眼鏡。

 もう完全に慣れてしまっているから何とも思わないのだろうけど、眼鏡が無いと満足に生活出来ないのって動物として結構ヤバイよね。何か無機物の補助が無いと生きる事が出来ないって、どう考えても完全に動物からかけ離れている。別にこれから野生に帰る予定があるわけではないけれど。動物、いや、生命体の歴史から鑑みるにある特定の道具が無いと自立して生きる事が出来ない個体がいるってのは、非常に特異的なのではないかと。道具が無いと他に比べて劣っているって事だからね。
 ま、何が言いたいかと言うと、眼鏡をかけないと壁のシミをゴキブリと間違えて「うおおおーっ!」と叫んで弟を起こしてしまうよって事。

紀貫之の「つら」です。

 二週間前くらいにほぼ日手帳を買った。一日一ページが割り当てられているのでそのスペースを有効活用する為に日記を書いている。寝る前にボールペンを握り、一日を振り返り、心に浮かんだ事を取捨選択せずに書きまくるとページが埋まる。それがなかなか楽しい。他には適当な欄に一日でいくら使ったのかメモしたり、何を食べたのかを書きとめたり。そして昼飯の牛肉コロッケバーガー率に驚いたりするんだ。美味しいぜ、学食で売ってる牛肉コロッケバーガー。それにヨーグルトとサラダで満貫だ。
 パラパラ見返してたら、日記を書き始めた最初の一日に大きく「昼間からムラムラした」と書いてあって色々と自分が心配になった。

ジャズをやるにおいてジャズだけを聴くのは問題か否か。

 先に断っておくが題名に記した疑問への答えは出ていない。ただそれについて思いを巡らせただけの駄文である。

 本ばかり読んでいる人は小説家にはなれないと言う。小説家とは、その人が自らの人生で感じた感動、悲しみ、驚き、喜びを文章にして表現する職業だからであると言う。また、その心の揺さぶりは様々な事から得た物ではならないと言う。勉強、恋愛、旅行、そして挫折。本ばかり読んでいる人間に、透き通るような空の青さを表現する事は以前読んだ文章の模倣という手段でしか表す事が出来ないのだ。
 俺が最も好きな作家の一人に佐藤亜紀さんがいる。彼女の著書『ミノタウロス』を読んだ時、こんなに脳裏にイメージさせる文章を書ける作家がいるのかと驚いた。ロシア革命前後のウクライナの冷たい空気が文字と文字の間を吹き荒れているような、そんな陳腐な表現しか出来ないが、格調高い文章で強盗や殺人などを描写する様に俺は畏れにも近い感情を抱いたのだ。気になって佐藤亜紀さんの事を調べてみると合点が行った。彼女は西洋の美術やクラシック音楽にも造詣が深く、オペラをこよなく愛する人であった。また、大学での専攻は18世紀の美術批評。彼女が見た芸術達が目まぐるしく変貌を遂げた歴史の流れ、そして享楽的なロココ様式を学ばせ、あれ程に冷ややかであり情熱を感じる文章を産み出すに至ったのだろう(上から目線で失礼)。また、18世紀のロココ時代は「女性の時代」とも言われた。そういった様々な要因を女性である佐藤亜紀さんが咀嚼し、自分の物にしたからこそあれ程素晴らしい作品が生まれたのだと思う。
 とまぁ前置きはこれまでにし、自分に当てはめて考えてみる。俺はジャズと呼ばれる音楽をリスナーとしてだけではなくプレイヤーという立場でも携わっている。俺がやっているコンボ・ジャズには数個決まりがあり、その一つに「ソロプレイを行う」というものがある。つまりバンドの皆を従え「俺の音を聴け!」と言わんばかりに一人でアドリブを吹き鳴らす時間があるのだ。ソロの時間では一緒に演奏していた仲間が一歩引き、俺は文字通り前に出る。ハッキリ言って、孤独だ。ミスをしても仲間が拾ってくれる事はあるが、それは自分一人のミスであり俺の責任となる。俺は一曲を一つの作品として捉えているので、例えるならば文化祭にクラスの皆で作った出し物に赤いペンキをぶちまけてしまったような気持ちになる。いかに仲間が良い演奏をしていようと俺がソロ中にミスをしまったからには、その作品は不完全な物となってしまうのだ。
 いや、そんな俺のジャズ論などはどうでも良い。問題は「ジャズをやるにおいてジャズだけを聴くのは問題か否か」という事だ。俺はそこまでジャズを聴いていない。有名なプレイヤーを少し知っているくらいだし、一番好きな音楽はと聴かれたらテクノやフューチャー・ポップと即答する。それでも先人や先輩方は「ジャズを聴け、ジャズを聴け、ジャズを聴け」と念仏のように唱えるのだ。俺はそれにどうも納得がいかない。
 俺には自分を表現する場所がジャズという音楽におけるソロしか無い。このブログはなんなんだという言葉はさておき、今までの短い人生で吸収してきた事を発揮出来るのはソロしか無いのだ。ならばもう少し自分の色というか、個性というか、音楽以外で得た物を音楽に落としこむ事が出来たらなと思う。その為の手段は分からないし、一生見つからないかもしれない。もしかしたら先述とは矛盾するが、音楽が好きだから音楽で自分を表現したいのかもしれない。音楽が好きだからそれ以外の手段を俺は今までの短い人生で切り落としてきてしまったのかもしれない。言ってしまえば、もう後戻りは出来ない状況に来ている。人生の殆どを音楽と共に過ごしてきたから今更別の事をしても音楽以上に上手くいかないのではないかと保守的になっているのだろう。ま、何しろ音楽は楽しいし、別の事をやる気にはなれないんだよね。という言い訳でこの文章を〆させて頂く。

Give me.

 俺は誰かの為ではないと動けない人間かもしれない。誰かから言われたわけではないけど最近何となしにそう思う。上手く言葉にする事が出来ないが、誰かが喜んでいる顔を見る事でやっと俺は喜べるんだろう。と、最近フラれた俺は考えた。
 バイトをしている時、特にそう思う。付き合っている頃はこのお金で何をしてあげよう、何処へ行こうと考えていたからどんな業務でも苦ではなかったが最近は苦でしかない。辞めたいとは思わないがお金を得た所で自分に還元しようとは思えない。ただどうしてもお金が必要な用事がこれから待っているので稼いでます、と言わんばかりだ。恥ずかしながら読書が趣味であるので昔は貪るように本を買っていたのだが、最近はめっきり購入する事が無くなった。
 とは言えお金に困っているという現実があるのだからどうも折り合いがつけ辛い。お金を頂いた瞬間は何も心が揺り動かないが、いざ友人の誘いで飲みに行ったり等となるとお金の重要性を知る。だが日が経ち、またお金を頂く時にはこんな紙切れに何の意味があるのだろうと辟易してしまう。
 確かにお金があり、それを自分の為に使うのは楽しい事だ。けれど自分の為に使った所で何の意味があるのかと考えてしまう。俺は出来る事ならば他人を喜ばせたい、他人に影響を与えたい。俺は俺の為にお金を使わずとも満足出来るが、他人は俺がお金を使わない事で不満に思う事がある。その為なら俺は惜しみなくお金を遣う。中学生の戯言のようだが、俺は他人の為に生きていたいのである。自分の不満足なんて知ったこっちゃねぇのである。

人生。

 小学校に入学し、校舎を見上げた俺は「6年もこんな所で過ごすのか〜」と辟易した思い出がある。それから数十年。ふと気付いたら大学生になっていた。この感情を何と表せば良いのか分からないが、恐怖に準ずるものである事は直感的に思う。「人の一生は重き荷物を負うて遠き道をゆくがごとし」と徳川家康は言ったそうだが、俺は特に重い荷物は背負っていないようなそんな気がする。ただなんとなくその辺を手ぶらで散歩していたら、いつの間にかちょっとした高台にいたような俺の人生。その道程の中途に何があったのかよく覚えていない。これは非常に恐ろしく、非常に残念な事だ。

両親は泣くなと僕に言った。

 俺はとにかく泣き虫だった。運動神経が皆無の俺はよく転び、よく泣いた。痒くても泣いた。少しでも気に入らない事があると泣いた。手のかかる子供だった。男のくせにビービー泣いていると両親は決まってこう言った。
「男が泣いて良いのは、お祖母ちゃんが死んだ時とお母さんが死んだ時と奥さんが死んだ時だけだ」
 小学生の頃、祖母が倒れ、長い植物状態を経て、死んだ。今際の際。最後まで祖母の意識が戻る事は無かった。呼吸が止まる。心停止音が鳴り響く。そのまさに瞬間、父が号泣した。父にとっては義母だったが、こういう事かと理解した。
 俺は泣けなかった。祖母が死んだ。悲しかった。だが涙は流れなかった。

 この先いつか母が死に、もしかしたら結婚して妻に先立たれる事があるだろう。
 その時俺は泣く事が出来るだろうかと、ふと思った。

人との接し方。

 異性間だから特殊に思っちゃうんだろうけど、結局は男女交際って人間関係の延長なわけだから信頼が無くなったらお終いだよね。

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 俺が誰かと会話していて、それを聞いていた第三者が俺の発言に対して「それって上辺だけの言葉だよね」とか言うんだけどさ、それの何が悪いんだろう。他人からの言葉は人のモチベーションを左右する要素の中でも一二を争うくらい大きい物(と俺は勝手に思ってる)だから、ちょっと虚構を交えたり装飾して自分の本心とは方向性がズレても受け手が奮起してくれたら良いと思う。そこで「虚構を交えた」って泥を被るのは自分だけなんだから、自分が納得していれば良いわけで。
 確かに上辺だけの言葉って嫌悪感を示すのが普通だろうけどさ、その上辺が自分の事を本当に考えてくれて出た物なら受け入れる事って出来ないかな。去年、俺の親友が事故で亡くなってしまって、珍しく俺が落ち込んでる時に色々な言葉を皆さんから頂いた。中には「こいつ適当な事言ってるな〜?」って思う言葉もあったよ。でもそれは俺の事を考えて考えてやっと出てきた言葉なんだって思えた時は嬉しかったし、このままじゃいけないなって思った。
 敬語は距離を感じる、と言う人もいる。俺はそうは思わない。敬語を使う事によって相手に対する敬意、好意、より距離を縮めたいという意思を表す事が出来る(本当はそうは思ってなくてもこいつに嫌われたら面倒だなとは思ってるから、敬語を使って表面上は敬意を示さないといけない)。大事なのは表面上の文面だけじゃなく、その裏に隠された真意。それを汲み取る事の出来ない人間とのコミュニケーションは不毛でしかない。