5階建ての集合住宅を見ると郷愁を覚える。
(写真はイメージです)
3階建てや4階建てではダメ。
6階建て以上でもダメ。
高層マンションなんてもってのほか。(というか怖くて住めないわそんなん)
5階建ての集合住宅がすごく好きだ。
これはたぶん、僕の生まれ育った場所が5階建ての公営団地だったことと強く結びついているのだと思う。
僕の家族は僕が生まれてすぐに団地に引っ越した。
5階建ての集合住宅が58棟建っている、超マンモス団地だった。
広すぎて、見たことのない番号の棟がたくさんあった。ただ、近くの案内図を眺めて、いちばん大きな番号の棟が58号棟だということを知識として知ってはいた。
僕の住んでいたのは30号棟だったので、周りも29棟とか31棟とかで、一桁台とか50番台とかはどこにあるのかさえよくわからなかった。たぶん世界の果てにあるのだと感じていた。
その団地に隣接して西の端にヤマザキパンの店、北西の端にショッピングセンターと花屋さん、北の端にバス停、南の端に小学校が立っており、小学生の頃はこの3つのランドマークが僕の活動限界だった。
主だった友達もみんな同じ団地の近くの棟に住んでいて、僕の世界は団地の中でほぼ閉じていた。
花屋の息子は小学校の同級生だった。先日通りかかったらまだ同じ花屋があったので、もしかしたら跡を継いだのかもしれない。
遠足の前の日には、ヤマザキパンは駄菓子を買い求める団地の子供たちでごった返した。大した数がおいてあるわけでもないのに、皆何を買えばよいのか迷いながら狭い店内をウロウロしていたものだった。
バス停は外の世界への関所だった。たまに都会の親戚の家に遊びに行くことがあって、そこが僕の生家だったのだけど、バスと電車とバスを乗り継いでほぼ半日かかるその家は、自分の中では完全に外国だった。なにしろ生まれてから数ヶ月も住んでいなかったというのだから、憶えていなくて当然というものだ。
その集合住宅にはエレベーターなんて気の利いたものはついていない。
なにしろ50年以上前に作られたので、たとえ5階でも階段でエッチラオッチラ登らないと辿り着けない。また昔の作りで階段の一段一段が高めなので、子供にとって5階まで上がるのは一仕事だった。
僕の家は2階にあったので、普段は階段を1階層分しか上がらない。たまに遊びで5階まで上がると息が上がったものだった。
5階まで階段を上がると天井に数段の梯子段がついていて、その上に屋上へ通じる扉がついていた。梯子段はとても高いところにあり、子供にはどうやっても手が届かない高さだった。
一度だけ、学校の理科の授業の宿題をこなすため、夜中に天体観測で何回か屋上に上がったことがあった。友達の家に皆で集まって、友達数人と一人の親が一緒に上がって、数時間ごとに月や星の位置を確認して部屋に戻って絵を描いた。
団地の屋上には塀も何もなく、雨が落ちないように10cmほどの縁があってその向こうには危険な空白があった。空白に身を乗り出すとそこから5階下の地面まで遮るものは何もなかった。今思えばよくあんなところに登らせてもらえたものだ。
余談になるが、50年経った今では団地の3階から上は空室が目立つようになっている。交通の便はお世辞にも良くないところなので新しく若い人が入ってくることも少なく(ゼロではない)、老人にとっては毎日高層階まで階段を登り降りするのは大変な苦労だろうと思う。何しろ一段一段がやたら高くて急なのだ。
団地は丘の斜面を削って作られていた。斜面をざっくりといくつかの広い断面に切り崩して、それぞれの断面に数棟から10数棟の集合住宅を建ててある。
プライバシーにも配慮したのだろうか、今では考えられないくらい棟同士の間が広く、面を向き合って建つ棟の間には必ずアカシアや椿などの木を植えた空き地や、砂場と遊具を置いた公園が設えてあった。
公園は主に小さな子供たちの遊び場、空き地はもう少し大きな、小学校高学年くらいの子供達が鬼ごっこや探偵や野球の真似ごとをやって遊ぶスペースだった。空き地の四方にある木の根っこや水道栓の小さな鉄の蓋などがベース代わりだった。ファウルボールは近くの棟のベランダに飛び込んでしまい、そうなると試合は一時中断して、ファウルボールを打ち込んだ打者がその家のチャイムを押して謝ってボールを返してもらう。運悪くチャイムに応答がないと強制的にゲームセット。
もっと広いスペースが欲しくなると、校門が閉まった後の校庭にフェンスを乗り越えて入り込み、走り回ったり遊具で遊んだりしていた。残業で残っていた先生がいると注意されたりもしたが、それで追い出されたりした記憶はない。みんな暗くなると腹が減って自発的に家に帰ったし、校庭がやたらに広かったので場所の取り合いになることもなかった。なんとなく「先客がいると後から入り込んで邪魔しない」という暗黙のルールもあったように思う。
正月には校庭で凧揚げをやった。当時は設計の仕事を在宅でやっていた父が図面を引いて、竹ひごを組んで和紙を貼り、筆で絵を描いて凧を作ってくれた。市販のゲイラカイトよりもよく飛んで、とうとう凧糸を引きちぎってどこかへ飛んでいってしまったように記憶している。
その団地には大学2年になるまで親と同居して住んでいた。その頃には近所の、かつての友達とも生活を一緒にすることはなくなり、消息にも疎くなっていたし、新しい世界に移りたくて仕方がなかったのだと、今にして思う。
両親は、母が亡くなる直前まで住んでいた。終の住処というやつだ。僕らの親の世代には、死ぬまで住むという固執というか決意、あるいは愛着のようなものが根強くあるらしい。母が亡くなると認知症の父は兄の暮らす家の近くの特別養護老人ホームに移り、団地の部屋は兄が整理して引き払った。
今では誰か他の人が住んでいて、もはや僕の家はそこにはない。
その家のことを思い出すたびに、影を引きちぎられたような、心許ない気持ちになる。
その家で暮らした記憶だけが僕の頭の中にあり、生きている実態は影として未だにあの団地を彷徨っているのではないかと感じる。
だから僕は、5階建ての集合住宅を見ると自分の影がそこにいるかのような郷愁に囚われる、抜け殻となって今を生きているのだ。