クラウディア・アンドゥハルとヤノマミ|KYOTOGRAPHIE

 

クラウディア・アンドゥハル
ダビ・コベナワとヤノマミのアーティスト

■2024年4月13日〜5月12日(KYOTOGRAPHIE 2024)
京都文化博物館別館

 

今年もKYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭が開幕しました。

フラッグシップ会場ともいえる文博別館にまずお邪魔してみましたが、例年以上に重いテーマを突きつけてきていて少し驚いています。

www.kyotographie.jp

 

クラウディア・アンドゥハル(Claudia Andujar 1931-)はとても複雑な経歴をもつ写真家です。
今年93歳になる彼女の父親はユダヤハンガリー人でありナチス強制収容所で命を落としています(母親はスイス人)。
ホロコーストを極めて身近に経験したアーチストなのです。
結婚相手の姓を現在も使用しているためアンドゥハルというスペイン系の名前をもっていますがもともとはスイスで生まれ、ルーマニアトランシルバニア地方で主に育った人です。
迫害を逃れるため渡米しNYの大学で教育を受けた後、1950年代後半からブラジルに移住。
雑誌の仕事などを通じて写真家としてのキャリアをスタートさせています。
現在の国籍はブラジルにあるそうです。

 

 

ヤノマミはブラジルとベネズエラの国境付近に生きる先住民族です。
アンドゥハルは1970年代にヤノマミと出会った後、写真の被写体としてだけでなくヤノマミの生活と尊厳を守るための啓発活動にも身を投じることになります。
本展は彼女が70〜80年代に写したアマゾンの風景やヤノマミの人々の写真から始まります。

南米アマゾンの先住民族写真ときくとすぐに「世界ふしぎ発見」的な好奇の眼が画像を創りあげているのではないかと想像してしまいがちです。
しかしアンドゥハルの写真からはそうした忌まわしい「人間博物館」的視点が全く感じられません。
ヤノマミたちが火や水ととりむすぶ関係、熱帯雨林の中で「直に」生きるその姿が、客観と主観の壁を越えた共感性に裏打ちされて捉えられているようにみえます。
私の嫌いな「寄り添う」という言葉に象徴されるような生ぬるい第三者的気分や態度で撮影された写真ではありません。
アンドゥハルはヤノマミたちと同じ視点と体温をもちながらカメラを構えているかのようです。

 

 

1970年代、ブラジルでは国家統合の名の下に先住民たちの土地が政府によって収奪され始めるとともに、鉱物などの豊富な地下資源が発見されたため、ヤノマミの居住地域に開発による深刻な影響が及ぶことになりました。
悲惨なことに開拓者たちが持ちこんた麻疹が免疫をもたないヤノマミたちを襲い、かなりの人々がこの疫病の犠牲になっています。
ヤノマミにとってはまるでピサロやコルテスの時代が繰り返されたかのような災厄だったのでしょう。
会場ではそんな悲劇的事態を生き抜いたシャーマンであるダビ・コベナワによる警句のような言葉がアンドゥハルの写真やヤノマミのアーティストたちによる絵画とともに掲示されています。

 

 

会場の大部分を占拠するように楕円形のコーナーが設営されています。
中では映像インスタレーション「ヤノマミ・ジェノサイド:ブラジルの死 1989/2018」が上映されています。
これは1989年、ヤノマミが被った開発という名の侵略に抗議するためアンドゥハルやコベナワたちが中心となって制作されたもので同年にサンパウロで開かれた展覧会で発表されたのだそうです。
ヤノマミが暮らす森林などの自然風景から始まり人々の姿、祝祭の様子などが次々と半円形に組まれたディスプレイ群に映し出されていきます。
しかしその最後はナンバープレートのようなものをつけられたヤノマミの人々の、たとえようのない複雑な顔で終わります。

 



このインスタレーションのために新たに300枚もの写真を撮り直したというアンドゥハルの執念がズキズキと突き刺さるような美しくも痛烈な作品でした。
どこかで聴いたような音楽が映像を支えています。
ブラジル人作曲家のマルルイ・ミランダによる本作のサウンドトラックにはスティーヴ・ライヒの「18人の音楽家のための音楽」などミニマル・ミュージックが巧みに用いられています。
全く古さを感じさせない映像であり音楽でした。

 

 

会場のセノグラフィは昨年同様、おおうちおさむ が担当しています。
前回はマベル・ポブレットによる鎮魂の海を真っ青な壁面を使って表現していましたが、今回は色味をグッと渋く抑えています。
「ヤノマミ・ジェノサイド」を上映するコーナーの形はヤノマミが作る住居のスタイルをオマージュしたのだそうです。
24分間と短編映画並みの規模をもつ作品ですが刺激的かつ見やすい上映環境が構築されていました。

なおクラウディア・アンドゥハルとヤノマミの作品に関する今回と同様の企画は数年前、カルティエ財団によって開催された実績が確認できます。

仕掛け人は本展でもキュレーターとして名前がクレジットされているチアゴノゲイラで、カルティエ財団展も彼が主導的役割を果たしたようです。

社会的、政治的メッセージ性が高い企画ともいえますが、アートワークの演出などはとても洗練されています。
KYOTOGRAPHIEのメイン会場にふさわしい素晴らしい企画展でした。

 


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会場内の写真撮影に制限は特に設けられていませんでした。
なお2階ではアンドゥハルに対するインタビュー映像が紹介されています。
1階のインスタレーションも全部見ようとするとそれなりに時間がかかりますから、映像作品を満遍なく確認したい場合は時間に余裕をもたれた方がよろしいかもしれません。

 

 

 

 

 

ダニエル・シュミット「デジャヴュ」のキャスト陣

 

マーメイドフィルムとコピアポア・フィルムの配給によりダニエル・シュミット(Daniel Schmid 1941-2006)監督の過去作2本が各地のミニシアターで再上映されています。

まず「デ ジャ ヴュ」(Jenatsch  1987)を鑑賞してみました。

schmidfilms.jp

 

4Kや2Kの表記がありませんがデジタルリマスター処理は行われたようです。
その効果は明瞭でスイス山岳地帯の壮麗さや車窓からの情景にみられる陰影深い美しさなど、レナート・ベルタ(Renato Berta 1945-)による見事な撮影術を堪能することができると思います。

かなり昔に一度観たことがある映画です。
ただ、「今宵かぎりは・・・」や「ラ・パロマ」といった70年代シュミットの代表作や「トスカの接吻」「人生の幻影」と続いた幻想ドキュメンタリー映画の魅力にすっかりハマっていた時期に接したこの「デ・ジャ・ヴュ」については、正直あまり良い印象が残っていませんでした。

「ヘカテ」によって既にアート系から一度商業映画系に移行していたとはいえ、このあまりにもシュミットにしては「普通」に撮られた作品については随分と肩透かし感を覚えたことを記憶しています。

今回の再上映を観ても全体的な印象はさほど変わらなかったのですけれど、この映画に登場するキャスト陣の素晴らしさや面白さは格別であったことに気がつきちょっと驚いています。

 

シュミットらしく過去と現在が混淆する幻想的なストーリーをもった作品です。
しかし映画的なわかりやすさを中途半端に意識しているために、「ラ・パロマ」等でみられた不気味に魅力的な世界観が後退しているように感じられます。
テンポ良く進行しているようでいて説明的な描写が多いためか97分とさほど長尺ではないにも関わらずなぜか長く感じてしまう映画です。
ピノ・ドナッジオの手による生ぬるい音楽にも魅力を特に感じません。

 

しかしキャスティングについては絶妙に魅力的な俳優たちが起用されているので不思議と特定シーンの印象はスポット的に記憶に残る面白さがあるのです。

ほぼ出ずっぱりで主役であるフリー・ジャーナリスト役を演じるミシェル・ヴォワタ(Michel Voïta 1957-)は神経質さとどこかまだ学生っぽさが抜けないような若々しさが同居していて、突然日常の中に出現する17世紀人たちに翻弄されていく様を見事に演じきっていると感じます。
その恋人役ニナを演じたクリスティーヌ・ボワッソン(Christine Boisson 1956-)も小悪魔的な魅力を放ちつつ、微妙に主人公をイラつかせる存在としてヴォワタからさまざまな表情を引き出しています。

 

ただ「デ・ジャ・ヴュ」におけるキャスティングの妙はこの二人よりも脇を固めたベテラン陣にあるといえるかもしれません。

主人公を過去の世界に引き込んでしまうトブラー博士を演じたジャン・ブイーズ(Jean Bouise 1929-1989)は「ヘカテ」でもニヒルなフランス大使役を好演していましたが、この映画でもその独特の面長な顔を活かしてミステリアスな存在感を漂わせています。

 


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歴史上実在した人物であるイェナチュを演じているのはヴィットリオ・メッツォジョルノ(Vittorio Mezzogiorno 1941-1994)。
ほとんどセリフではなく眼と髭をたくわえた口元だけで古風に野蛮な17世紀人を再現しています。
ハーヴェイ・カイテルから野生味を希釈し冷酷さを加えたようなその表情は一度みると忘れられない印象を残します。

 


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渋い男性脇役陣も素晴らしいのですが、なんといってもこの映画最大の魅力はイェナチュの仇敵であるフォン・プランタ家の過去と現在における女城主を演じたキャロル・ブーケ(Carole Bouquet 1957-)とラウラ・ベッティ(Laura Betti 1927-2004)でしょう。

ブーケは撮影当時30歳くらい。
ブニュエルの「欲望のあいまいな対象」に登場したときの彼女がもっていた透き通るような神秘的美しさはさすがに減じているものの、その代わりにゾッとするような魔性美が加わっています。
彼女の登場は後半のごくわずかなシーンに限られ、しかも一言もセリフを発っしません。
しかしその視線だけで主人公を一気に虜にし彼の前世と今世を禍々しく接続してしまうのです。
実質的には端役に近い時間しか与えられていない存在なのにアートワークのメインビジュアルになっていることも頷ける圧倒的な美しさに息を呑みます。

他方ラウラ・ベッティは60歳になったところでしょうか。
かなり太っていて例えばかつてパゾリーニの「テオレマ」でみせたような陰影深い表情は消え、無機的なほどにたっぷりとし面相。
その代わりなんとも捉えどころのない、有無を言わさぬ「女城主」的貫禄があり「過去と現在」を一身で混淆させてしまう迫力をもっています。

その他、女城主に仕える老婆や村の居酒屋の女将などに「ラ・パロマ」の世界から地続きに登場してきたかのような人たちが顔をみせてくれます。

シュミット映画において代表的な立場を占める作品とまではいえませんけれども、熟考の上に選ばれたのであろうキャスト陣の演技をたっぷりと味わえるという意味では観て損をするレベルの映画ではないといえそうです。

 

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