅行」のイントロを聞いた瞬間、鳥肌が立った。もともと好きな曲だったけど、惚れ直した。だって、いいんだもん。

 

正直、ベストアルバム全曲新録って聞いたときは、期待してなかったし、新しい曲が聞きたいって思ってしまったけど、よく考えたら、全曲新録のベストアルバムを出すって、怖いことでもあるよね。どーしたって、オリジナルと比べてしまうし、思い入れのある曲に関してはマイナスの感情を抱いてしまう人もいるわけで。

なんて、考えてたけど、MV見た瞬間、杞憂も何もかも全部吹っ飛びましたよ。だって、かっこいいんだもん。

「ドアを開けたら 見たような見たことない景色が キレイな色で塗りなおされて見えた」って、まさにこのアルバムのことだよね。今まで積み上げてきた経験と、それゆえの自信が、全部詰まってる。彼らの今の音は、こちらの杞憂なんか軽々と飛び越えて、鳴らされた瞬間、あぁやっぱり好きだと、素直にそう思う音なんだ。

 

今回、自分の中で一番「キレイな色の塗りなおされて」いた曲は「SO YOUNG」です。

THE YELLOW MONKEYが復活したとき、たくさんのファンの人が、思いをブログにつづっていた。彼らがいなかった15年間、仕事頑張ったり、結婚したり、子供ができたり、吉井さんのソロ追いかけたり、たくさんの出来事があったけど、自分は書けるほどないなって思ってた。「できるさ できるさ イエローモンキーのファンだもの」を心の支えに生きてきたことはなかった。

今回、「SO YOUNG」聞いたとき、素直にいいなーと思った。歌詞が、彼らのこれまでに思いをはせて聞くと、ぐっときて。今の彼らが歌い、奏でることにぐっときた。

パンチドランカーツアーの経験から生まれたこの曲を、当時の自分はそこまでいいなとは思わなかった。それを、今はいいと思える。それだけで十分な気がしてきた。

人に言えるような15年を過ごしてこなかったけど、この曲を当時とは違う思いで聞けるってだけで、その間自分は生きてきたってことで、変化はあったのだ。

さて、おセンチはここまでだ。吉井さんはもう50周年のことを考えている。このバンドの花はまだ咲ききっていないとまで言っている。どこまで行くつもりなんだろう。ただもうついていくだけだ。

ちょっと遅くなったけど、メジャーデビュー25周年おめでとうございます。

THE YELLOW MONKEYがいる、それだけで私の未来は明るい。それは、とても幸せなことなのです。

未来よ、こんにちは

夫の浮気と離婚、母親の認知症と死、誇りを持って取り組んでいる仕事も、時代に合わないと言われ、うまくいかない。どの出来事も、誰だってぶち当たってしまう可能性は大きいけど、当人にとってみたら大変だし、大事件なのだ。

人生の節目の出来ごとにどう向き合うか、今作の主人公ナタリーは、誤解を恐れずにいえば、何もしない。傍から見たら本を読んで冷静に受け流しているように見える。このナタリーの人物造形が見事だった。

 

もちろん、ナタリーだって全く行動しないわけじゃない。ただ、今までの物語の主人公になりうる人物像とは違うことが興味深い。今までだったら、出来ごとに自ら関わって、能動的に行動することで、解決していく主人公が多かったと思うのだ。それと比べると、やっぱりナタリーは本を読んでるだけ。(ではないけど)

 

ナタリーは起こったことを受け入れる。それは、ただ受け身で流されることとは違う。浮気した夫には毅然とした態度をとる。お詫びの印の花はすぐに捨て(このとき、イケアのショッピングバックだけを取りに戻るナタリーは最高だった!)、合いカギを返せと言い、お気に入りの彼の実家の別荘にはもう来ないと宣言する。

自身が監修した哲学の教科書が時代遅れだと告げられた時は、その精神を批判する。明るく手に取りやすい表紙は悪趣味だと切り捨てる。

理想の教え子に、自身の思想と行動が一致していないと批判された時も、自分の言葉で反論する。

ナタリーには大切していることがある。他人にどんなに批判されようとも守る。それは目に見えるものじゃないから、他人からは理解されないのかもしれない。ただ、私は知っている。ナタリーはいつも本を読んでいる。それがナタリーを支え、ナタリーが守ろうとしたもの、自分の思考だ。

 

今、「内向型人間のすごい力」という本を読んでいる。

内向型の特徴として、自分の思考や感情について考えるのが好き、周囲の出来事の意味を考える、一人でいることで気力を充電する。

対して、外向型は、外の世界や人と関わるのが好き、出来ごとに自ら飛び込んでいく、人と交流することでエネルギーを充電する。

ざっと書くと、こんな感じ。ナタリーは内向型。私も内向型。内向型って物語の主人公になりにくいと思うのだ。だって動かないんだもん。それでもこの作品は、見事に物語を紡ぎ、ナタリーの姿勢を揶揄することなく描き切った。作中、ナタリーの行動を馬鹿にするような描写がないのが、本当によかった。

 

ナタリーは大切な決断をする時も、夫の浮気に傷つき泣く時も、いつもひとり。予告では、離婚し、母親に死なれて、「気がつけば、私、おひとりさま?」なーんてコピー付いてたけど、ふざけんなですよ。気がつかなくたって、ナタリーはずっとひとりを選んできたんだよ。それは、人と一緒にいることを拒絶することではなく、寂しいことでもない。ひとりでいることが自分にとって大切だと知っているのだ。ナタリーは自分にとって何が大切か知っている。それを守っている。たくましい。

ナタリーの姿勢に、内向型主人公が紡ぎだした物語に、私は勇気づけられたのですよ。

ムーンライト

フアンに支えられて海に浮かぶシャロン。全身をフアンに預ける。信頼していないとできないこと。水面ギリギリから二人をとらえるカメラ。波で画面がおおわれるので、荒れているようにも見える。シャロンのこのあとを暗示しているように見える海。フアンに教えてもらって徐々に泳げるようになるシャロン

暗い部屋に一人でいるシャロン。フアンがそこに入ってくる時、壁を壊して光と一緒に入ってくる。そして、ドアを開けて外に導いてくれる。出会ったときから、出会ったときから、フアンはシャロンにとって生きる道しるべを示してくれる人だった。

「自分の人生は自分で決めろ。周りに決めさせるな」というセリフは、シャロンの生きていくための支えになると同時に、フアンのそうはできなかった人生も思い起こさせる。

 

「生きる道しるべ」なんて大げさな言葉を使ったけど、この作品にはふさわしくない気がする。もっと身近で、もっと気安くて、安心する存在。

ムーンライトの感想が上手く書けない。上手くというのは、文章の善し悪しじゃなく、それはいつものことだし、そうじゃなくて、語るにふさわしい言葉が出てこない。大袈裟な表現ではなく、簡素な言葉を使いたいのに、選んだ言葉じゃ物語に追いつかない。気持ちがぽろぽろ零れ落ちていく。

 

シャロンと自分は育ってきた環境が全く違うのに、置かれている家族の状況も、性的指向も違うのに、シャロンの気持ちが画面を通して伝わってきて、自分の中に入ってきて、それは見終わってからも抜けない。感想で、見終わってからじわじわと感ずる映画だというのを何個か見たけど、こういうことなんだろう。

大袈裟な感情表現も、劇的な描き方もせず、シャロンの日常を描きだす。シャロンの悲しみも、怒りも、喜びも、彼のものとして描かれているのに、自分の感情をそこに重ねて見てしまう。

リトルの中にも、シャロンの中にも、ブラックの中にも、自分を見た。

 

3部のブラックを見た時、胸が痛かった。筋肉も金歯も銃も車も、全部自分を抑え込み、守るための殻に見えた。強い男性性の象徴のような「殻」。そうしなければ、ドラックの売人という社会では生きてこれなかったのだろう。

ケヴィンと再会して、彼を正面から捉えた時の、目が、リトルだった、シャロンだった。私は泣いた。言葉が出てこない時の口元、立ち姿。ずっと、心の中にいたんだね、辛かったねって、泣いた。

シャロンが、今まで触れ合ったのは、あの時のケヴィンだけだと、告げた。周りに否定され、傷付けられてもシャロンが守り通したもの、それを尊厳というのだろう。