ふふふのふ

思考の整理のために書いています。雑記。

大掃除で出てきた日記1

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「茶色い弁当」

わたしは遠足の嫌いな小学生だった。特に弁当の時間だ。

わたしの弁当は、開けるといつも茶色いおかずが敷き詰められていた。

唯一、ほかの色は玉子焼きの黄色。黄色のほかは全て茶色。当時、弁当を見せ合うことが流行したが、わたしは決して見せなかった。わたし以外、みんなカラフルな弁当だった。とてもうらやましかったことを覚えている。

わたしの両親は共働きだったため、ごはんの用意は全て祖母がしていた。弁当も祖母が作っていた。祖母の料理は大好きだ。ただ、弁当になると話は別。味に文句はない。問題は、見た目なのだ。一度、不覚にも弁当を見られたことがある。その日から、わたしのあだ名は、茶色ちゃんになってしまった。

わたしは祖母に、「違う弁当にして」と言った。作ってくれているのだから、さすがに「茶色いおかずは嫌」とは言えなかった。

遠足の日、わたしは楽しみだった。今日の弁当はさぞかし色とりどりなのだろうと。祖母も、「今日は面白い弁当ぞな」と言って渡してくれた。開けてびっくり。茶色だった。しかし、いつもの茶色いおかずではない。弁当に入っていたのは、蕎麦だった。手打ち蕎麦。一本取られた気がした。もう笑うしかなかった。

数年後、母が弁当を作るようになった。母の弁当はカラフルだ。本来、この弁当に喜ぶはずだが、なぜか開けたとき、茶色じゃないとがっかりする。

「写ルンです」は良い

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旅に出るとき必ず持って行くのが「写ルンです」だ。撮りたい!と思ったとき、シャッターをすぐきれるところが良い。瞬間を切り取れるのが「写ルンです」。現像しないと、何が撮れているのか分からないところも良い。わくわく感。あと、何よりコンパクト!今年は鞄に忍ばせて、いろんな景色を切り取っていこうと思う。

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おけいはんに乗って

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京都へ向かう電車の一番うしろの車両で、母にはLINEを、父にはメールを書いていた。先週の出来事を伝える。「さっき母さんから聞いたんだけど…」という。10分前に母親に伝えた内容を引用する父親の文面。二人とも同じ場所にいて、それぞれに違う文章を書いているのに、結局それぞれの内容が二人ともに伝わっているのがおかしい。連休はちゃんと休みがあるよ、なんて話をしていた。ぼんやりしていると京都に入っていた。と、次の瞬間、ふわっと初夏の匂いがして顔を上げた。まだ春なんだけど、春の終わりの独特のあの匂い。緑と花がまじっているようなあの香り。このとき、なぜかわからないけど、この香りを誰かと共有したいと思った。友だちに伝えようとしたけれど、気持ちよさそうに寝ている彼女は最後の駅まで起きなかった。

 

鴨川を散歩しながら、おしゃべりしたり、ふらっと入ったオシャレなカフェでまったりしたり、時間があまったからといって映画を見たり。計画も立てず、予定も詰め込まず、気の向くままにふらふらした。気の合う人というか、空気感とテンポが合う人といると、居心地がよい。一緒に仕事してたときは、こんなに仲良くなるなんて思わなかったけれど…。友だちと過ごすゆっくりとした日曜日がうれしい、と、思った今日は月曜日です。

余白をつくること

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「今まで120%の力でやっていたんであれば、それを100%にして、あとの20%で周りの人のことを考えてあげれば良いと思うよ。サボることをおすすめしてるのじゃなくて。やるべきことはしっかりやりきった上で、周囲のことも見渡せる心の余裕というか、あそびの部分を持てるようになるといいね。」と、今日退社した先輩にいわれた。どきっとした。なんだか、今週は疲れてしまうことが多かったなと思った、そんな、木曜日。あ、まだ、今週終わってなかったわ。

 

 

 

瞬間に名前をつけてみる

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 本棚の整理をしていたとき、「カキフライが無いなら来なかった」という本が出てきた。わたしは、人に薦められた本はとりあえず買ってしまう。買うのと読むスピードが比例していないから、積まれている本が多いけれど…。

ぱらぱらとページをめくってみる。自由律俳句の本で、おもしろくてすぐに読んでしまった。俳句というと、四季の情景や温度や感覚を思い浮かばせるような言葉を使って、みずみずしく詠うものを思い浮かべるが、これは普段の何気ない瞬間を切り取ったものだった。読んでいて一番驚いたのは、なんでもないことに名前をつけてもいいんだ! ということである。「灯油のメロディ」というフレーズだけで、冬の澄んだ空気や、彩度が低めの情景が頭に思い浮かぶ。この本には、現代の都会の四季が詰まっているようだった。

 

読んでいてなんだか自由律俳句を作りたくなってきた。とりあえず、自転車を漕いでるときに思った「『春の終わり頃の風は夏の匂いがするね』と言う相手がいない」というのを自由帳にメモした。この本を読んでから、駅前にある古い焼き鳥屋の看板のフォントが丸文字だったとか、地下鉄から地上に上がるときの階段に入りこむ光がまぶしすぎるとか、かなりどうでもいいことが気になるようになった。こんな瞬間を言葉にしていいなんて知らなかった。


なぜこの本をおすすめされたのかはわからない。Amazonでさえ、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」と、おすすめする理由を教えてくれる。けれど、なぜ薦めたのかを聞くのは野暮なので聞かない。その前に、この本は誰に薦めてもらったのか思い出せないなあ、と、思った土曜日の夜。そうだ、明日、鴨ランしに行こう。

レモン、ありますね。

 

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この前、久しぶりにサークルの先輩たちと飲みに行った。居酒屋でレモンの乗ったからあげが出てきたとき、友だちがちらっとこちらを見るなり「レモン、ありますね。」と言った。カルテットだ!と思って、すかさず「レモン、ありますよ。」と言おうとしたが、何にも知らない先輩が、ニコニコしながらレモンをむしりとり、ダーッっとからあげに絞った。やっぱり、お酒の席は楽しい。わたしは全く飲めないけれど、みんなが楽しくおしゃべりしているのを眺めるのが好きなのだ。

お互い会わなかった時間を埋めるかのように、ひたすらしゃべった。近況報告をしているとき「泣きながらご飯食べたことがある人は、生きていけます。」と、友だちがぼっそっと言うもんだから、ぶわっと涙がでた。それまで、ドラマの中の出来事だった、泣きながらご飯を食べるシーンが、一瞬で自分事になった。

 

泣きながらご飯を食べたことは、感情、味覚、嗅覚で、覚えている。涙と鼻水で、少ししょっぱい。鼻が詰まっていて、正解の味と全然違う味のご飯。辛くて、悲しくて、でも人としての欲求があるので、食べる。絶望して、打ちひしがれているのに、必要なエネルギーのために、食べる。泣き止んだときの自分のため、明日会社に行く自分のため、1週間後笑う自分のため。

しゃべっているうちに、涙があふれて、声が上ずる。でも、酸っぱいからあげを口元に運ぶのを止められない。涙をぽろぽろこぼしているのに、泣いてるなんて無いことにして、氷がとけて薄くなったカルピスをすするのを止められない。「食べるか、泣くかどっちかにしろ」と爆笑してくれた先輩たちに救われた。なんであのとき号泣したのか忘れてしまったけれど、あの夜からいろんなことが吹っ切れたなあ、と、思う火曜日の夜なのでした。みぞみぞしてきた。

続・春の空と乙女心

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喫茶店の帰り、久々にママのお店へ行った。ベロンベロンに酔っぱらった彼女は、あの人と出会ったことや、3年も続いたことは奇跡なの!と泣きながらくだを巻いていた。
「諦めよし。その人はもう次の出会いを求めて進んでるから。振ったほうってそういうもんでしょ。男ってね、振って次の日に合コン行って、新しい娘にロックオンするの。そういう生き物だから、しょうがないの!あんた、3年続いたのは奇跡じゃなくて、意思!お互いの意思!」ママは元男性なので、どちらの気持ちも分かるらしい。今回ばかりは、ママの意見に賛成だ。これは彼女に内緒だけれど、あの人にはもう次の彼女がいるらしいと、風のうわさで聞いた。恐るべし、友人連絡網。

 

ママの説教を聞いて、ふと、「恋は奇跡。愛は意思。」というコピーを思い出した。なんというか「恋」とはそういうことで、「愛」とはそういうことなんだろうな、と思う。人はいろんな場所に、モノに、恋をして生きている。様々な場面で、奇跡を感じる瞬間なんてたくさんあって、でも今になって考えると、その奇跡の中で覚えているものや、今でも大切にしているものなんてほんの一握りしかない。

その一握りが何なのかと考えてみると、意思を突き動かしてくれたものではないかと思う。人生には、奇跡に加えて意思が何よりも必要かもしれないと思うのだ。これは何にでも当てはめることができる。奇跡を手に入れたら、そこから自分の意思にどう変えていくかが大切。というより、その奇跡が本当に自分の意思を動かしてくれるものなのかを確認することが大事なのではないかな、と。

 

わたしは、奇跡というものは、そこらに転がっている、石を投げたら確実に当たるぐらいのものだと思っている。奇跡のように気が合う人に出会えることや、奇跡のようにいろんな良いことが起きること、逆に奇跡のようにこれでもか、と悪いタイミングが重なることなど、奇跡は誰のまわりにも、そこらへんに散らばっている。
この世には、わくわくする奇跡がいっぱいある、と、思いたい。だけど、人生は奇跡の量じゃなくて、意思の量で豊かさが変わるんじゃないかな、と、考えた月曜日の夜なのでした。彼女、ちゃんと仕事行けたかなあ。