心理師 juneberry’s blog

読みたい本が見つかる

派生的に思い出したこと

ダイアログ・イン・ザ・ダーク投稿から
もやっとした思いが残った。

もっと、書きたいことがあるけれど
私の中でまだ言語化されなかった、大きなこと。

100%の暗闇に
視覚障害者のアテンダントの方と私たちグループが
白杖を持って、一緒にコースを巡る。
視覚情報のない世界を体験すると
「怖い」と言う思いばかり。

アトラクションだとわかっていても、すごく怖い。
とにかく、恐怖心が先に立ち
足がすくんでしまう。

今までの経験の中で、たとえるとすれば
スキー初心者が、上級者に連れられて
少しずつ斜面を滑るような感覚。

100%の暗闇には
植物があったり、川があるのか橋があったり
公園のような場所もあったような気がした。

視覚情報のない暗闇を、アテンドの方は
当たり前に、スイスイと歩いていく。

時折、私たちの不安を察知し「大丈夫ですよ」と
言葉を掛けながら進んでいく。

とても心強くて
とにかく「すごい!!」と感じた。

最終地点に着き、少しずつ闇が薄くなってくる中
グループを先導して心強いリーダーは
入り口で見た視覚障害者のアテンドへと変わった。

私の中での、認識が変わったというのが正解だ。
夢から覚めた感覚。

事実は何も変わっていないのに…

アトラクションの中での、グループをリードする人と
視覚障害者というデータが、私の頭で一致せず
違和感となっていた。

ダイアログ・イン・ザ・ダークでの1時間半で
視覚障害者の方たちは、100%の暗闇でも何の問題もなく仕事ができる
という、ごく当たり前のことに気づく。

そして、私たちが生活している世界は
健常者を中心として、カスタマイズされている。

ただそれだけ、ということにも気づく。

この体験で、普段経験することのない私の感覚が刺激され
短時間でいろんな考えが脳内で交錯し、すごく戸惑った。

でも、すぐに日常生活に戻り
健常者仕様でない世界についての記憶は
すっかり、心の奥に片付けられてしまっていた。

善意からの気持ち

大学生の息子が、外出先でタバコを吸っている。
今どき「タバコ?」と言う感じ。
私たちの若かった頃には、普通だったが
今は、時代が違う。
周りの環境も変化している。

親としては、健康のためにも吸ってほしくない。
だから、いろいろと説得を試みる。

息子の選択を見ながら、親は良かれとアドバイスをする。
小さい頃なら、服や靴、カバンの良し悪しから
進路が絡んでくると、どこの評判がいいとか…
それは、私の価値観。

しかし
息子たちのやりたいことは、親の選択肢にはなく
親が心配している「いつか困る時が来る」と言うことも
当の本人には、まったく実感はない。
今、困っていないから。

これは、親子間にだけでもなく

たとえば
結婚当初から、私が夫に言っている歯磨きの甘さだとか
朝ごはんを食べた方がいい、と言い続けていることも
夫にも響かない。
本人は、今、何も困っていないから。

人は困り感をもった時に、はじめて
何か改善しようと思ったり、周りに助けを求めたりする。

だから、そうでない時には
温かくイライラしながら見守るのが一番だと
私自身も、経験から感じてはいる。

ちなみに、50代の夫は
ここ数年、歯茎の調子が良好ではなく
定期的な歯科医院を、余儀なくされ
今では、時間をかけた丁寧な歯磨きを
食べたら即、実行している。笑

それぞれの価値観や、育った環境が違うことを考えると
相手には、情報として提供するくらいがちょうどいい…
…とは思っている。
もどかしい気持ちいっぱいだけど
家族のような、近い存在であっても
その多様性を認めることが、大切なんだ。

日々、もやもやしながら
私はまだまだ。

自分との違いを受け止める修行中。

見えていること

 

5,6年前、東京で
ダイアログ・イン・ザ・ダーク」に参加した。

ダイアログ・イン・ザ・ダークとは
完全に光を遮断した”純度100%の暗闇”の中
視覚障害者の案内で
視覚以外の様々な感覚やコミュニケーションを楽しむ
ソーシャル・エンターテイメントのこと。

100%の暗闇で
生まれてはじめて、視覚のない世界を体験すると
分からない…という不安だけしかない。
楽しむなんて、とんでもない。
少し移動するにも、何かにつまづきそうで本当に怖い。

ちなみに、家庭での夜の暗さは何となく物陰が見えたり
どこかの光が入っていたりで、100%の暗闇ではない。
100%の暗闇とは、真の暗闇である。

ダイアログ・イン・ザ・ダークでは
見ず知らずの5.6人がグループになり
担当アテンドが着く。
アトラクションの中の様々な場所へ移動し、楽しむ。
もちろん、すべて100%の暗闇で。

茶店では、こぼしてしまわないよう恐る恐る飲み
はじめて出会った人たちなのに
いろいろな話ができた。

グループのメンバーは、見た目には
若くて、今風のおしゃれな女子の2人など
とにかくみんな若かった。
きっと、私は「おばさん1人」と認識されただろう。
そんなメンバーとアテンドの方とで
暗闇でお茶を飲みながら、あれやこれやを話した。

声だけで、若さも見えないので
「こんなこと若い子に言ったらどう思われるだろう…」など
余計なことを考えずに
思ったことをストレートに話せて
若い子のバイトの話で盛り上がった。

最終地点に向かうと
終わりは呆気なく、暗闇はなくなった。

多くの視覚情報の中で生活している私たちは
すーっと正しく元の世界へ戻る。
視覚情報の溢れる世界。

それと同じくして
さっきまで確かにあった、心通ったような感覚は
ふっと消えた。

暗闇で、盛り上がったメンバーだけど
明るくなった今、若い化粧をしたおしゃれ女子に話しかける勇気
おばさんの私には、ない。
同じである、と言う土台がなくなった感覚。

見えることが障壁。

私たちは、見えるモノで着飾り
見えるモノで、ごまかしてもいる。

きっと、自分がもっていないモノを
見えるモノで補っている。

しがらみのない中で、着飾らず話せたこと。
そのあと、心に残ったもやもや感。
全部、たった1時間半の出来事。

見えていることは、私たちの鎧なのだろうか。

私のローカル・ルール

子どもたちの歌声を聞くと勝手に、涙が出てしまう。

これが私のお約束。

わが子の発表会ではもちろんだが
たまたま聞いた、知らない誰かの歌声でも
NHK全国学校音楽コンクール、通称Nコンのテレビ放送でも
ちゃんと涙が流れる。

感動するのとは少しちがう……と思っている。

悲しい訳でもない。
心にグッとくると言うか、涙が出る。
出てしまう。

周りから見ていると
すごく感動してる人みたいで
恥ずかしい…こともある。

音楽系の習いごとが多かった子どもの頃。 
合唱団では楽しくて
確かに、成果が出なかった時もあったけど
子どもの頃の私は、すごく頑張っていて
でも、それ以上のモノではなかったハズ。

子どもの頃、一心に歌を歌っていた頃
体の中で起こっていたことが
リンクしているんだろう…とは想像している。

私自身が、思い出すことのできない子どもの頃の思い。
それでも、私の体は記憶してくれている。

言いたいことを言えなかった子どもの頃。
何でも話せる人がいなかった子どもの頃。

子どもたちの歌をトリガーに
あの頃流せなかった涙を流してくれている。

これが、私のローカル・ルール。

面倒なことがプラスに思える

脳と運動との関係を学ぶようになって

少しずつですが、意識するようになって
ちょこちょこ動くことに対して
すごく、プラスに考えるようになりました。

これまでは、なるべく動かなくて済むように
ひとまとめにして、動くようにしていましたが

都度都度、動くということをするようになると
平日、日中の運動量が増えました。

はじめは、面倒くさいという思いもありましたが
だんだんと、動くことをプラスに
慣れてきました。

そして、面倒な手続き等も
回を重ねるごとに、億劫でなくなってきました。

そういう、面倒だと思う時にこそ
今まで繋がっていなかった
細胞が繋がってきているようなイメージを
勝手にもっているので、頑張れます。

そして
自分が動くようになると
夫が動かないことが
やけに、目についてしまいます・・・。

体重管理ギアチェンジの時期

昨日、知人と集まりがあり
たまたま、持ち寄ったお菓子が

和菓子屋のスイートポテト的なものや
大学芋、洋菓子店のサツマイモにチョコを絡めたお菓子etc.

他に、サツマイモ以外のものもあったけれど

高い率でのサツマイモかぶりでした。

もしかしたら、みんな
スイーツに対する小さな罪悪感を
サツマイモの繊維や、健康的なイメージに
解消してもらおうとしたのかな…なんて
勝手に考えて、ニヤッとしてました。

話は変わりますが
50歳を過ぎて、体重は変わらないけれど
痩せたように見える、気がしていました。

肉のつくところが変わってきた
ということは、40代くらいでもあったのですが
最近は、小さくなってきた・・・?

というような話を先日、義妹にしたら

「お姉さん、それ本当に縮んでるんですよ
私の周りでも、⚪︎歳の〇〇さんは、⚪︎センチ縮んだって言ってましたし
そうそう、△△さん(私の実妹)も
去年より、背が低くなってるって言ってましたよ」と

早口で、一気に言われ、あっけに取られました。

ちなみに
義妹は12歳年下(40歳)実妹は6歳年下で(46歳)です。

いつもながら、義妹の情報量とそのネットワークに驚き
さらに、6歳年下の実妹の背が
もうすでに、低くなってきていることが
一番の衝撃でした。
(私の身長は、今のところ低くなっていないです。ホッ^^)

ただ、痩せているわけではないけれど
何となく小さくなったというか
骨格が縮んできているような感覚
(どんな感覚やねん…と自分でも思いますが)があります。

歳とともに体型が変わっていく、と言うことを
今、ひしひしと感じている最中です。
だから、痩せ過ぎないように気をつける生活が
必要になって来るんだな、と思いました。

高齢者のやせによるリスクの一覧です。

転倒の発生:1.3倍
移動能力の悪化:1.5倍
日常生活での自立度の悪化:2.0倍
初回入院:1.3倍
死亡:2.2倍

実は昔々、介護保険の入る前ですが
特別養護老人ホームで働いていた時期がありました。
そこで、看護師さんが言っておられたのは

「高血圧は薬で下げられるけれど、低血圧は上げられないんよ」
20年以上前のことなので、今どうかはわからないですが

ちょっとした風邪が続いて
体力がなくなっていくと、食べられなくなってしまいますし
血圧も下がってしまって、痩せてしまって
もう、どうすることもできなくなる、と言う状況がありました。

そういった時に、少しふっくらしている方は強いと言う意味です。
高齢者の痩せは、本当に危険だと思います。

年齢とともに、食事のコントロールに対する
アチェンジの必要性を、今日は感じました。

誰もが歳とともに変わっていく

気が付けば、いつのころからか
外食メニューを考える時に
胃の負担を考えるようになっていました。
主に、家族での外食などです。

歳をとったな…と思います。

若い頃には、外食は楽しさが一番で
何を食べてるのかは、二の次でした。
あと、安さでしたね。

今は、食べられる量が限られているので
美味しくないと、昔よりももっと
損をした気がしますね。

家族で焼肉を食べに行って
息子たちが、高校生の頃は
すごくよく食べていたので
もとが、取れた感覚がありました。

でも、このあいだ焼肉に行っても
それほど、2人とも食べなくなっていて
もう「肉を食べるぞ!」という焼肉は終わったかな
と感じました。

歳とともに、変わってくるんだな
と感じました。

生涯の量が決まっている…

インスリンの量
生涯での量が決まっているとは
今日、知りました。

特に無駄遣いはしていないですが
以前、運転中の眠気を抑えるためのひとつとして
血糖値を抑えることを考えてました。

それとは別で
白い食べものは太る、だったか
そう言ったことから、食べないようにしていました。

もともと腸が弱いことから
食物繊維をとるためにも、玄米を食べていたので
食生活自体は、血糖値が緩やかに上がるものでした。

玄米に限って言うと
ずっと、玄米を主食にしていると
白米や白い小麦粉のパンを食べた時
少しすると、眠気がくるのがわかります。
外食では、白米だけでなく
いつもよりも、糖質の多いメニューになり
てきめんです。

血糖値とか、ホルモンとか
見えないものですが、そういうモノが
私たちの身体にすごく関わっているな
と感じます。

家で美味しくいただく

そう言えば
料理専門家の方の本は、読んだことないな…と
はじめて考えました。

そして、日頃の家庭料理を「美味しく食べよう!」
という感覚、なかったです。

健康に気を付けて、というところまでは
いろいろと考えていましたが
美味しさを考える、ってこと
私から、抜けてました。

来客がある時には
美味しい料理を、しっかりと作るのに
日常では、普段用のご飯になってます…

しっかりと、と言うのは
材料をきちんと揃えてということです。
材料や調味料がきちんと揃っていると
まず、美味しいです。

恥ずかしながら
普段は、あるモノで適当に
名もない料理を煮たり、焼いたり、炒めたりして
まぁ、こんなもんだろう
という感じで、終わってましたね。
たまたま、美味しい時もあります。

家庭での食事に対しての、私の優先順位の中に
どうして、美味しさが入っていなかったのか
今さらながら、自分でも気になりますが
これからは、空腹を満たす食事ではなく
美味しく食べることに
力を入れてみたいと思います。

今まで「家で美味しくいただく」という感覚が
私に欠けていた、と言うことに
自分でも驚き。

自分一人では、気づかないことがありますね。

反動をつけて1周して

歳とともになのか
意識しているからなのか
自然の味を美味しい、と思えるように
なってきたように思っています。

うちの実家も、添加物を嫌う家だったので
小さい頃から、添加物やインスタント、レトルト食品を
食べずに育ってきました。

でも、小さい頃は
そういったモノを食べたくて仕方がなかったですし
小学校1年生の給食で、はじめてハンバーグが出た時に
(たぶん、マルシンのハンバーグのような
冷凍食品だったと思います)

「こんなの食べたことない…美味しい」と
添加物が入っただろう、冷凍のハンバーグを食べて感じたことを
すごく、よく覚えています。

今思えば、贅沢なことですが
添加物の入っていない、家庭での手作りのものを
食べていたので(当時は食べさせられていた感覚ですが)
そういう、食べたらダメなモノの味に
憧れていたと言うか、羨ましかったと言うか
すごく新鮮でした。

そのせいもあってか、私は、逆に反発心ももって
若い頃には、ジャンクフードを好んで食べていた時期もありました。

これと同様に育ったのが、長男です。
今は、本当にジャンクなモノばかり好んで食べています。

でも、私もそうだったように
自分で、その価値を感じて思考が変わらないと
行動は変わらないだろう…と思っているので

情報としては、いろいろと伝えていますが
本人が気づくのは、いつのことかな…と
もどかしい気持ちで、気長に待っています。

You are what you eat.

私も、今では
食生活に、気を付けるようになってきましたが
若い頃には、まったく気を付けていませんでした。
どちらかと言うと
食べなくてもいい…という感じでした。

結婚して今、住んでいるところは
近くに、山や田んぼがあります。

うちは住宅街ですが、少し歩いたところには
雑草を食べてくれる、と言うことで
何頭かのヤギを飼っているお家がありました。
よく、子どもと散歩に行ってました。

お家のおばさんが、話してくれたことは
ヤギは、白菜などの外の葉っぱはあまり食べない、と。

農薬が、あまりかかっていない
内側の葉っぱを、より分けて食べている
と話してくれました。

害虫駆除のための農薬なので
もちろん、虫は食べないですが
ヤギも食べないんだ、とすごくビックリしました。
ヤギは、どちらかと言うと
もっと、人間よりだと思っていました。

何でも出されたものを、疑わずに食べるのは
人間くらいなのかな、と。

それからは、恐ろしくなって

まずは、農薬に気を付けるようになり
そこから、いろいろ派生していきました。

その頃は毎朝
息子たちが「卵かけご飯」を食べていたので
卵について、いろいろ調べて
遊びも兼ねて、家族で養鶏場見学にも行きました。

養鶏場の方のお話では
添加物が入った餌を食べている鶏、の卵
を食べていると、アレルギーが出ることが多い、と。

卵アレルギーの方が、その養鶏場の卵を食べても
アレルギーが出なかった…
と言うことで(真実かは、定かではないですが)

卵にも、気を遣うようになり
それからもいろいろあって、今に至っています。

よくよく考えると
食べ物について、気を付けるようになるきっかけは
自分の体調不良や、子どもへの気遣いから
来るものが多いと考えると
今が、一番気を付けていることにも
納得がいきます。

You are what you eat.
「あなたはあなたの食べたものでできている」

この言葉を知ってから
私の中でいろんなことが、すごく落ちました。

だから、食べ物は大事なんだ。
今では、すごくよく
分かっているつもりです。

語りかけるように優しく話す有効性

私も、何か話さないといけない時に
決められたことを、淡々と伝えていると
聞く側も、あまり聞いてくれていない(頭に入っていない)
と思うのですが

ちょっと、話が外れたり
余談、という内容になると
聞いている人の、顔が上がります。
そういう内容が、よく頭に入るんです。

そういう時に
きっと、語りかけているように
話しているんだと思いますね。

あと
その点チャットGPTは、綺麗な文章にしてくれるので
読んでいても、本当に心地がいいです。
優しく、語りかけてくれていますね。

もし、それが間違っていても
その心地よさから、感じられないというのは
よくわかります。
違和感が、感じられないんですよね…

そういうところは、もう抜かれているな
と、強く実感するところです。
チャットGTPくらいに
ストーリーとして、説明する力を持ちたいと思います。

無意識のうちに、言葉の後ろにあるものを探している

思い起こしてみると
人の話を聞いた時に
この人は信じられる、と思う瞬間が
あるような気がします。

何かの言葉が、きっかけにはなっているかと思いますが
その、キーワードとなった言葉で
その方の、経験や人柄(?)がわかったような気になる…

という瞬間だった気がしています。

お話の中では、語られているその言葉を聞きながら
無意識のうちに、その後ろにあるものを
知ろうとしていたんだな、と思いました。

いくつになっても

私は、子どもの頃から
「聞こえませーん。もう一回言ってください。」
と言われていた方でした。

だから、基本的には声が大きくはないです。
そして、できないなりにも
声の大きさには、すごく気をつけています。(それでも、たぶん小さいですが)

マイクなしで、比較的広いところで話すのは
後ろまで聞こえるかなと、声に気をつけながら
話さないとダメで
その分、話に集中できずツラいです。

職場で、離れた後ろの席の若い子に
「私の声聞こえてる?」と聞いたら
「〇〇さんよりは聞こえますが…」と、気を使った回答をしてくれました。

こういう時、体育会系の人の声の大きさは羨ましい
と強く思います。

そして、声の大きさからくる安心感もあります。
それは、私も感じています…

私は、マイクを使うプロでもないですが
話を聞いていて「この人の声全然マイクに声が入っていないな…」
と、思うことがあります。

もともと、私の声が大き方ではないので
せめて、マイクにはしっかり入るようにと
角度は工夫してはいます。
それくらいかな。

声の大きさって
そもそも、一番大切なものなので
いくつになっても、ついてくるものなんだな、と
今でもよく、小学生の頃の教室ことを思い出しています。

 

 

本当に言いたいことって

夫の言葉の使い方と私の言葉の使い方は違うので
すごく困ります。
初めの頃は、気持ちが悪いのでいちいち言いましたが
もう、20数年も変わらないので言いません。

些細なことすぎて、すぐに出てきませんが
「洗濯やっといたし」と言ってくれたとして

(私は洗濯は終わっているんだな…)と思って洗面室に行ったら
まだ、洗っていない洗濯物が残ってっていて
「洗濯終わってないやん!」と言うと
「1回で洗える分だけ終わってるねん」
その後にだいたい「ごめんごめん、言葉って難しいな」と言う・・・。

同じような類のことが
買い物や、ご飯についてもあります。家事ばかりです。

言葉というよりも、出来事の伝え方かな?

夫が、1人でやっていることについて
どう表現していても、なんの問題もないのですが

家事は、2人でやっているので
情報を共有してもらわないと
どうしても、段取りが狂ってしまうので
すごく困ってしまいます。

情報共有のツールとしての言葉をもっと活用してください!
という感じです。

もう一つ、思い出したことがありました。

私がキャリアコンサルタントの勉強をした時に
すごく、心に残ったことは

本人が「言いたいと思っていること」と
「本当に言いたいこと」は、異なるということでした。

どういうことかと言うと

例えば
「〇〇のことについて相談したい」と言って
カウンセリングや相談に来たとしても

よくよく話を聞いていると
本当に聴いてほしい(話したい)ことは
そのことではなく、別のことだったりします。
そのことに、本人も気づいていないことが多いです。

来談目的と主訴は違う、ということを体感しました。
(同じ場合もありますが、少ないように思います。)

相手の話を、表面的に聞いていると
言葉どおり判断してしまいまいがちになります。
だから、そうならないように
本当に、その人が語りたいことを語ってもらうこと
を学びました。

だからと言って
夫の気持ちや背景を推測って…
ということには、つながらないのですが

相手が言いたいことは
語っていることではないかも知れないと思いながら
でも、思い込まず、丁寧に話を聞く
という視点を教わりました。