心臓の奥にあるというその形の無い部位

誰かに熱い目で見られてそれを心地よく思うとき、 そう私こそがあなたの運命の人ですよと思う。 それは別に私があなたの結婚相手ですよというわけではなく。 いやそうなのかもしれないけど、そうである必要もなく。 運命というのはつまり、 あなたが今まで誰にも触れられたことのないような、 心臓の奥にあるというその形の無い部位に私はきっと触れられるという胸騒ぎにも似た期待のことなんじゃぁないか。

 

消えないままの傷を癒してあげたいか、 一生消えない傷をつけてやりたいのかでその人の創作意識の核心に触れることができるという。だとしたら、 私はそのどちらなのだろうかと時折立ち止まって考え込んでしまう。 何も創作のことだけではなく。 必要にかられて他者の人生をジャッジするとき、 自分の加害者性を思い知らされるとき、 私は私のことを憎みそうになる。 別にそれでいいよと言ってくれる人もいる。そう言ってくれる人たちと冷たい水をかけあい笑う。そうして私は私の残酷性を少しずつ損なうことに成功し、 なんとか平凡として生きてきたわけだけど。

 

そういえば、転職した。毎日お金をもらって勉強できてうれしい。 前職のこともたまに思い出す。色々と苦い思いもしたのに、 ふとしたときに思い出すのは楽しい食事の映像ばかりで、 こうやって私の人生はどんどん綺麗な思い出になっていっちゃうのかしらと途方に暮れる。どうあってもなんとなく毎日幸せで、 眠れる限り不幸になれない。今のところ仕事に不満もないし。

誰のことも呪えなくて不自由だ。一生消えない傷に、 私の言葉で触れてあげたい。痛くしたらごめん。 自分の気持ちをまだ、こんな風にしか信じられない

あてがなければない手紙

外に出ると雪が舞っていて、いかにも冬という気がする、 今日は30日。なぜ外に出たのかと言えば、 年賀状を出したかったからだ。それもインドネシア宛の年賀状を。

宛名はもちろんSakuraである。Sakuraについては二つほど前の記事で書いた。 未だに毎日のようにちょっとしたコミュニケーションを続けている。 ゲームで会わなくても、SNSのIDを交換しているので、 そこでその日に食べた美味しいものの写真を共有したり、 何かしら相談してくれたりする。

なんとなく、年賀状を送れたらいいなあと思ってはいたのだけど、 住所というのはまごう事なき個人情報なので、 どうにも気が引けて踏み出すのに時間がかかってしまった。昨日、 日本人のペンフレンドに送る年賀状を用意しながら、 楽しくなってきた勢いで尋ねたら、「Waaaah Of course!」「Is it a dream!?」ととても喜んでくれたので、なんだ、 もっと早くに聞けばよかった、と思った。その反応が嬉しかった。 私に文通しないかと声をかけてくれたペンフレンドも、 こんな気持ちだったりしたのだろうか。

エアメールを送るのは初めてだったので、 宛名の書き方を調べたり、料金を調べたり、 いちいち不思議とワクワクした。切手を貼ればもう出せる、 という段階まで準備して、それでも、 まっすぐポストに投函してしまうのは不安だったから、 郵便局に行って料金を払った。やってみればとても簡単な手続き。 たったの220円。これで海外に手紙が届くなんて、 信じられない。もっとも、世界中が混乱している今、 手紙はいつ届くかわからないと言われた。ちなみに、 インドネシアでは手紙の不着はよくあることらしい。 YouTubeで得た知識だけど。届けばいいなと思う。 そんな風に思うのは久しぶりで、 なんてワクワクすることだろうなと思った。そんなわけで、 年賀状、まだ2枚しか出せてないけど。

ケーキの切れはし

パン屋さんでシュトレンを買った。初めて。シュトレンというのはクリスマスを祝う食べ物のひとつで、日持ちするフルーツケーキのことらしい。ケーキといっても、見た目はかなりパンである。洋酒やドライフルーツをふんだんに使っていて、ワンホールケーキくらいの値段がする。準備にもかなり手間がかかり、味を落ち着かせるのにひと月ほど時間をかけるらしい。カレー屋の店主のSさんが一切れくれて、食べてみたのが美味しくて、忘れられなくて買いに来てしまった。そう伝えたら、パン屋の奥さんは「シュトレンおいしいよね。でもうちのシュトレンが特別においしいと思う!」とニコニコしていて可愛かった。じゃあいい買い物をしました、と伝えると旦那さんが帰ってきて、蜜柑あげるよと言って手のひらにひとつ載せてくれた。うれしいけど何で?と思った。それを見て奥さんが慌てて、じゃあこれもあげるから待っててと言って奥に引っ込んでいく。何かと思ったらクリスマスケーキのスポンジの切れ端をビニール袋に入れて渡してくれた。パンの耳とかは聞いたことあるけど、とすこしびっくりして、でも嬉しくてお礼を言って受け取った。いつ行っても親戚の子どもみたいに優しくしてくれる不思議なパン屋さん。あるいはお腹空いてそうな顔してるのかもしれない。私が...

寒くて忙しくて気が滅入るけど、家の中にいて凍えるよりも外に出て震えながら歩いてみた方が、いいことがあるなと思い直した日のこと。スポンジケーキのはしっこ、砂糖がしゃりしゃりして美味しかった。

知らない店の知らないあなた

祝日。おいしいけどスカスカな気持ちになるハンバーガーショップに行ってしまった。何が悪いと言えばインテリアが中途半端に洒落ていたことくらい。インテリアってやっぱり大事というか、インテリアがいちばん大事なのなもしれない、自分は。

 

お店に行くと自分が存在してることを思い出す。店員さんへの挨拶やらなんやら。椅子の硬さと自分の肉体との押し合いへし合い。そういったことは概ね目を覚ましてくれる有り難いものなのだけれど、ただの違和感になって終わることも多い。たとえば、特別なことが何も行われていない空間にいるとなぜか居心地が悪い。機嫌の悪い子どもが静かに母親と食事をしている横にいるよりは、機嫌のいいカップルがパスタを取り分けて食べているほうがよい。友人らしき2人が今後の未来について大きな夢を語り合っていれば、なお良い。明るすぎるよりは薄暗い店でぼんやりと、他人の人生についての脚色された話が聞きたい。そういうのは大抵、かしこまった店のひとり客がもてる特権である。

 

もうすぐ叶うだろうか。知らない店に行くだけではなく、人が嬉しそうに無責任な野望について話すところを見たいと思う。

軽すぎる布団は寝苦しい

布団の端々まで寒い。毛布と羽布団とただの布団、3枚くらい重ねているのに、軽くて心許ない。そういえば以前、不眠症の友人が冬は布団の重さが心地いいからよく眠れるのだと言っていた。実家でつかっていたものは重かったし、布地の桃色がいかにもカビ臭い桃色だったので、違うものに変えてしまったのだった。

 

10月にもなると、漠然と「今年もよく生き延びたなぁ」と思う。一年を振り返るには早すぎるけど、もの思いに耽るのに年末では忙しすぎる。今の私には、だらりとした言葉を並べて伸ばして丸めてやるくらいしかできることがないのだから、今頃の時期に自分をねぎらってやっておいたほうがいい。何しろねぎらいというのは、賞賛や批判とちがって多すぎて害になるということがないのだもの。

 

今年も、ろくに書かなかった。どんな希望も不安も、結局のところ他力本願という言葉に収斂していくのではないかという諦めのような気分で、毎日を過ごしていた。よそ者でいるかぎりさみしい。でも何もできない。だから厨房に立って、ニンニクやけどに苦しみながらニンニクを一心不乱に千切りしていると救われることがある。野菜の下準備を褒めてもらったことはあまり記憶にないけど、このまえ包丁を研ぐのが上手だと褒めてもらえて嬉しかった。

 

大きすぎる希望も大きすぎる不安も口にしないように、息を殺して暮らす日々。豊かな食事のメニューを読み上げるときだけ、私たちは幸せになれるんじゃないかと信じられる。

Sakuraのこと

会ったことのない人の話ばかりするようになって、しばらく経つ。こういうことは本人ばかりが楽しくて、内輪の外側にいる人に話し回って喜ばれるようなものじゃないなと思う。でも、会ったことのない友人が海の外で今このときも生活していることがなんだか無性にうれしくて、心強いときがあるのだ。

私は一年くらい、暇さえあればオンラインゲームばかりをやっていた。学生時代からの友人の勧めではじめたものなのだけど、ここまでのめりこむとは思わなかった。ゲームそのものはあまり合わない性質(たち)なのか、ゲームボーイアドバンス以降一切やっていなかったのだ。(コロコロカービィが好きだった。)といっても、ゲームそのものというよりは、ゲームを介して知らない国の人と交流することを面白がっているのだけど。

Sakuraは「Hi!」と言って私がゲーム内に出したシーソーに座り、名前を名乗った。それが日本名であることに触れると、日本のアニメが好きだから、日本の言葉をすこしだけ知っていると滑らかな英語で教えてくれた。ローマ字でいくつかの日本語を打ち込んでくれたことがある。いろんなアニメのタイトルを出し合い、ある程度のタイトルがゲーム内NGワードとして引っかかり、打ち込めず、笑った。それがきっかけになったのか、彼女は私がログインする度に私の元に来て、「join me?」と遊びに誘ってくれるようになった。お互いのニックネームと出身国以外、個人的なことは何も聞かなかった。Sakuraはインドネシアに住んでいる子だった。

チャットでは、アニメ以外だと食べ物の話ばかりした。出会って間もない頃、「ランチは何を食べた?」と聞くと「今はラマダーンで断食中だから、今日は何も食べてない」と返されて驚いたことがある。他にも、「これから祈りに行って来るから」と言ってゲームをログアウトすることが数度あり、彼女にとって宗教は生活習慣の一部なんだなあと思った。英語で会話する友人ができたのは初めてのことだったから、彼女の振る舞いが、国の文化に根ざしたものなのか、彼女個人の思想によるものなのか、常に判別がつかなかったけれど、とても優しく、おもしろい人だなと思った。彼女の年齢が自分の年齢の半分ほどであることを知ったのは、毎日遊ぶようになって2ヶ月ほど経ったころだった。私は漠然と、彼女は既に成人していると思っていたので、軽く衝撃を受けた。そういえば、学校では何を専門に勉強しているの?と聞いたら「何を聞かれているのかよくわからない」「私の学校はとても普通なので、そこで特別なことは何も起こらない」というようなことを言われたことがあったな、と思った。

私のやっているゲームは対戦要素がなく、ミニゲームのようなからくりが増えることもあまりないので、一度クリアしてしまうと、そのあとはほとんど同じことの繰り返しになる。だから、もうそのうち、ゲームで会うこともなくなるのだろうなという気がする。それはさみしいことだけど、なんとなく、今の形にこだわらず続いていくものがあるといい。今はまだ思いつかないけど。

 

先日、カルディでインドネシアのインスタントヌードルを買った。インドミーというブランドで、SNSでメッセージを送ると、Sakuraが、ナイス!それは私が特に好きなフレーバーだよ、と言う。よくよく見たら、Soto Ayamというフレーバーのものだと印字してある。食べてみたら、すこし爽やかなチャルメラみたいな味がした。

ひとりがけのソファ

今日、行ったことのないスタバに行った、という書き出しを考えて、そういえば前回の日記もそんな日に書いたということを思い出す。なぜスタバに行くと日記を書きたくなるのだろう。初めて行くスタバはスタバらしく見たことのない食べ物と飲み物がたくさん並んでいたが、結局ダークモカチップフラペチーノを頼んだ。いつもそれである。私はスタバのことをほぼダークモカチップフラペチーノ屋さんだと思っている。オシャレなところは落ちつかないという人は少なくないのだろうけど、洗練されたチェーン店独特の清潔感が好ましいときもある。研修中らしき学生がおどおどと注文を聞き返してくれ、おつりとフラペチーノを受け取る。そしてひとりがけのソファの席にかけ、(ひとりがけのソファ!)と思う。ひとりがけのソファに座って本が読めるというだけで、外出する価値がある。やけに進む読書。つめたい珈琲に入っているときだけやけに美味しいチョコレート。勢いよくガシャーンとiPhoneを落としたら、長身でこわいなと思っていた隣りの席にいた青年が、間髪無く拾って渡してくれた。