煤け四六

傑作ロボ、発進!

Twit怠惰

Twitter を一つのアカウントで 15年やるというのは、私にとっては『放置しながらでも時々戻ってきてアカウントを消さないでいれば 15年もつ』くらいの感覚だ。

Twitter というよりは、私はインターネットに書くものは、どんなにくだらなかったり残す意味もなかったり誤爆だったりしてもそれ自体が記録だと思っているので、積極的に消そうという感覚がない。のちのちに誤解を招く記録になっていたら削除という選択もするので、絶対消さないということはないけれど、何か書きたいことがあったときに『消せばなんとかなる』的な感覚を同時に抱いている場合は書かないことにしている。 『あとで消せばよい』よりは、まずは非公開を選びたいと思う。 でも非公開にするようなことは、最初から痕跡を残しておいてあとから伏せることのほうが私にはしんどいので、非公開もよほどの年月が経っていたり、自分以外と公開する権利を分配していて出しっぱのほうがややこしくなる状態とかにならなければ、めったに選択肢には入らないけど……

上記を踏まえて、最近、「私にとってはインターネット上の痕跡を消そうとする人のほうが私よりマメな印象がある」という話をした。 私は結局のところ、すべて自分があとで管理しなくてもいいような形にして最後は放置したいというところに着地したくて、未来の自分がいちいち処理する選択をしたくない。

のでできるだけ自分ひとりの範囲のみに集中しててきとうにやりたいし、誰かの権利にかかわることにあまり関与したくないし、宣伝や営業されることにも関わりたくないし、人間関係台帳にもしたくない。 何かちゃんとやるようなことがあれば Twitter 外に場を作って設けたいと思うし。

人間関係台帳にしたくない……んだけど結果的になるんだよな~~~~~というのがずっと面倒くさいなあと思っている。 Follow したとかしないとか関係なくても人間関係の最初に関わりをもったきっかけをただ楽しめたらいいのにな。 最近 FF14 で、 Twitter もってない人と遊んでてめちゃそう思った。私も FF14 のみで仲良くなった人に私の Twitter を知らせる気がないので、連絡手段をゲーム内でするのが当たり前だったり Twitter 以外にできたりするのが楽だな~と思った。 一番手っ取り早くなりやすいのが Twitter なだけで、あれもこれも全部一つのサービス(この場合だとTwitter)に帰結するようにするのは自分には向いてないな~と思う。

Twitter を使って何か書くのがそこそこ面白い気持ちがまだあるから、たぶんまだまだ続けていけるんだろうけど、似たような距離感の人となんとな~く遭遇するのがなんだかおもしれ~~~みたいな体験を得るのは難しいところになってしまったなあと感じてる

表現の異なる初心者狩り

初心者や始めたばかりで自分よりセオリーなどを知らないことがある程度ハッキリしている人に対して、そのぶんハンデを作る的な対応をするとかは特に気にならないのだけど、そういう相手に対してだけ親切風な先人が「初心者ちゃん」的な呼び方や口調まで変えて年齢的に相手を子供扱いするようなのが私はとても苦手だ。赤ちゃんに赤ちゃん言葉を使うような……。

そもそも後から始めただけという前提で相手になぜそこまで子供向けのように話しかけるのかがわからないのもあるけど、相手を子供扱いしたいとか、相手と自分の立ち位置の違いを口調で明るみにして落差を強くつけることで自分の自信や優位性を維持したいとか、なんらかの欲望が垣間見えるようで気持ちが悪いと感じる(実際にはそうではないことも多いと思う)

そういう人を、ハンターハンターに登場するトンパのようなものと例えるのを見て、わりと成程と感じたりもした。

自分より同等かそれ以上にはあまり興味がない人なんだろうなと思う。

ただやっぱり、子供ではない人に対して相手がそれを望んでいるとか、挑発したいとかでもないのに子供扱いするようなのは私はとても気持ちが悪い。

FF14 でも、基本、若葉(ビギナーマーク)のついた人に親切な人は野良にも多いのだけど、その空気もあって過剰に「若葉ちゃん」的言動な人を目の当たりにしやすくもあり、距離を置いている。

 

この私の感覚は推しに対してもすごく発揮されてしまい、要はファンをのたまう人が推しを子供扱いしたり、自分の思い通りにならない点に『仕方のない子』のような角度で捉えるみたいなのがメチャクチャに苦手だ。そう語るこの人は完璧超人なんだろうか?

推しだってひとりの個人であり一般的に最善ではない選択をしたように見えようとも、その時は本人なりの妥当さや確信や思想を抱いており、それに上からあーだこーだ言って彼の良さがどう評価するというものではない。描かれたままを、そのように感じた推しに共感などがあり推したいので推しなのではないのか。

不本意でも己がヒールを演じる覚悟を決めてる人であったり、またはアウトローであることを飲んだわけでもなく、どちらかといえば自分自身は良識があるほうだと捉えている人が、よく見れば『自分より愚かなのが好い』と容易く表現してしまっているのがこんなにカジュアルなら私は恐ろしいなと思う。

何かの配役

「この人は自分より弱そうな、付け入る隙があって自分より愚かそうなものが好きなんだろうか?」と感じたことは結構あって、でも、思っても口には出さないようにしている。

フィクションのキャラクターに対する思い入れの話に長年触れていると、つい、『対象となるキャラクターは語り手の自分を絶対に超える存在ではない』という目線の人っていっぱいなのかなと思ってしまう。その人から聞く時のキャラクターは、常に何かから見下されているアングルで実際より間抜けや子供として描写されているように感じる、というか……。

嗜好自体に否というつもりはないんだけど、私はどちらかというと、いつまでも好きなものを見上げていたいタイプなので、キャラクターの短所をあえて愛でることはあまりない。そもそも短所を短所として認識していないケースが多い。何故キャラクターが駄目出しされるのかもよくわからなかったりする。可愛さも表面の仕草的なものに限定されてしまう。なので前述したような嗜好の人とはかなり視点が違うのだけれど、そういう嗜好の人が仲間だと思って歩み寄ってきてくれるケースもあり、いつも「よくわからない……」と感じていた。

私が「かっこいい」と思うところほどそれをキャラクターの『かっこわるさ』として描写する人と何を共有できたのだろうか。私もその人にとってはキャラクターと同じで何かの配役に過ぎなかったのではないか。

いつかまた楽しく

ここ六年は私にとっての推しキャラを描くことで心の平穏を得ていた。

特に前半二年ほどは推しを描いていないとつらくてしょーがない、絵が描きたいというより推しを描いている時は楽になれるので描いていた。

中頃からしばらくは、勝手に同志と思える様な関わりを得て、絵を描くこと自体も楽しくなった。その頃が一番枚数も増えて上達もしたのではないかなあと思う。

ただ辛いときにも少し楽になれるというだけだから、推し以外に描きたいものはあまりなかった。でも関わりが出来たおかげで以前よりも私のそれはネガティブな理由ではなくなっていると思う。ありがたいことだし、出来れば推し以外の接点を持ち続けたいという欲が出るほど、私にとってかけがえのないものだと思っている。

今は正直、絵から離れていたいという気持ちがある。

推しを描くのは楽しいはずだけど、この二年くらいに引っかかった諸々が消化できない。

しかも推しと直接関係のないことが一番ネックになってしまった。

私の好きなとあるゲームを、推しキャラを手掛ける公式スタッフさんが自分のわがままで必要以上の悪評をつけたり(他人にどう思われるかが怖くなったという理由で削除なさっておられたが、先方スタッフの名前を出して「反省してこうするべき」と訴える内容で、感想の域を超えていた)、逆にそれが楽しいという立場の人が現れると「自分はぼっちでコミュ障だからあのゲームには住むところがない」と被害者ぶって引退詐欺したりするのをどうしても飲み込めない。

そのゲームのことを悪く思う人自体が駄目なのではなく、ソロの私もはみ出さずに安住出来た作品を、同じソロ勢がソロには住めない駄目なもののように言われたことが辛かった。他人から変だ変だと言われ続け付き合いを最小限にしてきた私も他人と適度に距離を取って遊べる場所なのに、私のようなものはそのゲームに存在しないものとされることがとても苦しかった。よりにもよって推しの姿を手掛ける人に。それを無邪気に励ます人が何人もいる。

推しのことは好きだし他のものにすげ替えることはできない。原作もなんやかんやで誤りのあった部分も飲み込み並行して続けている。結局ゲームで遊ぶのは好きなので。

でも今はそれらを人前に出していても私にとって何も楽しいことも幸せなこともないように感じてしまった。

ずっと苦しみ続ける気がするけど、私のことだから、いつかまた以前のように、あの時何も悩まず推しを描けた頃のように楽しく過ごせたらいいな思う。

 

今の困りごとは苦しみから逃れる手段の推しを描くことが苦しみと直結してしまって代替もないのでゲームをしまくるしかないことです。まあ、推しは推しのままだしいつかなんとかなるだろ。

季節の節目で分かつ

好きなことを仕事にしたら苦しいかというとたぶん私は苦しい。

私はあまり生きるために生活を送ることが好きではない(痛さや苦しみは嫌だがいつか死ぬのが怖いというのにあんまり共感できないタイプ)ので、何か『余計な』楽しみを作らないとしんどい。私はあってもなくてもいいものが結構好きだし、ただ楽しいとか面白いから遊べるだけのことが一番好き。

趣味を仕事や生活を回すための歯車にしたくないというのは、私は確か 10歳くらいに自覚したものだ。
東京タワーあたりで何かのイベントの時に子供向けのセル画を塗る体験ブースがあって、当時好きだったアニメのセル画を塗らせてもらって、そのスタッフの人に(あくまで子供向けのリップサービスとして)絵の仕事が出来そうだと誉めていただいた。でも空気も読まず気の利かない子供の私は「仕事にするのは嫌」とハッキリ言ってしまったことを覚えている。あとで親から少し注意と言うか正直すぎると窘められたので記憶に残った。

私の好きなことは、あくまで私が耐えて生き延びた先にある最高の贅沢でご褒美で無駄であってほしい。
そして、自分がそれに触れられなくてもこの世はそんな無駄で溢れていてほしい。溢れていればどれかには触れられることもある。
(「自分にとって『余計』」と考えるのは私の思い込みであって、現実は自分の中で必要なことになっているのだろう)

私がつらいのは仕事ではなくて毎日の生存なので(起きて飯食って寝て……と自分の健康と安定のためだけに生きていることが疲れる)、いつでもその日の気分だけでいい加減に過ごしたいという気持ちが強い。決まった時間に寝て起きるのも結構ストライキしたい。ストライキ

8歳の頃に、一時的に次に住む場所が決まってなくて何日かの間その場その場で適当に過ごしてた時の謎の解放感が忘れられない。それは子供だったからで、一般的には良い事ではなかったかもしれないけど、毎日をきちんと生きるのは私には結構しんどい。
始まりは幼稚園に行く時の朝が目覚めが毎日悪かったところからかもしれない。幼稚園自体は一緒に遊ぶ友達も沢山出来たし好きだった。でも夜寝て朝起きるというのがどうしようもなく苦手だった。行けば苦しみを忘れるくらい楽しいのはわかっていてもそれを諦めてもいいくらい苦手だった。

今は夕方起きて夜に仕事に行くのでそういう部分のストレスはかなり減った。昼間の仕事をなんとか続けていた時もとにかく朝起きるのがしんどくて仕方がなかったし一人で起きるのは不可能なくらいだったのでいつも人の手を借りていて、自信もどんどんすり減った。
それで身に染みてしまった、規則正しい就寝起床に対する強迫観念が今も残っているので、起きる時間は固定だけど、寝るタイミングはあまりこだわらずに眠くなったら寝たい時間に寝ることにした。

おそらく辿り着く先は楽ではないかもしれないけど、でも今自分に優しくしたぶんだけまあもうちょいやってこうかなって思える気がするので、ギリギリ健康体を維持してストレスためるより、ぐうたらでもいつも機嫌のよい私に助けてもらったほうがマシ。