フレップ・トリップ 北原白秋 著

フレップ・トリップ 表紙

フレップ・トリップ

北原白秋 著

岩波文庫 緑48-7

2007年11月16日 第1刷発行

 

大正14年8月、鉄道省主催の樺太観光団に加わった時の紀行文です。

文体的に実験的な叙述になっています。

 

揺れ揺れ帆綱よ

 

海上の饒舌

 

小樽

挨拶の時、特に発言することも無いので、三遍同一点でぐるぐる廻る白秋さん

 

おおい、おおい

 

安別

日露国境の安別訪問。鮮やかな緑の低い丘陵、そのところどころの黒と立ち枯れのうそ寒いとど松、それだけの眺めの下にぽつぽつと家が五、六戸。

 

パルプ

パルプ工場での木々

林芙美子樺太紀行文で、樺太の森の無さを嘆いていたことを思い出した)

 

真岡

筆者にとっては雅味のない町

 

多蘭泊

 

本斗の一夜

 

樺太横断

西海岸の真岡から、樺太庁の所在地たる豊原まで、二十余里の森林を、蝦夷松、椴松、白樺の原生林を抜けて、自動車で横断する。

途中六回パンクする。

 

小沼農場

 

イワンの家

ロシア人の家にどかどか入って、内部を見学する観光団。失礼にもほどがある。

沿海州から北樺太へ、さらに国境を越えて南樺太に行って、どうにかバルチザンの残虐から逃れおおせたものであろうか。

駅でパンを売る少年イワン

林芙美子が出会ったロシア人(実はポーランド人)のパンと牛乳売りを思い出した)

 

豊原旧市街

 

樺太神社

 

豊原からの消息

 

木のお扇子

 

 

曇り日のオホーツク海

 

敷香

バルチザン滅落後も北樺太の赤派は極端に不良で、白系の良民に対して脅迫掠奪残虐至らざるなし、ということであった。従って良民は南下して日本領内に亡命した。

 

海豹島 

 

ハーレムの王

 

巻末に

 

大学の起源

大学の起源 表紙

大学の起源

チャールズ・ホーマー・ハスキンズ 著

青木靖三 三浦常司 訳

八坂書房 発行

2009年11月25日 初版第1刷発行

 

Ⅰ 大学制度の発生

ギリシャ人やローマ人の法律や修辞学や哲学の教育の多くは凌駕しがたいほど高度なものであったが、それは永続的な学問機関という形に組織されていなかった。

十二、三世紀になって、われわれに最もなじみ深い組織された教育の諸特徴、すなわち学部や学寮や学科課程が代表している教育の全機構、試験や卒業式や学位が世の中に現れる。

 

初期の大学は創設者もなく、いつから始まったかもはっきりわからなくて、明白な記録なしに徐々に静かに発生して、「まさに自然発生した」と言えるものが多い。

 

1100年と1200年の間に、いくぶんかはイタリアとシチリアを通じてだが、主としてスペインのアラビア人学者たちを通じて、西ヨーロッパへ新しい知識が多量に流れ込んだ。

それらはアリストテレス(哲学者)、エウクレイデス(ユークリッド、数学者)、プトレマイオス天文学者、地理学者)、およびギリシャの医学者たちの著作、新しい算術、ローマ法の本文などであった。

 

サレルノ医科大学

11世紀の中頃の医学校。医学の歴史においては重要だったが、大学制度の成長には何の影響も与えなかった。

 

ボローニャは、ローマ法の復活の中心地として最も注目すべきではあるけれども、多くの面を持った学校であった。

ローマ法は中世初期に西欧から姿を消したのではなくて、その影響力がゲルマン人の侵入してきた結果大いに減少していったのだった。

 

北ヨーロッパにおいては、大学の起源はパリのノートルダム司教座聖堂学校に求めなければならない。12世紀初めまで、フランスや低地諸国においては、学問はもはや修道院専有のものではなく、司教座聖堂の付属学校が学問の最も活発な中心になっていた。

 

パリの強みは一つには地理的、一つには新しいフランス王国の首都としての政治的なものであったが、幾分かはアベラルドゥス(アベラール)という偉大な教師の影響力のせいにしなければならない。

 

いつパリが司教座聖堂学校ではなくなって大学になったかは誰にもわからないが、12世紀末以前だったことは確かである。

しかし大学というものは祝うべき正確な日付をもちたがるもので、パリ大学は最初の国王の勅許状を得た年である1200年を選んだ。

 

教師たちの組織された団体という意味での大学(ユニヴァーシティ)はすでに12世紀に存在していた。1232年まではそれは発展して自治団体になっていた。

それはパリは、ボローニャとは対照的に、教師たちの組合だったからである。

 

12世紀のパリに起源を持つもう一つの大学制度は学寮(カレッジ)である。

 

パリは中世には神学の学校として抜群であった。そして神学は「高等学問夫人」と呼ばれ、中世の学問の最高の科目であったので、とりもなおさずパリは大学としては抜群であった。

「イタリア人はローマ教皇制度をもっており、ドイツ人は神聖ローマ帝国をもっており、フランス人は学問をもっている」という古いことわざがあった。

 

結局、大学の伝統が最もまっすぐに伝わっているのは制度においてである。

 

Ⅱ 大学教育

もしも古代の古典と自国語文学の欠如が学芸のカリキュラムの顕著な特徴であるならば、同程度に顕著な事実は、論理学または弁証法が非常に重視されたことである。

最も初期の大学規則である1215年のパリ大学の学則は、アリストテレスの論理学の著作全体を履修することを要求しており、これは中世を通じて学芸課程の中心だった。

 

法律学においては、全ての教育の基礎は必然的にユスティニアヌスの『ローマ法大全』であった。というのも、中世ヨーロッパの慣習法は、一度として大学の研究科目になったことはなかったからである。

 

Ⅲ 学生の生活

中世の大学生活の遺物は、学生の手引書、学生の手紙、学生の詩の三つに大別される。

 

大学記録(資料)

一 勉学のために旅をする学生たちのための特権(1158年)

皇帝フリードリヒ赤髭王が1158年に発布

ある原因で逮捕されることからの免除や、市当局の代わりに教授か司教の前での裁判は貴重な特権だった。

 

二 フィリップ尊厳王がパリの学生たちに与えた特権(1200年)

 

三 パリ大学にたいするグレゴリウス九世の大勅書(1231年)

教授免許を与える際のパリの文書局長の力を制限し、パリ大学立法権と講義停止権を認め、種々の点において学徒たちを保護するものである。

 

四 教員免許授与権(ローマ教皇ニコラウス四世の大勅書、1292年)

 

五 教師と学生の税金の免除(パリ大学に対する1340-41年のフィリップ四世の勅許書)

 

六 ハイデルベルグ大学の設立勅許書

パリが大いに手本になったということと、教師と学生に多くの特権を与えている

 

七 1764年のブラウン大学の設立許可書

アメリカの初期の大学が、特権や免除の点で、古いヨーロッパの大学の影響を受けていた。

 

八 トゥールーズ大学への勧誘書(トゥールーズの教師たちからの他の諸大学への手紙、1229年)

 

九 アベラルドゥスの『然りと否』

 

一〇 パリでのアリストテレスの受け入れられ方

教会当局は最初アリストテレス研究に対して躊躇する態度を示していたが、のちに彼を神学のとりでとして採用するようになった。

 

十一 1241年にパリで断罪された十か条の誤謬

 

十二 パリ大学で学芸の学位に要求された書物(1254年)

七自由学芸のうちのいくつかの欠如と、アリストテレスの書物の多さに注目

 

十三 パリ大学へ遺言によって贈られた書物の目録(1271年)

 

十四 ボローニャ大学の学芸と医学の教科書(1405年)

 

十五 ライプツィヒ大学で学芸の学位に要求された書物(1410年)

 

十六 トゥールーズ大学学芸学部の講義時間表(1309年)

 

十七 ライプツィヒ大学の学芸学部の講義時間表(1519年)

 

古代ローマへの道(後半)

4 われらの大陸の縁で

イベリア半島バルカン半島古代ローマ道路

 

バルカンでは、ギリシャトラキアの文化が地中海から大山脈の縁まで入り込んできていた。

スペインでは、ジブラルタル海峡から北に伸長し、多くの商館を支えとする昔からのライバル、カルタゴに、ローマはぶつかった。

これらにより、ローマ人は文化伝達者の役割を果たすことができなかった。

 

属州スペインでは、集落よりも軍事目的と鉱山の位置を考えてローマ道路が造られていたのだ。

 

カルタゴ人により、ジブラルタル海峡を閉鎖されていた間、怒った地中海諸民族は、錫を算出するブリテン島へ行く別の道をみつけた。

陸路をボルドーまで行く、あるいはローヌ川、ソーヌ川、セーヌ川を経てドーヴァー海峡岸へ出るという、荒れるビスケー湾を迂回する二つの道を発見した。

 

ブリガンティウムの今日の名、ラ・コルーニャは、ローマ時代から今に残る唯一の灯台を私たちに提示してくれる。それは「ヘラクレス塔」と呼ばれ、内部は間違いなく古代のもので、外部だけが二百年前に修理されている。

 

ヨーロッパの道路沿いで、門や墓所や神殿の廃墟といった古代ローマの遺物に出合うと、強い視覚的な刺激を受けるが、それはまた、近代的な環境に対して、古い建造物の持つ尊ぶべき色彩や、何千年という歳月の残した目に見える痕跡によって、一種の無言の抗議をしているからである。

 

フン族の進撃の後、商業都市ニシェは人の住む廃墟に過ぎなくなっていたが、何度かの和平の後で、いつも急速に繁栄を取り戻した。

それは第一に、こういう騒乱の時代には、住民は快適な居住設備などあまり要求せずに、生きていることを喜んだからだし

第二に、フン族は多額の貢物を自分たち自身の支配地域ではどう使いようもなく、ビザンチンからの金を人々の間にばらまいたからである。

 

5 山への敬意

スイスのローマ道路

 

スイス人は、ローマ人には、のちにナポレオンに対するのと同じく例外を設け、受け入れた。

 

中部ヨーロッパ、いや全世界における先史時代の交通は、前世紀末に考えられたよりははるかに盛んだった。広い地域にわたる交易商人によるものである。

 

ローマ時代から1600年もの間よく使われたゼプティマー峠

ローマ人がしっかりと造り上げただけでなく、二つの水路、当時はまだ陸路よりもはるかに優れていた輸送路を結んでいたから。

 

6 幸福なオーストリア

山の中では、地上建築とは違って、道路は風景の一部となり、良い時代にも悪い時代にも、風景とともに生きる。

谷を通って峠へうねうねと登っていく道路を手掛かりに、谷や斜面や山、谷川や峠がどういう独自の生命を保持しているかが初めて明らかになることがよくある。

 

ローマ人は道路の尽きるところを結節点として、また山の危険を切り抜けられたことに謝意を表するための場所として、神殿と教会のある集落を造った。

その同じところに、今はまた、費用のかかる交通動脈が何本も絡み合い、道路付随構築物が重なり合っている。

 

7 戦いに強いアルプスの民

スイス人についてはもう六百年も前から、地味の痩せた故郷を逃れながらも家族を養って行くためにヨーロッパ全土で軍務に就き、ドーヴァー海峡から南イタリアで到る所で雇主のために殺されたことが知られている。

 

古代道路の調査研究にあたって最も重要なのは、建設技師の建てた里程標である。これは長持ちしなければいけないから、今とは違って重い石で造られた。

 

8 琥珀街道

バルト海と北海の海岸からアドリア海への琥珀の輸送路

 

ヨーロッパは、都市が誕生せずにいられないような地形を知っている。大きな共同体は、テヴェレ河畔の七つの丘、セーヌ河谷のモンマルトルとモンパルナスの間、テムス河口、パンノニアの平地に開けるドナウの谷などが、あらゆる前提条件に特別恵まれていることを発見した。

 

カルヌントゥムは琥珀街道がドナウ川を越えて蛮族の国へ入るところにある国境の町であり、マルクス・アウレリスス帝の町であった。

ここに立つ果てしない平原の縁に立つ異教徒門。ここで蛮族の境界を越えた。

東西を結ぶドナウ川と、南北を結ぶ琥珀街道とが交差する、深く刻まれた十字の中。二つの世界軸の交点と、二つの世界境界の極である。

 

9 聖セウェリヌスの道路

セウェリヌスはウィーン、バッサウ、ザルツブルグの間の道路沿いに配置された砦や要塞に到着して、そこで素晴らしい活動を展開。

 

ローマ道路に沿っていない町村は、到達不可能と言ってもいいほどだったが、また同時にゲルマンの強盗集団に脅かされる危険もほとんどなかった。善も悪も、道路上をやってきた、あるいは全然来なかった。

 

諸民族と諸宗教の、そして地方的と超地方的な権力の実に奇妙な混合をもたらしたのは、ザルツブルグの陸路と水路である。

たぐい稀な位置にあるこの町は、今日に至るまで、世俗の利害と教会とのそれに挟まれて、華やかな独自の発展を遂げてきたことを誇ってもよい。

 

10 目に見えない網

バイエルン人は、ローマ人と最も関りの少なかったドイツの種族で、今でもそういうところが見られる。彼らがどこからやってきたにせよ、今日の生活圏の中へ流れ込んだときには、ローマ人はもう引き上げていた。

 

ローマ人は森林地帯に侵入しなければならないときはひどく気おくれしたが、それももっともなことである。故郷であるイタリアの明るい高地、かつては乾燥して太陽に照らされていた土地の、谷や道路に慣れていたことだから、彼らは湿った中部ドイツの森の縁に立つと、躊躇した。

 

古代ローマへの道(前半)

古代ローマへの道 表紙

古代ローマへの道

ヘルマン・シュライバー 著

関楠生 訳

河出書房新社 発行

1989年2月22日 初版発行

 

原題は「ローマ人道路を通ってヨーロッパを駆け巡る」という意味だそうです。

その通り、ヨーロッパ中の古代ローマ道路を詳しく説明しています。

塩野七生さんのローマ人の物語で興味を持ち、アッピア街道を見に行ったものです。

 

1 ローマ以外のどこへ?

イタリアの古代ローマ道路

 

ローマの環状高速道路を走り回っていると、古代ローマの名前とキリスト教の名前が並べているのが目に入る。

ポルタ・サン・セバスティアーノとポルタ・アッピアなど

 

道路はみな、ローマへ入っていくというよりかローマから出ていった。

ローマ人自身が征服欲に目覚めて、征服しようと思うところ、すでに征服したところ、さらに遠くへ遠征する準備をしようと思うところに向けて、道路を建設する気を起こした。

 

エトルリア特有の道路は、人工の谷を造って丘や小さな山を切りとおす隘路で、その側壁の高さは25メートルもあるのに、底面の幅は3メートルしかない。

 

先ローマ時代のイタリアは遠距離道路の無い国だった。その主な前提となる政治的統一と強力な中央権力が欠けていた。

昔の道路のうちで最も重要なのは、明らかに、個々の種族が経済的な理由から争いをやめざるを得なくて結んだ協定に基づいてできたものである。

 

ローマ人が道路を造ったのは「ほとんど世界をまっすぐに旅行できるようにするためと、住民の失業を防ぐため」といわれるが

仕事の無い民衆よりか、仕事の無い兵士の方がはるかに危険だった。彼らは潜在的な暴徒として恐れられた。

 

ローマの道路のためのお金は公金だけではとうてい足りなかった。寄付行為、あるいは財産の遺贈によった。その功績は高く評価された。

 

ローマ人は山中の旅をひどく嫌って、そのため、できることならむしろ遠回りをして山を迂回した。

 

ギリシャ人はできるだけ自然の傾斜と風景に合わせて道を造ろうとしたのに対して、ローマ人は直線の原則ゆえに絶えず自然と戦った。

 

アッピア街道の立木は今よりも昔の方がはるかに豊富であった。ローマ人は陰を恵んでくれる街道の木々に、自分の家の庭に植えた木に対するような愛情を注いだ。

 

アッピア街道とトラヤナ街道に、対ギリシャ、対オリエントの貿易が加わって、ブルンディシウムはイタリアで最も大きく、最も富裕な町の一つになった。

ローマ最大の詩人ウェルギリウスが前19年にこの町で亡くなっている。

 

道路と道路網に、文句なくプラスに評価できる機能は、ローマの郵便制度クルスル・プブリスクである。

 

権力の確立を求めるローマにとって、まだ遠征の途中でも、占領した地域によい道路をすぐに造ることが極めて重要だった。

軍団はその道路を急いで通って、ほどなく別の土地で配置につくことができたからである。

 

2 ガリアを照らすローマの太陽

フランスにおける古代ローマ道路

 

墓と墓地は、里程標と並んで、ローマ道路の走り方を知るための最も確かなしるしである。

 

カヴァーヨン(カベルリオ)は古代に興味を持つ訪問者ならだれにとっても、訪問しがいのある土地である。

そして最も印象的にプロヴァンスの古代が私たちに迫ってくるのは、廃墟の原、グラヌムにおいてである。

オランジュニーム、アルル、エクス、カルパントラに囲まれる活気ある地域の中心なのである。

 

ローマ人は道路建設に際していつも谷底を避ける原理を守ったことである。それで融雪期の洪水の害を受けずにすんだのだ。

 

3 ノルマン人のための準備作業

イギリスの古代ローマ道路

 

今日、ヨーロッパの共同体とさまざまの悶着を起こしているとっつきにくいイギリスは、今は忘れられているポイントだが、今日のヨーロッパ都市ストラスブールを進発したローマ兵に征服された。

 

総督で将軍だったアグリコラはしばしば船を先にやって海岸を略奪させ、島の北方を完全に回り切ることを命令した。

おそらく、四百年前にマッシリアの商人で学者であるギリシャ人ピュアテスの行った大胆な探検航海以来、最初の企てである。

 

ブリテン本島に道路を建設するにあたって、もっぱら軍事的な目標設定をしたことで、短い道路が相対的に多く、行き止まりの道が何本もあることが説明できる。行き止まりとは、集落と集落を結ぶのではなく、どこがで尽きる、つまり危険地帯へ入っていく道のことである。

 

ローマ人は確かにすぐれた兵士ではあったが、いつの時代でもいつの時代でも、どちらかといえば情けない船乗りだった。

 

ローマ人がいくら美しい道路や市門や市壁を築いて維持しようと、イギリスの運命は常に海であった。

 

フェニキア人 古代海洋民族の謎(後半)

黄色がフェニキアの都市

11 黄金時代の終末

フェニキア人の黄金時代は紀元前1150年から紀元前850年くらいの約300年だった。

このあたり一帯は、国境を彼らのところまで推し進めるほどの強力な大国がなかった。

 

緩慢な衰退は、紀元前850年から350年の500年続いた。

 

12 ギリシア人に称えられ、憎まれて

ヨーロッパの語源となったエウローペーはフェニキア人だった。

 

フェニキア人はアルファベットを発明した。

ヨーロッパの文化に対する彼らの最も大きな、そして最も重要な寄与は、おそらくこれであったろう。

まずヘラス人が、次にローマ人が、最後にヨーロッパの全民族が彼らから受け継いだこの天才的に単純な音標文字組織がなければ、ヨーロッパ人は今日なお、日本人や中国人と同じく、新聞一枚読むのにも200から400の文字を覚えなければならないであろう。

 

ビュブロスの住民は、おそらくはじめから速記文字を目指していたのであろう。

彼らは覚えておく必要のあることをすばやく、人目につかずにメモすることを重視する商人であり、実際に簿記をつけ、世界的に文通しなければならなかったことは確かである。

 

知的なギリシア人は新しい文字組織の長所をすぐに認め、それが首尾一貫した音分析に基づいていることを理解した。

そして自分たちのアルファベットをまでフェニキアの記号、と呼んだ。

 

13 カルタゴの興隆

小アジアの町ポカイアの住民が紀元前600年頃に、南フランスの海岸にマッシリア(マルセイユ)を建設することに成功した時には、テュロスの鉱石商人はさらに重大な打撃を受けた。

 

14 フェニキア国民のポエニ帝国

紀元前450年頃、ヒミルコというカルタゴ人の船長がポルトガルの海岸から北へ行ってブルターニュからコーンウォールへ行って、土地の錫堀りと接触を持とうとした。

その25年後ポエニ人ハンノという探検隊長がモロッコの大西洋岸に沿って南下した。

ハンノはカメルーンまで航海したのか?

その途中、通訳が「ゴリラ」と呼ぶ人間を見た。

その後動物学者がアフリカ最大の類人猿をその体系に組み入れた時、彼らはハンノの報告にはじめて出てきた名前をあっさりそのままつけてしまった。

 

15 帝国はカルタゴに益なし

カルタゴのアルプス越えをしたハンニバル以前に、同じ名前で、戦略的な才能をも同じくしたカルタゴの将軍がいた。

 

アレクサンドロステュロス攻略によって、フェニキアの歴史が終わった。

 

16 しかしそれからローマがやってきた。

カトーが何かについて意見を述べる時は必ず、『それはそうと、私はカルタゴが亡ぼされねばならないと思う』という言葉で結んだ。

 

ローマ人ルウィウスによるハンニバル

「危険を引き受ける最大の大胆さ、危険そのものの中での最大の思慮、これを彼は持っていた。・・・彼は戦闘には真っ先に出て行き、会議が終わると最後に出てきた」という輝かしい面の後、ネガティブな面として「非人間的な残酷さ、ふつうのポエニ人を上回る背信行為。彼には真実など問題ではなく、彼にとって神聖なものは何もなかった」と書いている。

 

ハンニバルの有名なイタリア遠征は、アレクサンドロスのペルシア遠征とともに、古代軍事史上おそらく最も危険で大胆な企てである。

 

フェニキア人とわれわれ

われわれの知る最初の偉大な自然科学者、ミレトスのタレス、彼は紀元前585年の日食をあらかじめ算出したといわれる、は半分フェニキア人であったし、

ソクラテス以前の古典哲学者のの一人で、ソクラテス以後の空に暗く燃える星、キティオンのゼノンが、純粋のフェニキア人であったことはかなり確実である。

 

カルタゴに近いタガステの出身であるアウグストゥス

 

ベイルートに住む人間は、信じがたいほどの人種混淆の産物である。

ペルシャ人、ギリシャ人、ローマ人、十字軍従事者、エジプト人、イギリス人、フランス人らが、何世紀もの間にレバノン山麓でぶつかりあって、ひとつのタイプを生み出した。それがレヴァント人で、確かにフェニキア人の直接の後衛ではないが、実に上手く出来上がった子孫である。丁寧で、抜け目がなく、人をそらさず、上品で、雄弁である。

 

フェニキアへの招待

レバノン

キュプロス

レバノンからイスラエルへ行くこと、またその逆は出来ない。もっともパスポートを二つ持って、その一つはアラブのビザだけをもらい、もう一つにはイスラエルのをもらうようにすれば、話は別である。

(よくわからないが、今はどうなのだろう)

イスラエル

チュニス

サルディニア

 

フェニキア人 古代海洋民族の謎(前半)

フェニキア人 古代海洋民族の謎 表紙

フェニキア

古代海洋民族の謎

ゲルハルト・ヘルム 著

関楠生 訳

河出書房新社 発行

1976年4月15日 初版発行

1992年11月10日 新装初版発行

 

レバノン海上都市国家を築き、商業民族として地中海を支配したフェニキア

彼らはアルファベットを創造し、ヴァスコ・ダ・ガマよりはるか昔にアフリカを周航し、ひょっとするとヴァイキングよりも前にアメリカに到達していたかもしれない。

こういうフェニキア人の姿を、聖書、ホメロスヘロドトス、あるいはフロベールなどの文献などを踏まえて叙述していくとともに、間に著者自身の旅の話も挟んでいます。

 

1 海に生きたベドウィン

フェニキア人の権力は目の細やかな網のように張り巡らされた商業路線にあり、こわれやすい船の描く航跡として目に見えるだけだった。

たいていは風の来ない入り江に造られ、市壁を巡らせた見栄えのしない集落に過ぎなかった。

彼らの集落は海に向き、海に向かって方向づけられてきた。

 

フェニキア人はもともと砂漠からやってきた。

砂漠は海と同様、何一つ不変のものの無い世界である。

駄獣に代わって船が、遊牧地に代わって、人目につかない入り江に商館が、登場した。

 

2 レバノン杉の森に接する都市

ルナンの選んだ町ビュブロス

強大なフェニキアの共同体というだけではなく、パピルス、すなわち紙の原料を表すギリシャ語でもあった。

 

レバノン杉は、単に有用というだけでなく、とりわけまた、印象的な木でもある。

レバノン共和国は、シルエットと共にそれを国の紋章に取り入れている。

 

3 インドゲルマン語族の登場

インドゲルマン語族の原故郷はキルギスの草原だったと推測されているが、彼らがのちに移動を開始した時の出発点が西ヨーロッパと南ロシアの中間地域だった。

 

4 オデュッセウスアキレウス フェニキア人の祖先

フェニキア人の歴史は紀元前2300年頃のアモリ=カナン人の移動とともにはじまる。

カナンの原フェニキア人は紀元前11世紀に外洋の支配者となる。

カナン人+海の民=フェニキア人」という式

 

5 彼らは人工の島に住んでいた

テュロス岩礁の上の町、海の中に人工的に造られた避難所だった。

 

6 バール子息商会の設立と興隆

フェニキア人のガラスの発明とテュロス=シドンの紫の染料の製造

 

7 ソロモン王の商売

フェニキア人の姿は、全て他の民族の記録によるもので、自分では記録を残さなかった。

 

8 バールと息子たちとイスラエル

 

9 テュロスの娼婦

 

10 レバノンから世界の果てへ

フェニキア人がいつ、地中海域を商業的に開発しようとして進出し始めたか?

レバノンの商人がヘラス人よりもずっと前に遠い遠い国の海岸まで出かけて行って地中海世界を開化した、という説が有力

 

フェニキア人がジブラルタル海峡の背後に新しい無限の海、地中海より荒れ、潮の干満によって動く海が広がっているのを確認した。

潮の干満は、数世紀後にアレクサンドロス大王もインドで見てひどく不思議がった現象である。地中海にはない現象なのだ。

 

地中海と紅海をつなぐ運河

紀元前600年以後のいつかに、その運河の建設が開始された。しかしネコ二世が工事を中止。

プトレマイオス二世(紀元前3世紀)がのちに運河を改修して、水門を取り付けた。

紀元後640年、エジプトを征服したイスラムの将軍、アムル・ブン・エル・アースが最後に運河を掘り開いた。

八世紀には運河は決定的に崩壊

 

フェニキアの拡張の頂点は、カルタゴすなわち新都市と名付けられた植民市の建設したときだった。

 

アイルランドのハチの巣型の謎のモニュメント

アイルランドのハチの巣型モニュメント

翌日はダブリンからニューグレンジ、モナスターボイスという遺跡を訪問する、現地法人バスエーランの旅行に参加します。

その途中で画像のような場所でバスは止まり、運転手さんがバスに乗ったまま解説してくれましたがよくわからず、とりあえず写真だけは撮っておきました。

このブログに書くにあたって改めて画像検索などで調べてみたのですが、バルブリガン付近にある、このハチの巣のような形をしたモニュメントは遺跡ではなく、現代のアーティストによって創られたモニュメントのようです。

ブレモアヘッドの近くにある古代の埋葬墓や、7世紀にアイルランドに養蜂をもたらした修道士聖モラガに関連した作品のようです。

ひとまず、長年の謎が解けました。

 

フェイスブックのSteach Maoilín さんの記事を参考にしました)