18歳の思い出

高校時代、私は音楽に夢中になっていました。

バンドを作りたい~!! なんて毎日考えていましたね。

 

ある日、中学からの友人と校内で出会うと「文化祭実行委員やらない?」

友人も文化祭実行委員をやっていたらしく、

なにやらライヴを仕切る人がいなくて困っていたらしい。

以前にミニコンサートを企画した事を知っていた友人がやってきたのだ。

 

私も「お!これは体育館を自由に使えるぞ!」などと野望を抱き、合意になったわけです。 

まずは出場者募集、その次にデモテープチェック(当時はヘビメタが大流行の時代でしたからディストーションの効いたギターで歌が全く聞こえなかったのを覚えています)

それでも全バンドがチェックを通過し、第一回代表者会議

議題は衣装・・・学校側は学校行事なので制服を着用と主張

          生徒側は自由な服装を主張

 

私も制服を着てヘビメタは・・・でも茶髪は行き過ぎ?

そこから教師と実行委員との交渉による交渉

我らに味方についてくれる若き先生を職員会議の内容を事前に教えてもらい(ようはスパイ)

対応策を考えてまた交渉

 

結果、創立して間もないので一気に衣装の開放は出来ないが

今年はTシャツ(オリジナルもOK)までOKとなり、これがきちんと守られれば

来年から少しずつ開放していくとの回答で妥結いたしました。

メンバーにも事の次第を説明し、これからの為にということで納得してもらいました。

 

次が場所の問題、体育館は広くて、ステージもあり便利なのですが

音が響きすぎ、演奏者と聞き手が遠いなど、ライブっぽくないのがいやで

 

体育館の下の格技場(剣道場と柔道場の合わさった広さ200畳ほど所)がベストだと確信

音響テストもバッチリ!!  しかしここは神聖な武道場、一筋縄では貸してはくれません。

ここでも交渉に交渉を重ねて、なんとか体育用シートを敷いてその上にダンボールを引きつめる更にその上に体育館シートを敷くということで妥結

しかし、200畳もの広さのダンボールを集めてきて前日に準備だけできれいに引き詰めるのはこんなの考え! ジクソーパズル形式にして番号を書いて保管して前日に順番に並べるという方で何とか乗り切ることにしました。

 

なので夏休は格技場が空いた日は必ず全員集合、ダンボール回収班と組み立て班で汗だくになって会場つくりの準備をしました。

 

そして持つとも重要なのが音響システムです。

これまではそれぞれの楽器のアンプで鳴らしていたのでバランスはめちゃくちゃ

そこで予算のほとんどをそこにつぎ込み、PAスピーカー2基と36chミキサーを5万円で借りてきました。 ここまで来るとさすがの先生も色々と協力をしてくださって、先生の車で小田原まで

機材を取りにに行きました。

 

ステージつくりと共に機材配置図、配線図、結線図などを毎日授業中に書いていました。

他部署の実行委員も協力してくれて、ステージに使う机を確保してもらいましたね(机の上もダンボールを敷きました)

 

なんとか、前々日まできて明日の準備とリハーサル、当日音だし、ここまできました~w

 

前日の準備は大変でした、午後のリハーサルまでに会場を作らなければいけません。

たくさんの人が手伝ってくれました。

 

前日のリハーサルも終わり、夜は音の微調整

さあ、明日は本番だ!!

 

 

当日、早朝からメンバーが集まり、プログラム通りリハーサルを行いました。

後は開場まで小休止。    あとは本番を待つばかり

 

そこで事件はおきました・・・・

リハーサルまでちゃんと交渉したオリジナルTシャツが特攻服に変わっていたのです。

メイクも髪型色、やりたい放題、 私は唖然としました。

あの長い交渉はなんだったのかと・・・

 

しかし、ライヴが始まっています、今はそれだけに集中してがんばりました。

 

ライヴは見事に成功でしたが私の心には引っかかるものがありました。

 

メンバーの裏切り、直前まで普通にしていて本番で・・・・

それが悲しかったんです、真夏のダンボール敷き、長い交渉から引き出したもの

音響設備の強化・・・・・

来年にはもっと自由な服装で出来るように、後輩に渡しかったのに・・・・!!!!

 

後夜祭で楽しく踊る仲間を尻目に私は体育館の2階から校庭を見つめていました。

自分の不甲斐なさに、くやしくてくやしくて・・・・

 

 

すると、後ろから私を呼ぶ声がしました。

振り向くと、生徒会長と違反をしたメンバー達でした。

メンバーたちは正座をしていました、殴られたような後もありました。

 

私は黙っていました。 何もいえなかったのが正直なところです。

 

生徒会長がこういいました「こいつ(私)がここまでするのにどれだけ大変だったか解るか!」

すでに生徒会長にかなり絞られたらしく、全員が「すみませんでした」と私に言いました。

 

それを全部効き終えると私は言いました。

「過ぎたことは仕方がない、でも君たちは俺を裏切った」

「ここで我慢をすれば君たちは来年の文化祭でもっと自由な服が着れたんだ」

「だから、責任を取ってもらう、それは君たちが来年の実行委員になり、今年出来なかった事を実現させて、次の学年に必ず引き継ぐこと、約束だぞ!」 そう言ってまた校庭の方を向きました。

 

1年後、OBとして見たステージは(格技場は使わせてもらえませんでしたが)

ちゃんと約束を守っていました。

 

これで良かったんだと何回も心の中でいいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

17歳の思い出

私に母の実家は千葉県の木更津市で私が子供の頃はアクアライン総武快速線もない時代でしたから茅ヶ崎から木更津までは東海道本線で東京、山手線で秋葉原、総武線で千葉、内房線で木更津という長旅でした。 それ以外には横浜港、川崎浮島港から木更津港のフェリーがありましたね~♪(随分前にフェリーはなくなってしまいました)

子供の頃から時刻表を見ることが好きな子供でしたので別のルートで木更津まで行きたいと

中学時代から考えていました、しかし祖父が一人でこさせる事を心配してなかなか出来ませんでした。

高校生になり遂にそれを実行することにしました。それは8月の暑い時期でした。

 

まず茅ヶ崎から大船、横須賀線久里浜へそこからバスで久里浜港東京湾フェリーで対岸の房総半島、金谷港へそこから歩いて内房線の浜金谷から木更津というルートです。

し・か・し、ここには秘密のオプションが隠してあったのです。

 

それは浜金谷から木更津に向かうのではなく逆方向の館山方面に向かったのです。

内房線が君津より南が単線である事を知っていたので時刻表上で電車がすれ違い駅を特定して少し南房総を電車の車窓から楽しもうと考えたのです。

 

駅ですれ違う時に乗り換えればただで車窓を楽しめて木更津にも簡単に帰れると思ったのです。 しかし思わぬ誤算が発生しました。

 

それは単線のしくみでした、茅ヶ崎でよく利用する相模線は単線でよく駅ですれ違い待ちをしていました。ホームの両サイドに車両が止まったら乗り換えれば簡単に行ったり来たり(これ違法ですので絶対にまねをしないでください)

 

ところが内房線は線路の両端にホームがあり橋を渡って行き来をするのです。

そこまでは知りませんでしたWWW 

しかも木更津行きの電車はすでにホームに停車中でこちらの電車がホームに停車すると

すぐに行ってしまいました・・・・

 

次の電車は2時間半後、お金を払い駅舎から出てもなにもない・・・

海がすぐ近くなので行って見ましたが泳ぐ人はいいのですがそうでない人にとっては灼熱地獄

 

8月の平日の午後、暑い・・・駅舎に戻って木の冷たい板に横になっていると

駅員さんがスイカと麦茶を持ってきてくれました。(うれしかったな~)

その駅員さんに正直に今日の計画を話すとニコニコしながら「それは大変だったよね」

それから駅員さんは私の乗る電車が来るまで仕事をしながら色々な話しを聞かせてくれました。

海のこと町のこと電車のこと、長いと思われた時間はすぐに過ぎて、木更津行きの電車に乗って目的地に向かいました。  いまでも楽しい思い出でした。

 

携帯電話なんてない時代でしたから実家では大騒ぎになっていたみたいでしたけど・・・

見知らぬ土地で見知らぬ人と話しをしたとてもよい経験が出来たと思います。

 

 

 

 

13歳の大冒険

中学生になり、やることが更にに大胆になって大人たちを冷や冷やさせました。

 

とある夏休みの午後、最寄の駅前に集合した、悪がき6名

この日はとても暑く、みんなで海に行くことになりました。

まあ普通は地元の海水浴場に行くのですが

誰かの(私かも・・・)提案で江ノ島に行って島を一周しようと言うことになりました。

 

自転車ではじめはゆっくり、途中から競争になり、最後はレース状態

先頭と最後が40分くらいの差になったように覚えています。

途中でコーラの2Lペットボトルを一気に飲み干したことも良く覚えています。

 

その時にこんな事を考えていました。

はじめが190ml瓶のコーラが350mlのコーラが発売されて、500ml、1L、そして2L、

次には必ずやドラム缶サイズが登場すると確信していました・・・(余談)

 

全員が江ノ島の入り口近くの公園に自転車を止めて、イザ江ノ島一周に挑戦

時計回りに先ずは防波堤に向かうそこから平らな磯に降りて江ノ島の南の磯へ到着

 

しかしそこには岩をきり裂いたような大きな割れ目があり下には真っ白くあわ立った海水が

渦を巻いている。(普通の子供なら渡りません)

 

それを水が引いた瞬間に向こう側に石に飛びつき、水が上がってくるまでに岩を登る!!

(なんかあったら夜のニュースに登場しそう・・・)

 

1番最初に一番成功率の高いやつ

次に3、5、4番目、一番最後が2番目に成功率の高いやつ

つまり両岸に2名ずつ配置した状態で一番苦手なやつに飛ばさせる

一応中学生なりに考えてやったんですね~

 

それでもとうとう水に入らなければ渡れられないところがありまして

ここでは天然の弦を使って一番泳ぎの上手いやつが命綱を付けて対岸まで行き

弦を橋渡しにしてそれに丸い輪を通し、一部を体に結び、命綱として渡りました。

最後の人はぐるぐるに体に巻きつけた弦を対岸から引っ張りあげて、何とか渡りました。

 

いまでは考えられないようなことですけどねっ

 

その後、江ノ島西側を岩をよじ登ったり浅いところは海水を通り、クタクタの状態で出発地の公園に到着。 そこから海岸線の夕日がきれいだったことは覚えていますが同時になかなか茅ヶ崎に近づかない事を感じたこともよく覚えています。

 

地元の駅で無言の状態(みんな疲れ果てている)で解散して自宅に帰ったのが7時半くらい

何とか風呂に入ったのですがここまで

寝巻きを着てそのままダウン! 翌日の10時までの長い睡眠に入ったのでした。

 

 

 

 

 

 

 

9歳の大冒険

私の家には車はありませんでした。 なので自転車で市内周辺をよく父が連れて行ってくれました。特に市の中心から離れた山の方へよく行きました。

 

当時そこには周囲30mくらいのきれいな水の池があって春になるとおたまじゃくしがたくさんいた事を思い出します。

 

食用になる植物も沢山あり、父と母と3人で出かけると必ず、何かを摘んでいました。

ツクシにノビル、ウド、ヨモギ、セリ、特にヨモギで作った餅はさいこうにおいしかったっけ

野いちごもあったりするところでした。

今は我が母校のグラウンドの下になっています・・・

 

9歳の頃、近所の子供ら(自分も子供)に野いちごを食べさせたくて

とある日曜の午後、下は5歳から上は私9歳で全員で6名でその場所に向かいました。

途中、小川で水遊びをしたり、ススキの穂の迷路でかくれんぼをしたり

楽しかったですね~♪

道はよく知っていましたので難なく到着、野いちごをみんなほうばって食べていて

そのみんなの笑顔は今でも忘れません。

帰りも遊びながら帰って、5時ごろ(春の)だったので明るい時間に帰ってきて

楽しい思い出になるはずだったのですが・・・

 

親たちは子供が集団で誘拐されたと大騒ぎ

結局、最年長の私が唆した罪により、母と各家庭を周り謝意しました。

 

一時はシュンとしましたが同行した子供が「また行きたいね」って言ってくれて

また行こうと、まったく懲りない子供でした。

 

 

 

5歳の大冒険

私の両親は共働きで母は刺繍の内職の腕が認められ、茅ヶ崎の支部(とても小さいが)で

刺繍内職の下準備や仕上がりにチェック、修正をしていました。

ほかに数名の女性の方が働いていましたがみんな母より年上でお子さんも大きく

私は母に連れられ、よくそ職場についていきました。

みなさんにもかわいがられて絵を描いたり、庭で遊んだりして過ごしていました。

私は電車(当時は気動車)で何回も同じ路線を通っていたのと

自転車で父によく市内を走っていたせいもあって、とうとう家と職場までの道を

頭の中でつなげてしまいました。

 

私はある日、家でおばあちゃんと留守番の日にこっそと家を抜け出し、補助輪のまだ取れていない自転車で自宅を後にしました。

 

線路沿いを行けるところまで行って途中、行き止まりのところを回避して交通量の多い県道を走り、国道を越え、大踏切をわたり、意気揚々と職場のみんなを驚かそうと玄関を入ったら・・・

唖然とした顔をされ、「どうやってきたの?」、

シャツ一枚にサンダルの格好なので電車で来たとは思えないとおもったらしく

私は元気よく「自転車で来たんんだよ」

しばし沈黙、母からビンタ一発、その後どえらく怒られたのを覚えています

(自分が親になってみれば至極当然だと思いましたが)

 

本当は自分は褒めてもらえると思っていたのですが・・・

その日は電車で帰りましたが、その自転車はいつしか自分の家に戻っていました。

未だに真相はわかっていません(もう忘れたらしい)。

 

そんな当時5歳の大冒険でした。

私が生まれてはじめに記憶していること

3歳の頃、ここ湘南では30センチを越える大雪が降りました。

雪が珍しく、行きまみれの私、母と祖母が何度も家の中に入れるのですが

すぐにすり抜けて、外へ出て行ってしまいます。

当時そんなに防水性のよい服はなかったので、すぐに服はベチャベチャ

とうとう、大人用のシャツまで投入されたっけ・・・

 

いまでも実家に帰れば、達磨のように服を着せられた写真があると思います。

頬が真っ赤な小さな男の子、雪にうずまっておおはしゃぎ・・・

 これが記憶している一番小さいときの出来事です。

 

あれから数十年、我が家の息子たちは何を覚えていてくれるかな?