常住坐臥黴蒲団

fungiに詳しい訳ではありません.

日記の困難さについて、或いは不可能性。

 前の記事(本日の本1 結城浩『数学ガール ゲーデルの不完全性定理』―数学ガールを小説の棚に置くこと - 常住坐臥黴蒲団)を書いてから、もう早二年経った。もう一つこれ以前に記事を書いていたがこちらはすぐに削除したので、このブログの記事は二年もの間、一つしかない寂しい状態だった訳だ。私は日記を続けられた験しがない。今迄も何度も日記を始めたし、初めはこの何となしに過ぎ去ってしまう、けれども一つ一つ細部があって愛おしい日々を少し丈でも残してやろうという強い思いに駆られて始めるのだけれども、その熱はいつも十日と保たずに窄んでいく。そもそも文章を書くのは体力のいることだ。それを毎日書くのはしんどい。などと言い訳をして熱しやすく冷めやすい自分の弱点から目を逸らす。

 それでも、偶にはレポートや卒論とは違う、気儘な長い文章を書きたくなる。文章を書かないと文章力は多分下がる。文章力の下がってしまった自分と言うのは結構怖い。誰かに何かを分かるように伝えるのは日記の仕事ではない。確かに昔から日本では日記は人に読まれることを意識して書かれることも多かったというのは事実で、だからこそ日記が一つの文学形式として発展したのだとは思う、けれど日記と言うのは基本的に没個人的*1なものだ。何を書いてもいいし、人に伝わらなくてもいい。伝わらない方がいいものだってある。だから、この怖さは人に話が通じない怖さではない。人に通じる話し方と論の組み立て方は大学で習う、もしくは身に着ける。だから大学にいる間は大丈夫。死ぬまでそうであって欲しいとも思う。でも気儘に文章を書ける人でもありたい。

 気儘に文章を書くのも実はさっきも言った通り体力のいる仕事だ。勿論息を吸って吐くように簡単に文章を書きあげてしまう人もいるだろう。けれど私は文章の天才ではない。同じ単語が重ならないか、この比喩は適切なのか、漢字はどうか、句読点は、そんなことに気を煩わして書き直して、そうして文章は貯まっていく。体力は削られる。いい文章を読んで、こうしてしんどい思いをしながら愚にもつかない文章を書いていけば、ある程度の文筆家になれるのではないかという希望。二年も書かなかった奴*2には儚い希望か。そうだね。

*1:「没個性的」の間違いではない。多分そんな言葉はないのだけれど、極度にプライベートなことを意味するために使っている。結構いい言葉ではないかと思う。

*2:ここ以外の場では書いていたが、それにしても

本日の本1 結城浩『数学ガール ゲーデルの不完全性定理』―数学ガールを小説の棚に置くこと

   三度目の挑戦だった。読破には成功したが、またしても惨敗。

 『数学ガール』の何がいいかと聞かれたら、数学について妥協をしていない(多分)ところだ。どこぞの『数式を使わない~』とは次元が違う。本文中にはずらりと数式が並び、理解できない読者はおいてけぼりを喰ってしまう。特に物語の中盤を超えると、僕も含めた文系諸君及び数学科以外の理系諸君(この巻に関しては、文学部哲学科にも分かる人がいるだろうが)の聞いたこともないような抽象概念がドハッと繰り出され、僕らはぐはっとすっかり玉砕してしまうのだ。なのに、それに快感、興奮してしまう自分がいる。お前はマゾか、と言われそうだが、違う(多分)。

 『数学ガール』は数学読み物とされるけど、僕はその考えに反対で、「『数学ガール』は小説だ」と言いたい。分からないのに快感を感じてしまうところが、やはり小説だ。小説としか言いようがない。それもよくできた小説。ただに自分の分からないことを言い立てられて、それを無批判に「自分の理解を越えた凄いものなんだ」と畏敬の眼差しでもって受け入れ、威を借る、そういう快感じゃなくて、僕にとって意味不明な数式からも、丁寧に追えば登場人物の心情が読める(ような気がする)ところに、驚きがあって、興奮して、気持ちがいい、嬉しい。数式という道具で会話する。それでしか言えないことがあるから。僕はこの作品が数学に妥協しないのは、数式がこの小説において、漫画における絵のように必要不可欠だからだと思う。

 そこで私は本作を初めとした『数学ガール』シリーズを、小説の棚に置くことを求めます。以降、図書館・書店等の皆様は、数学の棚からこれを引っこ抜き、場合によっては請求記号を変えて、小説の棚に入れるようお願いいたします。

 とかなんとか考えながら、読み終えたが、冒頭にもある通り、不完全性定理の理解は不完全にとどまりまった。やっぱり、むつかしいよ。これは本腰を入れて、論理学の勉強せねば。