プリジャン行くならこれを買え

2019.09.23(月祝)、京急蒲田大田区産業プラザPiOで開催のプリズムジャンプ26(プリ87)にてサークル参加します。

 

新刊:いろんなエピソード

ジャンル:オールキャラ 短編ギャグ数本

本文20P 400円

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初めて個人で制作した同人誌なので勝手がよくわかっておりませんが、よろしくお願いします。

 

 

今回サークル参加するプリズムジャンプ(略してプリジャン)というイベントは、以前から僕はけっこう好きで、この数年予定の合う回は大体赴いています。

今までプリパラの二次創作同人誌を100冊は買ってそうだなと思っていたのですが、先ほど数えてみると233冊ありました。コミケで買ったものもありますが、このうちのほとんどがプリジャンで購入したものです。

 

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どれも愛にあふれており、素晴らしい本です。

傾向としては、楽しくポップな話が6割、しめっぽい話やシリアスな話が3割、残りがギャグという感じです。これは自身の購買傾向というより、プリパラの同人誌全体でそういう割合になっているように思います。

※R-18のプリパラ同人誌は計算に入れていません。僕の眼には入らないようになっているので。

 

原作のアニメ本編が平成で一番おもしろいギャグ作品だったこともあり、その二次創作で新たなギャグをやるのは難しいようで、なかなかギャグ同人誌は貴重です。

自身の今回の同人誌も、独自のギャグを入れ込むことには及び腰になっており、基本的には原作のギャグを踏襲する形になっています。

せっかくなので、今まで購入した同人誌の中から、原作とはまた違うスタイルでギャグに挑んでいるおすすめの同人誌を共有したいです。以下の方々が今回参加されるのかどうかはわかりませんが、、今後もプリジャンに行かれる方は、ぜひ参考になさってください。

 

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■秋おこ さん

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この方の漫画は、プリパラ二次創作界隈で頭二つ抜けておもしろいです。自信満々にオリジナルのキャラ付けをしていて、勝手に一人で独自の世界を構築しています。

 

■クレヤボンス さん

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この方は、原作のギャグに準拠している‥というより、そのエッセンスの一部を更に煮詰めていて見事です。絵柄も雰囲気も完成されていて、読んでいて爽快感があります。

 

 

■『サークルうき』

 うき さん

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この方の本はすばらしい。 もし見かけたら試しに1冊、ではなく、2冊以上買ってほしい。めちゃくちゃギャグです。

今どの同人誌でも商業誌でもなかなか読めない手管で話が展開しています。プリパラの同人誌とは思えないようなスタイルを持つ、非常に貴重なサークルです。

 

 

■結 さん

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これはギャグというよりコメディですが、この方の「居酒屋歌劇団」という本が、これまで拝読した233冊の中で最も好きな同人誌なので紹介させてください。

タイトルから想像できる通り、セレパラ歌劇団の面々を中心に、居酒屋でぐだぐだしゃべるだけの内容(素晴らしい)です。とてもボリューミーですが、ずっと楽しいです。

 

 

まだまだ紹介したい本はありますが、この記事ではこのあたりで。

それでは、よろしくお願いします。

「語尾がない」当初の印象

先の記事に関して興味深い記事を書いていただいた(ありがたい‥‥)ので共有します。

「プリパラがおもしろい理由」は他にあるんじゃないかなぁ
http://d.hatena.ne.jp/kurutto115/20180411/1523432842


この記事を読んでいて、ああ、なるほど確かに、自分はここをわかってなくて曖昧にしてたなぁ、と思ったことを追記のように書きます。
「リアリティがない(下品)→おもしろくない」のプロセスを長々書く中で、この矢印がいつの間にか等価記号に化け、「おもしろい=リアリティがある」と混同していた(させていた)みたいです。実際はそんなことはないでしょうね、だって下品なものだっておもしろいし。この記事で書かれてある『加点法』という考え方は、ここをしっかり切り分けてくれるよいツールです。すばらしい。
ただこの加点法のルールは、「(主観かつ独自語としての)"おもしろい" の条件に合致すること」になるんですかね。だとしたら「個人差ですね」で放置するしかなさそうです。それはそれで、個人差とそうでないところを切り分けることは良いことだ、とこの記事中で請負っていただいるのはかなり心強いですが、なおのこと減点法対策の方にこそ普遍化の未来を感じてしまいます。しかし放置するのも惜しいですね。加点法にも普遍的な性質がありそうであればよいのですが。本当に個人差しか絞れなくなるところまで行きたいですね。減点法対策のプロセスとは別に、電車の中ででも考えてみます。

ともあれ加点法と減点法を切り分けること自体に十分価値がある。僕が記事で書いたことは、減点法対策についてだけのようです。
指針をいただき、ありがとうございます。



それはそうと、プリパラのファンの方、教えてください。

元記事の筆者氏には悪いが、プリンスこと紫京院ひびきが「語尾がない」と発言すること自体は何の違和感もない。プリパラにおける語尾の概念はアイドルみれぃが登場した1話から確として存在したものであり、作中でその概念が「語尾」と言う名で言及されたこともあるどころか、32話「みれぃ、ぷりやめるってよ」に至っては半ば語尾を主題としたエピソードと言えるだろう

ご指摘通り、語尾の概念は1話から存在します。
ただ僕は、「語尾」という言葉がコミカルになりはてた今では考えにくいことですが、ひびきが登場する以前のプリパラでは、語尾の概念を指し示すために実は「語尾」という言葉はほとんど使われていなかったのではないかと記憶しています。50話以前で「語尾」という言葉が本編に出たのは、僕が唯一覚えているのがほぼ直前の45話で、あろまVS委員長の、委員長のキャラ付けの甘さを指摘するシーンのみです。この時も「語尾」という言葉はさほどコミカルな用途ではありません。完全なる推測ですが、視聴者のお子様にとって難しい言葉だからシーズン1ではできるだけ使わないようにしていたものの、ひびき登場の準備としてシーズン2あたりから使用可になったのかもしれません。それまでは(32話でさえ)『セリフの最後に〜〜』などともってまわった表現をすることで、「語尾」という言葉を使わずに語尾の概念を指していたように思います。
今にして思えば、語尾の概念が「語尾」という言葉で大々的にプリパラの家族になったのは63話,64話で、それまでは、今のようなコミカルかつ馴染みのある言葉ではなかった、だから「真っ先に"語尾がない"なんて感想を初対面の人間に抱くか????」とびっくりした‥‥という僕の印象を書いていました。
これはただ、すみません、このかた同様、多くの人の印象と食い違っているでしょうし、事実とも異なるかもしれないです(1期からバンバン語尾という言葉が出ていたかも)。


あなたの『語尾』という言葉に対する印象はどのように変化したのでしょうか。51話時点ではどうだったでしょうか。
本編ではどのように使われていましたっけ。
けっこう気になります。なにか覚えがあったら教えてください。



(追記)
そういえば僕は60話くらいまで一気に見てそこからリアルタイムに追いついたため、それまでの視聴者間の感想を知りません。当初から観ていた人にとっては、「語尾」という言葉について馴染みのあるムードだったのかも‥‥?

プリパラがおもしろい理由を考えていたら、この世の真理に辿り着いた

【目次】
1. 概要
2. はじめに
3. 作品鑑賞時に発生する概念
 3-1. 世界
 3-2. リアリティ
 3-3. 観測者、イタコ、神
  3-3-1. イタコの失敗
  3-3-2. 神の失敗
4. ギャグの発現
 4-1. ボケとツッコミのフレームワーク
 4-2. 世界ありきのフレームワーク
5. プリパラの特殊性
6. おわりに






1. 概要


2010年代に世に出たありとあらゆるジャンルの中で最もギャグがおもしろい作品は、森脇真琴監督作品『プリパラ』だと確信している(というより"知っている")のですが、その理由を人に話そうとしても、伝わる形で表現できなかったことがしばしばあります。イメージだけでも伝えようと、「ギャグの神様と言えば、人によってはダウンタウンや、桂枝雀榎本俊二、いろいろ居るなかで、僕の2010年代の神様は森脇真琴です」などと表現したりもしますが、なぜ、どうおもしろいかをきちんと説明できないことに情けなさやもどかしさを覚えています。これはよくないと思い、まずは自分の考えの100%を文章に起こそうとしたところで、はたと、それすらもままならないことがわかりました。「おもしろい」の共有とはどこから始めるべきなのか。共有以前に自分自身ですらわかっていないのではないか。
この文章は、自分が森脇真琴監督作品に対して感じているギャグの新しさを、できるかぎり共有可能な形で表現しようと試みるものであり、同時に、その際に使用した概念や分類の実用性を世に問うものです。






2. はじめに


なにかのおもしろさを共有する目的で「おもしろい」という言葉を使ってはいけないかもしれません。その理由は、
・「おもしろい」という感想は主観であるから(おもしろい原因の不定
・「おもしろい」という言葉に実用的な定義が存在しないから(おもしろい対象の不定
多くの共通点を持つ相手とは、原因も対象も不定な言葉を用いても共有可能でしょうが、それはとても限定的なコミュニケーションです。今回のようにプリパラがなぜおもしろいかを不特定多数と共有する目的においては、このあいまいな言葉を使用することで具体的な対象や性質を想起させようとしてはならないという制約がありそうです。
そのため今回、『感情を最小単位まで目指して普遍化し、そこで明らかになってくる共通の概念を用いて、実用的な分類することで、プリパラのギャグの特殊性を浮き彫りにする』というアプローチを選択します。これはたとえるなら、「お湯と、人肌程度の温かさの鉄が、寒い部屋で先に冷たくなるのはどちらが何秒早いか?」という問いに人類で初めて答えようとするとき、まず物質が冷える原因を特定するため、水と鉄というジャンルの違うものを観察した時に見えてくる熱さの最小単位である"温度"や"熱量"を見つけ、それらを組み合わせて"比熱"や"熱容量"などの概念を付与させ、「冷たい」という言葉の定義として「10℃以下」という分類を設定して比較するようなものです。たとえた結果わかりにくくなったかもしれませんが、要は、漫才にしろ漫画にしろ落語にしろネット大喜利にしろ、「おもしろい」と笑うまでのプロセスはジャンルによってそれぞれ異なるわけですが、そこに至るまでに共通する因果を見つけて、それを組み合わせて概念を作り、その概念を組み合わせて分類してやろうというアプローチです。
ジャンル問わずの「おもしろい」の普遍的な根源を探るということは、ジャンル問わずの作品を体験したときに共通する感動のプロセスを言語化するということです。再びたとえるなら、電力と磁力というジャンルの違うような力であっても、今やいくつかのパラメータを持ついくつか式で、同じ力であることが示されているように、漫才と漫画のおもしろさは、いくつかの概念といくつかの分類により、同一の性質を持つものとして表すことができるのではないか、と考えています。
また、先行研究の中には、「笑いとは、共感の笑い・優越の笑い・緩和の笑いなどがあり〜」などと"笑い"という感情に特化して分類をしているものも数多くありますが、この帰納的なアプローチは往々にして主観に基づいた経験則に頼りがちになり、また漏れなく網羅されているかという懸念も残ります。更なる普遍性を求める意味でも、今回は感情一般に適応可能な概念を用います。必然その概念は、特定感情に限定すると演繹的な性格を持つことになります。
以下、便宜上「<おもしろい>という感情を誘発する<ギャグ>」などと限定して記す部分も「<感情a>を誘発する<事象A>」と読み替えが可能です。

この普遍性のため、今回使用する概念は、ありとあらゆる作品が持っていなければなりません。「ありとあらゆる作品」とは、先述の通り漫才であり漫画であり落語でありネット大喜利であり、もちろんアニメでありドラマであり映画であり、友達との会話であり、歴史上の出来事であり、もしかしたら音楽であり絵画であり、病院であり洗濯物であり台所の棚にしまってある急須でもあります。
プリパラのおもしろさを説明するための概念と分類は、七味の恐怖についても説明できなければなりません。






3. 作品鑑賞時に発生する概念


我々が作品(繰り返しになりますが、作品とはありとあらゆる作品のことです)を鑑賞する際に生じる要素を概念化しました。あなたがこの世のどんな作品を見ても、以下の概念が発生します。

概念(1) 世界(パラメータ例:リアリティ)
概念(2) 観測者(パラメータ例:信仰心)
概念(3) イタコ(パラメータ例:透明度)
概念(4) 神


3-1. 世界
今回、最も共有しがたいと思われる概念が、この『世界』です。具体例を用いつつ、たっぷりと説明させてください。
この文章を読むにあたり、まずは時計を見て時間を確認してください。「あなたはちょうど今から1時間前、母校の中学校の校庭にいたとする」と想像を促してみます。あなたには、現実的な制約に目をつぶってよいとして、あくまで想像だけならば可能でしょうか。
当然可能であるはずです。1時間前という想定なので、その想像の中にはかつての姿のままの恩師や旧友が現れていてはならないのですが、校舎や遊具のレイアウトはあなたが過ごした当時とそう変わってはいないはずです。想像力のたくましい人であれば、校舎は思い出よりもサビが目立っているか、もしかしたら新しくペンキが塗られているかもしれません。そういった世界の中で、当時の記憶をもって補完しながら、あなたは校舎が作る日陰の上を歩くことができるし、砂場に触れ鉄棒に触れ、蛇口をひねることができ、その手触りを"あり得た実在の世界"として再現できるはずです。
次に「あなたは、よく知らない"ラブライブ"のヒロインが在籍している学校に通うことになってしまった学生だとする」と想像を促してみます(注:あなたが仮にラブライブに精通してしまっている場合、別の作品に読み替えてください。あなたが名前くらいしか知らないが、多くの人から強く支持されている作品であれば何でもよいです)。そういうキャラに気持ちを投影させてくださいと言っているのではなく、あなた自身がその世界にいるものとして想像してほしいわけです。要するに注意すべきは、この文章を読んでいるあなたは実在の人物ですから、当然あなたが所属する空間も実在するものとして想像する必要がある点です。難しければ「あなたは"ラブライブ"のヒロインが在籍している学校やキャラクターを実在するものとして観測してみてください」だとどうでしょうか。"観測"とは、先ほどの中学校の例と同様、脳の中で想像すること、と捕えていただいてよいです。
僕にとって、この観測は不可能でした。この作品に対しての情報の不足が原因で、世界の情景を描くことができず、実在するものとして認識することができませんでした。きっとあなたも同様に、情報の不足が原因で世界を観測できなかったことでしょう。そして人によってはもう一つ障害があったことと思います。「アニメはフィクションであり、そもそも実在していない。だから実在のものとして観測できるものではない」。ここから、この意見についての妥当性を検証します。
母校とラブライブと、2パターン想像していただきましたが、両者に断絶があるかどうかを確認をしていきましょう("断絶がある"とは、何らかのパラメータの程度問題ではない、ということであり、"分類"と言い換えることもできます)。中学校の想像と、ラブライブの想像で、異なる点は「情報の有無」「実在性の有無」であり、前者は「情報あり・実在する」、後者は「情報なし・実在しない」と捕えるならば、これは断絶と言えます。
しかし実際は、ある人がある対象についての情報を持っているかどうかは真or偽の2値で語れるものではなく、程度の問題です(0(False) or 1(True)のbool型ではなく0.0〜1.0を範囲とするfloat型と言えばわかりやすいですか?)。ラブライブを観たことがない自分でも、学園で活躍するアイドルの話なのだろうと推測できる程度の情報はあります。1.0を最大値としたとき、僕はラブライブについて、0.02ほどの情報を"持っている"と言えます。そして一方で、自分が通っていた中学校のことは、本当はあまりもう覚えていません。かすかに覚えている遊具のレイアウトだって、実際は高校のだか小学校のだか。自分は母校の中学校について0.4ほどの情報しか持っていないかもしれません。このような情報の多寡に断絶と呼べるものがあるでしょうか。0.02と0.4の間の、0.1あたりに閾値を設けて、それ以下なら想像できない、なんて器用に切り分けられるほど、脳は数値を厳密に取り扱うことができません。あなたが何かを想像してみるうえでその対象の情報をどれだけ持っているかについては、母校であろうと見たことないアニメであろうと、地続き=程度問題であることがわかります。
ここまではよいでしょう。次にこの確認と同じことを、紹介済のもうひとつのパラメータでやってみようと思います。ここから文章がきな臭くなります。ぜひ真面目に文意を汲んでいただきたい。結論から言うと「実在性」は0(実在しない=偽)か1(実在する=真)かというよりは、同様に0.0〜1.0の実数値を取ると捕えた方が正確だと主張しようとしています。「中学校は1(実在)、アニメは0(非実在)」、そうじゃないんです。あなたの中学校はもはや0.61で、アニメは0.05かもしれません。アニメだけではありません、漫画、ドラマ、小説、もっと言うとコント、友だちのエピソードトーク、歴史‥‥。人間が産み出す世界の全部、それぞれの実在性に0.0〜1.0の間であいまいな数値が与えられています。差はありますが、差があるだけです。世界の"実在性"というパラメータについて定義を加えると、「あなたの脳がその世界をどこか別のところに実在するものとして観測できる度合い」とでもしておきます。中間の値、つまり0と1以外の値をとることなんてありえないと思うでしょうか。いいえ、とるんです! これを示すためにいくつかのアプローチを用意しています。

(1)誰もがフィクションを実在と信じることができるという事実の確認
子供のころを思い出してください。何かの作品、漫画・アニメ・ドラマ・ゲームに傾倒し、その世界が、隣町に、海の向こうに、宇宙の外にでもよいです、どこかにあると信じていたことはありませんか。それらをただの勘違い、認識の誤りに過ぎないと切り捨てることもできますが、人にはそういう別世界の実在を信じる力があることを否定できないのは明らかです。その力(僕は“信仰心”と呼んでいます)は成長とともに失われていくものではありますが、誰のどんな場合にもある日ある秒を境に1→0とステップ信号のような遷移をする、と捕らえるのは不誠実でしょう(だから、0.5という数値を取り得る)。
また、今現在の、いい大人のあなたについても似たようなことが言えます。あなたの知る歴史上の人物について、全員確かに実在したと言えるでしょうか。織田信長は、本当に実在していましたか? 多くの学者が認めているとして、その学者のことを信頼していいと判断できるほどあなたは彼らを知っていますか。つまりあなたが信頼しているのは学者ではなく、〈常識〉のはずだと指摘しています。先述した子供のころに持っていた別世界への信仰心は、その世界の作者の存在を意識できるようになる過程(加齢)とともに失われますが、一方でそれを補うかのように〈常識〉を拠り所にした信仰心は、加齢とともに強固になるようです。

(2)史実とフィクションの境界(などない)
信長よりももう少しアンビバレンスな領域に入ると、また複雑です。あなたにとって卑弥呼は実在の人物ですか? イエス・キリストはどうなのでしょう。〈常識〉が不定になるとともに、実在性が0か1かのどちらかしか取らないと主張するのも難しくなるのではないでしょうか。「いや、確かに史実を観測しないと我々には確定できないが、事実としては0か1かには違いがない」という反論が届きました。 わかりました。今は焦点をこのように絞りましょう。『あなたが"今"対象を実在のものとして観測できるかどうか』。そうです、この話は最初から主観の話です。
秀吉や龍馬の物語を伝記や教科書や漫画でよく知る大人は、それらの作品には脚色が加えられていることを承知のはずです。大河ドラマなんか嘘の巣窟です。それらを実在の人物として許容することができるとしたら、どうしてラブライブのキャラクターを実在として扱えませんか。ここで問うているのは、史実や常識を取り去った、あなたの脳の対応力です。ぶっちゃけた話、"スーパーイタイワニー"を、負けたら指が食いちぎられるギャンブルとして全力で楽しむ能力があるか、という追求と同種です。子供の頃にはできていたことが、大人になってからはできないとしたら、〈常識〉を拠り所にした結果の、あなたの精神力・信仰心の衰え以外に説明をつけられますか。
あるいはあなたの友人が、以前体験したおもしろい話がある、などとふかしてきたとします。「こないだガソリンスタンドでバイトしてたらすっごい太ったおばさんが、軽自動車だから軽油をいれてくれと頼んできてーー」。実際はこの体験談は、友人自身のものではなく、その先輩にあたる人が体験した話らしいとわかったとします。ただ本当はこのおばさんは、別に太ってはいなかった。友人が先輩のエピソードを剽窃するにあたり、手柄を横取りするために、まるで自身の体験のように話しつつ更にコミカルに色をつけるため勝手におばさんを太らせたのだとします。そういった場合、その『太ったおばさん』は実在したことになるのでしょうか。なんとも実在性の曖昧なおばさんです。こういった形でも実在するとも実在しないとも言えない0.5の状態が出現してしまいました。「おばさんを同一視するのが間違い。先輩が語るおばさんは先輩が実際に見たのだから実在する(1)、友だちが語るおばさんはフィクションだから実在しない(0)。」と反論をしたい人がいるかもしれません。そういう定義もよいかもしれませんが、その場合、後者の『史実から派生し嘘を塗られた不確かなおばさん』は、あなたにとって、龍馬や秀吉も同じであることにはぜひ留意してください。「実在」の定義が伝聞も脚色も許さないのは、いささか窮屈すぎるように思います。何しろ世の中すべての次元のすべての事象は、あなたの五感で直接知覚できたものを除けば、伝聞によってのみ認識されるものであり、脚色の混ざらない純度100%の伝聞(=媒介=メディア)など存在しません。

この文章が何を意図するかつかめてきたでしょうか。少なくとも、「フィクション=非実在、ノンフィクション=実在」と切り分けて考えていた方には、『実在する』とはそもそもどういうことか、定義のあやふやさを感じ、一旦混乱してもらいたいという意図はあります。更なる混乱のためにあと2つ考えていただきたいです。

(3)フィクションのリアリティが現実と同程度以上の場合
ラブライブの世界は実在しないと考えるあなたにもう一度、今度はドラえもんの世界を実在するものとして考えてみていただきたいです(現実に侵食するコンテンツである、という話ではありません、念のため)。あなたは今日、野比家の客として招かれました。想像の中で、その世界を実在させてください。例の空き地で野球を観戦しましょう。のび太と会話は可能ですか?のび太ならよく知らないあなたとも気持ちよく会話してくれたかもしれません。 ジャイアンスネ夫はふたりで何を話していたでしょうか。視界の端に名前の知らないクラスメートも見えていますね。その間出木杉はどこで何をしているでしょうか(図書室で勉強しているでしょう)。皆がその世界の中で、自発的に生きているはずです。ここに実在性を感じることはそんなに難しいことでしょうか。あなたの母校を歩き回ることと比べて、あなたの脳にとって、何が違いますか?
また、東京都内にある国会議事堂を想像できるなら、その想像の中で前景を眺めた後、壁を伝って、横から建物を観測できますか。僕にはこれはできませんでした(角度が30°を超えたあたりで大きな赤い×印が出ました)が、不思議とドラえもんの空き地の中心に立ち、360°見渡すことはなんとなく可能でした。そんなCGは見たこともないのに、です。想像した世界が脳の中で自発的に機能するかどうかは、最初からその力を頼りにした存在である分、むしろフィクションにこそ強みがあるかもしれません。
ここまで、現実なりフィクションなりの、想像のしやすさと実在性の高さに直接的な相関があるように書いてきましたが、どこかの段階で理屈の破綻を感じた人もいるかもしれません。「想像しやすけりゃ実在すると言えるのか?」と。では多少乱暴になりますが、「知覚できるものは実在している」+「知覚と想像はともに脳の電気信号による作用」→「脳の作用の中では、想像可能性=実在性 とみなしてよい」と考えるのはどうでしょう。忘れているかも知れませんが、きな臭さは継続しています。頑張ってください。この式は要するに、あなたが想像した生き生きとしたドラえもんの世界の空き地は、その絵を想像している脳の部分と別の、常識を司る部分が「その絵は現実じゃないよ」と主張してくるわけですが、その主張さえ無視していれば、あなたにとってはそれは現実と差はないはずだ、という意味です。

(4)すべての実在性は“正常な判断”という偶然の主観のもとでしか担保されていない

「それは現実じゃないよ」と判断し主張している脳の部分が、正常に機能しない場合も考えることができます。これはよくあるSFモチーフのジョークですが、あなたは実はどこかの研究所で脳だけ取り出された状態で培養液に浸かっていて、現実という夢を見ているだけかもしれません。脳が誤って「これは現実だよ」という信号を送り続けているわけです。この場合も、「現実の実在性=真(1)」という主張は棄却されます。論理の上ではこの可能性については否定することができません。あなたが知覚できないことをあなたは示すことができないからです。こんな仮定はまさに非現実的かもしれませんが、では、あなたは自分自身がアルツハイマー病だとか認知症に掛かったときを想像したことがあるでしょうか。精神分裂でもドラッグの力を借りるでもよいです、なんでもよいので、あなたの判断や知覚の正常を、現実として担保することができない状態になってしまったら、という仮定です。今度は非現実的な話ではありません。そんな状態のあなたが不用意に玄関を開けてしまったら、そこに170cmのドラえもんが立っているかもしれません。そうなったら終わりです。実在とはなんだったか、何がそれを保証するんだったか。そういったことが現実の中で不明瞭になります。
実在も非実在も、脳の電気信号の気まぐれでしかなくて、今子供と老人の間のあなたには"たまたま"ドラえもんに触れることができないだけかもしれません‥‥が、そんなあなたでも、〈常識〉によっていとも簡単に架空の人物を実在するものとしてとらえることができてしまいます。それが意味するのは、実在と非実在の境界は最初から雲散していて、程度問題の中で混ざり合っているということです。

ここまでのことはあくまで、実在性に関して「ノンフィクション=1(真)、フィクション=0(偽)」と捕えるのは誤認識であり、誤認識している原因は今のあなたの常識によるもので、あなたの脳の想像力を司る部分にとってはフィクションと現実に差はないでしょうと確認したにすぎません。

(1)誰もがフィクションを実在と信じることができるという事実の確認
 →子供の頃は信仰心の力を借りてフィクションの実在性は0を上回っていましたね。
(2)史実とフィクションの境界(などない)
 →大人になっても常識の力でフィクションの実在性は0を上回る例もありますね。
(3)フィクションのリアリティが現実と同程度以上の場合
 →「フィクション=0、現実=1」どころか「フィクション>現実」にもなりますね。
(4)すべての実在性は“正常な判断”という偶然の主観のもとでしか担保されていない
 →「現実=1」と思える条件って限定的ですよね。

このように、さまざまなアプローチで伝えたかったのは、たった1つです。これだけ納得していただいたら次に進んでいただきたい。
『過去の現実世界であろうとフィクションの世界であろうとありとあらゆる"別の世界"は、我々が観測するうえでは、(実在性という実数値をとるパラメータの程度に差があるだけの)並列関係である』
なぜこのことが重要かというと、この扱い方によって、任意の娯楽・エンタメ・フィクション・ノンフィクションを「別の世界」という概念としてまとめることができ、それらに共通する特徴を抽出できるからです。



3-2. リアリティ
前節を書きながら、読んでくれている人のことを想像し、勝手に「こんなに言ってもわからないか?!」ともどかしく感じています。なぜならその人(あなた)は、『実在』という言葉にまだ引っかかっています。「そうは言ってもマンガやアニメは非実在であることには変わりはない、実在性は0である」などと言い、ここを譲る気はないみたいです(厄介だ‥‥)。自分の主張では、それを0で固定してしまうと、すべての史実の実在性も、伝聞と脚色に揉まれて等しく0になり直感に反してしまうのですが‥‥。まあよいです、"実在"という言葉の印象が互いに違うようですが、そこをすり合わせることは重要ではありません(Akinatorも理解してくれませんしね)。今重要な点は、他の世界同士は我々の存在する世界にとって並列関係であることと、(今まで実在性と呼んでいた)パラメータの値が大きければ、それはその世界の中の規則で自発的に動いているという性格を有していること。以後そのパラメータを『リアリティ』という言葉で置き換えることにしましょう。1,500年前のアフリカと、ドラえもんの世界は、あなたにとってどちらがより想像しやすく、リアリティがありますか。あなたの観測する世界の構成物がより自発的に動いたのは、ドラえもんの世界の方であるはずです。リアリティというパラメータは、どんな世界を見ても0.0〜1.0のあいまいな値をとっていて、この値が大きいほどその世界はあなたにとって想像しやすく、あなたの頭の中で自発的に動くことになります。この置き換えにより話の本質を変えることもないまま、ようやく僕が想定している厄介な人(あなた)も「そういう話ならわかるよ」と納得してくれました。

繰り返し、確認します。あなたはたとえば1,500年前にもアフリカは実在したと信じているでしょうが、そのさまがどのようなものだったかは想像できないはずですね。この場合、「実在性は高いが、リアリティは低い」と捕えてしまいそうで、つまり実在性とリアリティは等価の概念とは思えないかもしれません。
どうかグッとこらえていただきたい。今回のこれらのパラメータの定義は、「あなたの脳がその世界をどこか別のところに実在するものとして観測できる度合い」でした。ここに常識的判断を挟んではなりません。1,500年前のアフリカを聞いて「ただのぼんやりとした荒野? みたいなとこ?」を想像したとして、そこにある程度の実在性があると認識できるならば、「古畑任三郎の世界における(つまりフィクション世界の)1,500年前の(フィクションの)アフリカ」を想像しやはり同様の光景を思い浮かべるでしょうが、それも同様の実在性を有していなければなりません。
「フィクション世界は実在しない」と判断している脳の部分が直感性を削いでいるかもしれませんが、その〈常識〉をつかさどる部分の信号を黙殺するよう努めてください。


さて"リアリティ"と言えば、ここに2014年のつぶやきがありました。


https://twitter.com/kagem_company/status/424773332160880641
自分は何年同じようなことを考えているのだろうとうんざりしますが、ここでの"リアリティ"と同じ用法です(ちなみに当時の考えが覆ったわけではありませんが、今では破れの原因が「意図が邪魔」に限定されていないことがわかっています。次節で具体例を併せて詳細に述べます)。
あなたが観測した世界はその世界の出来に見合ったリアリティを有しているわけですが、このツイートは『何らかの原因でそのリアリティについていけなくなったとき、つまりその世界に没入できなくなったとき、「おもしろくない」と感じるよね』という文意です。逆に言えば、世界を十分に鑑賞するためには、まず世界への没入ありきだということです。



3-3. 観測者、イタコ、神
リアリティが破れる原因を考えるうえで、以下の概念を導入します。

概念(1) 世界(パラメータ例:リアリティ)
概念(2) 観測者(パラメータ例:信仰心)
概念(3) イタコ(パラメータ例:透明度)
概念(4) 神

ものものしい名前を与えてしまいました。趣味ではないのですが、他にしっくりくる名前が思いつかなかったので、皆さんもこれで我慢してください。
(1)世界に関しては前節の通りです。(2)〜(4)の概念について、簡単に関係性を説明します。
・観測者とは、世界を観測する我々。
・神とは、その世界の製作者。
・イタコとは、観測者が別世界の要素を間接的に観測できる形に変換する装置。
・イタコは、観測者と同一の世界にある。

「観測者」(我々)と「神」(製作者)は理解しやすいとして、「イタコ」ってなに? と思われるかもしれません。そこで思い出していただきたいのは、我々は『別世界の事象については直接知覚できない』ということです。別世界の事象は、他者により五感で知覚可能な形に変換してもらうか、自身の脳の中で補う必要があります。他者に変換してもらう場合、その他者がイタコです。自身で補う場合、その想像力か、あるいは想像のソースがイタコになるでしょう。
このあたりは厳密な定義より、直感的な理解をもとに進めたいので、具体例を用意しました。

我々が漫画を読むとき、絵を見てその世界を観測し、その世界の事象に没入しリアリティを感じますね。アニメを見るときも、アニメーションと声優の声を知覚することで、その世界の構成要素である登場人物やイベントを観測できるようになります。図としてモデル化すると、このようになります。

観測者はイタコを通じて世界を観測できるようになります。観測者が世界を「おもしろい」と感じる(観測の成功)条件は、世界に没入することでした。つまり、

このようにして、観測者はあたかも直接世界を観測している気分になることができます。



3-3-1. イタコの失敗
直接世界を観測している気分にある観測者は、イタコから与えられている情報を、"イタコから与えられているという意識なく"得ることで、世界を知覚しています。うまい落語を観ている客は「落語家が舞台から消え、登場人物が会話をしているように見える」とよく言いますが、これがまさにその現象です。イタコは、観測者に世界を享受してもらうために、自身を透明にする努力をしています。落語家も、声優も俳優も、漫画家も翻訳家も、等しくこの努力をしています。それは技術の研鑽と呼ばれるものです。

逆に、ドラマで、アニメで、怪談で、ブログ記事で、このような例も見たことがあるでしょう。


透明でなければならないイタコが調子に乗ったケース、


あるいは単に技術不足のケース。
このようなプロセスで没入により得られるリアリティが破れ、観測者は世界との距離を感じ、「おもしろい」が逃げていきます。

こういうケースもあります。イタコは技術を研鑽し透明であるよう努力するのですが、イタコにとって残念なことに、

観測者がイタコの熱烈なファンだった場合、しばしば観測の矢印は世界まで届かないこともあります。漫才師に黄色い声援を浴びせる客だったり、しっかりキャラによって声の使い分けができているでヤンスと悦に入る声優オタクだったりと、多くのケースで起こりえます。比喩でないイタコ、青森恐山のイタコに会いに行き、祖父の口寄せをしてもらおうというとき、その祖父の言よりイタコの話ぶりに感心していては愚かです。イタコ自身に興味を持つのもほどほどにした方がよいでしょう。
「観測者は世界に没入しないと世界を楽しめない」という前提で話を進めていましたが、「こういう人(イタコファン)はこういう人なり楽しんでいるのではないか?」という疑問が生まれるかもしれません。この場合は話が少し複雑になります。確かにこのイタコファンはイタコだけを見ることで楽しむことはできていますが、楽しんでいる対象は"神が設計した世界"ではなく、"イタコが世界の口寄せを行なっている、という世界"に移っています。その世界を作る神は、図らずもイタコ自身になっているという複雑なレイヤー構造を構築します。これを世界の拡張と呼ぶことにします(以後重要になるわけではありませんので、ややこしければ読み流して構いません)。

別の観測者からすれば「変な楽しみ方をしてるなぁ」などと思われているかもしれませんね。


漫才大会などで黄色い声援をあげる若い女性客に対して、性欲の化け物が笑いの真剣勝負を茶化すなと罵る声もありますが(僕がそういうことを思っているという話ではないのですが)、このように機械的にモデル化してしまうと、マナーや倫理が剥ぎ取られるためか、それが正当な罵りではない印象が浮かび上がりますね。この話は本旨ではないので切り上げます。
一応書き添えておきますと、「イタコファンは100%元の世界を観ていない」と指摘したい意図はありません。この概念モデルは直感的理解を目的として、程度差を無視しています。


3-3-2. 神の失敗
他の没入失敗例です。
これは最もわかりやすい例かもしれません。神の作った世界にほつれがある場合です。

当然観測者はほつれを気にしてしまいます。具体的には、考証不足だとか、キャラの感情に無理があるとか、そういったことによってほつれが起きます。

このような没入失敗例もあります。

『世界が観測者を意識している』というケースです。極端な例で言えばキャラクターが第四の壁を破り観客に語り掛けてくるなどですが、そこまで極端でなくとも、ギャグや演出や展開に対して「あざといな〜」「媚びとるな〜」と感じることは少なくないでしょう。
この場合も観測者は、いまひとつ世界に入り込むことができなくなり、「おもしろくない」と感じてしまいます。よくあることですよね。ただこれって、どういったメカニズムで「おもしろくない」になるのでしょうか? なぜ没入感が削がれるのか? 読み進める前にぜひ、このメカニズムの原理をあなたも考えてみてください。以降は僕の考えです。

まずは「あざといな」の具体例です。展開がベタベタだったり、ギャグのモチーフが具体的すぎてパロディに近かったり、観測者へのおもねりを感じたりするとき、「世界が観測者を意識している」と感じる状態になります。本来世界の構成要素や登場人物は、その世界の法則に従って動いているだけのはずなので、このように我々の趣向に合わせたあざとさが提供されることは不自然にあたります。

当然そういった我々の喜ぶコンテンツは世界の中で奇跡的に自然発生しているわけではなく、神たる製作者が、「客が喜ぶものライブラリ」からつまみとって世界に植え付けているわけですが、

それに気付いた途端、神の存在を意識していまい、赤い×がついて世界に没入できなくなる、というメカニズムです。前節のツイートで「意図が邪魔」と書いたのが、これにあたります。
このプロセスを引き起こす状態、世界が観測者を意識している状態を【下品】と呼びます。ありとあらゆるジャンルの、ありとあらゆる感情誘起においてこの状態が見られますが、特にギャグにまつわる下品な演出は観ていてつらいですね(これは主観です、控えます)。
この逆に、世界が観測者を意識しない状態を【上品】と呼ぶべきでしょう。「こうなったらカタルシスなのに!」というところで、そうならず、あえて作中の人物の感情を優先した展開を見たことがあれば、それは作り手の上品な態度の賜物です。

あざとさとは逆に、こういう例もありますね。突飛なギャグ、唐突な急展開など、世界にはなかったエゴ丸出しの混ぜ物が神から降りてきました。

その場合も当然、「これはおまえのだろ」と、エゴ丸出しの神に目が向いてしまい、没入感は削がれることになります。これもまた「意図が邪魔」の例です。

「おもしろくない」に至る例には事欠きませんが、キリがないのでこのあたりにします。
これらの「おもしろくない」へのプロセスは、あらゆるジャンルで共通の事項だと思いますが、そのメカニズムを解きほぐすうえで、どうしてもこれらのものものしい名前の概念が必要でした。そのことをご理解いただけたなら幸いです。本当ならば誰だって、こんなものものしい名前の概念を導入したいわけではありません。こうでもしないと説明をつけられなかったのです。






4. ギャグの発現


前節で、神がリアリティを削いでしまう失敗例として「下品」と「エゴ」を紹介しました。「下品」とは、世界が観測者を意識しているさまで、"世界を通じて"ウケたいという神の欲の顕れです。「エゴ」はもっと直接的に、"世界を使って"ウケたいという神の欲の顕れと言えそうです。この差は論旨に影響しないため、以降、厳密に違いを定義しないままではありますが、「下品」とひとくくりにします。イタコも同様に欲を出して客にウケようとしてリアリティを削ぐことができますので、これもイタコの下品と呼びましょう。
気を付けて考えると、しかしギャグというのはそもそも、下品な手段に限られてしまうものです。ギャグが発生した時点で、それはリアリティを削ぐリスクを伴っている、という言い方もできます。もちろんこれはギャグに限りません、たとえば恐怖を煽るホラー、涙を誘う感動話も同様です。感情の誘起は、リアリティを賭けて行われるものです。ただ、作品というものは、そもそもの存在意義が感情の誘起です。観測者の感情を誘起しなければならないから、神はその意図を持たなければならない。その意図をもって世界を動かさなければならない。しかしこの意図は、観測者にバレてはならない。そういうジレンマと戦っています。この戦いに油断した瞬間、世界は、作品は下品になるのでしょう。
少し脱線しますが、観測者に感情を誘起させる意図を持たない純・上品な態度なのに、観測者が感情を強く抱いてしまう世界も存在します。たとえば歴史上のイベント。源平合戦フランス革命の筋を辿ると、人は興奮するかもしれませんが、彼らに「後世の人のために盛り上げポイントつくっとくか」という意図はなかったでしょう。あるいは、ペットや赤ちゃんの動画。これらの大きな強みは、その世界の構成要素たる彼らがまったく観客を意識していないことです。彼らはただその世界で生きているだけなので、非常に上品です。一方でペット映像で人気を得ている人に対して「また動物を道具に承認欲求満たしてるよ」と辟易する性格の悪い人間がいるかもしれませんが(僕は性格がいいのでそういうことは思わないのですが)、それは神たる飼い主の下品な態度を悟ったからですね。歴史上のイベントにしても、編集のしかたによって、いくらでも神は下品になれます。
話を元にもどします。作品は通常、観測者の感情を誘起させる意図を持ちます。意図を持ったギャグはリアリティを犠牲に放たれますが、極力、神(イタコ)に意識が向かないような演出を神(イタコ)は心がけます。このギャグの産まれ方として、二通りのフレームワークが存在します。ここでフレームワークという言葉は、何かを発現させる機能を有した環境を指す意味合いで使用しています。二通りと書きましたが、必ずしもどちらかが0・どちらかが1と決定されるわけではなく、ここでも直感的理解を優先し程度差を無視しています。


4-1. ボケとツッコミのフレームワーク
一つ目は、ボケとツッコミのフレームワークです。造語であり、独自概念ですので、説明をさせてください。
笑いの誘起手法と言えば、何においてもボケとツッコミでしょう。演芸のフィールドが育てたこのフレームワークは、今や笑いを誘起するにおいては日本を席巻してしまい「笑い = ボケとツッコミ」と認識されるほど"笑いのデファクトスタンダード"化してしまっています。断言しますが、この認識は短絡しています。確かに便利で、便利だからこそこのように短絡したわけですが、どんな場合にでもこのフレームワークは有効というわけではありません。常にリアリティが犠牲になっているからです。その意識が抜けたとき、世界は下品に落ちます。
「ボケとツッコミのフレームワーク」についてある程度はきちんと定義しておきます。「観測者の感情を誘起させる目的で世界が操作される際、世界が観測者を意識していることが前提である環境」とでもしておきます。これは「ボケたりつっこんだりするのは、お客さんに笑ってもらうため」の抽象化です。抽象的過ぎて驚いたかもしれません。この定義が主張するのは、条理にあわないようなボケにしてもそれを修正するツッコミにしても、その形態や細かな手法は問題ではなく、重要なのは客をウケさせようとしていて、客もそれを是としているよね、ということです。ボケだのツッコミだの、何億人が何億パターンも試行しているかわかりませんが、多様すぎるそれらを普遍化して残る最後の要素がこの、「世界が観測者を意識しても構わない」です。そういう定義のフレームワークだと飲み込んでください。また一応のこと念押ししますと、ボケだのツッコミだのというワードを使ってはいますが、誘起対象の感情を笑いに限定していない(感情一般を扱っている)ことにも留意してください。
さて、あなたがここまでの文章をどのような感情で読んでいただいたのかはわかりませんが、もし「当たり前のことをつらつら書いてるだけだな」と思っていたとしたら(よくここまで読んだな)、どうぞ喜んでいただきたい、ここからは目新しい内容のはずです。ぶっちゃけた話、仮説です。仮説なのははじめからそうではありますが、ここからは特に、頼むからついてきてくれ、と思っています(逆に言えば僕は、「ここまではいいよね?」と思っています)。
目新しい結論を先に書きます。「ボケとツッコミのフレームワークが十分に機能するのは、神とイタコと世界が同一視される場合のみ」だということです。それ以外の状態で発生する感情誘起は、不和を生じてしまいますが、それを製作サイドが意識しないのは短絡だと含意しています。
先走った結論に思われるかもしれませんが、『神(イタコ)の下品が世界からリアリティを削ぎ、観測者が神(イタコ)に注目したにも関わらず、世界から観測者を没入させたままでいさせる条件』があるとすれば、『没入が解かれて目が向く先の神(イタコ)も、世界と同一であること』であるわけです。なので、この条件設定は論理的帰結によると言えます。
最も顕著な例が漫才です。道理に合わないことを考えるの(神)も、それを表現するの(イタコ)も、それが表現している対象(世界)も、同じ人物です。「今のは下品なのでは?」と世界からの没入を削がれたところで、その先にいる人も世界を構成する要素と同じ人です。よっぽどリアリティを削がれた場合は神/世界/イタコを切り分けて非難できてしまいますが("コミカルな動きがあざとすぎ"とイタコ成分を批判したり、"発想が弱すぎ"と神成分を批判したりなど)、それでもリアリティを削ぐ行為、つまり感情を誘起させる意図が伝わってくること自体は許容できてしまうわけです。
このフレームワークが機能する条件は、実はかなり特殊です。現に落語は漫才と非常に似た形態ですが、落語の世界(=登場人物)とイタコ(=落語家)は別人です。ですから、登場人物は不用意にボケることはしません。客を意識してボケてもよいのは「神=イタコ=世界」である、枕までです。一度落語の世界に入ると、世界=登場人物はボケられなくなります。世界の中に観客はいないからです。ギャグ漫画についても…これは過激派の意見に思われる恐れはありますが…落語と同じくボケやツッコミには向いていません。登場人物が場にそぐわないおかしなことを言った場合、読者は作者を意識しています。そうならないよう、神たる作者は感情誘起を世界におさめる努力が必要になってしまいます。はなから世界から目をそらさせて「作家性がすごい」を売りにする場合も多々ありますが、それは先述した『世界の拡張』が起こっています。
本来、ボケとツッコミのフレームワークがフルで機能する場面は、この通り非常に限定的なわけです。感情全体で見ても、"笑い"以外では成り立たないのではないでしょうか。日本は文化全体で、"笑い"の感情においてのみこのフレームワークの有効性が刷り込まれているため、ありとあらゆるメディアでこのフレームワークが散見されるかもしれませんが、そのことに甘えていては、気付かないうちに下品の烙印を押されていることでしょう。


4-2. 世界ありきのフレームワーク
二つ目のギャグ構築環境は、世界ありきのフレームワークです。言うまでもありませんが造語です。定義としては単純に、先ほどのボケとツッコミのフレームワークの逆で、「観測者の感情を誘起させる目的で世界が操作される際、世界が観測者を意識していないことが前提である環境」でよいです。先ほどの機能条件が「神=イタコ=世界」であったことに対し、こちらは神とイタコと世界の距離がそれぞれ離れている場合の方が機能しやすい傾向にありそうです。
平易に換言すると、先ほど(ボケとツッコミの〜〜)が下品前提、こちら(世界ありきの〜〜)は上品前提だということです。上品な態度で、つまり世界に観測者を意識させないように努めながら、観測者の心を動かさなければならない、という環境です。
特に好条件が整っていない場合、すべての作品はこの環境で制作されるべきでしょう。観測者を感動で涙させたいときに、皆大好きなお涙頂戴展開を用意する行為は下品です。上品でありたいのならば、緻密にその世界だけの背景を描き、その世界だけの心情を描き、自然に自然に、世界の成り行きに任せたかのような展開を心掛けるべきです。ホラーにしたって、その世界には存在しない唐突な大きい音で観測者を怖がらせていては下品です。
そしてこの文脈に沿うと、"笑い"を目的としてキャラクターに無理やりおかしなことを言わせるのも下品ですが、この日本では笑いに関してだけは、ボケとツッコミのフレームワークが浸透しています。ですから、観測者の笑いを誘起する目的においては、通常ボケとツッコミのフレームワークが選択されます(しばしばそれが下品に落ちやすいと意識されないままに)。

少し抽象的な話が続いたので、話を具体的にして内容の確認をしましょう。
先述の通り、ギャグを始めとして、感情の誘起を目的とした世界の操作は常にリアリティを犠牲にしています。これを再確認する意味で、そもそもこの世界の構成要素にはどういったものがあるのか、具体的に考えてみましょう。順不同にリストアップします。
(1) キャラクター
(2) キャラクターの心情
(3) 展開
(4) 舞台のビジュアル
(5) 舞台の文化
  :
などなど、無限にあります。我々が住む世界にも無限にものがありますから、当然ですね。
これら世界の構成要素を操作しつつ、上品でありつづけることがいかに難しいかを考えます。まず、たとえば(1)キャラクターに異常な発言をさせてギャグを産んでみましょう。この場合(2)キャラクターの心情に不和、つまり神を意識してしまうきっかけが生じ、観測者は没入できなくなる可能性があります。では(2)に不和のない状態でギャグを産む手段を考えてみましょう。たとえばすれ違いコントなどが好例です。ただしこの場合も、(3)展開に不和が生じ、観測者は没入を解かれるかもしれません。やはりすべての要素が上品なままでギャグを産むことは原理的に難しく、その中で世の製作者はバランスをとりながら世界を操作しているのでしょう。
この戦いに挑み上品であろうとした例をいくつか紹介します。
漫画で言えば『あずまんが大王』。発売当時「おかしなことが何も起きないのにおもしろい革新的な漫画」と評判を受けていたことをよく覚えています。「おかしなこと」とは、この文章の文脈に当てはめると、観測者を意識した下品な感情誘起を指しますね。ボケとツッコミのフレームワークにより出力されていないギャグは、当時の漫画においては非常に新鮮だったということでしょう。そしてご存知の通り、あずまんが大王以降(と言ってよいかに造詣があるわけではありませんが印象として)、観測者のためのボケもツッコミも、事件も展開もない、キャラクターの生きているさまだけを描く、その世界のリアリティをコンテンツとしている漫画は今やレッドオーシャンと化しています。
漫才で言えば、M-1優勝時のブラックマヨネーズが新しい漫才と評されたのは、正論の応酬という上品な世界操作だけでギャグが生まれていたからでしょう(ま、まずい、『お笑い論』感が出ている! じんましんが出る! すいません、ここで切り上げます!)。
またアニメでは、『ゆゆ式』の世界は非常に上品に作られていました。この上品さは執念深く意図的に作り出されたものであることがわかる原作者のインタビューを引用します。

アニメでいえば最初のスタッフさんとの意識調整の時に「この子たちの世界にはカメラはないです」という話をしました。客観的な第三者が覗いていて、それを意識するような言動はさせないでくださいと。この子たちには私たちのことは見えていませんからね。この子たちは芸人ではないので、僕らに対して笑いを取りに行っているわけじゃなくて、3人が話している中で、他の2人が笑ってくれるかどうかが大切なんです。

https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1448864128

世界を描く際に、第三者たる視聴者を意識するような行動を排除すること。それは自覚的に注意しないと、そうなりがちになってしまうこと。また、芸人は笑いを取ることが許されていること。僕はこのインタビューを読んだ時、まさにこれまでの考えを肯定してくれているような内容であると感じて、机を叩いて喜んだ記憶があります。
もう一つ、落語から、人間国宝柳家小三治が感銘を受けた志ん生の言葉を紹介します。それは、「落語をおもしろくするには、おもしろくしようとしないこと」です。なるほど、逆説的で深いな〜と唸ってしまいそうになりますが、これを今までの文章の用語を用いて抽象化すると「上品であるためには下品にしないこと」と言えるので、世界ありきのフレームワークを指向するための具体的アプローチ例として、シンプルかつ妥当な話だとわかります。(というより実は、余談ですが、この小三治が話した内容とプリパラのギャグに共通点を感じたことに端を発し、どこで結びついているかを掘り下げた結果、これまでの概念が見つかったという経緯があります。)
ありとあらゆるジャンルで、さまざまなアプローチをもって、リアリティを重視する上品さが指向されてきて、時にはそれは新しい笑いだと評され、時には流行となり、時には伝統を担うまでになります。メカニズムのプロセスや概念こそ仮説の入り込む余地はあれ、この事実に一切の主観や推測を挟む余地はありません。




5. プリパラの特殊性


ようやくプリパラの話をする準備が整いました。ここからは感情を"笑い"に限定します。
チラリと余談を書いた通り、小三治の落語とプリパラから、「世界ありきのフレームワーク」を指向してギャグが作られているという共通点を見出すことができますが、さてプリパラでは、どのようにしてそれを実現しているのでしょうか。どのようにして、ギャグの発現に際してのリアリティの犠牲と向き合っているのでしょうか。
さまざまなアプローチが試みられているのでしょうが、今回紹介するのは『ギャグの隠蔽』です。時には笑わせる意図があるのか判断がつかないギャグを、時にはあからさまに悪ふざけみたいなギャグを放っておいて、それを知らんぷりする、あるいは「これはギャグではない」と世界の住人が協力して隠蔽してくるのです。その効果は何か。世界に紛れ込んだ神からのギャグ異分子から、笑わせる『意図』という毒素を抜くことです。なぜ意図を毒素と表現したかと言うと、それが下品のもとだからです。この毒素を嗅ぐと、観測者は神の存在を意識し、没入から離れてしまうのでした。これを隠蔽することで、ギャグを『世界にとっての異分子』から『リアリティを持った違和感』に変えてしまうのです。その違和感はもう外界からの異分子ではありません。世界の一員です。このようなアプローチで、ギャグとリアリティを共存させることに成功させており、結果プリパラ(というより森脇真琴監督作品全般)の世界には、意図不明のコミカルな違和感に満ちることになります。


さすがに具体例を例示した方がよいでしょう。まずは第27話の、軽い悪ふざけに分類されるようなギャグから。

おっとりとした赤い髪の女の子(北条そふぃ)が、それまでそういったキャラ付けの気配がなかったにも関わらず、突如異様なセンスの私服で登場する場面です。このシーンで特筆すべきは2点。1つ目は、シーン全体で最終的におかしさを放っているのは、そふぃにならないように仕向けられているということ。そふぃ登場カット以降、キャラの強い校長先生のテンションにコミカルさの焦点が当たるように演出されています。これにより、よりふざけている方のギャグが隠蔽され、神の悪ふざけは世界の違和感として置き去りにされます。2つ目は、誰もそふぃの異常性を指摘しないどころか、気にも留めていないこと。茶髪の南さんも、校長先生も、お客さんも、全員がそふぃの私服に疑問を呈さないことで、世界のリアリティの維持に加担しています。また更に、それがこの世界のそふぃのありのままであるのよと言わんかの如く「疑問の呈さなさ」に拍車をかけるべく、


南さんはそふぃが店に入るためのスペースを目視し、


ドアを押さえてあげていますね。
相当の余裕を感じます。この悪ふざけみたいな被り物を我々にギャグとして認識させたいとしたら、その異常性を浮き彫りにするはずですが、実際は真逆で、悪ふざけ後とは思えないほど余裕のある丁寧な演出をもって、マイペースなそふぃとしっかりものの南さんの関係性を描き、世界のリアリティを保とうとしています。プリパラらしさを強く感じる1シーンです。
余談ですが、ISISによる事件が起きた後に発売されたBD版では、そふぃの被り物は水色に差し替えられていました。


悪ふざけの度合いを落としましょう。このような例もあります。6話です。

レッスン室がいっぱいで特訓できないことを嘆く際、小学5年生の口から「芋洗いだね…」と、待ったを掛けざるを得ない語彙が一発で出てくるシーンです。この時も金髪の子(みれぃ)が「計算外ぷり〜」とふにゃふにゃした動きで場を納めているせいで、「今ふざけたのは誰か」を隠蔽しています。結果、"語彙が異常"というギャグから意図が抜け、そこにはコミカルな違和感が残るだけとなりました。


更にギャグっぽさを落としましょう。タイトルが変わってもプリパラは健在であると安心させてくれた、アイドルタイムプリパラ2話からです。

「小さい富士山」「すごっ!」です。小さい富士山に関して、僕は本当になんの意図があるのかわかっていません。アイドルタイムプリパラでは、今後もこの場所に小さい富士山がしっかりとした美術で描かれており、それを見るたび僕は笑っていました。これはふざけているのでしょうか? ふざけていないとしたら、なぜ雪が積もっているのでしょうか? ギャグとして縁取った演出がなされていないせいで、またもコミカルな違和感として残っています。
(ただしこの小さい富士山に関しては、ファンの間でもあまり語られている印象がないので、これは「おもしろい」対象なのかどうかすら確証が持てません。僕が勝手におもしろがっているだけかもしれません。)


徐々に悪ふざけの度合いを落として紹介してきましたが、最後は悪ふざけも悪ふざけ、とうとうスタッフがやらかしたシーンを51話から紹介します。

初対面の田舎娘の発言に対して「語尾がない」と感想を巡らせるのは、この回が初登場の新キャラクター、プリンスの紫京院ひびきです。解説が必要かもしれませんが、これまでのストーリーでなにか『語尾』にまつわるエピソードがあったわけではなく、だから語尾という単語自体に我々視聴者は聞き馴染みがない状態でした。それが「ない」といきなり言うし、文字が流れる。このシーンを初めて見たとき、僕は完全なる絶句を強いられたことを覚えています。
「語尾がない」が与えた困惑を分解しますと、この新キャラクターがこのような感想を持ったストーリー的意図の不明と、marqueeタグのように文字が流れていた演出的意図の不明に分けられそうです。前者ストーリー的意図は、このときはまったく把握できなかったので、新キャラをして荒唐無稽な発言をさせるスタッフの悪ふざけか? と判断したくなりましたが、このキャラが語尾に対してこのような感想を持つ場面は今回限りで終わることはありませんでした。語尾で人を判断する性格になってしまったルーツも、この放送から半年以上後にようやく明らかになります。ストーリー的意図が存在してしまったということは、必然性があったということであり、つまり「ふざけてはいませんけど」と隠蔽されたということになります。後者演出意図に関して、こういった演出のギャグを僕は今まで見たことがありませんでした。だから99.8%スタッフ絶対ふざけただろとは思いつつ、残りの0.2%を埋める"意図"、「ギャグとしてふざけました」という得意さや照れの痕跡を欲しました。ところが最後まで尻尾を出さず、「ロマンチック〜♡」で締められてしまいます。結果このギャグ裁判は、意図がグレーのまま、疑わしきは罰せず、『最強の違和感』として残ってしまいました。こう考えると、ひどい悪ふざけのようでいて、ストーリー面でも演出面でもギャグ隠蔽力は働いていたことがわかります。

このようにプリパラは、ありとあらゆる場面で、いかなる悪ふざけの度合いのギャグであっても、おもしろさを隠蔽することで、「神から発信されたギャグ」を「世界の中にある違和感」に留める演出がなされてきました。そういった演出から小三治が大事にしている「おもしろくするために、おもしろくしようとしない」というスタンスを見出すことは自然です。おもしろさを強調せず、それが世界のありのままであるように描いた結果、「ギャグかどうかわからないが、ギャグじゃないとしたら異常」な意図不明の違和感に満ちた作品に仕上がっています。
最後にこの隠蔽メカニズムを経るうえで、どれだけ重要であると主張してもしすぎではないほど、とにかくとにかく重要な点を挙げます。それは、隠蔽できるギャグには非常に厳しい条件があることです。その条件とは、『観測者のギャグライブラリにまだ格納されていないギャグであること』です。見たことがないギャグ、未知のパターンによるギャグでないと、「ギャグではないですよ」と隠蔽できないということです。ライブラリと照合できたとたん、観測者は「観測者を笑わせる意図」という毒素を強く察知し、それがギャグだと認識してしまいます。敢えて書くまでもありませんが、これをクリアするのは相当困難な条件です。この条件を満たすだけでも貴重ですが、それを上品に仕上げようとするのは稀有と言えます。
プリパラでは"見たことがないギャグ"が、”ギャグではありませんけどという顔で"、数多く、本当に数多く、3年9カ月の間、正月を除き毎週休まず提供されてきました。これは、ありとあらゆるジャンルの娯楽から、まだ見ぬおもしろいものを探ろうという意識を持ちながらも、必然徐々にそれに出会うことが少なくなっており、傲慢にも「ギャグのパターンは全て見たか」という諦観にすら至ろうかという人間にとって、人生を照らす光だったんです。
これが僕が考えるプリパラの特殊性です。






6. おわりに

プリパラのおもしろさを、主に笑いという感情にしぼって書いてみました。またそれを表現するために、さまざまな概念を導入しました。いかがだったでしょうか。こんなことを一人で考えていると、「この考えはおそらく正しいはずだが、他の人にとってはどうなのだろうか」とわからなくなります。どうしたって具体性を帯びるとともに主観が混じってしまったかもしれませんし、抽象的なところは話がわかりにくかったかもしれませんね。ただなにより不安なのは、既知の事実を勝手に独自概念で複雑にとらえているだけと思われることです。短くするにも長くするにもジレンマです。どうなのでしょうね。なにか気になるところや、間違っていそうなところがあればご指摘いただきたく、コメントをお待ちしています。
どこかで、ライブシーンが持つエンタメとしての特殊性について、脚本との関係性の観点から書きたかったのですが、いたずらに文字数が増えてしまうので、今は「プリパラにはまだまだいっぱいすごいところがあります」と書くに留めておきます。ここまでお読みいただき、ありがとうございました。