暮らしの武将

暮らしや仕事に役立つ戦国武将の知恵やエピソードをご紹介いたします。

偉くなるのもつらいよ

こんにちわ。サエモンノ輔でござる。

いつの世でも、出世レースは熾烈なものです。
皆さんも、友達が独立したとか同僚が上司になったなんて話にヤキモキした経験ありませんか?
でも、羨ましいと思っているのは周りの人間ばかりで、当人は大変なようですよ。

戦国武将にも悲痛な体験談が残っています。

武将の名前は滝川一益(たきがわ・いちます)。
一益は織田信長の家臣で、「進むも滝川、退くも滝川」と謳われるほど、攻めにも守りにも活躍した名将です。
もともとは近江国甲賀出身の下級武士で、一説には忍者だったとも言われています。
40歳で織田信長に仕えたといいますから、遅咲きの苦労人だったようです。各地の戦場で成果を上げた一益は、信長からも信頼され、織田家四天王と呼ばれる重臣となりました。
現在でいうと、40歳の中途採用社員が各地の営業所で成績を上げて、本社の取締役に抜擢された・・・といったところでしょうか。

大出世を果たした一益。一般人の僕といたしましては、さぞ誇らしい思いでいっぱいだったろうと想像するのですが、そうでもなかったようです。
大大名に出世した一益が、その心境を吐露した
逸話が残っています。
ある日、休養地の屋敷でのんびりしていた一益。その屋敷の前に広がる野で、鶴の群れが周囲を警戒しながら餌をついばんでいる。かたや軒先きでは、雀が人を怖がらずに戯れている。それを見た一益は家臣にこう言った。
「大名と家臣の違いは差し詰めこの鶴と雀の違いだ、鶴は大きく優雅だが、いつも敵に狙われて落ち着く時がない、それに比べて雀は小さくて目立たないが、いつも無邪気でいられる。家臣は鶴を羨まず、雀のように心安く暮らすがいい。」

下級武士から這い上がり、望んだ地位にまで登り詰めた男の言葉だからこその感慨深い言葉ですよね。


滝川一益(たきがわ・いちます)
1525〜1586
織田四天王の一人。
信長より関東管領に任じられ、東日本方面司令官として関東に出向いた途端に本能寺の変が起きてしまう。関東に取り残されてしまい、織田家の今後を話し合う清須会議にも出席できないという、悲劇の武将。

 

 

仕事の秘訣が知りたい

こんにちは。サエモンノ輔でござる。

今回も藤堂高虎式仕事術のご紹介です。
豊臣秀吉の弟・秀長に仕える事で、大仕事を任されるようになった高虎。秀長の死後は、秀吉、家康と天下人に仕えていきます。
特に家康からは江戸城の改築を任されるなど、全幅の信頼を得るようになり、外様大名でありながら家康の懐刀として活躍するようになります。

天下人にまで愛される高虎の仕事振りですが、そこにはそれなりのコツがあったようで、こんな逸話が残っています。

ある戦で前田家から高虎の陣へ使者が来た時の事。
使者が用事を済ませた帰りがけに合戦が始まってしましました。そこで使者も合戦に加わり、敵の首を一つ挙げます。高虎がその使者に「前田殿への手土産として持ち帰るがいい」と伝えると、使者はその言葉通りに首を持ち帰り、前田家の検分に入れますが、さしたる恩賞はもらえませんでした。
それを聞いた高虎は「老練な武士だったら『首は当家の数に入れられよ』と言って置いて帰っただろうに。そうすれば、こちらとしては使者の功績を記して首を前田の陣へ申し送ることになるし、前田としても藤堂の手前、それなりの恩賞をやらねばならなくなる。素直に首を持って帰ったために恩賞にもれたのは気の毒だが、当然の事でもあるのだよ。」と言ったそうです。

同じ成果なのに、評価が全然違うって事ありますよね?その違いって、意外とこういう事なのかもしれませんね。社会での立場や世間体みたいな物って、馬鹿に出来ない物です。
プレゼンや交渉事にこういう視点を加えてみてはいかがでしょう?

そんな高虎には仕事の流儀がありました。
それは「大切な事を考える時、その日の未明に起床し衣装を整えて、両刀を帯び、正座して思念を凝らすべし」というもの。
高虎曰く「帯を解いて寝そべってくつろいでいては、考えがあちこちに流れて、重大案件など思いつくものではない。」だそうです。
これ、おすすめです。
考え事をする時、ちょっと早起きをしたら、お気に入りの一着でおめかしして、普段は行かないホテルのラウンジやオシャレなカフェに行ってみて下さい。
いつもと違う閃きがあると思いますよ。


藤堂 高虎(とうどう・たかとら)
徳川家康の懐刀。その才能を非常に愛される。
家康臨終に際しては、死後もまた一緒にいられるようにと、日蓮宗から家康と同じ天台宗に改宗するものの、肝心の家康が神様となってしまったため、その死後に会えたかどうかは不明。

次回の更新予定は5月14日です。

任せれたい

こんにちは。サエモンノ輔でござる。

今回は前回の続きですね。
「どういう人物が仕事を任されるのか」です。
今をときめくクリエイティブディレクターだって、あらゆる番組のクレジットに名を連ねる放送作家だって、最初から勝手に仕事が舞い込んで来た訳ではないはず。
「あいつに任せてみようかな。」と周りに思わせる仕事振りがあったからこそ、大きな仕事が回ってきたのです。今回はそんな任せたいと思わせる仕事振りを藤堂高虎に教わろうと思います。

前回ご紹介した通り、どんどん大役を任されていった高虎。周囲の人々がその仕事振りや人物をどう見ていたのかを紐解くと、その秘訣が分かります。

1、有言実行の男
徳川家康の家臣・土井利勝は言います。
「高虎はその口で言った事は必ずやってのけた。それが簡単であろうが難しかろうが関係なかった。全てがそういう風だから、あれ程功名を立てても嫉妬から讒言を言われる事もなかったし、将軍家からの信頼も揺らぎなかったのだ。」と。
言ったからにはやり抜く事は信頼を得るためには大切な事。
精神論というのではなく、セルフマネジメント
がしっかり出来ているかどうかですよね。

2、素早く実行する男
秀吉が死に、朝鮮に出兵していた軍勢を撤退させる事になった時の事。
徳川家康は高虎を呼び出し、撤退作業を行うべく朝鮮に渡るようにと頼んだ。しかし、その日の夕暮れになって言い残した事を思い出した。明日の朝にまた来て欲しいと高虎の屋敷に使いを出すと、留守居の家臣が「今朝そちらのお屋敷から戻られると、そのまま支度をして、先ほど出船いたしました。」と言う。
それを聞いた家康は
「高虎の事は小身の頃から知っているが、昔から万事に手早くて只者ではなかった。今の若い連中は見習って参考にすべきだ」と言ったそうです。
やっぱり、任された仕事を素早く着手する姿は、任せた方としても任せた甲斐があると感じますよね。

3、気遣いのできる男
二条城の建築について徳川秀忠から案を求められた高虎。この時、高虎は案を二つ用意してきた。家臣が「最良の案を一つ用意すればいいのではありませんか?」と聞くと、「一つだけだと秀忠様はわしの意見に賛成した事になるが、二つならば秀忠様が御自身でお選びになった事になるからだ。」と答えた。それを聞いた家臣は「本当に慎重なお方だ」と感心したそうです。
ちょっと行き過ぎな感じもしますが、ここまで上司に気遣いができれば、仕事を任せたいと思いますよね。

いかがでしたか?戦国流「仕事を任される秘訣」。
任されるのには理由がある訳です。
「あいつは運が良いだけだ」と僻んでいないで、日々の仕事でこういった事を積み重ねて信頼を得ていきましょう。

藤堂高虎、調べるほどに奥深い人物です。
次回は高虎の仕事術上級編と題してお送りします。

 

藤堂 高虎(とうどう・たかとら)
伊予今治藩の藩主。
今治は元々「今張浦」という地名だったのを「今からこの地を治める」と言って「今治」に改名したのも高虎である。

 

次回は4月30日更新予定です。

 

 

転職のススメ

こんにちはサエモンノ輔でござる。

春ですね。
今月から社会人となった方もいらっしゃると思います。今日はそんな新社会人の皆さまにお送りします。

よく、新入社員への訓示で、「石の上にも三年。三年は頑張って続けろ。」なんて言いますが、個人的には会社や仕事が合わないのならば、さっさと辞めてしまってもいいと思います。
人間って、なんだかんだと理由を考えては我慢出来てしまう生き物なので、たとえ会社と自分が本当にマッチしていなくても、辞めずに耐えてしまうんです。
でも、もっと自分に合う仕事や会社があるのならば、転職する方がずっと幸せになれるはず。

「我慢の先にこそ、価値ある物がある」という意見もあるでしょうが、生き生きと働ける仕事・会社を探す事も同じくらい価値がある事です。

そんな働きがいのある場所を探し、転職を続けた武将がいます。

その武将の名前は藤堂高虎
高虎は貧しい下級武士の生まれでしたが、2メートル近い巨体と人並み外れた力の持ち主で、その体格を活かし、14歳の頃には足軽として戦場で活躍していました。
しかし、主人や仲間に恵まれず、同僚と喧嘩をしては主人を変え、武功に対しての恩賞が少ないと言っては主人を変えるという事を繰り返していました。

そんな高虎に転機がやってきます。
5人目の主人・羽柴秀長豊臣秀吉の弟)に出会ったのです。
秀長は、それまで80石だった高虎を、いきなり300石で召し抱えます。
そして、戦場での槍働きを得意としていた高虎に対して、築城や領地経営などの大仕事をドンドン任せていきます。
高虎もその期待に応えるために努力を惜しみません。
ろくに字も書けなかった高虎が、城を築くための計算技術を身につけたと言いますから、その努力が並大抵ではなかったという事が分かりますよね。
やがて高虎は家老となり、秀長を支える様になります。

どうです?
トラブルメーカーだった人物が、環境が整う事で、こんなにも生き生きと働けるんです。
自分に合う場所を探す事って、とっても価値ある事だと思いませんか?

ただ、忘れてはいけないのは、大仕事を任せようと思わせるような日頃の仕事ぶりが高虎にあったという事。
次回は上司に仕事を任せたいと思わせる秘訣を、高虎から学んでいきたいと思います。

藤堂 高虎(とうどう・たかとら)
1556〜1630
上野恩賜公園墓所がある。
この東京の上野という地名、高虎が本拠地の伊賀上野に似ている事から名付けたと言う。(諸説あり)

 

次回更新は4月16日の予定です

ソーシャルハラスメントにご用心

こんにちわサエモンノ輔でござる。

戦国武将の逸話を調べていると、有名な武将はやっぱりどこか突き抜けているんだなあと思います。数多くの名言もあるのですが、それと同じくらい奇行も多いんですよね。
むしろ、無名に近い家老や家臣のエピソードの方が、僕らの参考になる話が多いように思うのです。

今回はそんな家老をご紹介します。
安藤直次です。
徳川家康の家臣で、江戸幕府初期の老中です。
直次はとにかく真面目・正直を絵に描いたような人物だったようで、こんな逸話が残されています。
大坂冬の陣が終わった時の事。
家康は終戦と同時に大坂再征をごく僅かな重臣と相談をしていた。それを次ノ間で休んでいた直次は聞いてしまい、再征に向けていち早く準備をします。夏になり陣ぶれが出されると、他の家臣が慌てている中、直次は一番に着陣し家康から褒められるのですが、「直次の直は正直の直」でお馴染み直次は「実は次ノ間で聞いてました。」と打ち明けます。するとその正直さがさらに褒められるのでした。

どうですか、この「正直者が一番」的なエピソードは。これだけでもサリーマンの模範となるような話ですよね。

そんな直次が説く上司の心得が、また良いんです。

直次がその実直さを見込まれ、家康の息子・紀州頼宣の家老となっていたときの話。
舶来の遠眼鏡を家康から貰った頼宣は、城の櫓から城下の通行人を覗いては、「着物の紋所までありありと見える」とはしゃいでいた。それを聞いた直次は遠眼鏡を壊してこう言ったと言います。
「およそ奉公人は、ここぞという表働きで役に立つよう、陰では無作法に格好を崩して鋭気を養っているもの。家臣の休みの様子を君主は敢えてうかがってはなりません。殿様が常に城の上から見てござると知れたなら、下々の者は誰も道を歩けまい。」

皆さん、大丈夫ですか?
むやみやたらに部下とFaceBookで繋がろうとしていませんか?
無神経にプライベートへ踏み込んでしまわないように注意しましょうね。


安藤 直次(あんどう・なおつぐ)
1555〜1635
江戸幕府老中。紀州徳川家家老。
息子が戦死した際、息子の遺体を収容しようとする家臣に対して「犬にでも食わせておけ」と言って、混乱する軍を立て直したという。猛烈サラリーマンの元祖のような人物。

 

次回は4月2日更新予定です。

必要なのは「はらたいらさんに全部」

こんにちは。サエモンノ輔でござる。

 

人生には大なり小なり勝負時ってありますよね。
ここぞという時に自分の全てを賭ける瞬間です。そう、まさに「はらたいらさんに全部!」という感じに。
肝心なのは「度胸」と「タイミング」です。

 

それでは今回はそんな戦国クイズダービーを勝ち残った武将をご紹介しましょう。

 

彼の名前は山内一豊

尾張(現在の愛知県)出身の武将です。一豊を支える賢い妻とのお話が、司馬遼太郎の小説「功名が辻」で有名です。大河ドラマにもなりましたね。

 

一豊は豊臣秀吉の古くからの家臣で、とても律儀な人物として可愛がられたそうです。
戦場で部下から焼き大根を勧められると、口が臭くなって秀吉に会った時に失礼になると言って食べなかったなんていう、戦国武将らしからぬ繊細な逸話が残っている律儀者です。
しかし、律儀なだけで出世が出来るほど戦国時代は甘くはありません。同僚が10万石、20万石の大名になっていくのに、一豊は掛川5万石。

 

そんな一豊にやってきた勝負の瞬間。
それが世に言う「小山評定」です。
小山評定とは、現在の栃木県小山市で行われた軍議の事。この会議、関ヶ原の合戦直前に行われ、東軍の諸大名はまだどっちに味方をするのか決めかねていました。
我らが一豊は、徳川家康への味方を表明します。とは言っても、所詮は5万石ですから兵の数も少なく、あまり意味がありません。
そこで一豊は「徳川家康さんに全部!」とばかりに城から兵糧、領地まで全部を家康に差し出すと宣言。すると、他の大名達も我も我もと家康に領地を差し出しはじめ、家康は東日本のほとんどを手に入れる事が出来ました。
その後、本戦の関ヶ原の合戦では大した武功を立てられなかった一豊でしたが、全財産を賭けたあの一言のおかげで、土佐一国22万石の大大名へと出世したのでした。

 

重要なポイントだったのは、全部賭ける度胸と誰よりも先に切り出したタイミングだった訳ですね。
実は、領地から何から全部差し出すというアイデアは一豊が考えた物ではなく、旧知の仲だった堀尾忠氏の考えでした。忠氏が躊躇している間に一豊が発言してしまった…というの真相のようです。


会議や商談のここぞという場面で、常人と成功者を分けるのは度胸だけなのかもしれませんね。

 

山内 一豊(やまうち  かずとよ)

1545〜1605

一兵卒から高知の大名へと駆け上った武将。

司馬遼太郎の「功名が辻」のおかげで有名にもなったが、妻の尻に敷かれた大名として認知されてしまう。

 

教育って難しい


こんにちはサエモンノ輔でござる。

受験シーズンも終わり、そろそろ合格発表の時期ですね。
頑張ってきた受験生や身内の方にとっては落ち着かない日々でしょうか。

 

今回はそんな方々に贈りたいと思います。

 

主人公は前回登場の今川義元と天下人徳川家康

徳川家康は9歳から18歳の間まで、今川家で人質として暮らしていました。
さぞかし肩身の狭い思いをしていたのだろうと思いきや、意外と自由に暮らしていたようです。
実はこの待遇は今川義元の家康に対しての教育方針が裏にあったからなんです。

義元は人質である家康の教育について、家臣にこう命じます。「むごい教育をしろ」と。
命じられた家臣は、粗末な食事と朝から晩まで休まずに武芸や勉学を仕込もうとしました。
ところが義元は「朝から晩まで贅沢な食事をさせよ。寝たいときはいつでも何処でも好きなだけ寝かせよ。勉学はしたくないならさせないでよい。大概の人間はこうすれば駄目になる。」と言ったそうです。
子供の頃から駄目人間に教育してしまおうという訳です。
今川義元恐るべし。
その策略が功を奏したのかどうかは分りませんが、人質時代の家康のエピソードには、殺生禁止のお寺の山で鷹狩りをしたいと駄々をこねて強行した話や、日頃から気に入らなかった家臣をいきなり縁側から蹴り落とすなんていう話があり、ワガママな癇癪持ちだったようです。

 

え?でも徳川家康は天下を取ったじゃないかって?

 

そうなんです。家康はこれで終わらなかったんです。この後、ありとあらゆる事を身につけていきます。
武芸は剣術、弓術、砲術馬術、水術を一流の域にまで体得。沢山の書物を読み込み、医術や生薬にも通じ、はては数学や幾何学までも勉強していたそうです。
この向上心があればこその天下人なんでしょうね。

 

ところで今川家ですが。義元の死後、嫡男氏真が跡を継ぎます。
氏真は蹴鞠が上手な愛妻家に成長しますが、武田信玄に滅ぼされてしまいます。
きっと義元から一流の教育を受けたはずなんですけどねー。

 

悪意を持って教育をされても天下を取れるし、一流の教育を受けても家を滅ぼしてしまうんですね。

希望の学校に入れようが入れなかろうが、環境が良かろうが悪かろうが、本人の努力いかんで道は拓けるんじゃないでしょうか。


徳川家康(とくがわ・いえやす)
1543〜1616
戦国三英傑の一人。
海道一の弓取りの異名を持つ。
様々なエピソードが神がっていて真実はよくわからないが、汚れても目立たないように黄ばんだ布で褌を作らせ、洗濯回数を減らしていたのは事実のようだ。

 

次回は3月5日更新予定です。