モネの「筆触分割」は、どのようにして生まれたのか? 「モネ――連作の情景」(中之島美術館)を見て

講演会の予告

6月9日(日)14時30~

(仮題) 「広重からモネ・ゴッホへ」~近代西洋美術はこうして始まった~

於:大阪大学中之島センター10F  佐治敬三メモリアル・ホール

主催:大阪大学理学部数学科同窓会 

協賛:民間企業及び講演会をサポートする有志の会 

(詳細は追ってお知らせします)

 

モネの「筆触分割」は、どのようにして生まれたのか?

 

大阪中之島美術館の「モネ連作の情景」は、予想どおり連日多くの美術ファンでにぎわっています。睡蓮、ロンドンの橋、積みわら、など連作の名作の数々が70点。僕の授業を受けた人たちには、下の《ヴェトゥイユの教会》も人気でした。この作品は、モネの描画法である「筆触分割」(ひっしょくぶんかつ)が、最も解りやすく示されている点でも貴重です。

「筆触分割」とは耳慣れない言葉かもしれませんが、印象派の画家が「平筆」で、色を混ぜずにタイルのように絵の具を並べて塗っていく手法です。絵の具は混ぜるとどうしても暗くなってしまいます。が、混色しないで違った色を並べることで、明るいままの風光が再現できます。「混色はパレットの上ではなくて網膜の上で行なわれる」(高階秀爾「近代絵画史」)という訳です。

では実際に《ヴェトゥイユの教会》の絵に超接近を試みて(係員に注意されない程度に)、「筆触分割」の様子を見ていきましょう。帯状に塗られたひとつひとつの色は意外にも、人間の眼で見たままの色ではなさそうです。たとえば川面に映る建物の影なども、モネは驚くほど明るい色を配し、暗く濁るのを抑えています。周りにも、色の帯が無造作に並んで、このままだと絵は雑然としてまだ未完成とも思えます。

ところが今度は思い切って後ろに下がって(PCの人はディスプレイから離れて)、同じ絵を見ると、あら不思議!眼前の景色は思いがけないリアルさで復元され、観る者は何か晴れ晴れとした感興さえ覚えることでしょう。これぞ我らが印象派の絵を見る愉悦です。

(参考図:今展には来てません)《ラ・グルヌイエール》1869メトロポリタン美術館 

(参考図:今展には来てません)《アルジャントウイユのレガッタ》1872オルセー美術館

さて、それでは「筆触分割」はいったいどこでどのようにして誕生したのでしょうか。今展には来ていませんが、参考図を2点掲げました。モネは印象派展を始める5年も前に、ルノワールとグルヌイエールと言うセーヌ川の水浴場を訪れ、水辺の水の煌めきをモザイク状に描き分けて、早くも「筆触分割」を始めています。その後アルジャントウイユに移住すると自信が深まったのか、「筆触分割」の技はさらに大胆になります。また、この頃に開発されたチューブ入り絵の具も、セーヌ水景の変幻極まりない姿を一瞬にして捉え定着するのに、大いに寄与した筈です。

斎 《富嶽三十六景》のうち《神奈川沖浪裏》1830‐34年頃

モネの「筆触分割」の起源は、日本の浮世絵にも求められるのではないかと言うのが、最近の僕の考えです。1867年のパリ万博の日本館で、当時26歳のモネ青年はおそらく北斎の《神奈川沖浪裏》を見たに違いない。わずか7版で刷るこの絵は、色数は限られ、版画なので混色もなく、深い青や浅い青、白などの波の色の並置が、反発しあうように煌めきあって、我らの網膜に溌剌と明るい鮮やかな光景を生みだすのに成功しています。「筆触分割」を先にやっているとも言えます。万博でそれを見たモネも、「これだ!」と激しく版画にインスパイアされて色彩分割を始めたのでは、と考えてみた次第。妄想に過ぎるでしょうか。ちなみに浮世絵のコレクターだったモネのジヴェルニーの遺邸には、いまもこの北斎の絵が残って、展示されています。

 

「モネ連作の情景」は5月6日まで

 

岩佐倫太郎 美術評論家/美術ソムリエ

 

「モネ連作の情景」大阪中之島美術館より 

《睡蓮》の向こうに、光琳の《燕子花かきつばた》を見た

 

印象派を代表するフランスの画家、クロード・モネ(1840‐1926)の連作展が、東京展(上野の森美術館)のあと、大阪の中之島美術館にやってきています。展示作品は70点で、全てがモネ。海外や日本の美術館からも傑作が集まりました。「連作」にテーマを絞った展示は新鮮で、モネ・ファンなら必見でしょう。

中でもモネの代名詞ともいえる《睡蓮》のシリーズは、見ごたえのある作品が来ています。僕がとくに注目したのは、ロサンゼルス・カウンティ美術館の所蔵する《睡蓮》です。たくさんの睡蓮の花が咲き乱れる楽園風景とは違って、これは珍しく黄みを帯びた白い睡蓮が、ひっそり慎ましく2輪咲いているだけ。僕もかねて対面したいと願ってきた作品です。睡蓮の極限まで単純化された美しさには格別な愛着を覚えます。モネの自然を見るまなざしの深さに、惹かれました。

ところで美術ファンの皆さまは、モネの印象派としてのデビュー作が散々な不評だったことをご存じでしょうね。その絵は1874年、パリの第1回印象派展に出品した《印象、日の出》。朝もやの港に、オレンジ色の太陽がヌッと出る、ただそれだけの墨絵を思わせる絵です。何の中心主題もなく、重大な登場人物も、事件もなく、タッチも粗略。西洋画のそれまでの概念を逸脱しています。これを見た評論家は、「これは絵と言うより単なる印象に過ぎない」と揶揄し、そこから蔑称的に「印象派」が生まれたのでした(ご注意:この参考画像は、今展に来ていません)。

モネ《印象・日の出》1872 マルモッタン・モネ美術館(パリ)

苦節10年と言いますが、2輪の《睡蓮》は、そこから20年以上も後の作品。ようやく世間の理解が追い付いて、経済的にも安定し、ためらいのない思い切ったフォルムの潔さは、自信の表れでしょう。ただそんな経緯など知らなくても、われわれ多くの日本人にとってモネは親密に感覚が通じ合う作家ではないでしょうか。モネは浮世絵の影響で知られますが、僕は今回さらにその奥に、光琳ら「琳派」からのインスピレーションを発見した気がしました。蓮の花は単純化されてすでに琳派模様のようで、このまま和装や漆器のデザインなどに反復利用できそうです。

モネは単純なリアリズムを突き抜け、「一即多」とでも言うべき世界に進んでいて、シンプルな象徴で多くを語っているのです。参考図像は尾形光琳の国宝《八橋蒔絵螺鈿硯箱》(やつはしまきえらでん すずりばこ、東京国立博物館)です。試みに両者を較べてみてください。琳派印象派の作品がお互いに、時代や洋の東西の違いを超えて、呼び交わしあっているようには感じられないでしょうか。

印象派は、ターナーの風景画やミレーの屋外写生の手法などを取り入れて西洋美術が自律的に発展して生まれた、との考えもあります。ただし僕が考えるに、絵画はエビが脱皮するように自力で変身を遂げることはまずありえなくて、この時のモネのように異文化との混血があって初めて、新しい生命を得るものです。印象派には、われわれ日本人の先祖の感性も、美の源流として流れていることを知るべきでしょう。

 

岩佐倫太郎 美術評論家/美術ソムリエ

「モネーー連作の情景」展は、5月6日まで

⑤モナ・リザは、ミロのヴィーナスの再来か?

ダ・ヴィンチモナ・リザ》⑤

モナ・リザは、ミロのヴィーナスの再来か?

モナ・リザは、ミロのヴィーナスを下敷きにしていたーーと言うのが最近の僕の気づきです。誤解のないよう先にお断りしておくと、ミロのヴィーナスがエーゲ海のミロス島で農夫に発見されたのは1820年。当時のフランス大使が買い上げ、ルイ18世を経てルーヴル美術館の蔵品となった。なのでダ・ヴィンチは、ミロのヴィーナスを知りません。

でも見てください!2つの画像を(モナ・リザは比較のため左右反転)。両者のポーズには、1,500年以上の年月の隔たりを超えてなおかつ、審美的に同一の原理が流れているように感じられないでしょうか?

ミロのヴィーナスはギリシャの、「ヘレニズム」と呼ばれるいちばん成熟した様式を持つ、紀元前の彫刻です。優美に見えるのは、「コントラポスト」と言って片足に体重をかけ、逆の片足はかかとを浮かせ、そこから体を捻った立ち姿をしているから。上の写真は上半身だけですが、全体としてはS字になり、顔の向きも両肩の線よりもさらに捻じられています。

一方モナ・リザは、16世紀のルネサンスの作品です。作者ダ・ヴィンチはミロのヴィーナスこそ見ていないものの、同じ時代の優れたヴィーナス像はイタリアであまた見ている筈。ギリシャ好みのダ・ヴィンチとしてはジョコンド夫人をスケッチするとき、ヴィーナスを理想図としてポーズに無理めな注文を付けたのではないか。つまり、「右肩は後方に引いて、座ったままでも腰のラインも捻じって、ただし顔(目線)は、こちらに向けて」、と。そんな想像をします。

ではモナ・リザがなぜ、半身像なのか?これは、絵のイメージをイコンのマリア像に似せたかったのが理由だと思います。ダ・ヴィンチは《受胎告知》と同様、信仰はないが宗教画を隠れ蓑に使っています。

また、なぜ肩を後ろに引き、顔は逆方向に向けているのか?ここにもダ・ヴィンチのもう一つの作画上の思惑が窺えます。上半身を斜めにして肩幅を小さく見せ、逆に肘を外に張ると、前から見たとき三角形ができる。四角い絵の中に三角形を隠して埋め込むのは、構図に盤石の安定を与え、名画の条件となるーーそんな素朴すぎることは彼は「絵画論」でも言ってないし、あくまで僕の推測に過ぎません。ただ、ダ・ヴィンチを模写したラファエロは三角構図の重大性に気づき、すぐさま自分の聖母子像に取り込んで成功したのは事実です。

また、ミラノ出身のカラヴァッジオは、ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》などの技を継承して、バロック様式を創始します。スペインのヴェラスケスやオランダのレンブラントフェルメールも17世紀、ダ・ヴィンチの肖像の技をテンプレートのように使って傑作を産み、バロックの黄金時代を開花させます。ダ・ヴィンチの絵は、鑑賞目的で描かれたのでなく、絵画を未来に伝える設計図です。それが《モナ・リザ》と言う絵の真実です。

さて19世紀に入って印象派の先駆けコローや、ポスト印象派ゴッホもまたダ・ヴィンチの末裔と言えます。中でも極め付きは20世紀のピカソ。奔放な天才と思われたピカソが恋人を描いた傑作《ドラ・マールの肖像》さえも、僕にはモナ・リザの引用に見えて仕方ないのですが、同意いただけますか?

思うにダ・ヴィンチこそは、古代ギリシャの美と科学精神を復活させたルネサンス最大の画人にして教養人。その射程は現代にまで及び、前後2,500年の歴史をカバーする点で、美術史上たぐい稀なる巨人と評価できるでしょう。書き足らないことも多いですが、またの機会に(モナ・リザのシリーズ全5回、完)。

 

岩佐倫太郎 美術評論家/美術ソムリエ

■はじめ2回くらいのつもりが思わぬ長さとなりました。最後までお付き合い頂き、ありがとうございます。途中、皆さまからのコメントにも励まされました。できれば5月末か6月に講演会を開きたいと、ただいま計画中です。

➃モナ・リザは、なぜ顔を7:3にしているのか。

ダ・ヴィンチ 《モナ・リザ》➃

モナ・リザは、なぜ顔を7:3にしているのか。

僕は前回、「モナ・リザとは受胎告知図である」、と書きました。モナ・リザは妊婦で、「科学の時代の真実が、ここから生まれる」ことを、寓意的に表わしています。伝統画を隠れ蓑にして科学思想を巧妙にプロパガンダし、同時に科学技術としての絵の描き方(=絵画論)を、実際に教えるものです。このように考えると、いままでとは全く違うモナ・リザ像が見えてきます。

例えばモナ・リザの顔の描き方も、実は絵の教科書です。頬やあごに見られるリアルで自然な立体感は「スフマート(=煙)法」と言って、ダ・ヴィンチの大発明です。筆先で微小なドットを重ねながら、ぼかしたような膨らみを実現する技法。輪郭線と言うのは科学的には存在しないものなので使いません。

ほかにもダ・ヴィンチは、2次元に描かれた絵を立体的に見せるため、《最後の晩餐》では究極の「透視図法」を、《受胎告知》では背景の色を緑から青に変化させる「空気遠近法」をテンプレート的に示しています。

また、モナ・リザは顔を7:3にしてこちらを見ていますね。これも後世の画家のスタンダードとなる驚くべき発明です。肖像というのは、それまでローマ金貨なら皇帝の顔は真横向き、ビザンティンの宗教画なら聖人は正面、というのが相場でした。聖母子像でマリアが幼子を見つめ、幾分か顔を斜めにすることはあっても、モナ・リザのように大胆に、顔を横に振った肖像の例はまずありません。

一体なぜこんな描き方をダ・ヴィンチはしたのか?それは彼の数多くの解剖経験から来ていると僕は考えます。人間の頭部を図像で詳しく説明しようとすると、斜め上からがいちばん立体的で説明しやすい。ちなみにサイコロに例えると、真横や真上からだと、6面のうち1面しか解りません。サイコロが何たるものか画像で示すには、斜め上から3面を描いたとき、いちばん情報量が多い筈です。それと同様の理由で、ダ・ヴィンチはこの角度を選んだと思います。人間を見る視線がどこか宇宙人的です。

そのダ・ヴィンチモナ・リザを描くときの関心事は、もしかして美しい頭蓋骨を描くことにあったのでは?若いころ、《ウィトルウィウス的人体図》という名の、有名な人体の比例図を描いたダ・ヴィンチのことです。おそらく頭蓋に関しても、頭頂の丸み、顔の幅と長さ、鼻の長さの割合など、彼の中の理想の黄金比を、モナ・リザに投影したのではないでしょうか。とすれば、骨の上の容貌や表情などは、2次的な関心だったかもしれません。それでも、もしわれわれがモナ・リザの絵に何らかの威厳ある美しさを認めるなら、それは顔の背後にある頭骨のプロポーションが優れて、かつ頸骨とのつながりも解剖学的に正しいことを、直感で感知するからではないかと思っています。

今回で終わる予定が、宿題が残りました。モナ・リザの半身はなぜ斜めを向いて描かれているのか?この重大な秘密を次回、目からうろこで種明かしをします。そしてここから西洋美術史が流れ出ることを俯瞰的にお示しして、完結したいと思います。

 

岩佐倫太郎 美術評論家/美術ソムリエ

 

■西宮の蔵元、白鷹が運営するアカデミーで、月1回の講義をしています。この4月からはテーマが「日本美」。鳥獣戯画源氏物語絵巻雪舟水墨画琳派など時代順に学んで、われわれの身体に流れる美意識の伝統を訪ね、再発見するシリーズです。お問い合わせは、下記URLからどうぞ。

2024年前期 絵の見方・美術館のまわり方 いまこそ、「日本●美」に還ろう! - |生粋の灘酒 白鷹株式会社 (hakutaka.jp)

 

 

➂モナ・リザは科学の時代の聖像(イコン)である。

ダ・ヴィンチ 《モナ・リザ》➂

モナ・リザは科学の時代の聖像(イコン)である。

注文を受けたはずの肖像画がなぜ、ダ・ヴィンチの手元に最後まで残ったのか?モナ・リザは2点あったのだとか説はいろいろですが、僕のストーリーをフィクションにするとこうです。

僕はモナ・リザの夫で、フィレンツェの冨商、ジョコンドとします。事業の絹織物商は順調で、15歳の貴族の娘を後妻に迎えて、家庭も円満。妻は早くも第2子を懐妊している。この幸福を永久にとどめプレゼントにすべく、僕はミラノから戻ったダ・ヴィンチ先生に妻の肖像画を依頼します。僕が理想としたイメージは、かつて大先生がミラノ城主の美しい愛妾を描いて大評判だった《白貂を抱く貴婦人》でした。

先生が納期を守らないのは有名でしたが、ある日、お弟子さんが不意に届けに来た絵を見て、僕はギョっ!となり、思わず叫んでしまいました。「妻はこんな婆さんじゃない、それにこの不気味な背景は何?」。「嫁には見せられんわ・・」と落胆。

とりあえず「顔をもっと若く、背景はナシにして」、と修正を伝えたものの、営業センスとは無縁の大先生なので手直しは無理かも・・・。お弟子さんも残金をもらえず落胆して、独りぶつくさ絵を抱えて帰路につきます。「先生、またやっちまいましたね。頼まれ絵なのに、すぐ自説を入れ込んで描いてしまうんだから。あ~あ、今夜は飲みに行きたかったのになァ・・」―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

ところでモナ・リザは、見落としがちですが、椅子に座っています。場所はなぜか半屋外のバルコニーみたいなところ。腕を肘掛けに置いて、手を重ねています。このつつましやかな座像のポーズは何を意味するのか?立像にした方が、靴やアクセサリーなど富裕のシンボルを描けてよかったのでは。

 

 

ダ・ヴィンチ《受胎告知》1472‐75 ウフィッツイ美術館

僕はそんな疑問をもって、それ以前の《受胎告知》の著名な絵をいくつか眺めていて、大発見をしました!どれもイエスの母、マリアはポルティコ(柱廊)のような半屋外で椅子に腰かけ、体を斜め前に向けています。これって図柄はモナ・リザとほとんど同一ではないですか。するとモナ・リザもまた受胎告知なのか!とすれば大天使の役はダ・ヴィンチ自身で、モナ・リザにこう告げているのでは。「御身は神や霊魂によらず、(真実にもとづいて)人の子を身ごもった。おめでとう」。モナ・リザが当時の妊婦のかぶるベールをしているのも、符合します。

モナ・リザは似顔絵でなく寓意画なんです。これは日本にはない西洋画独自の手法で、たとえば「勝利」とか「虚栄」などの概念を人物に置き換えて、あたかも歴史画のように表現するものです。顔が誰かに似るとかは不必要で、むしろ能面のようなのが望ましい。モナ・リザに眉が無いのも没個性にするためです。この寓意画の主人公は、ダ・ヴィンチの思想に、口角を上げた微笑で賛意を示している、とも理解できます。自画自賛かな(笑)。

宗教名画のしつらえを借りて、挑発的に宗教の時代の終焉を告げるモナ・リザ。寓意の思想は「真理」、もしくは「科学の勝利」でしょう。ダ・ヴィンチは古い聖像に変わって、新しい時代を祀るイコンを創作したのです(つづく、次回最終)。

 

岩佐倫太郎 美術評論家/美術ソムリエ

②モナ・リザは、般若心経である。

「この名画はなぜ名画なのか」シリーズ 

ダ・ヴィンチ 《モナ・リザ》② 

モナ・リザは、般若心経である。

いきなりトンデモ説のタイトルみたいですが、別にモナ・リザが仏教だと言っている訳ではありません(笑)。ダ・ヴィンチの膨大な手稿(=科学ノート)の存在を知ると、モナ・リザと手稿は不即不離の一体であることが理解できます。その手稿のエッセンスを凝縮して、誰にも受け入れやすい形にしたらモナ・リザになる、という趣旨です。両者の関係を膨大な大般若経と、それを260文字にダイジェストした般若心経の関係に見立てた、だけのことです。

なので絵を単独で切り離して、美術品として鑑賞して何らかの美を見出そうとしても、無理があるというものです。モナ・リザは文字こそ描き込まれていないけれど、着彩もされてダ・ヴィンチの思想を発信しています。ダ・ヴィンチの深奥を覗く小窓かもしれません。

 

それではモナ・リザの絵が伝えようとしている「教義」とは何でしょうか。ダ・ヴィンチは「絵画論」において、絵画は科学でなければならないことを一貫して語っています。また霊魂を完全否定して、「科学上の経験のないところに真の知識は生まれない」と断言します。つまり科学的世界観を描く技術こそが絵画である、ときっぱり定義しているのです。驚きますよねえ、まだ中世の迷信や祈りが幅を利かせて、全てを神の思し召しとしていた時代、ダ・ヴィンチは早くも人体解剖を行い、人間は母親の子宮から生まれ、人間の活動を支配するのは脳の働きであることをすでに知っていたのですから。彼こそは真のルネサンス人でした。

  

ではモナ・リザの絵に込められた科学性を、そのつもりで見ていきましょう。まずいちばん右奥の雪山です。雪は解けて湖へ、さらに川となって下流へと大地を削りながら蛇行するのを模式的に表しています。その水の流れとモナ・リザの胸像が重なっているのは決して偶然ではないでしょう。多くの人が指摘するように、地球を輪廻する水と人体の小宇宙を巡る血流が実は同じ原理である、という真理の表明でしょう。ダ・ヴィンチ雄大で洞察に満ちたコスモロジー宇宙論)を視覚的にプレゼンしています。

また背後の峩々たる山並みは、僕の考えではイタリアにも多いカルスト地形で、海の生物が堆積してできた石灰質の隆起して浸食された表現です。ダ・ヴィンチは高い山にある貝やサンゴの化石に興味をもって、大地もまた輪廻していることに思いが及んだ先進的な地質学者でした。今で言うプレートテクトニクスです。なので山がおどろおどろしいのは、ダ・ヴィンチが終末思想を持っていたからなどという解釈は、全く間違いです。

背景の色合いについては、手前から遠くへ、緑から青、そして灰色へと変化して、空間の奥行きを感じさせます。これはダ・ヴィンチが発明した「空気遠近法」で、彼の受胎告知の作品でも使われる技法です。

さていよいよ、話をモナ・リザ本人の顔やポーズに移したいところですが、長くなったので次回に。僕はモナ・リザの座る空間の謎を自分で解明してみて、驚きを隠せませんでした(つづく)。

 

岩佐倫太郎 美術評論家/美術ソムリエ

①モナ・リザは、本当に美しいでしょうか?

「この名画はなぜ名画なのか」シリーズ 第6回 

ダ・ヴィンチモナ・リザ》① 

モナ・リザは、本当に美しいでしょうか?

パリのルーヴル美術館。世界でもっとも有名な絵画と言われるモナ・リザ(1503‐06制作)は、セーヌ河沿いの「ドゥノン翼」の建物を2階に昇った中ほどに、厳重な防弾ガラスに守られて常設展示されています。意外と小さいです。実際にご覧になった方も多いと思いますが、縦77cm、横幅53cm。レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)が1516年、フランス王のフランソワ1世に招かれて居城と年金を与えられる厚遇を受け、亡くなるまで肌身離さず手許に置いたという作品です。彼の死後、フランス王室が買い取り、フランス革命ののちルーヴルで一般公開されるようになります。

ところでモデルとなったモナ・リザとは誰なのか?フィレツェの豪商ジョコンドの夫人、リザであるとの説はダ・ヴィンチの少し後の時代の伝記作家で画家・建築家でもあるヴァザーリの記述に基づきますが、ほぼその見方が定着しています。

さあ、それでは「モナ・リザは本当に美しいのかどうか?」という本題にいよいよ入ります。僕は昔から、この絵を美しいと思えませんでした。一瞬マリア像を思わせるものの、むしろ不気味ささえ感じていました。ダ・ヴィンチの絵を美しいとする人の説明はたいてい、「天才ダ・ヴィンチの名画だから」とか、「有名だから」とか言うもので、あまり説得力を感じませんでした。また不可解なことに、美術の専門家ですら、「謎めいているから美しい」などとムリヤリな論を展開して、「美しい!」と思い込みたがっているように見えます。でも近年、僕が至った結論は、「モナ・リザは別に美しくない、それでいいのだ!」と、天才バカボンのおやじのように達観しています(笑)。

というのも、ダ・ヴィンチは鑑賞の対象となるような美しい絵を描こうとはしていないからです。絵の目的が違う。ダ・ヴィンチは画家である前に99パーセント科学者であり発明家です。そう言う根拠は今も5千枚以上残る膨大な「手稿」です。手稿とは、文章と挿絵による手書きのノートのこと。万能の天才が宇宙の森羅万象に関心を寄せ、天文、地理学上の観察と仮説、あるいは人体の解剖図、建築・土木の発明などを記録したものです。3分の2が散逸したと言っても、5千ページというボリュームは単行本の何百冊かにゆうに匹敵します。まさにルネサンスの偉業、大金字塔です。逆に絵画作品は有名な割には驚くほど少なく、生涯わずか15点程度しかないのです。

マイクロソフト創業者のビル・ゲイツが40億円相当で購入して有名なレスター手稿 キリスト教神学と全く違う観察にもとづく天体論を展開している

それではなぜ科学者で発明家のダ・ヴィンチが、モナ・リザのような絵をわざわざ、ポプラ板に絵具で着彩して描いたのか?まさか日曜画家のように、忙しい本業の合間に趣味として絵を描いたのではない筈。ここから僕の推理は始まります。ダ・ヴィンチにとって絵とは何であったのか?手稿と油絵の関係は?モナ・リザに隠されたメッセージとは何か。次回、モナ・リザの読み方について、おそらく驚きの私論を開陳します(つづく)。

 

岩佐倫太郎 美術評論家/美術ソムリエ