探すのは苦しい。探し続けるのはしんどい。探求は辛い。すべての探求を終わりにしたい。

答えを得ようとしない。考えをまとめない。理解しようとしない。分かろうとしない。解決しようとしない。

肩の力を緩めて、何もかも放棄したい。

地面つく足の感覚に、カオリだという保証はないと思ったと言ったら、そういうことですよねと返された。



それと同じく、皮膚の感覚、音、映っているもの、味、匂いに、カオリと言う保証は無い。カオリの要素はない。ただ記憶に頼って、ずっと生きてきた、いつものカオリだと思っているだけで。


カオリの保証はない。それには、確かにそうだと思うことが出来る。聞くだけの情報とは違って。


「パン!しかないでしょう。

その時知ってる人いないでしょう。

こっちなんてない。

自分の顔なんてない。体なんかない。

見えているなら見えているまましかない。

パン!しかない。生の事。

事実のみで生きる。

解釈じゃなく。事実のまま置いとく。

余計なことしない。

パン!だったり、ワン!だったり、

見たものだったり、それになっている。

一瞬で姿変えている。

パン!になって、壁になっている。

それが救い。

不安の時は不安だけ。感情だけ。

それで済む。

イライラしていればいい。

イライラがあるだけ。どうしようもない。

自分でなんとかどうにもならないよ。


考えは私の中にあるわけじゃない。

外でもない。

考えがその時、考えがあるだけ。

今の様子、有り様だけ。


映像と音は同時にないからな。

音と考えは同時にないからな。

他の感覚と考えは同時にない。


振り返るな。

焦らず、

いつ決着ついてもおかしくないから諦めず。


思考はあって良い。けど、とらわれない。

その覚悟は必要。

死んでもいいや位の気持ちで大丈夫。」

Jさんの話しに、気づいた時にしか私はいないやろってのがあった。そうかなぁずっといるけどなぁって思ってたんだ。でもさっきテレビを見ていて、消すときに私に気づいた。それまでは画像と音と内容の理解はあるんだけど、私は薄かったような気がする。いなかった、とまでは言えないような言えるような。ま、いっか。

Jさんの記事を読むと、やっぱり私のあり方は間違っているのかなと思うことがある。でも今思っていることは、探さなくてもあるものなんだなということ。つい、五感に触れているものさえ、今何が聞こえているかな・どんな肌感覚があるかななど探そうとしてしまうけど、呼んでもいないし頼んでもいないのに、毎瞬、探さなくてもあるわけなんだ。そこに手を加えるなって言う話なんだよね。


そしてメソ実践は、結局いつかはやらなきゃいけないこと。先延ばしにしても、きっと。


今朝も苦しくてさ。で、やっぱりもがくんだよね。

ふとイメージが沸いたからメモっておこう。私がしてしまう事は、例えばこういうことかな。

回転寿司で、嫌いなネタが5皿続けて回ってきた。手をつけなければそれは流れていくものを、わざわざ皿をせき止めて、「なんなんだこれは」「これがきたって言う事はどういう事だ」「もうダメだ」と絶望している。とりあえずその手、外そうか、ってことかな。



今日は、何食べの映画、2回目を観て来た。私も、恋人のような親友のような人と一緒に生きたいなーと思った。