うつろぐ

みぐるしいぶろぐです

睡眠について

 

理想的な睡眠

 

  • 7時間〜
  • 日中の疲れを回復し、翌朝スッキリと起床できる
  • 休日も同じ時間で睡眠・起床することで、健康的な生活習慣ができる

 

気をつけること

 

子どもは親を選べない

両親にはまともな親になってほしかった。

 

新聞やテレビニュースで扱われる容疑者や自殺した人を「どうしようもないヤツ!」「頭のおかしい奴が捕まってよかった!」「手に職がないとこうなる!」「公務員が一番だ」「高卒(中卒)はこれだから…」とバカにして笑うことが気持ち悪い。

 

テレビに出てくる同性愛者やニューハーフを見て「なんでこうなっちゃったんだろうね」と憐れむように、まるで彼らが何か失敗したかのように、自分はそうならなくて良かったとでも言いたげに口にするのが気持ち悪い。

 

日本語を話す外国人のイントネーションや言葉の間違いにいちいち反応し「何言ってんだコイツ!」「何しに日本来たんだ!」とバカにするのが気持ち悪い。

 

政治家の不祥事や芸能人のゴシップに反応して「コイツはダメだ」「クソ野郎!」と盛り上がって楽しんでいることが気持ち悪い。

 

自分たちより良い大学を出て収入が良いに就き立派な地位を持った人を手放しに褒め、尊敬し、彼らの話を全て鵜呑みすることも気持ちが悪い。

 

両親は壊れている。大学を出て公務員になって家庭を持って子をもうけ金のかかる趣味を持って一軒家を建てたこと、それを彼らは幼い私によく自慢した。

 

こんな両親が嫌いで、私は少しでも離れたくて10歳の頃から何度も衝動的に家を飛び出した。保護した警察は「親御さんの仕事への影響を考えろ」と私を叱り、迎えに来た両親に頭を下げさせられた。

 

こんなにも気持ち悪くて嫌いなのに他人に伝えても反抗期としか思われなくて悔しかった。

 

ずっと後になって判明するが、私は発達障害だった。両親は私をよく馬鹿にして私の言動がおかしいと叱った。お前はおかしい、と何度も叱られた。お前が悪い、お前の性格がおかしいと何度も叫ばれた。両親の機嫌が悪いときは叩いたり殴ったりされた。

 

祖母は、あなたの大事な母親なのだから我慢しなさい、と言った。

父方の祖母は会うたびに、○○くん(父)はとてもかわいい子だったのだと嬉しそうに語った。

 

両親の言う通り私はおかしかった。

中学にあがった頃はうまく生きれてた。けれど上位1%の成績は保てなかった。休みのない運動部で吐くようになった。はじめてできた彼氏は女子の人気者だった。女子の友情は流動的で、目まぐるしく変わる相関図、その流れに付いていけなかった。常に明るく面白く持ち物は流行に敏感でないと、隙を付かれて陰口の的になる。両親は毎日、どこの高校に行くには偏差値が、内申が、塾が、職場の人の子どもは、、

 

私はだめな人間だった。耐えることができなかった。

雪が降った寒い朝、通学路のよその家の垣根に積もった雪を素手で落としたら刺さるように冷たくて、悲しくなって涙が出て、寒いのに体が熱くなって、その熱で足をUターンして誰も居ない家に帰った。

その日から学校に行けなくなった。

 

それからはもう居ない者として扱われた。私の服がゴミ箱に入れられていて、風呂場で泣いて洗った。大切にしていた本がなくなった。ご飯は私の分だけないのが普通で彼らはテレビを見て笑って、相変わらず汚いヤジを飛ばす。

 妹は私が居る時に限って「お姉ちゃんみたいにはならないよ!」とリビングで何度も両親に告げて彼らを安心させた。

 

電車を使って2時間、祖母の家に行って何日かぶりのご飯を食べて小遣いを貰って帰る。

祖母は何も言わなかった。

 

15歳のとき両親に中卒なんかいらない縁を切って家を出ろと迫られ怖くなって自殺未遂をした。話を聞いてくれた病院の人が、高校に入って家に居させて貰うことしかあなたの生きる道はないと言った。勉強も何もしてなかった私は、親と祖母から金を借りて通信制高校に入った。

 

この頃、祖母から貰ったお年玉を持ってはじめて心療内科に行った。私はおかしいから治してくれと泣いて医者に頼んだ。

毎日4種類の精神安定剤とカフェイン、整腸剤を35kgの体に入れることを続けたら自分が普通になれると信じた。

 

形だけの高校生になるとバイトができた。友達ができた。泊まらせてくれる男ができた。

けれど生きづらさは私から離れることがなかった。自分の居場所が分からなかった。中学の制服を着てセ○クスして金を稼いで、自分が何をしているのか分からなかった。食事をしないことが癖になっていつの間にか体が食べ物を受け付けなくなった、痩せた体に精神安定剤を入れても涙は止まらないし、悲しみが消えることはなかった。

何度も自殺未遂をして救急車で運ばれるたび、引き取りに来た父は「俺らを巻き込むな」と病室で言った。

 

何かのきっかけで大学教授の男と縁を持った。彼は勉強を教えてくれた。彼が教えてくれた大学生活に憧れて、バイトも男も夜遊びも通院も辞めて、髪を黒く戻してネイルをとって中学の制服を着て図書館に通った。

勉強を始めた私を、家族は大笑いして馬鹿にした。

奇跡的に両親より偏差値の高い有名大学に合格した朝、家族に伝えると「どうせお前には続かない!無駄なことはやめろ」と叱られた。

 

私は昔から両親の言う通りにおかしい人間だから、両親の言うことは現実になった。

 

大学でできた友達との話が合わなかった。親に愛されて育ってきた同年代がこんなに清純でキラキラして自信を持っていることに驚いた。

将来有望な素敵な人たちばかりで自分なんかが友達になることが心苦しかった。

だめな生き方をしてきた自分を知られるのが怖くて中学や高校の話になると嘘をついて合わせた。

 

はじめはうまくやれたけど、あの頃のフラッシュバックが起こるようになった。

意味もなく、あー、うー、と声に出すことが出てきた。帰り道の駅で無意識に線路に落ちて近くの人に助けられた。

受験期に心療内科の通院を中断してから一年以上が経っていた。精神安定剤がなくても生きていけると思ったのは間違いだった。

綺麗で頭の良い同級生たちに対する劣等感と、自分を偽る罪悪感に耐えることができなくなった。

 

大学に足が向かなくなって精神科にかかった。そこであっさり発達障害と診断された。他にもたくさんの病名を告げられたけど受け入れられなくて覚えていない。

 

両親に発達障害と診断されたことを告げたが、何にでも病名は付くもので、お前は甘えだと言われた。そしてお前が大学に通えなくなることは私たちは分かっていたと、宝くじが当たったかのように嬉しそうに言った。

 

ほんとうはこんなだめな娘でも認めて欲しかった。

 

20歳になった。思い返せば後悔ばかりの人生だった。

両親と分かり合うことはできなかったけど、だめな私を捨てずに殺さずにここまで育ててくれたことに感謝している。それが彼らなりの愛だったと思う。

 

書くことはむずかしい

昔から国語が一番得意なのに、書くことが苦手だ。

読書感想文には嫌な思い出しかないし、高校の自由研究の原稿づくりも時間を掛けてなんとか完成させた。

テストは記述問題が嫌いだし、手紙を書くには何度も下書きをしなければならない。

ブログの文章も思いつかないし、Twitterの返事も遅い。

 

言葉が思いつかない。

理想形がある筈なのに、それを形づくるための言葉が分からない。

自分自身の脳で発生する思いつきは、映像や感覚みたいなもので、それを言葉に変換するのが苦手なのだと思う。

 

もっと上手く文字を紡げるようになりたい。

自分で自分自身の為の文字を残すことで、何かが良くなるような気がしている。

日記が苦手

もうすぐ年齢の節目を迎えることもあり、過去に思いを馳せることが多くなった。

しかし日記を付けてこなかったので、1年ほどすっぽりと記憶がない期間があったりする。

自分についての記録を自分ですることに、ナルシズムを感じ嫌悪することもあってなかなか実行しようと思えない。

しかし、何かを残しておかないと後で後悔してしまう、という漠然とした不安が襲う日もある。

少しずつ、自分について書くことに慣れていきたい。

古本のクリーニング

古本は目に見えなくとも臭いや手垢汚れが気になるので、気休めのクリーニングしてから本棚に入れる。

 

古本のニオイ取り

  1. 本のサイズより少し大きめに切った新聞紙を2〜3ページに1枚ずつ挟む。(紙が厚めの画集なんかは1ペーシごとに挟む)
  2. 風通しの良い部屋に3日以上放置。(窓を閉めてる夜でも扇風機をかけて空気を動かす)

 

古本の表紙メンテナンス

  • ボウルやバケツなどの容器
  • ハンドソープ
  • 柔らかい布(メガネ拭きやマイクロファイバータオル)✕2枚

 

  1. 容器に少量のハンドソープと水を入れ混ぜる。
  2. 柔らかい布に液を染み込ませ固く絞り表紙カバーを優しく拭く。
  3. もう1枚の柔らかい布で乾拭きして完了。

 

※ハンドソープが濃いと紙を拭いた時に泡立ったり乾拭きした後もヌメリが残るので注意⚠

※和紙、わら半紙のような素材には向かない。

 

他の洗剤でもできそう。手垢汚れ=ハンドソープで取れそうって安易な考えでやってるけど綺麗になるし紙の変質もしないので代わりが見つかるまではハンドソープで。