社会人ってことよ。
20190510
事故多いね。
特に年配の人。
うちの父親もそうやけど、自己顕示欲が強い。
バリバリ攻めの姿勢で生きてきた人ほど、車を運転することに固執してる気がする。
まぁ中には生活的に車がないと生活できない地域もあるけど、
それならそれで運転のスキルを上げる努力しないとな。
大体ジジイもババァも自分は大丈夫とか思ってるやつ多すぎ。
大体飛び出してくるのは年寄りか女。
車ね。
自転車とか男が多いけど。
社会人として、未熟な奴が多すぎなんやろね。
最近よく考えます。
社会人、とは何ぞや??
成人したら社会人みたいな風潮にあるけど、それだけでは社会人じゃないよね。
社会に対して貢献していること、
言うてしまえば、
今乗っかっている社会システムに乗っかっていることが社会人なんだと思う。
自分で、
所属している国のルールに則って義務を果たし、権利を行使すること、
働いて国のシステムを回す一助になること。
その辺かな。
そういや、どこぞの小学生YouTuberが不登校推進で何かアホみたいな炎上してるらしいけど、
子供はそのシステムとルールを理解するためにそれこそ学校で、家で、何ならその地域でいろんなことを経験して学んでいくんやけど、
その機会を自分から捨てると言うこと、ましてや親がそれを率先して後押しすることに対して、頭悪いな、と言う感情しかないね。
人間1人では死ぬことも出来ん時代だと言うのにね。
社会って結局共同と言うことでしかないから、そのルールを守りたくないのであればそこから出てくしかないんやけど、
今あらゆる国から逃れるためには海の上くらいしかないんよね。
それもそこへ行くためには他人のルールに則った形で他人の手が入った道具が必要で、それでも他人の世話になったことがないと言うんだろうね。
頭悪いね。
良かれと思うな聞け。
最近よくする話。
「良かれと思って、は良くない」
よくある話で、
良かれと思って…という理屈で色々言うたりやったりする人。
「良かれと思って」おじさんね。
良かれと思っとるくらいならちゃんと聞け、っていつも思う。
なんか知らんけど、
サプライズ命の人おるんよね。
そんなんいらんからちゃんと聞けや、といつも思う。
サプライズということではないけど、
自分は出来る症候群もそうよね。
仕事なんかでも新人とかちょっと仕事に慣れてきたくらいの人に多い。
何よりもまず確認や。
本当にそれが必要なのか。
喜べるかどうか。
サプライズ上手の人ってその情報収集欠かさないのよね。
積み重ねがきちんとあるのよね。
よく引き出し増やせ、と言う話をするけど、それは提案をするためのものであって、サプライズのためのものではない。
ここを間違える人が多いのよね。
やることきちんとやってあるからサプライズが活きるんやけど、
そこを素人はすっ飛ばそうとする。
それ。
そこがサプライズ仕掛けて失敗する人のロジックよね。
サプライズよりもコミュニケーションとれよ。
ニートと社会人。
社会人というのは結局何だ。
自分だけではなくて、社会としての単位で物事を考えられることが社会人ということか。
社会全体ではなくて、自分に直接的な不利益がなければどうでもいい、と思う人も多いからねぇ。
でも今の日本の社会システムの中では個人の不利益ってそうないもん。
比較して初めてこっちが得、というのはあるかもしれんけど。
どんだけ勉強出来ようがどんだけIQ高かろうが、社会を俯瞰で見れないヤツは社会人として未熟やし、そもそも頭悪いよね。
研究者としてはいいんやろうけど。
ちょっと前に何かで高学歴ニートの話してた。
個人としてどうこうは思わないけど興味ないから。
気になったのは、言い分が自分を正当化したいだけにしか聞こえない。
高学歴の割に頭悪い。
歴史をもっと勉強したほうがいい。
社会システムが何故システムとして成立しているのか。
法というものが何故あって今尚何故人の上にあるのか。
話逸れたか。
社会人だ。
ニートはそもそもオレの基準では社会人ではない。
何やったら国民としての義務を果たしてなさそうだから、もう国民でもないよね。
っていう立ち位置でいいと思うんだが。
社会全体が甘やかしてるからつけあがるんやで、ニートは全員島流しにして戸籍抹消してニートだけで生活させたらいい。
自分たちで日本の社会システムが使えないところで思う存分好きにすればいい。
そこまでできて初めてニートの言葉が届くようになるんじゃないかな。
ボンクラに寛容でなくてもいい。
どんどん取りこぼしていっていい。
じゃなきゃ競争は生まれない。
競争がないと社会の発展が生まれにくい。
満足したらそこで終わりやからな。
日本のグレー文化について。
日本人て違う話をごっちゃにして考える国民性がある。
何でやろ?と思ってたけど、
これ実は元々の日本人の気質によるものやな。
ワビサビとかも含めて、
日本は古来より「物事をわざとはっきりさせない」という文化を持つ。
グレーな文化。
昔の日本人は曖昧にしておくことで、
お互い遠慮し合う、相手を立てる、という文化が同時にあったので美徳として存在出来た部分がある。
現代においてはこのグレーをわざと作るという文化が悪い方に転じてる気がする。
グレーにして答えを避けようとする。
ハッキリした線引きをしないから結果何についてのことなのか自体が曖昧になる。
そして、
よく似た言葉、よく似たニュアンスが勘違いされたまま同時に使われる。
そもそも線引き自体されてないから誰も疑問に思わずに違うことが同じことのように認識されだす。
ある一定数が勘違いを正解と認識すると社会にとってはそれが正解になる。
不正解が正解になると誰も正解がわからなくなる。
普通はここで不具合が生じるはずなので修正される方向に動くのだが、
そもそもが曖昧にしたい文化なのでその辺も曖昧になったまま進んでいく。
加えて、
どういうわけか現代の日本人は、会話でもテキストでも、
行間というものを全く読めない人が多い。
ワビサビの文化って本来この「行間を読む」ということで補完されて成立されてたと思うんだよね。
疑問に思う、というプロセスを経験しないからそもそも疑問に思うことがない。
そんな悪循環の只中にいるねぇ。
日本人のくせ。
好きなことをする、ということとお金を稼ぐ、ということ。
そもそもベクトルが違うもの同士なので基本的に同列で話をすること自体ナンセンスと思ってるけど、
世の中そうじゃないのね。
好きなことをすると言う言葉もちょっとした罠で、好きなことをする=好きなようにする、ということではないけど大体これが、「=」になってる人が多い。
確かに好きなことがお金になることもあるけど、それは単純に結果論で、
大体好きでやってることで、好きにやってることはお金に結びつきにくい。
何故かと言うと、
好きにやる、と言うのは自分の感覚に合うことをする、と同じ意味なので、
例えば好きに作ったものを売るとなると、売れるのは同じような感覚を持ってる人だけです。
いいと思う感覚が似てるから買ってくれるから。
で、
そもそも似た感覚の人、同じものを見て同じように感じる人の方が世の中圧倒的に少ない。
逆から考えてみても、
お金を稼ぐというのはお金を出す人に喜ばれる、ということに他ならない。
と言うことは、
自分じゃなくて他人が喜ぶものでなくては売れない、お金にならないと言うことだ。
割と逆向きのベクトルなんよねこれ。
たまに好きなことして金稼げる人もいるけど、それこそたまたまの結果論だと。
好きなことで金稼ぐ人はいても好きにやって金稼げる人は圧倒的に少ない。
色んなことをゴチャゴチャにして考えるから勘違いが起こる。
勘違いで突っ走るから思い通りにいかないと憤る。
暇な人多いやな。
そんな時間の使い方ようせんわ。
勿体ない。
パソコン仕事。
ここんとこずっとパソコンとにらめっこの日が続く。
考えることもやらなあかんことも指示出したらなあかんことも山のように増え続ける。
無限増殖苦手やったんやけどなぁ。
しかし思うのは、
つくづく団体行動というかチームで動くの苦手やな。
出来たらソロで動きたい。
いや、
正確に言えば、完全な意思統一ができているチームで動きたい。
一人では出来る量に限界があるからな。
かと言って、
他人は、オレが完璧オッケー出せるような代物はまず作れない。
逆に言えばそれがチームのいいところで、オレとは違う価値観で同じものを見れる存在がいることで物の精度は上がると思うので、悪い存在ではない。
むしろ考え方によってはプラスの作用のが大きいのではないか。
ただそういうように考える人もいれぼ、考えない人もいるから難しいのよね。
まぁ、
大体そんなこと考えながらパソコンの前にいたりしますよ。
毎日。
そこに愛はあるのかい?
さて令和です。
平成お疲れ様でした。
令和よろしくお願いします。
愛について語りたいと思います。
恋愛ではなくて愛ね。
叱ると怒るの違いは何処にあるのだろうか、と言う話なんですが、
簡単に言えば自分に向いてるか対象者に向いているかなのかなと思ってます。
怒るは自分の感情に起因する、
叱るは対象者の成長を願う心に起因する、と言ったところではないでしょうか。
だからみんな怒るな叱れ、と言うんですが、如何せんその中身についてまで言うてくれる人がまぁまずいない。
説明できないのは理解がまだ自分の中に落ちてないからだろうね。
で、
子育てどうこうと言う話ではなくて愛国心という話。
例えば今も令和に改元されて概ねお祝いムードですが水を差す人は必ず一定数います。
中国や韓国や他の国でもそうですが、日本悪い論の人います。
沢山います。
さて、
その言葉の先にあるものは何?ですよ。
日本は言論の自由や信教の自由がある国。
雑破に考えると、
思想の自由が許されてる国でもある。
それが他人の自由の侵害や基本的人権と言われるようなものに触れた時に問題にはなりますが、
思想として持つ分には特に問題はない。
現代は個人拡散の時代で、考えてることプライベート何でも個人が発信できる時代なので、
このブログもそうですがとにかく垂れ流す。
垂れ流す。
ではその先は何処に向かってるのか。
発信をみんながするからインパクトが欲しくてみんなと違うことを言いたがる。
それは別にいい。
薄っぺらいものはすぐに消えていくから淘汰されることも大事。
言いたいことは1つで、
そこに愛はあるのかい??
ということ。
日本をこき下ろす、
そこに愛はあるのかい?
愛国心はあるのかい??
昔『狂気の桜』という映画のセリフでこんなのがあった。
ーわたし、日本という国は好き。
ーでも今の日本人は嫌い。
右とか左とかいう薄っぺらいことではなくて、自分は自分がいる場所は自分が心地よくいられる場所にしたいと考えてる。
否定もするし肯定もするし、
応援もするし自分で動いたりもする。
今いる場所に愛がないのであれば、
愛が持てないのであれば出ていけばいい。
国に所属してるということは義務もあるけど権利もある。
恩恵も当然ある。
その恩恵なんかには目を向けずに好き勝手言うからただの消費者でしかない。
消費者は同時に消費される側でもあるんやけど、そこは見ようとしない。
言葉にロジックを持たない奴が嫌いなのはそういところだ。
だからこそ、
他人の否定は愛を持ってするべし。
感情を理屈で説明しろ。