加害者か?被害者か?それとも‥
世の中には残念なことや卑劣なことが多々起こっている。
そして世間一般的に多くの加害者が生まれている。
ただ果たして全員が加害者なのだろうか??
SNSで叩かれて亡くなる人がいる。叩いた人は加害者なのか?
犯罪を犯してしまった人がいる。犯罪を犯してしまった人は加害者なのか?
いじめを受けて亡くなった子たちがいる。いじめをした子たちは加害者なのか?
僕はどれも加害者だと思うし、それに見合った重い罰を受けるべきだと思う。
ただその人たちは加害者なのは間違いないが、この中には被害者でもあるような人がいるのではないだろうか??
この中には虐待されて育った人。発達障害があったのに、それに見合ったサポートが受けられず、常に馬鹿にされて育った人。能力はあるのに会社でその能力を発揮できずにいる人。そういう様々な背景があるし、背景を知ると同情したくなることもあるし、加害者ではなく、被害者なんじゃないだろうか?と感じてしまう時もある。
だからと言って許されるべきだとは思わないけど、罪を犯した人全員が全員悪人じゃないと思うし、「そんなことするやつは全員処刑してしまえ!!」というような考えにはならないというか、そういう考えには素直に首を縦に振れない。
ある人をSNSで叩いて自殺に追い込んだ人を、また叩いていては同じことの繰り返し。何の解決にもならない。犯罪者を、「くそ野郎だ、殺してしまえ!」と背景も知らずに言っていても、何の解決にもならない。いじめをしていた子どもに「いじめはよくない!なんでわからないんだ!」と言っても怒鳴りつけても、多少効果はあるだろうけど、根本的な解決にはならない。
そんなことよりも、背景にまで目を向け、想像力を働かせて、不満の原因を探り、これから同じようなことが起きないように努力する。例えばそのような不満を抱えている人からその不満を取り除く、減らすようなサポートをしたり、そういったことをSNSで発信したり、そもそもそのような不満が起きないような、子どもの時からのサポート体制を作ったりする方がいいのではないだろうか??そういった風なことを考え、つながり、発信していくことは、このような問題を起こしている人の主な原因の不満の解消やいきがいにはつながらないだろうか??
最後にもう一度強調して言うけど、犯罪のように人を苦しめたら、どんな理由や背景があろうと、罰せられるべきだし批判されて当然だと思う。でもまずその批判するのであれば、批判するのは自己満足(ストレス発散とか)ではないかと自分に問いかけるべきではないだろうか?そしてなによりも批判するだけでは先に進めない。背景を知ろうとするところからまずはじめていったらいいんじゃないか??そしたらもっとよくなるんじゃないか??そんな風に感じる今この頃。
そんな風に思うのは伊坂幸太郎さんの作品が好きだからかもしれません。
おすすめは、『サブマリン』『重力ピエロ』そして新刊の『逆ソクラテス』です。
興味がある人はぜひ!
知らんけど、なんか分かる① ~いつか点と点がつながることを信じて~
『いつか点と点がつながることを信じて』
これはスティーブ・ジョブスがスタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチからとった言葉であり、このブログのキャッチコピー的なものでもある。
そして僕がこの言葉に出会ったのは大学4年の冬だった。大学4年と言えば、サッカーを一旦離れる決断をした年であり、僕にとって大きな転換点であったと思う。
この話の流れ的には、「この『いつか点と点がつながることを信じて』は僕の人生を変えた言葉であった」というのが妥当だが、、、違う!。
僕がこのブログのキャッチコピーにこの言葉を使ったのは、ブログを始める数か月前”たまたま”この言葉に出会ったからであり、人生を変えるほどの『衝撃』や『感動』『運命』的なことはなく、なんかよくわかんないけど、「いいな。好きだな」くらいにしか思っていなかった。
とは言っても、ブログのキャッチコピーに使うくらいだから、なんか惹かれたのだろうし、実際この言葉に希望と勇気をもらったことは確かだ。
なぜかというと僕はこの当時、サッカーの世界(+学校)から、社会というそれはそれは大きな世界に急に出されてしまい、さらに自分を表す要素の90%を占めていたサッカーを急に取り上げられてしまったことにより、大げさかもしれないが、「自分と自分の世界の喪失」を経験したからだ。
そのため当時、藁にも縋る思いで、訳も分からんものをどんどん吸収しようとした。でもやっぱり今まで考えたこともなかったり、関わることもなかったりしたものだから、なかなか理解できなかった。でも『いつか点と点がつながる』という言葉はそれを正当化してくれ、希望と勇気をくれた。
でもこの当時は『いつか点と点がつながる』という言葉を本当の意味で、理解していなかった。もちろん今でも本当の意味で理解しているかは疑問だが、少なくても自分の中では大きく意味が変わった。
それは、つい最近読んだ内田樹さんの『日本辺境論』という本のこの言葉に出会ったからだ。
子どもには『知の可能性』があるけれども、実際には備えていない。そして知を備えていないにもかかわらず、『自分は知を備えていると思い込んでいる』。そのことが彼における知の可能性の開花を妨げている。知の可能性の開花は子どもの主観の側からは、『自分が真理だと思っていたもの』の喪失として経験される。
そう。僕は狭い世界(サッカーの世界(+学校))でそれなりに経験してきて、勝手に「それなりに知を備えている」と思い込んでいたし、「自分が真理だと思っていたもの」、例えばサッカーのポジショニングとかお金とかそういったことが崩れていって、喪失した。
これでは喪失しただけで、なぜ「本当の意味で理解できた!」という瞬間が訪れたのかの経緯の説明にはならない。
つまり、まだ内田さんの言葉にも、僕の経験にも続きがある。
まずは内田さんの先ほどの言葉の続きから。
この喪失の不快が乗り越えられるためには、今それを失うことを通じて、将来的にそれ以上のものを回復することについて先駆的確信がなければ済まされない。
そう。僕は自分や自分の世界を喪失をすることで、それ以上のものを回復しようとしたのだ。でもこの時はそんな確信なんてなかった。むしろ不安からやっていた気がする。しかしそれでも無意識のうちに直感に従うことをし、それがうまくいくと感じていたのだと思う(僕はわりと本能でやっていくタイプだったし)。
さらにそのあと、このようなことが書かれていた。
「未開人たちは、ジャングルを歩いているとき、植物、有機物、無機物、人工物、自然物といろいろなものに出会う。そんな中あるものを目の前にしたとき立ち止まる。そして「こんな物でもいつか役に立つかもしれない」と背中の合切袋に放り込む」
その時ピンと来た。「あ、これが『いつか点と点がつながる』かー!!!」と。
そして僕はこう検索した。「内田樹 スティーブ・ジョブズ」。
そしたら見事にヒット。スティーブ・ジョブズのこの言葉について書いているブログ記事があった。
内田さんもそう思っていた。当たり前だけど。
そして内田さんもスティーブ・ジョブズのこの言葉を絶賛していた。
そう。つまりこれで”ようやく””僕はこの『いつか点と点がつながる』という言葉の有用性というか素晴らしさに気付けた。
僕は「先駆的に知っていた」のかもしれないけど、それは今になってからじゃないと説明できない。そういうものってこと。それを今のところ自分の言葉で表すと『知らんけど、なんか分かる』。うーん、でもなんかもっとぴったりの言葉がある気がする。それはこれから惹きつけられた”がらくた”の中からいつか見つかるだろう。それはもう知っている言葉かもしれないし、これから知る言葉かもしれないし、その組み合わせかもしれない。
よく考えたらこういうことは何回かあった。
「この言葉なんかあんまりよくわからんけど、気になるなというのがたまにあって、そういうのをメモしておく。そうすると他の本とか記事、または実際の仕事とかで同じようなことを他の表現で表していたり、他の視点から書いていたり、実際にそういう状況を経験したりして、そこでようやく『腑に落ちる』という経験を何度かしていた」
具体例を一つだけ。
僕はサッカーの指導者をしているが、この仕事を始める前に中野吉之伴さんの「ドイツの子どもは審判なしでサッカーする」という本を読み、正直その時はあまり実感がなかったが、その冒頭の言葉が良いなと思いメモしておいた。
その言葉は、
「あと5分!」
夕暮れどきのグラウンド。練習時間の終わりになると、決まって子どもたちはそうやって楽しそうに叫びます。5分が過ぎても、「あと3分!」「今度が本当のラストワンプレー!」と粘ってきます。「終わらないじゃないか」と、僕は思わず苦笑い。
僕はこの瞬間ほど、かけがえのないときはないと心底思っています。
これをちゃんとした意味で実感、理解したのは、そういう経験をした瞬間だった。
そして『いつか点と点がつながることを信じて』という言葉は僕の中で大きく変わり、大切な大切な言葉になった。
※まだ「知らんけど、なんか分かる」というテーマで書きたいことがあるのですが、それはまた次回以降に書きたいと思います。
音楽できないって損しているね
ついこないだ子どもに「音楽ができないって損しているね」と言われた。
ごもっともだ。
ピアノをその子たちが弾いていたのだけれども、自分は同じように弾けない。当たり前だけど。
そしてさらに音を出してもらってもそれがド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シのどれかもわからない。
ほんと音痴だし損をしている。
自分が音楽から感じられないことをその子たちや世の中の多くの人たちはきっと感じられているんだろうな~と羨ましくなる。
コロナの影響で時間を持て余してしまっていたので、久しぶりにこの映像を見てみた。
The Greatest Showman | "From Now On" with Hugh Jackman | 20th Century FOX
ヒュー・ジャックマンも感涙!映画『グレイテスト・ショーマン』「This Is Me」ワークショップセッションの様子
僕はやっぱり何回見ても感動してしまう。心を動かされてしまう。
音楽の技術も知識もないのに、心を動かされてしまう。
僕の中での一番の音楽だ。
僕は音楽の技術も知識もないことで損をしているかもしれない。
でもだからこそ、中途半端にいいものは僕のフィルターを通れない。
すなわち僕は”いいもの”だけを聴けるのかもしれないという結論は‥‥楽観的すぎか(笑)
まぁそんなこと言っても、作る側にはなれない。だからこそやっぱりこうやってみんな作る音楽の中で1つの役割(歌える、ピアノを弾けるとか)があったらいいのになーって思う。楽しいんだろうなーって思う。そんな風に虚しさを感じながら、なかなか眠れない今この頃。
2019年の学び ”想い”が先
遅くなりましたが、あけましておめでとうございます!
「2020年」
なんだか節目の年であり、時代が変わるような予感はします。
それは2020年といえば何と言っても、東京オリンピックがあるから。「普通の年とは違うな」と、自国開催である私たち日本人の多くはそう感じているのではないでしょうか。
そうそう。それに自分はこないだの二次募集でサッカーのチケットが当たったので、人生初のオリンピック観戦できる年です。それはわくわくしますよね。(ちなみに冬のオリンピックは記憶にないですが長野オリンピックで見に行っていたので初かは微妙なところですが)
皆さんはどうでしたか??(当たってないでしょう?羨ましいでしょう?)すみません少し自慢が入りました。
そのことで思い出したのですが、こないだ家族に「最近子どもっぽくなったね。あ、でもよくこどもと接しているからか」とボソッと言われました。普通にショックを受けました。
子どもを大人である自分の方に寄せるのが仕事のはずが、自分が子供の方に寄ってしまっては元も子もないです。気を引き締めて、やっていきます。はい。
でも皆さんこういうことないですか?「自分だけ!」みたいな特別を望んでいたり、そうなったら自慢したくなったりすることってここだけの話ありますよね??
自分はそう思ってしまうことは大人でもあると思います。ただ大人と子どもの違いはそれを口に出すか出さないか。そこだと思います。自分は口に出してしまったので子どもです。
話を「時代の変わる予感」のところ戻すとソフトバンクのCMで2020年に5Gを導入するということを言っていましたが、その影響力も大きい。あまり詳しくは調べていませんが、5Gによってできるようになることがたくさんあるようです。例えばドローンや自動運転、IOTなんか。しかしこれもまだ序の口のようで、これからますます進化していくようです。でも進化は何でもいいように聞こえますが、本当にそうでしょうか。自分はそうとも限らないと思います。だからここでの自分が使った進化の意味合いとしては、技術的に可能なことが増えるということです。ただできるからってやらなければいけないとはならない。このへんのことは今日のテーマなのでこのあたりにして、またあとで触れたいと思います。
また大学入試も大きく変わる予定で・・・いや変わりませんでしたね。残念です。
でもこういうところから自分は時代が変わるという予感を感じていますし、予感も感じていなければ時代遅れになるでしょう。ただ時代遅れにならない、つまり時代に合わせるということに関していうと気を付けなければいけない。どういうことかというと「時代に合わせること」とか、「必要性を感じて」とか、サッカーで言うと「戦術的に」とかは後の話で、その前に”想い”が来る必要がある。そしてその”想い”が強ければ下手でも、ハチャメチャでも伝わる。なによりその想いが違いを生む。それが今年一番の学びでした。
そして今から「なぜそう思うようになったのか?」を今年を振り返って書いていきたいと思います。前置きも少し長くなり、また今回は去年の総まとめということで、6000字程になってしまいました。長いかもしれませんが、辛抱強く読んでいただけたらと思います。
まず改めて簡単に今の自分の状況を説明すると、大きく言えば教育業界に関わっており、もう少し細かいところだと、ジュニアサッカー、学童に関わっています。ただ中心はサッカーであり、自分の見ている学年の中で一番大きな大会が去年の11月に開催されました。自分の中でその大会は今年一番のメインイベントとして捉えており、なにをするにも、その大会のことを意識していた気がします。
ではなぜそこまでその大会にこだわっていたのか?
悪い言い方をすればなぜそこまで執着していたのか?
それはまず客観的事実を整理すると、
- 自分自身初めて大きな大会を監督として任された大会であること
- その大会は県大会につながり、チームとしては県大会に行って当たり前という雰囲気があること
- 父兄や他のチームなど、様々な人たちの「あのコーチどんなもんなのかな?」という目があること
- 指導を始めた時からずっと見ている学年の大会であること
- 来年はこの学年の子たちを実際に指導することはなくなるので、そういう意味では最後の大会であること
このような事実から
「結果を出して、僕自身コーチとして、周りから良い評価を得たい(得ないといろんな面で不都合が生じるという危機感も)」
「この子たちと、勝って喜び合いたい」
と思ったし、そのような強いプレッシャーや願望から、この大会は自分自身にとって死活問題であった。ゆえにこの大会にこだわり、執着したと思う。
一旦ここで自分の”想い”を考えるため、話を進める前に少し指導を始める前までさかのぼりたい。
指導を始める前、自分にとってサッカーは、勝つことがすべてではない気がしていたし、楽しむことが何より大切だと感じていた。ただ指導しはじめて感じたのは、楽しむことは大切だけど、楽しむためには必死になること、チームがまとまることは不可欠だということ。だからこそ勝ち負けという結果は結果にすぎないからいいんだけど、”勝ちたい”と思うことは大切だし、不可欠だと感じた。勝たなくても楽しめばいいなんて思ってやった試合に楽しみや感動は見いだせない。これは今でも基本的に正しいと思う。
ただ今振り返ってみるとここで問題だったのは、”勝ちたい”が暴走してしまったこと。勝つことが一番の目的になってしまったこと。県大会で勝って、あの子たちと喜び合いたかった。それは本心だ。だからこそ、細かいことまで言ってしまった。少々のミスを気にしてしまった。あの子たちのレベルを超えることまで要求してしまった。自分の頭の中ではできると考えていることができないと苛立った。要求が多すぎた。子どもの方をちゃんとみてやれなかった。子どもの目線で考えてやれなかった。自分自身が焦ってしまっていた。頑張って、修正点を直そうと指導するほど、子どもたちの心は離れていってしまった。すごく後悔している。
でもそういうことに県大会10日前くらいに少し気づいた。それで子どもたちの声を聞いたり、要求を減らして、シンプルにし、のびのびプレーできるようにしようとした。
そして県大会前日、「君たちといい試合、後悔のない試合をしたい」ということを子どもたちに感情を込めて話したときには、みんな聞き入ってくれた。あの時、子どもたちのこちらに向ける視線は忘れないと思う。単純に嬉しかったし、まだ子どもたちの心は完全に離れてしまってはいないなと思い、ひとまずホットし、「まだ望みはある!」と希望を持てたのを覚えている。
あと伝えたいことが明確かつ強ければ、下手でもハチャメチャでも伝わると感じた瞬間でもあった。
でも県大会には行けたが、結局結果は出なかった。
遅かった。気づくのが遅すぎた。
子どもたちは頑張ったが、100%の力は出し切れていなかった風に自分の目には映る。
それが悔しいし、申し訳なかったなと感じる。
そうやって後悔の念を捨てきれず、自分自身切り替えができていない状況で、県大会後最初の練習を迎えた。
その練習で自分の意に反して子どもたちに心を動かされてしまった。
みんなが必死で夢中で、どちらも勝ちたい気持ちが前面に出ていて、その中でただがむしゃらにやるのではなく、意図をもって、相手と駆け引きしたうえでのプレーが何回も出た。試合は引き分けだったと思うが、「よし終わりー!」と自分がいったら、子どもたちから「まだ!!」「もうあとワンプレー」とそこら中から声が上がった。ほんとに楽しかったのだろう。いい顔をしていた。その次の週の練習もよかった。試合で負けてたチームの子に「練習楽しかった?」と聞いても、素直に「楽しかった」と言えるのだから楽しかったに違いない。
その時に初めて感じたことではないが初めて自覚したと思う。自分は子どもたちに夢中になれる機会を、そこから得られる大きな心の動きを、そしてそれを仲間たちと共有出ることを経験してほしいと思っていることに。そして自分自身そういう経験をしている子どもたちの姿を見たいと願っていることに。またコーチとして密に携わって見れた時、より心を大きく動かされていて、それを望んでいるということに。そしてなによりこれこそが自分の一番の”想い”なんだということを自覚した。
「結果を出して、僕自身コーチとして、周りから良い評価を得たい(得ないといろんな面で不都合が生じるという危機感も)」
「この子たちと、勝って喜び合いたい」
という県大会に対する”想い”は今回自覚できた根本的な”想い”があったらまた変わっていたに違いない。もちろん勝負の世界であり、結果や評価というのが付きまとう以上、きれいごとばかり言っていられないこともわかっている。それでもチームがこの大会から得られたものは、表現としてはあまりに抽象的で薄っぺらい感じになってしまうが、絶対にもっと”いいもの”になっていたと確信している。だからこそこれだけ後悔しているのだと思う。
そうは言っても県大会が終わって2か月の間に10数回の練習をしたと思うが、この気づきを忘れてしまっていたこともある。またよからぬ方向に進みかけてしまったこともある。でもここにまた戻ってくればいい。戻ってくる場所を見つけられた。
サッカーの指導に関して言えば、どんなこともこの”想い”に反しない限り、良い方向に進むことになる。
それを抽象度を上げ、視野を広げれば、他のことにも適用できる。
どんなことでも、自分の根本的な”想い”はなんなのか?それをしっかりもつこと、意識することは大切だということ。
さらにいうとその強い想いは必ず人に伝わるということ。
もちろんそこから現実問題として何かをしようとか作ろうとか何か人に行動してもらおうとするなら、そこには技術や論理などが必要だし、スキルが高いほど、うまくいきやすい。
ただそれはあくまで手段に過ぎないということ。いくら技術があっても、想いがなければうまくいかなかったり、よからぬ方向に行ってしまったり、それなりの結果しか出なかったりする可能性が高い。逆に想いがあって、それが強ければ、なんだかんだ伝わる、仲間は出てくる。
そこから現実問題としてどう解決していくかというスタートラインには立てるし、想いがあれば、解決するためにいろんなことに気付き、取り入れていくこともしやすいと思う。
だからこそ”想い”を大切にしたいし、”想い”からスタートしたい。
そんな風に考えてみると、いろんなことがこれと同じようなことを言っていたとわかる。
例えばこないだの紅白歌合戦ではこの番組に出ているからにはそれなりの歌唱力やダンスのスキルを持ち合わせているのだと思う。でも自分自身が心を動かされたのは、リトルグリーモンスターと菅田将暉とちょっと別の意味になるけど欅坂だけだった。自分が感じることができていないだけかもしれないがこの3つのグループだけはどうしても伝えたい、表現したいことや想いがあった風に見受けられた。ゆえに自分は心を動かされたと思う。
紅白で言えば秋元康さんがAI技術を使って美空ひばりさんの新曲「あれから」を作る過程で感じたこととして、「想いを具現化するのがテクノロジー。つまり先に”想い”がこないといけない」と言っていた。
あと2019年の11月に静岡で大道芸ワールドカップが開催されて見に行ったが、その中でおととしのチャンピオンの演技を見ることができた。そのチャンピオンが最初に発した言葉は「ようこそ俺の世界へ」だった。
アルゼンチンでサッカーランセンスの取得を目指し勉強されている河内一馬さんは「芸術(アート)を補助するのが科学(テクノロジー)」と言っていた。
便利は人を不幸にするという本では「技術的に可能だからやるのではない。やらなくてもいいという選択肢はある」みたいなことを言っていた。
考具という本の中に川崎さんの、「デザインはわがまま→思いやり」という言葉があった。
サピエンス全史という本では「唯一私たちが試みられるのは、科学の進もうとしている方向に影響を与えること」と言っていた。
はじめての哲学的思考法という本では「意味の世界は事実の世界に原理的に先立つ」と言っていた。
リバプールのクロップ監督は「戦術はとても大切だよ。戦術なくしてかつことはできないけど、強い気持ちが違いを生み出すんだ。」と言っていた。
僕にはいろんな人が同じことを違う表現で言っているように感じる。
そして本質をついているのだと感じる。
みなさんはどうでしょう???
最後になりますが
いろんな人がこのようなことを言っています。
「人間はようやく様々なことの本質ついて考えざる負えない状況に立たされた」と。
いや言い方を変えましょう。
「人間はようやく様々なことの本質について考える環境を与えられた」と。
「人間とは?」
「人生とは?」
「心とは?」
「サッカーとは?」
「教育とは?」
「自動運転車の事故はだれが責任を取るのか?」
「タバコを吸って使えなくなった肺を、再生医療で作り、入れ替えるのはやっていいのか?それはもともと肺が悪い人と同じ金額でやるのか?」
そう。答えのない問題にすべてではないが僕たちは納得解を出していかなければいけない場面が出てくる。例えば自動運転車とタバコと肺の問題なんかは納得解をださないといけない問題だと思う。そうしないと多様な個人の集まりの社会はうまくまわっていかないから。
個人としては選択肢が無限に増える多様性のある世界で、自分が納得できる生き方を決めて行動していかなければいけない。いや、していかなければいけないと言ったが、した方がいいと言いなおす。集団の場合は決めないといけないが、個人の場合は決めなくて他者は困らないし、決めるのは個人の自由だから。ただ決めてやっていかないと楽しく、幸せに、豊かに生きていくことは困難になると思う。その根拠になるものが2つあるので引用してみます。
1つ目は糸井重里さんのインターネット的より
「これからの時代は、大きさは別にして、あらゆる場面で立候補しないで生きていくことが、困難になるでしょうか。どっちの道に行きたいのか、何がいやで何がしたいのか、何を美しいと感じ、何をみにくいとと思うのか、そういったことを自分なりに生きるための『軸』として持っていないと、他人とリンクしたり、他人の協力を得られたりできないでしょう。」
2つ目は藤原一博さんの本を読む人だけが手にするものより
「成熟社会では、『それぞれ一人一人』が自分自身で、世の中の流れと自らの人生とを鑑みながら、自分だけの幸福論をきめていかなければいけない」
「『人生のとらえ方』とは、いわば人生の幸福の実現のためにどういうテーマを持ち、どういうベクトルに向かって進んでいくかということだ」
だから自分は”想い”をしっかり持ちたい。
今の自分の想いというかテーマのようなものは
- 自分の心も人の心も動かす(動かされる)こと
- 多様な他者とより良く生きていくこと
でもこれはまだ洗練されていないし、強さが足りない。
だからこそ2020年はこのテーマに沿った”想い”しっかり育てていきたい。
そしていつかこのテーマに沿った”想い”を今は教育という舞台で考えているが、どんな舞台になるかは正直わからない。でもこのテーマに沿った"想い"を実現、表現していきたいと思う今この頃。
エスパルスの試合を観て感じたこと。
つい先日の休みの日に地元のクラブであるエスパルスの試合を友達と観に行った。自分たちは共にサッカーの指導者をしている。だからどうしても、コーチ目線というか、戦術のところに目がいき、「今のこうした方がよくない?」「あの選手の今のポジショニングどう思う?」「今みたいに子どもたちもプレーしてくれたらいいんだけど、子どもはこうなっちゃうよね」「こういうことは子どもに教えておきたいね」みたいな会話ばっかりしていた。でも楽しかった。専門性を深めると全部を出して話せる相手は限られてくる。だから自分はこうやって好きなこと、夢中になっていることで議論できた(大げさかもしれないけど)のが楽しかった。
ただ家に帰るまでの道のりで、楽しかった充実感と共になんだか何かを失った喪失感のようなものも感じた。
3-2の好ゲームでエスパルスの試合は勝利に終わった。子どもの頃なら大喜びして、ご機嫌で家に帰ってきたと思う。でも自分はエスパルスが勝ったことにあまり喜んでいなかったような気がする。また点が入った時に周りのサポーターは立ち上がって、声を上げて喜んだ。でも自分たちは冷静にそのゴールを分析して、友達と意見を言い合っていた。それはそれで楽しかったけど、なにか引っかかるものがあった。
自分で言うのも何だが、自分はあのスタジアムに来た15000人のサポーターの中でも戦術に関して言えば、上位1%に入るくらい詳しかったと思う。なのに残りの99%の人の方があの試合を純粋に楽しめていた。1つのゴールに喜び、1つの失点に悲しみ、相手のファールがあったら、審判に体を乗り出してアピールし、ノーファールになったら、審判に罵声とブーイングを浴びせる。あの試合を自分事として捉え、プレーしてる選手とスタジアムに来ている10000人以上のサポーターとその時生まれた感情を共有していた。
それに比べて自分はプレーヤーやサポーターの方との間に線を引き、感情の起伏もなく、冷静に対象として、他人事として、俯瞰して、あの試合を見ていた。
だからこそ羨ましかった。
ちょっと前の自分なら、あいつらなんもわかってないくせによくそんなに喜べたり、言えたりするなって思ってたかも(笑)
何もしていないのにいい思いしてるのが許せなくて。
でも今は主観的(自分事)になることと客観的(他人事)になることの両方とも大事で、またそのバランスを取ることが何よりも重要だって分かってるから、「あー、これに自分は羨ましがるんだ」って素直に感じられる。
生を実感できるというか、心が大きく動くのは主観的な経験の中だと思うし、客観的に捉えることに比べて重要に感じられる。でもだからといって過剰なると、見える世界も限られてくるし、あまりに刹那的過ぎる気がする。物事をありのままに見るため、冷静な決断を下すためには、客観的になること不可欠である。
もう一度言うけど、つまりそのバランスを取ることが何よりも重要ってことだし、両方大事にするからこそ見える世界があると自分は思う。
最後にやっぱりサッカーってすごいなと思うと同時に、つくづくサッカー選手が羨ましいし、一度でいいからあの大歓声の中でプレーしてみたかったなと思う今この頃。
「ままならないから私とあなた」を読んで。
「時代の変化は淘汰よりも共存という言葉に言い換えられる」
この一文は朝井リョウさんの「ままならないから私とあなた」からのものだ。
「死にがいを求めて生きているの」から始まり「もういちど生まれる」「何者」そして「ままならないから私とあなた」と立て続けに朝井リョウさんの作品を読んできた。
この人はあまり自分で認識したくない、見ないようにしていたところをうまく言葉にして伝えてくれる。だからこの人の作品は正直読んでいていい気分にはならないけど、なんだか読んでしまう。
さて本題に戻るが、「ままならないから私とあなた」は無駄を省き、効率重視で新しいモノを作り続けたい薫と人間味や無駄なことの中に大切なことがあると信じる雪子の幼少期からの成長を描いた物語である。
自分はここ2年くらいよく合理化や無駄のことに考えてきたつもりだし、よくこのブログでも書いてきた。
自分は無駄が大切だと主張してきたけど、最近また少し変わってきて、それをうまく表現してくれていたので今回それについて少しまとめてみたいと思う。
人にはある程度持って生まれて、好みや向き不向きがあるのは誰も疑わないと思う。
そして様々な経験をその好みや向き不向きを通して経験し、そこからなにか発見し、学び、糧とする。それは自分や周りのことを理解するための材料を増やしていくことだ。考えるためには材料が必要である。
でもそれは自分が経験したことでしか、自分含め、周りのことを理解できないとも言えると思う。そこが今回のポイントでもある。
絶対的な存在、それは両親や教師、コーチ、先輩、プロの選手、芸能人、その他にもいろいろあり、人それぞれ違うと思うが、その人たちの言葉や行動は、時にその人に大きな影響を与え、指針を作ることがある。
また成功体験、失敗体験、それ以外にも様々な経験からも価値観や判断基準、指針が作られる。
ただこの本の言葉を借りるなら
「自分の人生なんて、成功例ではなく、ただの一例に過ぎない」ということだ。
自分がたまたまそういう経験をしたからかもだし、自分に合っていた、合っていなかっただけかもしれないし、時代的にかもしれないし、年齢的にかもしれないし、技術的にかもしれない、日本だからかもしれない、男だからかもしれない。ほんと一例に過ぎないのだと思う。でも自分にとってはそれがすべてである。
だから今回の話であれば、他の選択肢があることを知らされたり、より便利にできると知らされたりすると、今までの努力や時間はなんだったのかと思わざるおえない。だからこそ新しいもの否定し、自分を守るようになるのもある意味仕方ない。なぜならもう後戻りできなかったり、今までの努力が意味がなかったと認められる勇気がなかったり、選択肢を増やしただけという新技術はビジネスの世界では、それを使わざるおえないようになったりすると思うから。反対したいから反合理主義になったり、そういうやり方が正解だと思い、合理主義になったりすることもあるし、もちろんこの他にも理由はあるし、持って生まれたの性格かもしれない。
他もあることがきっかけだったり生まれつきだったりはするかもだけど、アウトドア派とインドア派、田舎派と都会派、社会主義と自由主義、ストイックとマイペースみたいに分けられる。でもおおよその人が完全にどちらかに分かれるわけでもないと思う。
朝井さんの言葉を借りると
「右と左に分けようとすると、1ミリずつ左右にズレている人たちだって、1キロ離れている人たちのところまで、ザッと分けられる」
「集団の中のグラデーション」
つまり田舎がいい人だって、東京に観光に行く時だってあると思うし、インドア派の人もバーベキューしたい時もあるはず。なのにこの世の中はどちらか一方に分けようとする。
これは自分と他者が相反していることだけではなく、そもそも自分の中にも、相反する欲求みたいなものがあるということ。
しかし反合理主義と周りから思われたり、なにかをきっかけにそう自分で思い込んだら、そんな自分を貫くために合理的なことを求めている自分を見ないようにしたり、無理やり排除したりする。
それは中途半端がダサいと思っていたからなのかもしれない。でもほんとはそんなことをせず、共存するというか、両方やってもよいのだろう。そっちの方が息苦しくないし、楽しい。それに別にダサくはないと思う。
逆にどちらかに振り切れてしまうと、反対側を許せなくなる。つまり批判したくなる。なぜなら、反対側を認めてしまうと、自分がそこまでこだわっている理由がわからなくなるから。自分を否定することになるから。
そういうこともあって、批判すること自体がやりがいになることも多い。伊集院静さんの本にこんな言葉があった。
「許せないやつが人生を豊かにする」
たしかに自分もそんな経験があるからわかるし、エネルギー湧くし、やりがいみたいなことになるし、正義感をもって取り組んでますみたいになるけど、これって不純な理由が多いし、結局対立を深めるだけで、根本的な解決にはならないんじゃないかなと今回思った。
そもそも相反するものって、互いに補い合い、互いに高め合うものも多いはず。
だからこそ相反するものを対立として捉え、互いが互いを淘汰しようと攻撃するのではなく、共存し、補い合い、時に干渉しないこともあれば、可能であれば高め合う方法を探ることがあってもいいと思う。
それは自分と他者だけでなく、自分の中にある相反するものも含めて。つまり無理やり振りきるのではなく、自分の中で相反するものがあっても受け入れ、うまいバランスを探し、それに合う環境の中で生活できるよう試みる。逆に合わないところは受け入れるけど、受け流すようにすることが大切だと思った。
今回の非効率的な人間味か合理主義みたいなところで言えば、やっぱりある程度便利になるというか、無駄がなくなることもいいと思う。だけど、そうじゃないところ、こだわりがあるところはいくら、「お前はなにをそんな無駄なことやってんだ!」と言われてもそうしていたいし、そういうモノやコトをもっている人になりたいと思う。
ただ最後にこうやって対立し、淘汰しようとすることを批判しているということは、自分がある意味矛盾しているということを俯瞰して見ていられ続ける人でありたいと思うと同時に俯瞰して見られる人はどんなことも他人事として考えてしまう冷めた人とも思え、矛盾にさらに矛盾が重なり、なにがなんだかわからない今この頃。
自分にとって教えるということ。
人になにかを伝えたり、教えたりすると、理解できていたと思ったことが思ったよりあやふやだったり、根拠や背景が分かっていなかったりしたところ気づけることがあると思う。
「あれ、ここの根拠は?」とか「どういう背景からこれがあるんだろう?」とか自分の中で疑問が出てくる。
また質問も自分がどれくらい理解できているのか、どこが理解できていないのかを知る指標となる。
自分がよく関わるのは小学生年代の子たち。
だからこそあいまいな理解で説明すると、子どもたちに理解してもらえない。
またこの年代だからこそ、素朴な疑問や本能からの言動はシンプルかつ正直であるが故に本質的で根本的な問いを生んでくれる。
例えば
「なぜ勉強するのか?」
「大人って楽しいのか?」
「なぜ花は蜜を作るのか?」
「なぜ人を馬鹿にしてはいけないのか?」
「なぜカラスは死んでしまったのか?」など。
勉強するのは将来役に立つからという、自分たちも納得できない答えで子どもが納得するのか?
「自分がされて嫌なことを人にしない」はよく聞くけど、自分がされて平気でも、その子にとっては平気じゃないこともあるからどうなんだ?
他のことだって、何気ないことだけど、疑問に思うことだけど、普段はあまり考えないもの。そういうことに気づかしてくれる。
他にも子どものサッカーでは当たり前のことが当たり前だと思っていないから、大人なら感覚でわかるところを、より根本から具体的にわかりやすく説明しなければいけない。自分もよく説明していて、「あれ、うまく説明できないな」ということがあるし、それは理解が不十分だからなのだなと思う。そこからサッカーをより知れる。
そんな風に物事を他の視点から見るきっかけを子どもたちから与えてもらうことで、歳をとれば取るほど新鮮さを失う世界の中に新鮮さを取り戻すことができる。
新たな側面に気づくこと、なにかとの関連性やつながりに気づくこと、そういったことを通して、わかりきった繰り返しの日々に変化を加えることができる。そうじゃなかったら、つまらない、面白みのない毎日になってしまうと思う。
最後に頭で理解しようとすると分からんけど、なんかいいなと思うし、今回の内容と関連のありそうな、村上春樹さんの海辺のカフカの一文を紹介して終わりにしたい今この頃。
"退屈でないものに人はすぐに飽きるし、飽きないものは大体において退屈だ"