INSTANT KARMA

We All Shine On

Against Forgetfulness

ここ最近読んだものについて感想を書き留めておく(どんどん物忘れが酷くなって読んだものを片っ端から忘れてしまうので)。

 

* * *

 

東浩紀がやっていた『思想地図β』の2011年春号に掲載されている菊地成孔佐々木敦渋谷慶一郎の座談会「テクノロジーと消費のダンス」を読み返す。

菊地はこの中でポップアナリーゼの必要性とそれが音楽の聴き方にもたらす変革性みたいなことを熱心に主張しているのだが、佐々木と渋谷はどうも懐疑的なスタンスを保っている。東浩紀も途中で口をはさんできて、ポップアナリーゼは80~90年代に構造主義がもたらした袋小路を音楽批評で再生産するだけに終わるのではないかとの見解を表明している。菊地はそれに対して、ポップアナリーゼが孕む構造主義の限界性は認めながらも、「そこの齟齬に、ぼく個人の問題と創造性の根拠があると思っています」と答えている。

この記事から13年経って、ポップミュージックを楽理的(?)に分析するコンテンツがYouTubeに溢れかえっている現状を見る限り、菊地の予言は半分は成就したように思える。(この半分は菊地自身の活動の結果でもあるだろう)。「半分は」というのは、こうした状況が必ずしも「ポップアナリーゼが音楽批評を活性化させる」という事態にはつながっていないと思われるからである。むしろ、特定の音楽コンテンツに対する批評や評論一般が「俺はそれに対して金払ったんだから、その金をもっとプラスにするような言葉をくれ」という欲望に対する邪悪なノイズとみなされるようになり、音楽批評そのものがほとんど不可能になっているという現状があると思う。

 

 

吉永剛志『NAM総括 運動の未来のために』(航思社、2021年)という本を読んだ。

柄谷行人が提唱したポスト資本主義を目指す運動だったが理念先行ですぐに崩壊したという漠然とした印象しかなかったので、運動内部で主体的に関わったメンバーから見た総括として興味深く読んだ。事務局の機能不全、市民通貨「Q」のアイディアの現実化の失敗とQを巡る組織のゴタゴタ、MLでの議論の収拾のつかなさ、フリーライダーと一部のメンバーの過重負担といった、どの組織にも付き物の内幕そのものに新しさはなかったが、単に「古い革袋に新しい酒」というレベルの問題でもなかったことが吉永による補論「『トランスクリティーク』、その実践への転形」の中で、カントの「実践理性」の問題やヘーゲルによるその批判、ラカンジジェクなどの議論を使いながら理論的に検討されていて面白かった。反資本主義運動というものがいかにして可能かという問題は欧米を見てもまったく暗中模索の状態にあると言わざるを得ないと思うが、まがりなりにも注目を集めたNAMが無残な失敗例としてのみ表面的に記憶されたり歴史的忘却の中に埋もれてしまうのは勿体ないだろう。吉永は今も有機農業の会などで彼なりの実践を継続しているようだ。こういう記事もあった。

 

 

東浩紀ゼロアカ道場 伝説の「文学フリマ」決戦 (講談社BOX、2009)

批評家を目指す「ゼロアカ道場」門下生が作った同人誌を収録したという内容だが、テーマに興味が持てないのと字が細かすぎるのとでほとんど読みとおせず。

唯一関心をもって読めたのが、NAMとか鎌田哲哉とのかかわりなどの話が出てくる大澤信亮杉田俊介、三ツ野陽介の鼎談(字が小さいので読むのは辛かったが)。杉田俊介だけは大谷能生との対談を読んだことがあるくらいであとの二人はほとんど知らないが、東浩紀が講評の中で書いている通り「ポスト『重力』の若手の心情がここまで率直に語られたのは、はじめてではないか」という内容で、よかった。

 

 

「ゲンロン10」東浩紀の論考「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」はたいへん啓発的な内容で、途中で何度もページから目を離して黙考しながら読んだ。こういうのが現代批評の名にふさわしい文章だと思った。後期ハイデガーについての言及も少しあって、この文章を読む前にハイデガーを読んでおいてよかったと思った。少なくとも今、こういう時代と対峙した批評と呼ぶに値するものが書ける「時事」と「理論」と「実存」の3つを兼ね備えた魅力的な書き手は東浩紀以外に思い浮かばない(ここ1か月くらいで急激に親しみを感じている)。

 

つづく

美暴録(National Degital Library)

哲学は基本的にはソクラテスのかたちしかないと思うのです。十人か二十人かを相手に向かってしゃべる。そこで、あのひとがしゃべっていることは基本よくわからないけれど、パッと世界が開ける感じがしないでもない、ということになって、だんだんひとが集まってきたりする。記録されてもされなくてもどうでもいい。そしてなにか知識が蓄積していくものでもない。そういう行為はどのような時代にもあって、そのようにふるまうひともいる。そのうちのだれかがすごくすぐれているわけではないけれど、たまたま歴史に残ったひとはいて、哲学の伝統というのは要はそういうものでしかないのではないか。おそらく哲学とはそういうものでしかない。

 

ぼくには公共性がない人間でも社会をうまく回すにはどうしたらよいかという社会思想史的なテーマがあるといえばあって、いちおうそれに関心を持ち続けているのだけど、さらに本質的なところにいくと、ほんとうはそれすらどうでもいいんですよね。というか、ぼくには公共性がそもそもないんだから、そんな問題意識も持てるはずがない。そして哲学もそもそも公共的な役割なんてない。大切なのはよりよく生きることだけです。究極的にはそれに関わるようなことがやりたいなと思っています。

 

ぼくは、有用性がないということ、役に立たないということに戻りたい。それに人間とはそもそもなにかといったら、究極的には全員有用性なんてない。多くの人たちは有用性の中でいきているけれど、それ自体が錯覚なんですよ。

 

東浩紀「デッドレターとしての哲学」2018-12-22 現代思想 2015-2臨時増刊号

本当は批評というジャンルは存在せず、したがって批評史などというものも存在しないんですよ。……危機的な局面において人々の頭を解きほぐす行為としてしか批評は存在し得ないわけですから。

 

危機の言葉としての批評は、あくまでも健康を取り戻すためにあるわけですから、回復してしまえばもう批評は必要とされません。批評家は同じ顧客集団を相手にし続けることはできないし、そもそもそうすべきではない。批評は個別的な治癒のプロセスとしてしか存在しえないからこそ、批評家は孤独だし、批評史は存在しないんです。

 

東浩紀「職業としての批評」2018-10-5 文學界 

 

国会図書館デジタルで読める本つづき

 

カフカ全集1~12』(マックス・ブロート編集、新潮社、1980)

小島信夫全集1~6』(講談社、1971)

野間宏全集1~22』(筑摩書房、1971)

島尾敏雄全集1~16』(晶文社、1982)

キルケゴール全集』(桝田啓三郎 訳、筑摩書房

フロイト/ユング往復書簡集 上・下』(ウィリアム・マグァイア編, 平田武靖訳、誠信書房

ミハイル・バフチン著作集』

『ルー・ザロメ著作集 1~5』(以文社, 1986)

ロシア・アヴァンギャルド芸術 : 1910-1932』(リブロポート、1983)

レニ・リーフェンシュタール : 芸術と政治のはざまに』(グレン・B.インフィールド 著, 喜多迅鷹, 喜多元子 訳)

『Nuba』(レニ・リーフェンシュタール写真, ピーター・ビアード, 虫明亜呂無 文、PARCO出版

『Matisse』(アンリ・マチス [画], ジョン・ヤコブス 解説, 島田紀夫 訳、美術出版社)
ラスプーチン』(コリン・ウィルスン、サンリオSF文庫

『驚異の超能力者たち (超常世界への挑戦シリーズ)』(コリン・ウィルソン著, 木村一郎 訳、学習研究社、1976)

『神秘と怪奇 (超常世界への挑戦シリーズ)』(コリン・ウィルソン著, 安田洋平訳、学習研究社、1977)

『テレパシーと念力 (超常世界への挑戦シリーズ)』(スチュアート・ホルロイド著, 桐谷四郎訳、学習研究社、1977)

『SFと神秘主義 (サンリオ文庫)』(コリン・ウィルスン、大滝啓裕 訳)

『生物学的無線通信 : ソビエト科学者のテレパシー研究』(B.B.カジンスキー著, 西本昭治訳、学習研究社、1964)

『テレパシーの世界 : 人間心理の神秘的現象』(L.ワシリエフ著, 秋田義夫訳、白揚社

『催眠・心霊・タナトロギー : 超心理の探究』(エリ・ワシリエフ 著, 秋田義夫訳、白揚社、1963)

ソ連圏の四次元科学 上・下』(S.オストランダー, L.スクロウダー 著, 照洲みのる訳)

『実験四次元科学 : 超常現象ハンドブック 上・下』(S.オストランダー, L.シュロウダー 共著, 照洲みのる 訳、たま出版、1976)

『霊魂離脱の科学 (生命の正体を探るもう一つの科学シリーズ)』(笠原敏雄編著[訳]、
叢文社、1983)

『サイの戦場 : 超心理学論争全史』(笠原敏雄編、平凡社、1987)

『虫の知らせの科学 Telepathic Impression』(イアン・スティーヴンソン著, 笠原敏雄 訳、叢文社、1981)

『「お葬式」日記』(伊丹十三文芸春秋、1985)

一生かけても読み切れない(けどもっと欲しい)

国立国会図書館デジタルコレクションが4月30日に図書、雑誌等約26万点を新たに図書館向け/個人向けの送信対象資料としたという。

検索してみたら、確かに増えている。

筑摩書房ドストエフスキー全集とか、

新潮社のドストエフスキー全集とか、

静思社のスエデンボルグの本とか、

サンリオSF文庫とか、ソノラマ文庫とか、

渋谷陽一『レコード・ブック』(新興楽譜出版社、1974)、『ロックミュージック進化論』『音楽が終わった後に』、『ロックは語れない』(対談集)、

松村雄策アビーロードからの裏通り』、『岩石生活入門』、

横尾忠則『UFO革命』、

『EV.Café : 超進化論』(村上竜, 坂本竜一)、

『ジャズと爆弾 : 中上健次vs村上龍』 (角川文庫)、

中上健次全短篇小説』(河出書房新社)、

『韓国現代短編小説』(中上健次 編, 安宇植 訳)

吉本隆明全集撰』(大和書房)※2巻と別巻なし

丹波哲郎死者の書』 (広済堂文庫)

『黒人は抵抗する : 戦斗的黒人運動のプログラム』 (マルコムX、黒人思想叢書1)

『武器としてのスキャンダル』(岡留安則、パシフィコ、1982)

『路上の視野 : 1972~1982』(沢木耕太郎

『ブルーズメン : アメリカン・ニグロの200年』(ロバート・ネフ, アンソニー・コナー 著, 三井徹 訳、ブロンズ社、1976)

『夜になると鮭は…』(レイモンド・カーヴァー 著, 村上春樹 訳、1985)

1973年のピンボール (Kodansya English library)』(村上春樹 著, アルフレッド・バーンバウム 訳)

ディスクール』(ジャック・ラカン [著], 佐々木孝次, 市村卓彦 共訳、1985)

「『悪魔の飽食』ノート」(森村誠一著、晩声社、1982)

『日本の暗黒 実録・特別高等警察 第1~5部』(下里正樹, 宮原一雄著,1990)

『障子のある家 再版』(尾形亀之助、1948)

横山やすし』(横山やすし著、1986)

『ギャグ狂殺人事件 : 本格長篇推理<私>小説 改訂版』(ビートたけし、1987)

『さんまのまんま 続 続々』(明石家さんま 編著、1987)

『愛の傾向と対策』(タモリ, 松岡正剛

『写真でつづる将棋昭和史』(毎日コミュニケーションズ、1987)

『蛇のみちは : 団鬼六自伝』(白夜書房、1985)

『アイドルカレンダー : 1986年レコード年鑑 完全保存版』

淀川長治集成』(淀川長治 著, 筈見有弘 編)

『女優石原真理子』(山根貞男 責任編集, 大木茂 [撮影]、1986)

ナスターシャ・キンスキー : 美しき野獣』(渡辺祥子 責任編集、1982)

『地獄系24 : 平岡正明評論集』(解説 吉本隆明

『ペーパー・フィルム』(飯村隆彦 著)

吉本隆明をどうとらえるか』(芳賀書店, 1970)時枝誠記「詞辞論の立場から見た吉本理論」収録

『思い出の革命家たち : 片山潜トロッキースターリン徳田球一など 渡辺春男回想記』

『父・漱石とその周辺』(夏目伸六 著)

『サイエンティスト : 脳科学者の冒険』(ジョン・C.リリー 著, 菅靖彦 訳)

『99万年の叡智 : 近代非理性的運動史を解く』(荒俣宏 著)

『世界神秘学事典』(荒俣宏 編)

『お丶反逆の青春』(今東光

『あたしの中の…』(新井素子、奇想天外社、1978)解説 星新一

ひでおと素子の愛の交換日記』 (新井素子, 吾妻ひでお、角川文庫)

『夢の跡/ザ・ストリート・スライダーズ』(宇都宮美穂, 沼崎敦子 著)

『にっぽん再鎖国論 : ぼくらに英語はわからない』(岩谷宏ロッキング・オン社)

『あの道・この道』(高峰秀子, 瀬木慎一著)

『ルポ・ライター事始』(竹中労

『サイ・パワー : 意識科学の最前線』(チャールズ・T.タート 、工作舎

『疑惑戦線 : 松本清張スーパー・ドキュメントブック』

『超意識の旅』(スタンリー・クリップナー)

深沢七郎選集 第1~3』(大和書房)

『生き難い世に生きる : 深沢七郎対談集』 つげ義春との対談収録

『ぼくだけの東京ドライブ』(田中康夫、中公文庫、1987)※「たまらなく、アーベイン」改題

図書出版美学館の本

ノストラダムス大予言原典 : 諸世紀』(ミカエル・ノストラダムス著, ヘンリー・C.ロバーツ 編纂, 大乗和子 訳、たま出版、1975)

『論駁 : ロッキード裁判批判を斬る』(立花隆朝日新聞社、1975)

『己れに勝つ』(大山康晴PHP研究所、1981)

『サラ・ブックス 特選・刑事コロンボ

『魔女と黒魔術』(ピーター・ヘイニング 著, 森島恒雄 訳、主婦と生活社、1973)

『世界魔法大全』(国書刊行会)アレスター・クロウリー

『神秘学大全 : 魔術師が未来の扉を開く』(ルイ・ポーウェル, ジャック・ベルジュ 著, 伊東守男 編訳、サイマル出版会、1975)

『超過激対談』(野坂昭如

『禁じられた英語 : 性英語表現の研究』(竹村健一

『ひばり自伝 : わたしと影』

『7 years of : 奥菜恵写真集 (Bomb perfect visual scene)』

『Just a girl : 武田久美子写真集』

『陽水 : 写真集』(1975)

『ドヤ街-釜ケ崎 : 写真集』(中島敏、晩声社、1986)

『レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす』(細野晴臣、徳間文庫)

和田芳恵全集』(河出書房新社

川崎長太郎自選全集1~5』(河出書房新社

ニール・ヤング : 錆びるより燃えつきたい』(ジョニー・ローガン著, 水木まり訳)

『明日なき暴走 : ブルース・スプリングスティーン・ストーリー』(デイヴ・マーシュ 著, 小林宏明 訳)

ジョン・レノン詩集』(岩谷宏 訳)

ブライアン・ジョーンズ : 孤独な反逆者の肖像』(マンディ・アフテル著, 玉置悟 訳)

『神/新しい創造物 : ジム・モリソン詩集』(ジム・モリソン 著, 篠原一郎訳)」

ジャニス・ジョプリン : 生きながらブルースに葬られ』(マイラ・フリードマン著, 沢川進訳、早川書房、1976)

ハイデッガー全集 全63巻』(創文社

神学大全 第23冊』(トマス・アクィナス創文社

『カント政治哲学の講義』(ハンナ・アーレント 著, ロナルド・ベイナー 編)

『ぼくの不思議の国ニッポン : このままでは21世紀に日本は沈没する』(デーブ・スペクター著、日新報道、1986)

Le mal n'existe pas

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この動画の1:16:47~ 

完全に同意。

僕なんかルソーとか尊敬してるわけだけど 、ルソーとか本当すごい周りの人に馬鹿にされててさあ・・・


ルソーってめっちゃ実力あるんだよ。本も売れてるし、すごいカリスマなわけ当時のパリで。でもさサロンとかからめちゃめちゃ馬鹿にされてんだよね。人格破綻だとか言われてさ。実際人格も破綻してんだよ。


でもさ書いてるものめっちゃ魅力的なんだよね。でも周りの人すごい馬鹿にしててさ。でも結果どうだった? あの時代で残ったのはルソーなんだよね。破綻してるけどルソーなんだよ 。ああいうのが本物って思うわけ。

 

だから僕はこの本(「訂正可能性の哲学」)で最後ルソーとかドストエフスキーとかって言ってるけど、僕ルソーとかドストエフスキーって本当尊敬してるわけ。


彼らの欠陥というのはすごいあるんですよ。人間的な欠陥だけなくて思想的な欠陥もめちゃめちゃある。


例えばドストエフスキーってめっちゃネトウヨだからね。皆さんの中にネトウヨがいたら、ドストエフスキーネトウヨ文書を読むとすごいアガると思うよ。


ドストエフキーは 今風に言うとめっちゃZだし。あの当時トルコとロシアが戦争してるんだけど、「コンスタンチノープルは今すぐロシアが占領するべし」みたいな文章とか書いて当時のネトウヨ軍団から絶賛されたりしてる 。


ドストエフスキーはすごいヤバい奴なんですよ。彼は小説すごいいいんだけど政治的にはめちゃめちゃヤバいです。


だからドストエフスキーの欠陥みたいなものを言おうと思ったら何とでも言えるんですよ。でもそれも知ってるんだけどでもやっぱいいんだな・・・


すごいんだよね。で、そういう凄さっていうのを持ってる人ってねやっぱ僕すごい尊敬しちゃうね。そういう人間を尊敬しちゃうってのが僕の欠陥なのかもしれないが・・・

 

まあそういうこと考えながら生きてるんですよ 。


ドストエフスキーは本当に素晴らしい思想家だよ。人間というものについて彼は小説家というより僕は思想家だと思ってる 。人間とは何かってことをすごい深く洞察してる。

でも深く洞察してるが故にヤバいところがあるんだよねやっぱね。

 
でも一応言っとくと、そういう政治的なヤバさはともかく地下室の手記っていうのは一回騙されて読んだ方がいいよ。

 

どういうことかって言うと、今のネット社会的に言うと、要は40歳ぐらいになって遺産が入ったんで仕事やらなくなって、自分の家の半地下の自室に籠って「俺マジ世界全体が嫌なんだけど」みたいなことを ウザウザウザなんかブログに書いてる男みたいな話なんで。めっちゃ現代的です。

 

こういう風に言うと、それは言い過ぎだろうと思うかもしれないけど、読めばわかる。


とにかく「ユートピアが来るとしても絶対俺はユートピアに入らない。なぜならばユートピアっていう響きが気に入らない」みたいなわけわかんないこととかを延々と書いてて、しかも途中から「ところで俺はギリギリ限界まで来てるわけだが」みたいな。

 

限界まで来てるわけだからこんなことばっかり書いててもしょうがないから今から20年ぐらい前の今の俺を限界までもたらしているののきっかけは20年前のあの事件で、その事件の話をしようって言って第2部が始まるんだけど、この「20年前のあの事件」ってのがすっげえしょぼい事件なのよ。

 

まあ一言で言うと、20代の頃にいろいろ仲間とつるんでて、ちょっとしたことで見栄はって嘘つくんだよね。でもその嘘ついたことを糊塗しようと思ってどんどん嘘がでっかくなってって結局すごい大喧嘩して決闘だみたいなこと言って。でも決闘する勇気もなくて、夜の街に出るわけよ。でそしてまあ、これは今だとなんか性搾取みたいなことになるけど、売春婦を買うんだよね。で、事を致した後に今度はその女性に向かってめっちゃ説教し始めるわけ。「君は何で売春とかしてんだ、それって良くないんじゃないの」みたいな。で、そういう説教した自分とかも嫌になって全てが嫌になるみたいな、もう何の出口もない話なんですよね。これが第2部。

 

全てがね、もう全てが限界なんですよ。でこの全てが限界っていうのがあの19 世紀の真ん中ぐらいに書かれてるっていうことを21世紀のね、限界に来てる人たちも知るべきだと思うんですよね。つまり要はお前の限界っていうのは昔からあるんだよってことです。国籍を超えて。
 
本当にやばいんですよドストエフスキー先生は。あのヤバさはね、かなりやばい。でそれが世界文学の名作と言われてることもやばい。みんな地下室の手記なんか、すごく偉い・・・ドストエフスキーって髭とかはえてるじゃないですか。なんか「人類とは」みたいなこと考えているすごい深い男が「地下室の手記」みたいな感じですげえいいもの書いたと思ってるでしょ。それが罠で、そうじゃないんですよ。読むとわかるんですけど、あれはTwitter文学なんです。限界まで来てるんです。

それが実はドストエフスキーの転換点なんだけどね。ドストエフスキーがある飛躍をする時の転換点が地下室の手記なんだけど、だから確かにあれ転換点に なってるっていうか、ギリギリまで来ちゃったんだねドストエフスキー・・・

 

いやほんとね、やっぱり文学ってみんな、今の文学ってそういう意味で言うとなんかそういう限界まで来てる文学っていうのがあんまり作られてないのかもしれないね。だから昔の世界文学って言われてるものの中でも、うまく拾っていくとこれ絶対Twitterみたいな奴らって結構いるのよ。

 

まあルソーのそういうエピソードもいっぱいあるんだけど、まあ何回もしゃべってるからしゃべんないけど。とにかく限界、限界なんですよ。人間として限界まで来てる。やっぱね限界がね大事です。限界。

 

僕はこういう人間でね、まあドストエフスキーとかルソーとか好きなことからもわかる通り、限界まで来てる人間なわけですよ。で、限界まで来てるっていうのは格好悪い。そして人からも馬鹿にされます。僕はそのことをよくわかってる。

 

僕だって52歳ですよ。こんな限界感とか出したくないですよ。もっとゆったりと構えてですね、「まあ友の会最近少ないのまあしょうがないんじゃない」とか言っていたいわけ。


でもそうはいかないんだよ。そうはいかないのがなんだかもわからないけど、そうはいかないわけで、そういう僕を面白いと思ったらゲンロンに入ってください。

 

東浩紀の引用はここまでで、こっからは個人的な回想。

 

高校三年生のとき、受験も一段落して、たしか家族(両親)と一緒に行きつけのスーパー(SEIYU)の本屋を覗いたとき、偶然手に取ったのが「地下室の手記」だった。

ドストエフスキーの中では一番薄い本で、読みやすそうだったので買った。

その薄い本から受けたインパクトにより、その後一年間は明けても暮れても寝ても覚めてもドストエフスキイで過ごすことになった。

例えとしては、西村賢太田中英光全集第七巻に出会った時の衝撃に近いものがあったのではないかと思う。

西村賢太の体験(「やまいだれの歌」)を引用させてもらう。

こんなのが純文学であってもいいのか、と思った。そしてこんな純文学がこの世にはあったのかと、その余りにも共感できる内容の面白さに圧倒されていた。それが、わけの分からぬ興奮を激しく誘っていた。

ドストエフスキーを読んでみるか、と思ったのは、高橋源一郎が「新潮文庫の100冊」に寄せていた「唯一にして無二 VSドストエフスキー」 という文章を読んだせいである。

この一点をもって、高橋源一郎には一生感謝している。

EVIL DOES NOT EXIST

濱口竜介監督最新作『悪は存在しない 』見てきた。

都内でも2つのミニシアターで上映されているだけだし、地方でもGWからミニシアターでの上映になるということなので、興味があってもまだ見ていない人が多いだろう。

できれば何の前知識も情報も先入観もなしに見るのが良いと思うので、映画の内容を前もって知りたくない人はこの記事は読まない方がよいと思う。

 

以下は忘れないうちに映画の個人的な印象を備忘録的に残しておくための文章でしかない(このブログ全体が個人的な備忘録のようなものだが)。

 

 

 

映画の冒頭は、アピチャッポンの「世紀の光」という映画の最初のシーンを思い出した。「世紀の光」では揺れる樹々の枝の間に何かカメラに映らないものが映っているような不思議な感覚を覚えたが、「悪は存在しない」の森の樹々の枝のカット(これがかなり延々と続く)は、幾何学模様の美しさや抽象画のような美的な感覚を想起させた。

自然の造形美の人智を超えた繊細さのようなものに圧倒される。それが主人公の森の生活の様子へとスムーズに導かれる。

石橋英子の音楽が実にマッチしている、というか、この映画そのものがもともと石橋英子(「ドライブ・マイ・カー」の音楽を担当)のコンサートのためのフィルムを目的として撮影されたという成り立ちからして、全体的にMVのようなテイストの作品であり、濱口監督の「この映画は、音楽のアルバムを何度も聴くように、何度も見るように作られている」という発言が、見終えた後は特に深く納得できる。

「ドライブ・マイ・カー」や「寝ても覚めても」のようなメジャー資本を投下して制作されたものではなく、「偶然と想像」のような小規模の予算とスタッフで撮られたタイプの作品である。ミニシアターでの上映という公開方法がとても腑に落ちる(濱口監督のミニシアター支援の意味も込められていると思う)。

出演者は「ハッピーアワー」と被っていて、主人公をはじめ素人的な棒読み演技のスタイル。濱口作品では「ハッピーアワー」が一番好きなので、個人的には同じテイストが味わえて楽しめた。住民説明会の場面など、こういうところの緊迫したセリフのやり取りが本当にうまい。出演者が入念な本読みのリハーサルを繰り返した様子が伝わってくる(これは濱口監督の著書などを読んでいる人向けのマニアックな楽しみ方だろう)。

映像が美しい。自然美をバックにしていることが特に画面の美しさを際立たせている。タルコフスキー的なところを感じさせたり(森の中の湖とか)、先ほども書いたアピチャッポンの「非人間的なカメラの視点」などの実験的な要素も随所に見られて(走る車内から道路を映すところとか)、平板でドラマのない場面の描写もまったく飽きさせない。「ドライブ・マイ・カー」で特に感じた見る者の没入感をもたらす技術がますます上がっていると感じた。

 

ラストが衝撃的という話は事前に知っていたので、終わったときはああ、こんな感じなんだ、と思ったが、知らなかったら確かに衝撃的だったと思う。

ラスト場面の解釈については、それまでの場面の中で至るところに貼られていた伏線が一気に回収されたと考えるのが普通だと思う。あのラストがあるから主人公のキャスティング(制作スタッフの大美賀均を抜擢)の必然性が腑に落ちた。

以前、濱口監督の作品を見て、「濱口監督作品に唯一の不満点があるとするなら、ラストの決着のつけ方だと思う。それまでの完璧な完成度からすると、やや投げやりともいえる印象を受けてしまう」と書いたことがある

この点はその後の作品を通して改善されてきているとは思うのだが(偉そうな言い方ですみません)、今回の「衝撃的な」ラストも、厳しい言い方をすれば、見る者に解釈を委ねるという形での一種の誤魔化しのように思えなくもない。

ただこの作品については、先にも書いた通り、「音楽アルバムのような作品」というコンセプトで作られているのだとすれば、物語の最後を赤裸々に作り込み過ぎないというやり方もありなのかなという気がする。

 

ストーリーの詳細な考察(完全ネタバレ版)は(もしできたら)改めてやりたいと思うので、とりあえず個人的な注目ポイントを羅列してみる(軽いネタバレを含みます)

 

「ハッピーアワー」に出ていた俳優のうち、三浦博之菊池葉月はすぐに分かったが(三浦はハッピーアワー出演者が大勢出ていた野原位監督の『三度目の正直』にも出ていた)、渋谷采郁「どこかで見たことあるけど、どこの誰だっけ?」と最後まで迷っていた。家に帰ってから「ハッピーアワー」を見返してようやく、「ああ、柚月か!」と分かったときの嬉しさ。

今回の「悪は存在しない」での柚月は、元介護士で芸能事務所のスタッフに転職し、事務所の補助金狙いのグランピング施設建設(グランピングって言葉初めて聞いた)の説明会の担当者に駆り出されている、という設定。ある意味で柚月の未来の姿とも見れなくもなく、そういう目で見たら、説明会後に地元工作を命じられて再び長野に向かう車内でのもう一人の担当者高橋(小坂竜士)との〝恋バナ”がいっそう微笑ましく思える(あの場面は場内に笑いが起こっていた。「偶然と想像」の第一話でも似たようなシチュエーションがあったが(あっちは女子二人の恋バナ)、濱口監督はこういう会話を実際に店での隣の客たちのトークから拾っているとか)。

 

鳥井雄人という俳優は碑文谷潤教授の「怒らせ方講座」に出てた人かな?映画の間ずっと気になっていた。

 

住民説明会のあった日の夜、主人公が鉛筆で描き込んでいた絵(けっこう巧かった)にはどういう意味があったのだろう。

 

花ちゃんが牛小屋に餌をやりにいった目的の一つは、牛糞の山から出ている煙を撮りたかった、ということでいいのかな。

 

三浦博之演じる蕎麦屋の主人は、支払の180円に拘ったり、客がせっかく褒めてるのに「それって味のことじゃないですよね」と不満を言ったり(うちはラーメンじゃなくて中華そばなんで、みたいな拘り?)、けっこう面倒臭い奴?

 

コンサルと芸能事務所のオンライン会議を見て、リアルに仕事のことを思い出して途中映画から頭が離れてしまった。ああいう妙なリアル感やめてほしい(嘘)。

 

(自然には)悪は存在しない。鹿の行為は悪ではない。悪は人間の中に存在する。

死ぬべきなのは鹿ではなく子供でもなく悪い大人だ。

 

パンフレット買えばよかった。

お家騒動

今話題沸騰中の민희진(ミン・ヒジン)HYBE(旧Big Hit Entertainment、代表パン・シヒョク(房時爀、朝: 방시혁))との紛争のことは、先日のミン・ヒジンの記者会見がニュースになるまで全然知らなかったので、慌ててネットを漁ってみた。

 

ヒジンの名前が日本でも一躍知られるようになったのはNew Jeansの大ヒットによるところが大きいが、SMエンターテイメント時代からアートディレクターとして大きな成功を収め、2013年に発売されたガールズグループf(x) の2ndフルアルバム『Pink Tape』のアートフィルムは、9年が過ぎた現在でもファンの間で語り草になっているとか。

youtu.be

f(x)の他にも少女時代、SHINee、Red Velvet、NCTなど、SMエンタ所属の大多数のアーティストがミンのアートディレクションを通じて世界観を構築してきた。

少女時代の『Gee』のカラージーンズや『Genie』の統一された白い制服スタイル、EXOの『Growl』の学校制服などの衣装のスタイリングを手掛けたのも彼女だという。

 

一方のパン・シヒョクはもともと1990年代にはパク・ジニョンと一緒に活動していて、JYPエンターテインメント設立の際には作曲家、編曲者、プロデューサーとして入所している。2005年、JYPエンターテインメントから独立し、自身の音楽プロダクションBig Hit Entertainmentを設立。それから何と言ってもあの防弾少年団BTS)」の世界的大成功によって一気にK-POP界のトップに君臨した人物として知られる。

 

ミンの過去のインタビュー。

meongmeong.hatenablog.com

meongmeong.hatenablog.com

ミンはルセラフィムのデビューのためにニュージーンズが後回しにされたと言っているが今になって言い出すのはなんか不自然な気がする。それでニュジが売れなかったならともかく、結果的に大成功しているのだから。

色々なことでお互いの不信感が高じてのことだと思うけれど、せっかく第四世代でトップに上りつめている二つのヨジャグルの活動に共に水を差す結果になっているのは残念としか言えない。何よりメンバーがかわいそう。

アイリットはたしかにニュージーンズのコンセプトをかなり取り入れている印象はあるが、このことが直接の原因ではない気がする。アイリットもパクリなどと言われてそんなイメージが付きまとうことになる。

youtu.be

誰も得しないね。どっち側の仕掛けにせよビジネス的には最悪じゃね?

 

さーたんは相変わらず地上の女神の化身ですが・・・

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天然でポンコツで運動したら怪我するからダメってメンバーからも心配されてるサナがこんなカッコよく決めてるのは裏でどんだけ練習してるのか想像するだけでほんと感慨深いね。