うなぎのねどこ

かきこみぐちぐち

なぜ何者にもなれないのか

TL上でエレベーターの開く/閉じるボタンのUIあれこれが流れた。これに乗ろうとしてつぶやきかけた時問題が発生した。
TLを閲覧する時tweenを使用しているのだけど、元となったはてなの記事へのURLを貼ろうとURLコピーすると、短縮URLが使用されているのにもかかわらず、復元されたURLしかコピー出来なかったのだ!

そのことで出鼻を挫かれ呟きをやめてしまったわけなんだけど…

この出鼻を挫かれることが実は何者にもなれない原因ではないかとひらめいたのだ。
出鼻を挫かれることというか、何かを行おうとする時に発生する障害によって何者にもなれなくなっているのではないかと。

ブログ? ダイアリー?

140文字では短いけど、ブログに書くには短すぎる話題を記録・公開したい場合どうすれば良いか?

そうだはてなにはダイアリーって機能があったはず!
と思って久しぶりに自分のダイアリー見たけど…

はてなってダイアリー → ブログと来ているので、ダイアリーの方が旧家でブログが新家で、旧家の長文文化に耐えられなくなったからブログ作った? それともダイアリーよろしく短文ばかりになってしまったから、長文を愛する村民のためにブログ作った?
なんてどうでも良いことに頭を使われて…

あちしの場合、ダイアリーの方は変な色が着いてしまって、ぐちぐちしたことを書き込みづらくて、結局ブログの方に書き込むしかないのだけど…

というわけで久々の更新

信用力

ここだったりtwitterだったり、考えていることを発信する場所が増えて、これは何処から発信しようかと迷うことが多い。
ブログに書くには思考がまとまってないし、そもそもそんなにたいした話題ではないので、書く量も多くないと思われる。しかし140文字では収まらないので、twitterだと連投になってしまう。

RSSに登録しているブログが基本的に長文が書かれるブログが多いし、短いブログ記事を見てなんだかなぁ~と思うので、自分のブログも基本的に長文でありたい。
しかしのほほんと暮らしている者が長文の文章を易々と書けるわけも無く、twitterにも投稿できない。となると、段々と発信できない鬱憤が溜まってくるのだ。

それしか出来ないのだから見栄など張らずガンガンと発信してしまえば良いのだけど、居もしない読者の目が気になり発信が出来ない。
発信が出来なくなることは長文に限ったことでなく話題の種類なんかも関係してくる。
始めは特に規定していないのだけど、しばらく使用していると、ここではこういう話題は避けようとかが出てくる。特にアニメ系とかね。

信用力を得たいのならとにかく発信を続けないとならない。こういう話題は恥ずかしいよねなんて選好みできるほど発信力は無いのだから、なんでもどういう形でも発信していかなければならない。

コミュ力

あたしゃはっきり言ってコミュ力ないのであります。まぁブログやTwitterの有様を見れば一目瞭然ですな。
その状態が何か問題かというと、これがちっとも問題でなく楽しく飽きない日々を送っているのが、これまた最大に問題だったりするんですが……

さて、以前録画して見ていなかったNHKスペシャルの「ヒューマン なぜ人間になれたのか」http://www.nhk.or.jp/special/onair/human.html の4回目を見たのですけれど…
そこでお金は信用力であるといっていたわけですよ。

人間とチンパンジーの差は他を信用するかしないかにあると。
人間は他を信用することによって、物を交換することが出来るようになったと。
物が交換できることで専業が可能となり、生産性が上がったと。
そして物々交換であったのが、小麦・米・塩等を媒介とした交換になり、交換の自由が高まったのでさらに専業化と生産性が高まったと。
さらに媒介が貨幣となることによって、富の半永久的な蓄積が可能になりったと。
最終的には貨幣自身に信用力が帯び、より簡易に生産の出来る紙幣となることによって、更なる富が生まれてきた。
そして、貨幣(紙幣)に信用力が帯びることによって、人は共同体という括りから解放されるようになったと。

お金を持っているということは、信用力を持っていることで、信用力を持っているから個として生きられる。

これって、お金をコミュ力に置き換えてもそのまま通るのじゃないかな? と思ったわけだ。

コミュ力を持っているということは、信用力を持っていることで、信用力を持っているから個として生きられる。

近頃コミュ力尊重の雰囲気が高まってきていて、わたしゃもそれに煽られてあたふたしている部分もあるのだけど、ネットの進歩によってブログやSNSが隆盛して、可視化(認知化)されるようになったからかな?と思ってたけど、要するには信用力を高めた方が生活しやすいですよということって過ぎないわけだ。

穿った見方をするのなら、以前は金儲けがしやすかったので信用力を得るためは金儲けが効率が良かったのだけど、最近は金回りが良くないためにコミュ力が重視されるようになってきたというわけだね。

きまりごと

以前ブログだったかtwitterだったかで書いたことはあるのだけど、こちらにも記録しておく。

法律、ルール、マナー、験…等々、呼び名はたくさんあるけど、要するに皆で行動を同じくしようねと決めた事柄。きまりごと。いやそれだけではない、言語、文化だってきまりごとだよね。
こういったきまりごとがいったい何のためにあるかというと、生活するための(生きるための)コストを下げるためにあるわけだ。

前に書いたときにはきまりごとは対人に対するコスト低減のためと書いたけど、験もきまりごとに含めるなら対人だけでなく、外側にあるもの全てにかかわる生活コストを下げるためにあるのだろう。

そうだ、ここでのコスト定義をしておかないとダメだね。
ここでのコストとは頭の中で考える量のこと。
生きるために頭を使わなければいけない量。

そして、そのコストは長期間の総量でなく、比較的短期間内での総量での話し。
まぁ千差万別なにが起こるかわからないし予測も不可能な環境において、長期間の予測が役に立つはずも無く、自然と短期間内でのコストしか考えなくなるのは自然だと思う。

きまりごとはコストを下げるためにある。
たとえば「他人を殺してはいけない」というきまりごと。現代日本だと絶対に侵してはならないし、あまりにも高じてしまって少しでも可能性のあるものは徹底的に排除する風潮まで出来てしまっている。
このきまりごとだって、それを行うことによって自分の身に危険が及ぼす可能性が無い(もしくは少ない)環境下においては、きまりごととしては存在しないと思う。

他人を殺したからといって自分が殺される心配の無い場合、さらに殺した者がいなくなって分業作業の集約が発生しもコストが増大しない場合。あ、この場合のコストのみ頭だけでないかもしれない…
こういった特殊環境では他人が存在することそのものがコスト増大につながるわけで、他人を殺害した方がコストが低減されるのだから、さっさと他人を殺した方が良くなるわけだ。
当てはまらないかもしれないけど、死刑制度なんかはこの特殊環境に近いものがあるに違いない。

実際の世界で「他人を殺してはいけない」というきまりごとが存在していなかったら、それこそ物騒すぎて外にも出れない。コスト激増である。
であるからそのコストを激減するために「他人を殺してはいけない」というきまりごとが存在しているのである。

きまりごとはコスト低減のためにあるから、きまりごとの有効期限は有限だし、どのきまりごとを採用するかは各個異なる。

ライスポット

ライスポットなるものを購入した。http://www.miyazaki-ss.co.jp/products/rice_pot/
炊飯鍋というものなのだが。

前日といってもかなり前だな、2月の中旬頃、冬の北陸を見てこようと金沢・七尾に旅行してきた。旅行自体は半分期待はずれで、雪の金沢とか雪の七尾を期待していたのだけど、そもそも金沢・七尾は基本的に暖かく、それほど雪は積もらないのだそうだ。
まぁ東京とかに比べれば寒いし雪はあるけど、いかにも雪国!っていうような景色にはならないらしい。基本的にはね。輪島とか奥能登に行くと状況が違いのかも知れない。

以前、金沢・輪島と回った時、食事の際に食べたご飯が美味しくて、それ以来石川のお米ファンになっており、石川方面に行く際には必ずお米を大量に買ってくることにしている。
東京でお米お買うと、専門店に行けば各地のお米を買えるのかもしれないけど、近所のスーパーでは東日本産のお米ばかりで、石川のお米なんてぜんぜん売っていない。
震災後の混乱で東日本産のお米が流通に乗らなかったときに、1回だけ石川のお米が売られていたことがあるくらい。もちろん買ったけどね。

え~と。その2月に金沢行った際にもお米を買ってきたわけだけど、今回は下調べして、農協の直売所回って、精米したてのお米、それもブランド米を買ってきたのだ。
ブランド米といっても全国的なものではないんで、それほど高いものでもないし、精米後数週間で味は落ちてくるらしいんで、今頃消費しているのもなんだと思うけどね。まぁその程度の非常にライトなファンだということ。

さて、お米買ってきて、米袋残っていたお米も消費し終わったので、早速美味しいと思われる石川のお米を電気炊飯器で炊いてみたのだけど、そうさね3月に入る頃だったけかね、これが思ったほど美味しくない。
まぁ、美味しいご飯を炊くための特別な処置をやったわけではないんで、当然なのかも知れないけど、でも美味しいご飯って普通に炊いても美味しいじゃないですか…
美味しいご飯って、口に入れる前から甘くて。香りが良いとかとは違うんだよなぁ、お茶碗によそったご飯の香りは美味しそうな香りではあるけど、甘い香りではないと思う。ご飯から立ち昇る湯気が甘いってな感じ? そして、口に含むとその甘みが実感として口中に広がる感じがするのだけど、期待をこめた石川のお米はそういった感動が無かった。

いや、実際冷めてから食べても十分以上に美味しいんで、お米自体は美味しいお米だというのは分かる。
ならば犯人は炊飯器か? この炊飯器、いつ買ったかもう完全に忘れているほど昔に買っていて、当時厚釜が売り文句だったんだけど、お釜も表面処理が所々剥げているという年代物。
最新の炊飯器で炊いたご飯は美味しいって聞くし、そろそろ買い替え時なのだけども、何の故障も無いのに買い換えるのは抵抗がある。

でも美味しいご飯を、美味しいお米があるうちに食べたい!
と考えていたところに、炊飯鍋というものが現れたわけだ。

いや~ 前置きがめっちゃ長くなったぞ…

で、そのライスポットなる炊飯鍋を買った。

早速炊飯をしてみることに… 始めは勝手が分からないので、説明書に書いてある通り?にした。
説明書には米をといで30分浸水して、中火にかけて10分位で沸騰するのでそこで弱火にして12分、の後20分蒸らしとある。

実際米といて、30分浸水して、中火にかけると5分ほどで沸騰してしまった! 吹きこぼす訳にも行かないので弱火に変更。キッチンタイマーを12分にセットしてみるも、12分後まだかなり蒸気が出ている。
とりあえず蒸気が良い感じになるまで弱火続行として、5分ほどで蒸気の出が少なくなった。というか水気の少ない蒸気が出てくるようになった? なんかすごく矛盾した表現なんだけど、そんな感じになったので火を止めて20分放置。
20分後鍋の蓋を開けると、一応ご飯として炊けてはいるみたい。ただ美味しそうてな感じではない。
しゃもじを入れてかき回すも、2合用の鍋だと小さくてかき回しづらい。ご飯が鍋にこびりつくことなく、おこげは薄らと色づくほど。

一口食べてみる… うむ、美味しくない… 金属か洗剤か科学物質の味がする…
一応ご飯を炊く前に、食器洗剤で洗って水を半分ほど入れてひと煮立ちさせたのだけど、十分でなかったかな?
さらに、芯はないものの、ご飯が微妙に硬い。水が少なかったといった硬さで無く、火が通りきっていないような硬さ。芯に向かって硬くなっている感じ…
あと、おこげというか、おこげ未満のおこげ味が慣れなくて減点対象。
冷えてから、電気炊飯器に残っていた冷や飯と食べ比べをしたけど、どちらも変わらず。おこげ味があるかないかの差しかない…

この鍋買ったの失敗…!?

翌日リベンジ。
とりあえず火がちゃんと通るように今度は工程ごとに時間を決めるのではなく、25分間火を入れることを目標とする。後、浸水時間を1時間に延長。
米といで、1時間浸水させて、まずは中火で、5分程で沸騰してくるので弱火にして、そこから5分くらいでさらに弱火にへ。うちはIHなので火加減7→4→3てな感じ。
25分過ぎて、まだ蒸気が湿っぽかったので弱弱火で続行。3分ほどで蒸気が乾いてきたので、火を止める。後20分蒸らし。

今度は上手く炊けたかなと蓋を取ってみるも… 微妙。かき回してみると、前回よりはやわらかく炊けた感じ。一口食べると、まぁ次第点かな? でも電気炊飯器で炊くのとあまり差が出ず。逆におこげ味がやっぱりあってちょいとマイナス点。

なんか、手間掛かる割には思った程味に差が出ない?
それともお米がそもそも美味しくない? いやぁ、冷めたご飯食べても十分甘くて美味しいお米だから、そんなことは無いはず…
安いお米だったらもっと差が出るのか知らん?

運命を信じるか?

東浩紀の一般意志2.0を読んでいる。気の抜けたライトのベルよりも、こういった本の方が読みやすいような気がしてしまっているのが難だけど、前半の概念的な部分はいたって面白い。後半の現実に当てはめる部分はちょいと退屈。でもまだ最後まで読んでないのだけど…

さて、この本の後半。一般意思2.0=無意識=googleが政治をすることは良くないこととされている。いやすごいまとめ方をしてしまっているけど、そこはぶんしょうひょうげんりょくがないので仕方ない。
前半で一般意思をもてはやしていたのに、後半になって現実的になると一般意思のみに沿うべきでないと来るのは、なんか肩透かしのような気がするのだけれども、まぁそれは脇においておいて……

一般意思とは人の思いのベクトルの差分の総体と定義されて、それは現在の情報化社会では、SNSやブログ等Webの世界で記録されたデータベースの中に存在するものと同等とみなしても良くて、一般意思2.0としてそれを有効に利用すべき。とあって、お題目としては正しいと思うけど、そもそも発信の閾値が格段に下がったとは言っても、発信動作自体が結構特別な作業であって、ましてや情報機器に入力すること自体がさらに発信動作の敷居を上げている現状の発信を元に、一般意思2.0といってしまって良いのか気にならなくも無いが、それも今回言いたいことではなくて………

googleはありがたく利用するが、googleのような機械的アルゴリズムに政治を任せるのを嫌がる感情は何かな? と疑問に思ったのだ。

そこに人の思いのベクトルが存在していて、その差分を完全に正確に抽出できるロジックが存在した場合、そのロジックが抽出した結果は、ベクトル構成する全ての人の最小不幸なベクトルであるわけで、それはいわゆる最善の政策だと思うのだ。
ある特定の人の不幸が構成する全ての人の最小不幸となる場合、その人の不幸を見過ごして良いのか? といった疑問が涌くかもしれないけど、その人の不幸が見過ごせない不幸であるなら、それは差分を抽出するロジックが不完全であるだけなのではないだろうか?

まぁその全ての人の最小不幸といった事柄自体が常に変動するものであるからにして、完全な抽出ロジック自体が夢に書いた餅なのかもしれないけど、そんなこといっていても始まらないので、そういった最小不幸となる差分を完全抽出できるロジックが存在するとする。とりあえず今は。

その前提において、完全ロジックが抽出した差分の結果は、自分自身にとって最良のもののはずである。だけど現状そのようなものが存在したら、そのものに対して嫌悪感が涌くに違いない。「私の人生を勝手に決めるな!」ってな感じで。

さてgoogleで森羅万象をググるのは日常的なことであって、家の共用PCのFirefoxのホームページがYahooになっていて、いつもググる際に不便に思っているのはどうでも良いことで、googleでありとあらゆることを検索して、その結果をもって行動することは良くありすぎることで、ならそれは勝手に決められた人生となにが異なるのか? という疑問が涌いてきたわけだ。
googleのロジックによって行動させられているわけだ。

前段の完全抽出ロジックだって、その結果は人に無理な行動をさせるロジックであるはずが無いわけで、ロジックに従うことを快いと思わせるロジックなハズで、昔の映画にあったように人間×コンピューターといったような対立を作り出すものではないはずだ。

いや、この話になにかオチがあるわけでは無いのだよ… ただ同列で考えられないことが不思議だなぁと思っただけで……