約1年半のブランクを経て、新しい職場で働き続けるために気をつけること

2016年8月末に退職してから療養したり職業訓練校に通ったりで無職の状態でしたが、年始から新しい職場での勤務が決まりました。

健康を損なわずに長く勤めたいので、そのための心得を書き留めておきます。

全力で仕事しない

とにかく気づかぬうちに必死で取り組んでしまうタチなので、最初だしゆっくり覚えていこうくらいの気持ちでいる方が力尽きなくて済みそうです。ハイパフォーマーでなくとも新人を見放すような職場じゃないよ、と思うことにします。むしろ、入って早々激務を求められるなら、長居しない方が身の安全のためかもしれません。

 

体調管理を最優先する

私丈夫だし、これくらい寝たら治るよー、と己を誤魔化してきた結果が前職で味わった胃腸炎逆流性食道炎と貧血と栄養不足なので、大事を取って規則正しく体に優しい生活をする必要があります。健康じゃないと働くこともできないので、仕事のために体を酷使するのは止しましょう。今年はとにかく生きていることが最優先です。

 

ゆっくり休む日を予定しておく

休日には家事やら買い物やら予定をたくさん入れてしまいがちなので、ならば予定のひとつとして「何もしない」を入れておくのも手かと思います。新しい職場はシフト制で休日を取るので、連休がないことも考慮して体を休めるための日を設定しないと、仕事で働いて休日は自分の用事で働いて、働き通しになってしまいそうです。

 

自分にとっての無理はどういうことか把握する

「無理しない」と言うのは簡単ですが、じゃあどうすれば無理しないことになるのか、具体的な内容は案外思い浮かびません。これは絶対嫌だということだけではなくて、普段なら少し甘えてるんじゃないかと思っているようなことも「自分にとっての無理」に加えてあげたいと思います。なんたって1年半くらい働いてなかったので、慣れるまで半年かかるくらいの気でいないとしんどくなりそうですし……。

 

朗らかに過ごす

いくら仕事を頑張っても、周りのひとたちとギスギスしてるようじゃ身が持ちません。組織でうまく立ち回るのは難しい、というイメージができてしまっているので、友好的な態度でゆっくり場に慣れていきたいものです。おっとりゆったり過ごせている方が精神的にも楽ですからね。ただ、経験上これも結構難しいと感じているので、なんか機嫌よくなれることをストックしておこうと思います。

 

働いてると色々と気づきがあるはずなので、定期的に振り返りも必要ですね。まずはひと月無事に働けるよう気をつけていきます。

20180102

今朝はすっきりとした晴れ。シネマ歌舞伎を観るために博多の中洲大洋映画劇場へ。映画は昼からなので、初売りの列を横目に午前中はスタバでゆっくり過ごした。初売りの戦利品を抱えた人たちが増えてきた頃合いに映画館へ向かう。三が日だからか、みんな初売りに行っているのか、映画館は普段の休日より空いていた。

シネマ歌舞伎「熊谷陣屋」。中村吉右衛門坂田藤十郎中村魁春中村梅玉、今は亡き中村富十郎をスクリーンで見られるのはすごい。年末年始のおめでたい雰囲気にはそぐわない内容と思うけれど、ただカッコいいとか綺麗ということではなく、表に出すことのできない感情や心の機微を掬い取っていくような物語。そんなに多く歌舞伎を観ているわけではないが、花道にいる役者を見て胸が苦しくなるなんてこの話くらいでしか感じたことがない。いたたまれなくて花道から逃げ出すように駆けていく姿には、普段花道に役者が出てくると感じる、明るく華やかな美しさも奮い立つような力強さもゾッとする程の迫力もない。ただただ観ていて苦しくなり、もっとよく知りたいし何度でも観たいと思わせられる。正月から感傷的になりながら映画館を後にした。

中洲から博多駅まで歩いて行こうとしたらキャナルシティ博多で迷子になって、Googleマップのお世話になりながら何とか徒歩で駅にたどり着いた。感傷はすっかり吹き飛んでJR博多シティの大銀魂展の行列に並ぶ。待ったのは30分くらい。面白いスタッフの方がいて「危険物の取り締まりを強化しているので、ジャスタウェイなど危険物の持ち込みはご遠慮ください」と原作ネタで笑いを誘い和やかな待ち時間になった。原画の迫力やカラーの美しさもさることながら、映像や展示パネルの主張も激しく目移りする展示だった。人混みでフワフワした頭を抱えて丸善で少し本を物色。隣の博多阪急で開催されていた志村貴子原画展は落ち着いた雰囲気で、繊細な絵に背筋の伸びる思いがした。

おみやげに小倉山荘でお菓子を買って帰宅。NHKでは歌舞伎座初芝居生中継をやっていて、今日は歌舞伎がたくさん観られた。

20180101 あけましておめでとうございます。久々に書きに来ました。

2018年です。

2017年は全くブログを書きませんでしたが、今年はぼちぼち更新していきます。

 

楽しいこともつらいこともたくさんあったのに、昨年は目の前の対応で手一杯でした。感情の波が激しすぎて、吐き出したくても自己検閲してしまい文章を書くこと自体が苦しかったです。自分を抑えては耐えられなくなり感情に呑まれ、そんな自分をまた抑え……と悪循環になってしまって。そんな繰り返しがつらくて生存も危ういような思考に陥りかけていた時「もっと違う考えを持っていいし言いたいことを言っていい」のだと急に気づいて、私は生きてていいしブログも書いていい、と思えるようになってきたのが2017年の12月でした。

なので、今年は自分用のメモや日記がわりにブログを使っていこうと思います。文章や体裁にこだわりすぎなくていい。

 

前置きが長くなりましたが、そんな感じで今年はとにかく生きよう!と思いながら始まった2018年です。

例年と変わらず、神社へ参詣しお茶のふるまいに出かけ作ったおせちを食べたお正月でしたが、今年は父と神社へ行きました。ひとりで近所の神社に行った後、実家から迎えに来てくれた父と一緒に、実家の近くの神社とお寺へお参りしました。仕事ばかりで実家にいる頃からあまり話もしてこなかった父ですが、久しぶりに会ったのに案外普通に話せて、両親と不仲だと思いこんでいた私は結構拍子抜けしたのでした。

子どもを思い通りにコントロールしようとする母と、子どもに無関心で何もしない父を持つ自分は不幸だと思っていたから実家を出た部分もあって、実家を出たことはそれでよかったのだけれど、私はいつまでも不幸な子どもでいる必要はないと気づくのにずいぶん時間がかかったのだと思います。父と対峙していても以前感じていたズレのようなものは薄れていて、引っ掴んでいた荷物を何かもういいかなあと手放しにできるような気がしました。(母に会った時どう感じるかはまだわかりませんが……)

それから、お茶のふるまいで亭主の方(?)と少しお話しした際、茶道に興味はあるけど習う時間もありませんし……と漏らすと新春茶会の券を思いがけずいただいたので作法も何も知らぬ素人ですが参加させていただこうと思います。

 

美味しいもの食べてお腹いっぱいになって、久しぶりにお酒を飲んだら1杯目で酔いが回りながらウイーンフィルのラデツキー行進曲で手拍子なんかして、心静かで平和なお正月です。

今年は生きます。穏やかな1年となりますように。

 

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エストラゴン・オウ・ヴィネーグルを食べる/中井英夫「美味追真」

エストラゴン・オウ・ヴィネーグル。

中井英夫『とらんぷ譚』のハートに当たる章、『人外境通信』の「美味追真」に書かれるそれは、新宿の高野の地下食品売場という九州島民にはまるで縁のない東京の風景であり、想像するほかない戦中・戦後を生きた人々の姿を見せつける装置でした。

 エストラゴン・オウ・ヴィネーグル。

 よもぎの、酢漬け。

 フランス料理といっても、家庭ではまずめったに用いられないこの名を、できればあまり多くの人が知らないといいが。

-『中井英夫全集3 とらんぷ譚』より「美味追真」(p434,中井英夫/東京創元社)

きっとおフランスに行かない限りお目にかかることもないのだろうなあと、読み返してはなけなしの想像力で味わってみようとしていたのですが、少し足を伸ばした先の輸入食材店に本物が置いてありました。心の中では「ああ、やっとあった。ずいぶん探し廻ったんですよ」と喜ぶ少年です(作中では少年ふたりが一緒に探してたんですが、私はひとりで喜んでおりました)。

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エストラゴンはフランス語で、英語ではタラゴンと呼ばれるよもぎの一種です。よもぎ餅の、あのよもぎとは近縁種とのことで、タルタルソースにしたり鶏肉・魚介料理に使われたりするそうです。薬草として使われていたのは日本と同じなんですね。

タラゴン - Wikipedia

おすすめされてるとおり鶏肉といただこうと思いつつも、まずはエストラゴン・オウ・ヴィネーグルそのままを食べてみたんですが……作中の「私」は壜から中身をちょっとつまんで「仄かに甘酸っぱい味を賞味」したとあるんですけど、仄かどころか強烈に鼻に抜ける酸っぱさにひとりで顔芸やってしまいました。ひとり暮らしでよかった。

「ご使用前は洗浄してお使いください」と壜に書いてある通り、洗って軽く絞って食べたんですが、洗い方が足りなかったのか、酢の浸み込みようが半端ないのか、とにかく酢が強烈でなかなかよもぎの味にたどり着かないんですね。そしてよもぎにたどり着いたと思ったら、独特の青臭さがまた鼻に抜ける感じで何ともいえない。あんこの入ってないよもぎ餅に大量の酢をかけたらこんなになるのかしらん。見た目はちょっとくすんだおひたしみたいだし、本には甘酸っぱいって書いてるしでナメてかかってました。

どうやらそのまま食べるものではないようで、卵とマヨネーズと一緒に和えて、蒸した鶏むね肉にかけたらさっぱりと美味しくいただけました。やはり酸味が強い感じがあったので、もも肉の方がもっと美味しく食べられるんじゃないでしょうか。卵との相性も良いみたいで重くなり過ぎないソースとして味わえます。

実際Amazonにも出品されているくらいですし(さっき知った)、国内はともかく海外に行けばもう少しお目にかかれる食べ物なのかもしれません。でも私にとって、エストラゴン・オウ・ヴィネーグルは想像する以外に味わう術のない謎に包まれた食べ物のひとつでした。それが、いざ本の中のアイテムを手の内に収めると、わりとあっけなくて拍子抜けすると同時に、物語の世界が自分と地続きにあると確認できたのでした。

食べることもままならなかった時代。闇市を駆け抜け、どうにかやりくりし、ぼろぼろになりながらも、中井英夫の書く戦後はどこか危機感の薄い、生活にあふれた世界です。飢えが日常だった頃からは考えられないほど食べ物が溢れかえる世の中に様変わりする時代を見ながら、「私」はまだ戦後に囚われています。読み返すたびに、私は自分が生まれてもいなかった「戦後」という中井英夫の書く過去を体験し、読み終えては未だに戦後と呼ばれる現在と本の中の「戦後」をつなげようとしました。

さすがに「私」が薦めようとしていた「アミルスタンの羊」で味わうわけにはいきますまいが、もう少し壜に残っているエストラゴン・オウ・ヴィネーグルをもう少し美味しく食べるために、肉と魚を用意しておこうと思います。

新装版 とらんぷ譚3 人外境通信 (講談社文庫)

新装版 とらんぷ譚3 人外境通信 (講談社文庫)

 

東京創元社の『とらんぷ譚』で読んでるんですが、全4部52編+ジョーカー2編で700ページくらいあるので、分冊されてる講談社文庫の方が持ち運びしやすいですね……。

特別展 京都 高山寺と明恵上人 - 特別公開 鳥獣戯画 -に行ってきました

九州国立博物館での特別展「京都 高山寺と明恵上人-特別公開 鳥獣戯画」10月の前期展示を観てきました。

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鳥獣人物戯画が展示の目玉で大々的に宣伝されてますが、主役は明恵上人。鳥獣人物戯画が収められている、京都の高山寺を開いたお坊さんです。冒頭の鳥獣人物戯画の後、明恵上人の生涯と高山寺について書や絵、像が展示されています。

chojugigakyushu.jp

鳥獣人物戯画はかわいいし細かいし特に甲巻の筆運びが丁寧で綺麗だったんですけど、明恵が結構キャラの立ったひとで、正直国宝よりインパクト大でした。自分で耳を切ったり、インドまで歩いて何日かかるか真面目に書き残してたり、唐美人ええなぁと絵巻物を作らせたりと、いろいろなエピソードを紹介した「レジェンド・オブ・明恵」という愉快な冊子が配布されています(公式サイトからもDL可)。

九州国立博物館 | 特別展『京都 高山寺と明恵上人 - 特別公開 鳥獣戯画 - 』

鳥獣人物戯画に限らず、展示品のほとんどが国宝や重要文化財でしたが、明恵の夢日記とか、勝手に作った神様の像とか、あまり身構えることもなく楽しく観られます。「主役は私です」とチラシでさりげなく主張する通り「いろんな品を収めてる高山寺の祖・明恵ってこんな人」な展示でした。

 

明恵は自ら宗派を開いたひとではないですが、奈良時代に成立したとされる華厳宗に密教をプラスした独自の宗教観を持っていたそうで、釈迦宛てに手紙を書いたり、涅槃会の時は自作テキスト作ったり、拾った石を釈迦と思って大事にしたり、仏が好き!感がものすごいです。

華厳宗を新羅に広めた義湘の留学エピソードに現れる善妙という女性がお気に入りで華厳宗祖師絵伝を作らせているんですが、展示されていた2巻と3巻では義湘が善妙に告白されるも仏門の身なので断った後、船に乗ったら忘れ物を届けるために善妙が龍に変化して追っかけて来てくれたという、女性がとっても優しい道成寺伝説のような絵巻物でした(後期展示では義湘ではなく元暁という僧の話らしいです)。善妙が本当に好きだったらしく「明恵オリジナルの神です」と説明書きされている善妙神立像までありました。勝手に神格化して祀っていたんだと思うんですけど、こんなことしていいの……?

見ているうちに、二次創作に創作キャラ登場させて活躍させる夢女子とか、推しキャラの誕生日やイベントにクルーズ予約しちゃう腐女子に通ずるものがあることよなあという気になってきました(明恵上人は女子じゃないですけど)。友だちにいたら楽しいけど、時々ちょっとひくわ……と生温かい目で遠くから見つめることになりそうです。

あといろんな仏が載ってる曼荼羅図が結構あったんですけど、円形状に絵柄が配置されていなくて、ポケモン151匹載ってるポスターみたいに縦横に整列した、カタログのような曼荼羅ばかりでした。当時としては珍しい柄だったそうです。

書はともかく、絵巻物や曼荼羅のような絵は本人が描くのではなく絵師に依頼しているわけですが、お坊さんの好みやら謎の企画にあわせていろんな絵図をひねり出した絵描きのひとは本当にすごいと思います。明恵の依頼を受けて絵を描いていたとされる詫間俊賀という絵師についても少しだけ説明がありましたが「仏画ならオレにまかせろ!」とどんな注文も快く引き受けていたのか、「明恵さんまた、ようわからん絵の依頼してきよった……」みたいな感じだったのか……。

 

自由で熱心で仏好きすぎる明恵ですが、相当孤独だったのではないかという印象もありました。弟子はいるし、最期を迎える前には多くの人が明恵の死を案じさせるような夢をみたというエピソードからは彼の人望の厚さが窺えます。ただ、寄る辺ない思いで過ごしていたからこそ幅広い信仰を持っていたのではないかと。

明恵が生きたのは浄土宗や日蓮宗といったテストに出そうな宗派が開かれた時代で、宗派を超えてお坊さん同士の交流もあったそうです。臨済宗や曹洞宗のような禅宗もこの頃中国から伝わってきていて、お茶を輸入してきた臨済宗の栄西から明恵に贈られた茶入が展示されていました。

そんな時代でも、中央の派閥争いを避けて地元で修行に打ち込みたいと若い時は京都を離れていたそうで、他の僧との交流はあったとはいえ、動物だけでなく石や島にも思いを寄せたなんて話を聞くと、少しでも仏の傍に行きたいと考え通しだったんだろうなという気もします。

これくらい自分の追い求めるものに真摯に向かって行く生き方って、ある種の寂しさはあるかもしれませんが、すごく自由で気持ちよさそうです。

 

余談ですが、西鉄電車を利用したらステキな太宰府観光列車「旅人(たびと)」に乗れました。車両ごとに内装が違っていて、観光列車らしくスタンプも用意されています。縁結びで有名な竈門神社とのタイアップ企画で車内に願いごとを書く紙もあり、太宰府に着いたら直接竈門神社に持って行ってもいいし、車内の祈願箱に入れれば西鉄電車が代わりに神社へ奉納してくれるそうです。

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西鉄電車で行く場合、西鉄の九州国立博物館きっぷが少しだけお得です。太宰府天満宮の宝物殿や菅公歴史館にの割引券なんかもついてます。渋滞もないし、西鉄大宰府駅からすぐに参道に出られて、天満宮にも博物館にも行きやすいです。

www.ensen24.jp

西鉄の回し者ではないんですけど、太宰府というか太宰府天満宮が好きなので……。
時期によっては受験生と海外からの観光者だらけになりますが、緑いっぱいで梅が枝餅食べながらのんびり過ごせる、気持ちのいいところです。

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外面とお蕎麦

お昼ごはんにお茶屋さんでざる蕎麦セットを注文した。

この季節にざる蕎麦もどうかと少し思ったけれど、食べたいものを食べようと思ったのだ。

ちょうどお客さんが誰もおらず、豪快に蕎麦を啜ってやろうと目論んでいた。普段あまり蕎麦を食べないから久々のご馳走でもある。温かい緑茶に茶葉のおひたしが付いていて、いよいよ蕎麦をと手繰るも、ちっとも啜れない。

外だから遠慮したわけではなく、啜り方がわからなくなっていた。お茶屋さんの静寂を破らずよかったと思う反面、いろんな我慢が積み重なってなくしものをした気になった。

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最近ブログを書くのが怖いと思って、画面を開いても何も書けずにいた。

集中力が続かず文章を組み立てられないのもそうだが、面白くもないことをブログに書いてどうすると思うと全く動けなくなってしまう。今まで書いてた記事は面白かったのかと言うと素直に首を縦にはふれないが、自分に対するダメ出しや禁止事項が強くなりすぎて自由にできなかった。

別段気にするほどでもないことまで過剰に精査して、人目に触れた時評価されるかどうかを基準に物事を考えてしまっている。

 

会社を辞めて、医師から休養を勧められ、私自身も勤労意欲がなくて毎日ぼんやりと過ごすことが増えた。早く再就職して収入を得なければとか、せっかく休みなのだから有意義に過ごそうとか考えていた時期もあったが、服薬して落ち着いてきた程度だしダメでもいいじゃないかと最近は思えていたはずだった。それでもまだ根深く自分の行動を監視して制御する考えが強い。

職場にいた約5年間、役割が固まっていくにつれ外面を気にするようになっていた。常に求められている役割をこなし、自分なりに理想的な形で職務を全うしようとしていたのだけれど、そこにある枠組みは頑強で、自由で素直な考えは嵌め込めなかった。

そんな頑強な枠組みを作ったのは他でもない自分なのに、誰かに強要された風を装って余計にがんじがらめになり心身の健康を保てなくなっていった。

外面のために清く正しくお行儀のいいひとになろうとして、音を立てて食事なんてとんでもないとお蕎麦を啜ることさえできなくなってしまった気がする。そういえば年越し蕎麦も啜ってなかったように思う。

 

最近やっと、ちょっとゆっくりできるとか、今は自由なんだなとか思う時がある。今まで禁じてきた外食をするようになったし、芝居や映画に行きたいと意欲が湧いてきている。

未だに外面が気になって行動に移せないことはたくさんあるけれど、先日ハンナ・アーレントを読んで、少しずつでも人前に姿を見せたいと思うようになった。

他者を彼自身の存在に関するこうした明確な自覚へともたらすこと、つまり、他者を「神のもとへもたらすこと」こそ、キリスト信徒が自分自身の過去の罪に基づいて引き受けるに至った隣人に対する責務である。

[……]したがって孤独への逃避は、他者から回心の可能性を奪ってしまうが故に、罪に他ならない。

-『アウグスティヌスの愛の概念』p159(ハンナ・アーレント、千葉眞訳/みすず書房)

キリスト教に関する引用ではあるが、ひきこもっている限り届くはずの言葉や気持ちは届かず、結果的に誰かの可能性を奪うことにつながるのは宗教に限った話ではないと思う。誰かの可能性になんてなれるわけないだろと一蹴するのは簡単だが、大科学実験みたいに、やってみなくちゃわからないのだ。

まずは私を救ってくれよと思うけれど、それにしたって孤独へ逃げている限り他者からの救いの手は受け取れない。 

ひきこもってないでブログでもTwitterでもやってたら誰かが拾ってくれるかもよ、くらいに捉えて、ぼちぼち外に出てみていいんじゃないかと思っている。

 

きっとこれからも外面を気にして無駄にお行儀良くしたり動かなくなったりすることもあるけれど、今までのような窮屈な枠組みはもう作るまい。

お蕎麦を啜る練習をしなければと思う。

アウグスティヌスの愛の概念 (始まりの本)

アウグスティヌスの愛の概念 (始まりの本)