橋の上でたむろする

久しぶりに自転車に乗って遠出をしていると、橋でカラスがたむろしているのに出会った。
よくゴミの日なんかに電柱に集まって獲物を狙っているのは見かけるけど、特に彼らにとって何もないような場所に集まっているのが新鮮に感じた。
人間で考えれば別におかしなことは何もないのかもしれない。
カラスに限ってそれが珍しいと感じるのは、シンプルにカラスが大きいので目を引くからだろうか。
カラスといえば、彼らが地面をケンケンみたいに跳ねるのが好きだ。
あれは可愛い、心が癒やされる。
しかし、猫なんかを見ていても思うのだけど、動物の可愛さというのは擬態に似ているような気がする。
本人たちが選ぶのではなく、環境が可愛さを選ぶ。
逆に考えれば、人間は自分の意志で可愛くなれる余地がある分、生物の中では可愛くなりやすい部類なのかもしれない。
たむろする人間というのは、可愛いのか。
学生時代、狭い部室で行く宛のない部員たちが暇を持て余していた。
当時、すでに随分と時代遅れだったファミコンでよく遊んでいた先輩は元気だろうか。
そんな取り留めの無いことを、きっとカラスたちは話してはいない。

そういう形の穴が空いていた

 名前も思い出せない歌、いつか嗅いだ花の香り、作り手のいない料理、膝上の猫の暖かさ、日々現れては消える心の機敏。

 何かが無くなったものだと気がつくために、私たちはあったはずのものがなくなる経験を必要としている。当たり前の話かもしれない。

 心に穴が空いたようだ、と言う。心に穴が空かないのは誰でも知っている。それでも、穴という言葉でしか伝わらない事態がある。

 穴を埋めるのは、日々の生活なのかもしれない。そうして、喪われたものの代わりに満たされたものがある。

 それは後付けの意味ではないだろうか。初めから何もなかったことを思い出すのだ。

 最初から穴は空いていたのだから、それを見て何を悲しむことがあるだろう。

 いや、それはきっと間違いだ。間違いなのだけれど、心の穴は意味で満たされてなお空洞であり、埋められているにも関わらず永遠に穴は塞がれない。

 そういう形の穴が空いていたと思い込んで、そこに意味を見出すならば、後は自分にも他人にも預かり知らぬことだと思うしかないではないか。

 それを見つめ続ける勇気を私は持っていない。

パッチンガムと世界平和

 パッチンガムなんてものがあった。

 

 差し出されたらガムを引き抜くと、優しいネズミ捕りみたいなのに指を挟まれるオモチャだ。

 

 一時、とても流行ったような記憶があるが、身内だけで報復し合っていただけかもしれない。

 

 悪戯なんてものを久しくしていない。相手がいないのか、発想が貧しくなったのか、たんに面倒くさくなったのか。

 

 大人になったから、というのだけは自分でも信じられないが、小さいいざこざが減った分だけ世界が平和になったのだろう。

 

 

カレー焼きそばと自由の行使

 上着が一枚減った分だけシュッとしたかと言うと、そもそも昨日カレー焼きそばを食べ過ぎたのだ。

 

 やっと春らしくなってきたような気もするが、冬物をしまうのはまだ時期尚早な予感もある。当たり前のことではあるのだけど、天候の変化に備えることは出来ても、天候の変化自体を操作することは出来ない。

 

 天気予報なんかを見ていると、ついついお天気について何でも知っているような気になってしまうけれど、実際は神頼みの部分も多い、というかほとんど神頼みだろう。

 

 ままならないことの方が多い、というのは不自由なのかと言われると、どうもそうではないような気もする。後手後手の対応の中で、与えられてしまった環境の中で、何をするのかというのも自由の内だろうと思う。むしろ、何が出来ないようになっているのかと言うことの方が大事なのかもしれない。

 

 カレー焼きそばを食べ過ぎるというのも、立派な自由の行使ではあるのだけど、自由には後悔もつきものだと、春めく電車内で過ぎていく景色を見ながら、ぼおっと考えている。

それはたぶん知る必要のないこと

 目覚めることが浮上だとするならば、眠りはどこへ落ちていくのだろうか。

 

 夢の中へ、と言いたくなるところではあるけれど、個人的に夢は見るものであって、落ちていくものではないと思っている。

 

 難しく考える必要などなくて、素直に眠りの中へ落ちていくと考えればいいのだろう。それでも、穴に落ちるように眠りに落ちると言われると、どうしても違和感がある。

 

 寝落ちという言葉があるけれど、何か作業中に居眠りしてしまって、例えば頬杖ついていたのが外れて、はっと目覚めたときに「寝落ち」していたと言うならば、わからないではない。でも、この場合は落ちて眠ったのではなく、物理的に頭が落ちて目覚めているのだから、どうも順序が逆ではないのか。

 

 布団の上で眠るときだって、落ちるというよりかは、どちらかと言うと眠りに沈んでいくというのが個人的な実感だ。

 

 最初の話に戻すと、眠りによって私たちが向かう場所、それがどこなのかが気になっている。意識を失うということで考えるならば、それは死と言っていいのかもしれないが、行って戻れる死なんていうのも、どうも格好がつかない。

 

 かといって、眠るように死にたいというわけでもなく、出来ればいつだってまた目覚めたいと思っているわけだ。

 

 もしくは、死ぬと言うことは夢から永遠に覚めないということなのかもしれない。永遠にいるかもしれない場所について、僕はあまりにも何も知らないが、それはたぶん知る必要のないことだろう。

ステップは可愛いが、ボールはホラーか

 烏のステップが好きだ。

 

 烏自体も好きは好きなのだけど、あの地面をピョコ、ピョコと跳ねる感じが堪らなく可愛い。

 

 スキップ鬼なんて遊びがあったけど、人間がピョコピョコしていても特に可愛いとは思わないのは、サイズ感が違うからだろうか?

 

 そう考えると、確かに鳩や雀がピョコピョコしていても、烏程可愛いとは思わない。ドッチボールがポンポンと跳ねていたら、可愛いと思うのだろうか。自律的に跳ねていたら可愛いような気もしたけど、単純に考えてホラーだろう。

勝手に珈琲豆を贈る

 珈琲の焙煎を始めて半年くらい経つので、一度覚え書きを残しておこうと思う。

 

 まず、慣れてきて思うのは、珈琲豆を焙煎するときは、焙煎自体よりもハンドピックの方が個人的には大変だと言うこと。体系的にどこかで習ったわけではないので、まずどの豆を避ければいいのか、これが分からない。

 

 自分でちょこちょこ調べた限りでは、避けるべき豆の状態や、種類などがたくさんありそうなのだけど、その辺を覚えるのは正直めんどっちい。一番ぴんと来たのは、取りあえず他とは違う豆を避けておく、というもの。

 

 ただ、これもあまり徹底してやり過ぎると、焙煎する前に気力がなくなってしまうし、出来上がりの豆がどんどん減っていってしまって悲しい。なので、暫定の自分ルールとして、トレイを一回全体的に確認して、逆さまにしてもう一回見たら終了、としている。それでいいのかはよくわからない。たぶん、間違っている。

 

 私は手網で焙煎しているので、ハンドピックが終わったら生豆を入れて焙煎するのだけど、これも焙煎方法に悩むより、厄介な問題が発生することが、やっていてわかった。

 

 まず、なんと言っても煙とそれに伴う匂いの問題が大きい。

 

 キッチンのコンロで焙煎していると、換気扇の強なんてまるで役に立たないくらい煙が発生する。一度うっかり換気扇を回さず焙煎したときは、部屋の火災報知器がけたたましく鳴りだして、非常にびびった。窓を全開、換気扇強にしていても、部屋の煙が落ち着くのはしばらく時間がかかる。

 

 それに加えて、匂いの問題がある。煙臭いわけでは全然ないのだけど、珈琲の香りは強烈に漂う。残る残らないの話で言うなら、こっちの方が煙よりもしつこいかもしれない。一人暮らしならまだしも、同居人がいるのならば、快適な焙煎ライフのためにも、常に美味しい珈琲を淹れることで、日々説得を続ける必要が出てくるだろう。

 

 ただ、この辺りの問題を何とか突破していけば、珈琲豆焙煎は非常に楽しめる遊びだと個人的には思う。豆の種類、焙煎の具合、豆の挽き方、珈琲の抽出方法で、出来上がる珈琲の味は様々に変わる。自分自身の味の楽しみ方が広がっていくのは嬉しいことだし、少しずつ技術的に慣れていって、出来上がる珈琲の質が上がっていくのも喜ばしいことだ。

 

 後は自分だけで楽しむのではなく、一緒に楽しんでくれる人がいれば最高なのだけど、もしそれが叶わないのだとしたら、勝手に珈琲豆を贈る人になっても面白いのかしら、とは思う。