カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2024.5.3 ブルトシップ・ジョブ⑧

今日は最終の第8講 ブルトシップ・ジョブとベーシック・インカム です。

 

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第8講 ブルトシップ・ジョブとベーシック・インカム

エッセンシャル・ワークとジェンダー

労働が主要にモノの生産にかかわるものとみなされ、女性はその生産過程から排除され、

「私的領域」つまり家庭内で、その労働力を生産(出産、いわゆる「生む機械」)し、

再生産する(養育世話をする)役割へと還元されていく。…

「愛の名のもとに」無償化される

家事労働に賃金を

家事労働に対して賃金を要求することによって、「家事」の意味は一挙に「労働」へと転換する

(「家事労働」は家庭の問題であるけれど、ジェンダーの面から社会の問題として挑発される。

「挑発」、つまり問題提起)

わたしたちには「想像力」がある

苦痛をへなくても生きていける、人間として成長できる、苦痛まみれの仕事ではない仕事をして

生きていける世界がありうる、といった想像力(を持つことの大切さ)

「経済」の誕生と消滅

人類学者は「経済」なる現象が自立した現象として存立しうるのが、資本主義社会のみである

ということを指摘してきました。…

(つまり「経済」の本来の意味は、自分と家族が食ってゆくこと、家族で生まれた命を続けてゆく

というわかりやすい、シンプルなものごとなのに、資本主義社会になってからとてもわかりにくい

ものになった。普通の人々には理解がむずかしいものにすることによって、私たちはダマされ

ごまかされている)

人間が生活するということ、豊かな生活を送るということと、「経済」とそれにつきまとう

さまざまな観念-成長や発展、生産性とは異なる、ということです。…

もし「経済」に実質的な核心があるとしたら、わたしたちが相互にケアし健康で豊かで、

不安や恐怖にさいなまれることのない、ストレスからも解放された生活を送ることであるはず

(本の最後に「南の島の釣りを楽しんでいる先住民の話」が紹介される)

 

   


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苦痛をへなくても生きていける、人間として成長できる、

苦痛まみれの仕事ではない仕事をして生きていける世界がありうる

の本を読んでの印象をひと口で表すなら、「想像する」ことの大切さだ。

 

確かに苦痛をへなくても生きていける… 世界がありうる」と想像できるけれど

(第0講の「ブルトシップ・ジョブの発見」の〈ある観察者が見た世界〉で述べられた)

仕事はそれだけで尊い、人間は放っておくと…楽してたくさんのものを

えようとするろくでもない気質をもっている…」というのも想像であっても、

こっちの方が「よりありうる」ようだ。

(なぜなら、「仕事はそれだけで尊い、… ろくでもない気質をもっているいう考え方が

当たり前のごとく世の中にはあるから

 

同じ想像なら、私は

苦痛をへなくても生きていける… 世界がありうる」の方が

仕事はそれだけで尊い、… ろくでもない気質をもっている」よりもいい。

 

ベーシックインカム」も一種の想像だけど、

それが「当たり前のごとく世の中にはある」ようになれば、実現の希望が持てる。

(現状のところは、「ベーシックインカ」、何それっ?」だと思うけれど)

 

   


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「南の島の釣りを楽しんでいる先住民の話」には、言いたいことは同じながら、

さまざまな話があります。ここではネットから借りた話椰子の木とアメリカ人旅行者」を紹介します

 

椰子の木とアメリカ人旅行者

 南の国を旅行で訪れたアメリカ人が、椰子の木の下で昼寝をしている男をつかまえて説教を始めた。
「怠けていないで、もっと働いてもっと金を稼いだらどうだ」


男はジロリと見あげて言う。
「金を稼いでどうするんだ」


「もっと広くて立派な家に住める」
「俺はこの家で十分だ」


「じゃあ、稼いだお金で株にでも投資して増やせば、大金が手に入る」
「大金が入ったらどうする?」


「別荘でも買ったらどうだ」
「別荘を持ってどうするんだ?」


「庭の椰子の下で昼寝でもするよ」
「俺はもう椰子の下で昼寝をしているよ」

 

 

 

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                       ちりとてちん

揚雲雀(あげひばり) 空のまん中 ここよここよ  正木ゆう子

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