かまたまきぶん

学生ライターかまたまのブログ。きぶんの浮き沈みが激しいです。

かやくの袋にあるギザギザの存在意義というパンドラの箱を開けた

 


こんにちは、かまたまです。

 

カップラーメンについてる「かやく」の袋、あるじゃないですか。

あの袋の形状を、細部まで思い出してみてくれませんか?

こんなクソどうでもいい作業に皆さんのシナプスを無賃労働させてしまうのは大変忍びないのですが、騙されたと思ってやってみてください。

思い出せましたか?


はい、おそらく大体こんな感じではないでしょうか。

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 細部までとか言いながら私の記憶の中のかやくの解像度はこれが限界でした。


で、さらに注目してほしいのが、この袋の上下の端についてるギザギザ

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これって、袋を手で破って開けやすくするためのギザギザだと思ってたんですよ。

手で袋を切るとき、だいたいこのギザギザのほうを持ってビリっとやるじゃないですか。

 

でも最近、このギザギザの存在意義が失われてると思うんです。

正確に言うと、

意味のないギザギザが袋に刻まれていることに気付いてしまったんですよね。

 

私がこの説を唱えることの意味がたとえギザギザ以下であっても、私は言いたい。

 

いま、この時代、

袋のギザギザ、いる?

 

いや、なんでかっていうと、
袋のギザギザじゃない方の側を見てくださいよ。

 

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最近のかやくの袋って、ここに、

 

「こちら側のどこからでも切れます」

 

って書いてあるんですよ。

 

ギザギザしてないところですよ?


ギザギザじゃない側の、

どこからでも、

切れるんですよ?

 

 

 

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じゃあこのギザギザは何なんだよ!!

 

おい!!!!

 

切りやすくするためのもんじゃねーのかよ!!!!

 

おい!!!!

 

なんとか言えよ!!!

 

ちくしょう!!!!!

 

なんなんだよ!!!!

 

お前の!!!

 

存在意義は!!!!

 

どこにあるんだよ!!!!!

 

 

 

 

 

 

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かやく袋のギザギザ。

我々の手が何万年もの進化を遂げてなお不器用であるがゆえに、指先だけで個包装の小袋を開けるには……ギザギザ、いつだってきみが必要だった。

 

しかし、今はテクノロジーの時代。

 

ギザギザをつけずとも、手で簡単に切れるマジックカットという今世紀最大の大発明が、ギザギザの存在意義を魔法のように溶かしてしまった。

マジックカットが施された袋になお残るギザギザは、さながら額に入れられた古い賞状のようだ。

 

 

 

ちなみにここまで、袋のギザギザの意味が「手で切りやすくするため」と決めてかかったまま独断と偏見で書いてきたので、そろそろちゃんと調べてみます。

 

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は???

 

一向に欲しい情報が出てこない。

「かやく 袋 ギザギザ 理由」とか「かやく 袋 切れ目」とかで検索してもほとんと検索結果は同じ。

まさかと思って日清食品エースコックのHPも見てみたが、ギザギザの存在意義は書かれていない。

 

なんで?

 

これではますますギザギザが浮かばれない。

 

調べても調べても、出てくるのは「ギザギザが邪魔」とか「かやくはどうして別包装なのか」とか「かやくと粉末スープの入れる順番」とか……

 

んなこたあ!!!!

 

どうでもいい!!!

 

お前らはギザギザの、いやギザギザさんの、存在意義を、少しでも知ろうと思わなかったのか!!

 

……いや、私が悪いのか?

もしかして私は、ギザギザの存在意義というパンドラの箱を開けてしまったのだろうか?
 

とにかく、調べても出てこないとなれば、もう自分で勝手に推論するしかない。

 

とりあえず、かやく袋のギザギザの意味は「手で切りやすくするため」である、と定義する。

とすれば、いま製造されているマジックカットつきの袋にギザギザを入れる必要はない。なぜならマジックカットのほうがギザギザより切りやすいから。

 

では、マジックカットのある袋に、なぜ未だにギザギザがあるのだろうか?

 

……。

 

それがわからんからこうして書いてるんですけど!!

誰か教えてよ!!!!

ねえ!!!!

 

なに? 工場の製造過程の問題とか?
かやく袋をつくる機械にギザギザをつける機能がまだついてて、そこに追加でマジックカットをつけるよう改良しちゃったとか?

 

だとしたらもうギザギザって完全に過去の踏襲じゃん……。
悪しき伝統じゃん……。
「先輩より後に部室に入ってはいけない」みたいな意味わからんルールがまかり通ってる中学の部活じゃん……。

 

これって日清さんとかにお問い合わせしたら答えてくれるんですかね。
「君は知りすぎてしまった」って黒ずくめの集団に後日襲われたりしないですかね。

勇気が出たら問い合わせてみようと思います。

 

ちなみに、マジックカットって30年くらい前に発明されたらしいです。
めっちゃ前じゃん。
ますますギザギザがまだ存在してる理由がわからん。



誰かギザギザに詳しい人いたら教えてください。

 

 

「呼ばれる」という幸せ

 

 

こんにちは、かまたまです。

 

いま私は大学4回生なんですが、昨日、卒業式用の袴を予約してきました。

 

そのときに対応してくれた店員さんが、私のことを呼ぶときに「お嬢さん」って言ったんです。

 

私を担当してくれたその店員さんだけじゃなくて、そこの袴のお店の店員さんはみんな、予約しに来た学生を「お嬢さん」って呼ぶ。

 

袴を試着してみたのもあってか、「お嬢さん」って呼ばれると、本当に、「お嬢さん」って気分になるんですよね。

不思議なことに。

 

「なによお嬢さんって」とか心のなかでトーン高めに言ってしまうぐらいには、もうだいぶ「お嬢さん」になってしまってた。

 

『ハイカラさんが通る』って漫画、あるじゃないですか。

あれめちゃくちゃ大好きなんですけど、あの漫画に出てくる主人公の紅緒さんとか、環とか、ああいう明治の「お嬢さん」って、すっごい可愛いと思う。

着物に袴にブーツ、大きなリボン。

清楚でいて快活。

大人っぽくてあどけない。

そういうのに憧れてたのかもしれない。

 

少女でも女性でもない「お嬢さん」のタイミングって、本当に今しかないって気づかされたような気がする。

そこに気づいた時点でもう「お嬢さん」じゃないのかもしれないけど。

 

でも「お嬢さん」と呼ばれるまで、自分は「お嬢さん」ではなかったわけで。

そう呼ばれてはじめて、「お嬢さん」の私、というアイデンティティが私の中にあらわれた。

 

「呼ぶ」というのは、とても影響力のある行為だと思う。

その人をそう「呼ぶ」ことで、その人を定義し、一種の枠にはめることができる。

 

「~ちゃん」と呼べば距離が縮み、「~先輩」と呼べば目上になる。

「お前」と呼べば奴隷的だし、「彼氏」と呼べば恋人になる。

 

私が何気なく目の前の人を呼んだ瞬間に、その人は私によって定義されるのだ。

一時的に、一方的に。

 

無意識に悪用していないか心配になるぐらい、その強制力は強い。

 

私は、誰かに自分の「定義」を押しつけていないだろうか。

何らかの役割を無意識に強いていないだろうか。

 

誰かを「呼ぶ」からには、そう呼びたい理由や、愛情や、理解をする努力を、忘れてはいけないと思う。

 

でも、自分のことを考えてみれば、「呼ばれる」というのは、とても、幸せだなと思う。

 

「お嬢さん」と呼ばれなければ、「お嬢さんの私」は生まれなかった。

「かまたま」と呼ばれなければ、学生ライターの私は生まれなかった。

 

私の名を呼ぶ人は、その呼び方でもって私の存在を世界に置いてくれているのだろうと思う。

 

呼ばれるというのは、認められることと同義だ。

私にとっては。

 

 

呼ばれることで、私は世界に存在しているのだろうと思う。

 

「呼ばれる」というのは、とても、幸せだ。

 

 

呼ばれたい人に、呼ばれたい名で呼ばれるように、私は生きていきたい。

 

 

「夏が好きな人は性格が根本的に光属性」説

 

 

こんばんは、夏が嫌いなかまたまです。

 

「夏が好きな人は性格が根本的に光属性」

 

これ、我ながら的を射ていると思うんですよね。

あ、今から夏の悪口をしこたま言いますが、私が嫌いなのは「夏」であって、「夏が好きな人」ではないので怒らないでください。(「夏が好きな人」はむしろ尊敬してる)

 

そもそも夏を楽しむこと自体、ハードルがめちゃめちゃに高くないですか?

だって夏を楽しむには「夏のイベント」を使いこなす必要があるわけじゃないですか。

花火、お祭り、BBQ、海、ビアガ、夏フェス――
暑い。重い。でかい。うるさい。

 

しかも、この夏のイベントには地獄のような共通点が1つあって。

 

1人ではできない

 

そう、一緒に行く友達なり恋人なりが必要なわけですよ。
もうこの時点で陰キャに死刑宣言情状酌量の余地なしって感じじゃないですか。

 

さらに夏の何が問題って、
イベントがほぼ全部「屋外」だってこと。

馬鹿か?

四季の中でいっちばん暑い季節に、わざわざ外行く?

どう考えても自然の摂理に反してない?

クマが冬眠するように、我々ニンゲンも夏はクーラーの効いた部屋で布団をかぶってアイスを咥えて寝ているべきでは?


ていうか祭りとか花火大会とか、あんな大人数でもみくちゃになったらぜったい全身の汗腺が爆発して死ぬでしょ。

 

 


とにかく、「夏を楽しむ=イベントを満喫する」と定義した場合、

このクソ暑い中、外に出て人混みに突入する気力がいるんですよ。

 

ムリムリムリムリ。


私みたいな外に出ることに対して「気力」がいると考える人間は、その時点で夏に向いてない。

たぶん性格が根本的に闇属性なんだと思う。
ひとりで静かに過ごすのが好きで、人混みや喧噪が嫌い。

で、逆に夏を楽しめる人は光属性
外で皆とわいわいするのが好きで、ひとりは嫌い。

 

思うに、人って「エネルギーをもらえること」が好きで、逆に「エネルギーを使うこと」は嫌いなんじゃないかなと思う。

たとえば闇属性の人はひとりで静かに読書することでエネルギーをもらうけど、外でわいわいするのはエネルギーを使う。

光属性の人はその逆で、わいわいするとエネルギーをもらえるけど、ひとりでいるのは苦痛でエネルギーを消費する。

 

 

もちろんどっちがいいかなんて話では全然なくて、毎日を生きるシステムが違うんだと思う。

夏は光属性の人たちがエネルギーをもらいやすい季節なだけで。

ただ、闇属性の私がいつも通りのテンションで夏を生きようとすると、やたらと周囲のテンションとの落差が悪目立ちするのが困る。

ちげーよ。

私が低いんじゃない、
周りが高まってるんだ。

 

こっちは春夏秋冬ずっとこのテンションで生きてんだよ。

 

 

 

ちなみに光属性の季節が夏だとしたら、闇属性の季節は秋だと思う。
(冬は冬でイベント盛りだくさんだし寒いしでヤダ。)

やっぱ秋ですよ。
何もない平和な秋。最高。ベストオブ四季。

芸術の秋やら読書の秋やら言ってるけど、要するに何もないんですよ。
つまりそれは「自由」。何をしようが自由。

世のすべての人のテンションが一定に保たれる季節。それが秋。

無限の可能性を感じる。

 

 

けどまあ、

 

なんだかんだ言ったけど、

 

あれだな、

 

「平成最後の夏」

 

っていう言葉は、

 

つい夏を大事に過ごしたくなるから、

 

ずるいよな。

 

「考えすぎない」を考えすぎる時点で終わっている

あけましておめでとうございます、かまたまです。

いつのまにか年が明けてました。
昨年の更新の少なさを振り返って流石に反省しました。
2018年はもう少し色々と言葉にしていきたいです。

さて、今年の抱負は「考えすぎないこと」

抱負とは言ってみたものの、なにも私の人生で初めて挑戦することではなくて、これまで何度も心に決めては挫折してきました。

というか、「考えすぎない」ようにと意識しすぎて、考えたい自分とそれを押し留める自分が脳内で喧嘩を始めるもんだからそのたびに頭を抱えまくっています。

「考えすぎない」ことを考えすぎて、脳内がねじれ国会みたいになってる。

 

というか、考えすぎる性格に対して、「考えすぎない」という対策をとるのは、なんかちょっとベクトルがずれている気がする。

だって、考えすぎないってことができないから考えすぎるわけで。

食べすぎの人が「食べすぎない」という目標を立てたところで達成できなさそうなのはサルでもわかる

あと、「考えすぎない」っていう対策の、中途半端感もよくない。

なんていうか、ものを食べるときは必ず20回以上噛んでからじゃないと飲み込めない人に対して、5回で飲み込めと言うような。

口に入れたなら噛まないと飲み込めない人種。

考えすぎる人もたぶん同じ。

何かに対峙したとき、それを考え始めた時点で、丁度いいところで思考をやめるなんてことができない。

考えるならとことん考える、そうじゃないなら最初から考えないほうがいい。

「考えすぎない」というふわふわしたブレーキではまったく歯止めが利かない。

 

だとしたら、「考えることと考えないことを区別する」ほうがいいのでは?

考えること自体は悪いことじゃないけど、問題なのは「考えても仕方のないこと」を延々と考えては勝手に鬱々とし始めるところ。
精神衛生にめちゃくちゃ悪い。

だから、考えてもわからないこと、考えたところで何の学びもなさそうなことは考えないようにするのが賢明かもしれない。

逆に、考えるべきこと、考えればわかることはちゃんと考える。

1人で解決するんじゃなくて、ひとでも本でも映画でも、とにかく外部にヒントを求める。

自分の引き出しにあるものだけで出した答えは、大なり小なり偏っているから。

思考が凝り固まって成長しない。

 

実際最近「価値観の合わない人の話は聞けなさそう」と知人に言われたんですけど、図星すぎワロタって感じでほんとマジにへこんだ。

今年は就活もあるせいで心が折れまくる未来が既にありありと見えて、先の自分が心配。たぶん、めちゃくちゃ消耗するんだろうな……。

自分のことを一番よく知っているのは自分らしいけど、私は私のことがさっぱりわからない。

むしろ友達から見た自分を語られるほうがよっぽど納得する。

「自分が思う自分」と「周りから見た自分」とが乖離すればするほど、理解されないとか本当の自分はどっちかとかで苦しむ。

それなら、周りから見た自分像になるべく寄っていく方がいいんじゃないかとも、ちょっと思う。

周囲からの評価と承認で自分の存在があるのなら、自分がどう思っていようが、言ってしまえば全然関係ないような気がする。

このへん、ニーチェとかキルケゴールとかがなんか言ってそう。しらんけど。

 

ただの女子大生の頭で考えつくような真理は真理じゃないし、数百年数千年前に偉い人がだいたい全部言ってる。

 

まあ、それでも、そこに自力でたどり着けるくらいには、柔軟で明快な人間になりたい。

あと運動不足も解消したい。

2018年、実りある1年になりますように。

Twitterの「いいね」は「付箋」、インスタは「判子」

こんばんは、かまたまです。

 

昔からTwitterばかり使ってきたのでインスタを始めたのはつい数カ月前なんですが、Twitterとは色んな意味で違う場所だなあと常々思います。

一番決定的なのは、「いいね」の意味の違い。

今でこそTwitterもインスタもあのハートマークで「いいね」をつけるけど、それまでのTwitterはハートじゃなくて星マークで、「いいね」じゃなくて「お気に入り」でしたよね。

調べると星マークがハートマークになり、「お気に入り」から「いいね」になったのは2015年の11月。

もうそんなに経ったのか……。

私は未だに「いいね」じゃなくて「ふぁぼ」と呼んでしまいがち。

単純に昔の呼称に愛着があるのもあるけど、Twitterの古参ユーザーの中には「いいね」に違和感を覚えている人たちもたくさんいるんだろうな、と思う。

 

Twitterの「ふぁぼ」(あえてそう呼びます)とインスタの「いいね」の決定的な違いは、あとで見返すか否か、ということ。

Twitterでは自分がふぁぼった(いいねを押した)ものが一覧で見返せるようになっているけれど、インスタにはその機能がない。(今のとこ)

Twitterのふぁぼ(いいね)はブックマークや付箋みたいなもので、あとで見返すことを前提に押しているんですよね。少なくとも古参ユーザーは大体そうじゃないかな。

だから、自分の気に入ったものや気になるものしかふぁぼらない。

私はふぁぼ欄を頻繁に見返しては「ふふっ」てなるのが好きな陰キャオタクだから、ふぁぼはけっこう厳選する。

逆に、インスタのいいねはあとで見返すこともないので、わりと無作為に押す。

なんならタイムラインの投稿全部ダブルタップして押す。

ポンポンポン、って、まるで判子みたいに。

次々と提出される書類にざっと目を通して、ポンと判子押して返却。テストの採点みたい。

 

ここなんですよね、Twitterとインスタの違いって。

付箋と判子。

Twitterのふぁぼは自分のためだけど、インスタのいいねは相手のため。

 

ただ、Twitterの場合はふぁぼってあとで見返せるように、っていう明確な意味があるけど、インスタのいいねには一体なんの意味があるのかな? と思って。

で、考えた結果多分それは、「許容」なんじゃないかなと。

平たく言えば、「あなたの幸福自慢を私は不愉快に思うことなく受け入れていますよ」というサイン。

それがインスタの「いいね」の役割なんじゃないかな、と思う。

 

そもそも日本人は、幸福自慢をすることを心の底では恐れているはず。

なぜなら、他人の幸せを祝福すると同時に、それを妬む気持ちが表裏一体で存在しているのを経験的に知っているはずだから。

表には出さずとも、心の隅に追いやった暗い感情の存在は誰だって自覚しているはずじゃないかと、私は思う。

「人の不幸は蜜の味」という言葉さえあるくらいだし、裏返せば人の幸福になんて誰も興味ないんじゃない?

 

とにかく、自分の充実度や幸福を知らせるとき、そこには周囲からの「許し」が必要なんじゃないかなと思う。

「いいね」を貰うことは、楽しそうな写真や幸せなエピソードが周囲に受け入れられ、純粋に祝福されているという「証拠」になる。

まあ、実際の感情はどうあれ、とりあえずそういう体裁ができる。


しかも、Twitterと違って「いいね」をつける対象を選り好みする意味もないんだから、惜しみなく「いいね」を押してまわることができる。

さらに、「たくさんの人にいいねを押して許しているのだから、自分の幸福自慢もまた許されて然るべき」みたいな謎の安心感も得られる。

こうやってインスタは「誰もが安心して幸福自慢できる場所」として確立したのではないか、と思うわけです。

 

現代人の承認欲求に見事に応えすぎでしょこのシステム。こわ。

 

インスタのいいねがTwitterと同じく一覧で見返せるようになるなんてことは、多分この先永遠になさそう。

だって他人の幸せ投稿を延々と見返して何が楽しいんだ。鬱になるわ。

 

別にインスタをディスってるわけではまったくなくて、むしろそういう場所があるほうが精神的にも楽なんじゃないかなと思う。

Twitterで幸福自慢なんてしようものならどこからクソリプが飛んでくるか分かったもんじゃないしね。

 

 ただまあ、インスタの安心感もいわばそういう「形式」に過ぎないってことを考えると、ちょっとうすら寒くもある。

毎日毎日無心で「いいね」という免罪符を配ってるなんてルターも真っ青でしょ。

 

とはいえ私も承認欲求お化けなので、これからもインスタは利用していこうと思います。