ここ最近読んだものについて感想を書き留めておく(どんどん物忘れが酷くなって読んだものを片っ端から忘れてしまうので)。
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東浩紀がやっていた『思想地図β』の2011年春号に掲載されている菊地成孔と佐々木敦と渋谷慶一郎の座談会「テクノロジーと消費のダンス」を読み返す。
菊地はこの中でポップアナリーゼの必要性とそれが音楽の聴き方にもたらす変革性みたいなことを熱心に主張しているのだが、佐々木と渋谷はどうも懐疑的なスタンスを保っている。東浩紀も途中で口をはさんできて、ポップアナリーゼは80~90年代に構造主義がもたらした袋小路を音楽批評で再生産するだけに終わるのではないかとの見解を表明している。菊地はそれに対して、ポップアナリーゼが孕む構造主義の限界性は認めながらも、「そこの齟齬に、ぼく個人の問題と創造性の根拠があると思っています」と答えている。
この記事から13年経って、ポップミュージックを楽理的(?)に分析するコンテンツがYouTubeに溢れかえっている現状を見る限り、菊地の予言は半分は成就したように思える。(この半分は菊地自身の活動の結果でもあるだろう)。「半分は」というのは、こうした状況が必ずしも「ポップアナリーゼが音楽批評を活性化させる」という事態にはつながっていないと思われるからである。むしろ、特定の音楽コンテンツに対する批評や評論一般が「俺はそれに対して金払ったんだから、その金をもっとプラスにするような言葉をくれ」という欲望に対する邪悪なノイズとみなされるようになり、音楽批評そのものがほとんど不可能になっているという現状があると思う。
吉永剛志『NAM総括 運動の未来のために』(航思社、2021年)という本を読んだ。
柄谷行人が提唱したポスト資本主義を目指す運動だったが理念先行ですぐに崩壊したという漠然とした印象しかなかったので、運動内部で主体的に関わったメンバーから見た総括として興味深く読んだ。事務局の機能不全、市民通貨「Q」のアイディアの現実化の失敗とQを巡る組織のゴタゴタ、MLでの議論の収拾のつかなさ、フリーライダーと一部のメンバーの過重負担といった、どの組織にも付き物の内幕そのものに新しさはなかったが、単に「古い革袋に新しい酒」というレベルの問題でもなかったことが吉永による補論「『トランスクリティーク』、その実践への転形」の中で、カントの「実践理性」の問題やヘーゲルによるその批判、ラカンやジジェクなどの議論を使いながら理論的に検討されていて面白かった。反資本主義運動というものがいかにして可能かという問題は欧米を見てもまったく暗中模索の状態にあると言わざるを得ないと思うが、まがりなりにも注目を集めたNAMが無残な失敗例としてのみ表面的に記憶されたり歴史的忘却の中に埋もれてしまうのは勿体ないだろう。吉永は今も有機農業の会などで彼なりの実践を継続しているようだ。こういう記事もあった。
東浩紀のゼロアカ道場 伝説の「文学フリマ」決戦 (講談社BOX、2009)
批評家を目指す「ゼロアカ道場」門下生が作った同人誌を収録したという内容だが、テーマに興味が持てないのと字が細かすぎるのとでほとんど読みとおせず。
唯一関心をもって読めたのが、NAMとか鎌田哲哉とのかかわりなどの話が出てくる大澤信亮、杉田俊介、三ツ野陽介の鼎談(字が小さいので読むのは辛かったが)。杉田俊介だけは大谷能生との対談を読んだことがあるくらいであとの二人はほとんど知らないが、東浩紀が講評の中で書いている通り「ポスト『重力』の若手の心情がここまで率直に語られたのは、はじめてではないか」という内容で、よかった。
「ゲンロン10」の東浩紀の論考「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」はたいへん啓発的な内容で、途中で何度もページから目を離して黙考しながら読んだ。こういうのが現代批評の名にふさわしい文章だと思った。後期ハイデガーについての言及も少しあって、この文章を読む前にハイデガーを読んでおいてよかったと思った。少なくとも今、こういう時代と対峙した批評と呼ぶに値するものが書ける「時事」と「理論」と「実存」の3つを兼ね備えた魅力的な書き手は東浩紀以外に思い浮かばない(ここ1か月くらいで急激に親しみを感じている)。
つづく