初夢?
昨日から今日にかけて、妙な夢を見ました。何度か転職を繰り返してきましたが、今まで勤めた職場に行き、楽しそうに仕事をしているかつての仲間たちを眺めている、という夢です。
ずっと中小企業ばかり勤めてきましたので、今でいうブラック企業でしたが、給料が安い、とか、勤務時間が非常に長い、とか、土日休みのはずが日曜日しか休めない、とかを除くと、確かに楽しい職場たちではありました。
もしかしたら、心のどこかに「全力でやりきれなかった」という後悔があるのかもしれません。
「究極まで悩み抜かれて解決されたものの他はすべて再び廻って来るのだ、くり返しくり返し同じ悩みに悩まされるのだ。」(ヘッセ著『シッダルタ』より)
今年は、今の職場で全力を尽くすとともに、新しいことにも挑戦していきます。まあ、すでに始めてはいますが、本音を言えば、いつまでも使われる側ではいたくありませんからね。
大晦日だよ!
いよいよ大晦日です。今年も多くの方から、刺激やらなんやら頂き、心より感謝申し上げます。
今日は私の最後の大仕事、風呂掃除をしました。
来年は、いろいろと新しいことに挑戦します。準備は少しずつ進めてきましたので、あとは実行に移すだけです。
今はNHKの紅白なんちゃらを見ながら、「どいつもこいつも知らねえな。一発屋どもめ!」と罵りながら、天童よしみや森進一を見てはホッとしています。
では皆様、よいお年を。
建築現場の槌音
上の二つの記事を読んで、『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』という本を読み直しましたところ、このような個所がありました。交通事故で入院したお婆さんと若き医師の会話です。
ある日のこと、ベッドのうえで包帯だらけになっているお婆さんに尋ねました。
「痛むでしょう」
「はい」と、お婆さんは笑って答えます。
「ズキン、ズキンと痛みます」
「ずいぶん苦しいでしょうねえ」
そう言いますと、お婆さんは目を細めて、
「いいえ、苦しくはないですよ」と言われるのです。不思議なことをおっしゃるものだ。痛みが苦しくない筈はないじゃないか。
すると、お婆さんは言われました。
「ズキン、ズキンとするのは痛いけれど、私にはそれが、建築現場の槌音のように感じるのです。ズキン、ズキンとくるたびに、私の壊れた体が健康な体へと生まれかえさせて頂いている。そう思うと、勿体なくて、手を合わせているのです。ですから、少しも苦しいとは思わないのです」
まるで悟りを開いているかのようなお婆さんです。「過去の私の悪い行いが……」ではなく、「今、まさに生まれ変わっている」の方が、宗教的で、神秘的で、それでいて人間的な気がします。
飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ―若き医師が死の直前まで綴った愛の手記 (祥伝社黄金文庫)
- 作者: 井村和清
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【私的メモ】『対話』と『会話』
※あくまでも私的メモですので、特に説明や文献の明示はしておりません。
『対話』(dialogue)は、ギリシャ語のdialogos 「dea(横切って)‐Iogue(話す)」という言葉を語源にしており、「二つのロゴス」が互いに主張を戦わせながら、それらが弁証法的に統一されて「合意・一致」という目標へと到達するための手続きである。
『会話』(conversation)はラテン語のcon(共に)、 vertere(向き合う、変える)という言葉を語源にしており、言語的実践を通じての「共生」や「交わり」を意味している。
対話が「目的志向的」に合意・一致を目指す活動であるのに対し、会話は、会話の継続それ自体を目的とする活動であり、むしろ異質な他者との出会いを求め、その異質性を異質性のままに共に生きること(共生=conviviality)を目指す。
「自由」と「平等」に関する覚え書き
最近、現代思想というものをきちんと勉強してみようと思い、マルクスについて勉強しているところです。
そこで、ふと思ったのですが、「自由」と「平等」は両立しないのでしょうか?
恐らく、宗教にしろ哲学にしろ、この「自由」と「平等」を実現するためにあるのではないかと勝手に思っているわけですが。
資本主義において、「自由」を実現しようとして「不平等」が発生したわけですが、これを見たマルクスは共産主義を唱えます(違ったらすみません)。共産主義は、「平等」を実現するために「自由」を制限しないといけない、となったようです。
つまり、どちらかを実現しようとするとどちらかに不具合が生じる、という感じで、なんだか両立させるのは難しいのかなあ、と思ってしまいます。
まだ勉強し始めたばかりですので、これから違う風景が見えてくるかもしれませんが、現時点での感想をメモしておきたいと思います。