病気はご褒美
先日インフルエンザになり寝込んでいた。
土曜日の夜から本格的に体調が悪化したものだから、日曜診療の病院を探すのに苦労した。アパートから徒歩20分ほどの所にあるクリニックを見つけ、歩くのがしんどいものだから、倍の時間をかけてなんとか辿り着いた。
39.6℃で案の定インフルエンザと診断された。先生は気さくで優しい男性だった。
「家で子どものよ〜うに寝ていてくださいね」
私は5日間、布団に包まるだけで生存が許されたのだ。子どものように寝ていることがもはや義務なのだ。
先生からその言葉を貰った時、同時に私は本来大人であるという事実を突きつけられたのだった。
別に歳をとることが嫌な訳では無い。でも、もう好き勝手自分の欲のまま生きられないのかと。
今時好きなように生きられるではないか。いやそういうことではない。何も考えず、時に何かを考え、ただただ自分のペースで、重い義務を持たずに生きる。もうそれができないのだ。
だから、思う存分ベッド生活を謳歌した。病気はご褒美だ。
さて
2019年
ご縁を大切に、余裕を持って生きる
いつもと違う年末年始
年末年始を東京で過ごすのは初めてで、アパートで一人ひっそりと卒業論文を書いたり、お餅を食べたりしている。
SNSをみれば、皆地元や外出先で誰かと年末年始を楽しんでいるようだ。まさに彼らと対称的な私、親にも心配される。
世界一優しい父☺︎
でも不思議と、寂しいとも皆のことが羨ましいとも思わない。昔から他人と自分を比べてしまいがちなこの私が、だ。
そんな自分が割と好きだということ
ここで思ったのは、そんな自分も悪くない、寧ろ好きだ、ということ。「現状に満足」と言うとちょっと違うけど、自分を肯定できている感じ。今ここにいる自分をそのまま受けいれ、愛せているという実感。そういう人間に気づいたらなれていた、ということが本当に嬉しい。
根底にあるもの
そう感じることができたのも、決して多くはないけど私は人に恵まれているという確固たる自信があるからかもしれない。あの子がいるから大丈夫っていう気持ちが自分を強くしてくれている気がする。
特に、モノの捉え方、価値観が驚くほどスっとお互いに馴染んで、自分が如何にダメな人間であるかを共有できる、そんな友人と出会い、大学4年間付き合うことができた。こんな幸せなことあるか。
ちなみにその子とは食の好みがこれまた驚くほど合致している。一緒にご飯食べに行くことが多いから、それって本当に重要なことだと思っている。大抵のことは美味いもの食べながら語って解決。ダンスの公演前日22時にハンバーグセットとでっかいパフェを食べるという軽率な行為に一緒に走れる人ってそういない。
罪
勿論その他にも素敵な人たちと関われた。けど今回は割愛。機会があれば書いてく。
2018年最後の3ヶ月くらいで、そういった人たちによって自分は生かされたとつくづく感じることができた。
奇跡の大逆転(厨二病感満載)
そして、大抵の事は自己責任と考えて自分の中で落ち着くことができるようにもなった気がする。
あと一歩届かなかった合格も、4次で落ちた試験も、何かしらの努力不足。マストが多すぎて余裕がなくなったのも、自己管理能力不足。大好きだった人と別れたことも、結局は自分にも非があった。
こうして発送転換させることって時には納得いかなくて辛かったりするけど、「他人のせいにしない」っていう私の中での一種の「大人」らしさに近づける気がするから、こじつけではなく自然と心穏やかにそれができたなって思った時にも嬉しさを感じる。
この自己責任の件も含め2018年は尽くついてなかった…と思いきや、最後の3ヶ月くらいは楽しいことや嬉しいことが多くて濃くて幸せだった。まさに奇跡の大逆転だ。大胆かつ大袈裟に表現してもいいだろう。
私の場合、こうやってハッピーエンドで一年を終えられたから本当に周りには感謝しないといけない。
ギリギリ人間卒業、もっと余裕を
レポート系は基本前日。この前は期限1分前に提出した。振り付け考えるのも練習当日だったり。
これは本当に直さないといつかボロが出て痛い目に合うと確信している。でもこれも人間味があって私らしいとか思ってしまう。ダメダメ人間だ。果たして改善されるのか。
時間的余裕は勿論、気持ちに余裕をもちたい。これといった根拠はないけど人生楽勝、と言えるような。ドンと構えて色んな景色や考えや価値を吸収できるような。
そんなこんなで
冒頭の通り
「ご縁を大切に、余裕をもって生きる」を意識して今年一年過ごせれば、と思う。