読書感想文「鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折」春日 太一 (著)

 自由を求めた脚本家の人生だ。どこにも媚びず、へつらわず、自立した生き方だ。
 それは、プロとしてどう生きるか?という問いでもある。脚本家・橋本忍は軽々と、シナリオを書く際の決め手の『三カ条』があると答える。「いくら稼げるか」「面白いかどうか」「名声が得られるか」。
 俗っぽいのではない。俗だ。だが、時代状況として伸びる一方の産業としてのエンタメ・映画をただただ好きなだけの者が、才能を見出されて、そこに人生に賭ける際、小さくまとまっていてどうする?との問いだ。それは若造が「成功してやる!」とのし上がろうとする個人的な動機だけでなく、実はシナリオライターとしての社会的地位の問題でもある。
 だからこそ、先ほどの三カ条を見返して欲しい。自分が「好きかどうか」は入っていない。あくまで、自分なりに客観的にみて、カネと価値と評判を測っているのだ。頑なになってはいけない。自身のこだわりが気になるようなら、助言を求めるべきだろう。
 そして、一人だろうが、組織だろうが、「気迫」が求められるということだ。緩むと間違う。プロの矜持を知る一冊だ。


読書感想文「頭のいい人が話す前に考えていること」安達 裕哉 (著)

 「謙虚に聞こう」と考えているのだ。
 この謙虚になる相手というのは、クライアントだったり、上司だったり、先輩や同僚、部下ということもあるだろうし、言葉や歴史、シチュエーションそのものだったりもする。謙虚な態度や振る舞いのもとで発する言葉が効き目があるということだ。
 そうした、半ば感情労働や場を読む力が発揮されることによって表現される「頭のいい人」というのは、「立派な人」「ちゃんとした大人」ということになる。だが、「立派な人」「ちゃんとした大人」でいることで、得ようとする信用や信頼は、果たして「頭のよさ」そのものを示すのだろうか、という疑問が湧いてくる。
 謙虚でいることは攻撃をしてこない人なので、安心安全である。この安心させてくれる人とは、評判のいい人であり、頼りになる人である。そんな人を馬鹿にしたり、腐したりはしない。一方、ただの「頭の良さげな人」はバカにされる場面もあるだろうし、陰で罵られたりすることもあるだろう。つまりは、裏でバカにされないような安全な「頭のいい人」が話す前に考えているということである。


読書感想文「まいまいつぶろ」村木 嵐 (著)

 ダイバーシティインクルージョン。いや、エンパワーメントか。
 障害を持った者への罵りを、時代小説という舞台を借りて日の当たる場所へ曝け出してみせた。実は、そうした者の誰もが好き好んで腐そうとしているわけでは無い。自分の身の振り方を案じて「使い物にならぬ」、「役に立たぬ」と攻撃するのだ。それほどまでに、人は弱い。
 己を消して身を尽くした結果、かえって気持ち悪がられて疎まれて受けてしまう攻撃とは、理不尽さを堪える聖職者か敬虔な信者に対する卑劣さそのものである。
 そうした「尽くす」態度で表されるのは、ドン引きされてしまってもおかしくない「美しい」関係のファンタジーであり、あえて「美しさ」の箱に入れてでも、機が熟すことを待つ、急いて結論を求めない、そうした時間を掛けて待つということが判断する際には大事でもあるのだ、と描きたかったということなのだろう。それとともに豊穣な内面は誰もが持っているということもだ。
 「手妻」を使うような者の登場は、世の中を変えてしまうこともある。そのとき、手妻遣いは己を律することを心せよ、ということでもある。


読書感想文「なぜ、おかしの名前はパピプペポが多いのか? 言語学者、小学生の質問に本気で答える」川原 繁人 (著)

 言語学最前線である。
 言葉は変化するとはよく言われるし、実際、変化が起こるのは、発する言葉の伝達速度アップと効率化の欲求の表れであったといえそうだ。社会集団が安定化し、閉じた関係性の中で意思や意味を伝えるようになると、省略と省エネが起きる。「最悪(でも)、言わんでもわかるやろ」となる。何でそうなるか。面倒だからである。言語化は頭を使うし、意図が伝わったかを確認するには「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ」るのである。つまるところ、言語よりも動画・映像で「わかる」のであれば、言葉は省かれる。
 明治期に方言が排他的な扱いを受けたのは、そもそも出身の違う新政府高官同士のやり取りが不便だったからだろうし、昭和の高度成長期にNHKアナウンサーの言葉遣いに注目が集まったのは全国から集まった若者が都会での生活で言葉に苦労したことがいえるだろう。
 翻って、現在も社会の価値観の多様化と国際化で、「言って聞かせて」に一層、重要になることだろう。概念と意味も伝える必要が出てくるからだ。
 また、ChatGPTの出現は、実に有益な「もっともらしさ」のある知見を与えてくれる。世の中、結構、それで十分だったりするので、満足できちゃったりする時代にあって、初等教育から学ぶのが「こくご」でいいのか?「ことば」なのではないか?という疑問も湧いてくる。
 この本の中で質問する小学生と一緒に楽しい時間になるはずだ。
 そうそう、漢字という「言語といわば独立に、文字が存在する」との橋爪大三郎の指摘は刺激的だった。


読書感想文「化学の授業をはじめます。」ボニー・ガルマス (著), 鈴木 美朋 (翻訳)

 とびきりハードで不寛容で未成熟な若くリベラルなアメリカでのおとぎ話だ。
 女はいつも戦っている。負け戦であってもだ。だから、ページをめくるのは重くつらい。従順で健気で素直な「女の子」であることを当然に「定形」として求め・求められるという社会規範にボロボロになりながらも立ち向かうリケジョが主人公だからだ。規範からはみ出てしまうと、お転婆、じゃじゃ馬、さらには阿婆擦れと呼ばれてしまう。定形以外の個性は認められない。のび太を含め男子はそれぞれ個性ある3人なのに、女子はしずちゃん一人に典型として集約されている。クレヨンしんちゃんのノノちゃんと比べてみるとその異常さが際立つ。
 ケミストリーとは何か。揺るがしようの無い原理原則であり、モノゴトの理屈である。そして、物性が移ろうことを説明可能にし、明らかにしようとする一連の行為である。だからこそ、主人公は呼びかける「化学とは変化である」。理不尽さに服従するのではなく、化学を追うこととは、立ち向かって進むということであり、すなわち「勇気が変化の根っこになる」と説くのだ。
 時代は遅々としていてもどかしく、そう簡単には進まないかもしれない。それでも前進するのだ。キャルヴィンを巡る旅のように。


読書感想文「木挽町のあだ討ち」永井 紗耶子 (著)

 江戸の名手である。
 とくに町人、悪所を書かせたとき、この人の右に出る者は何人いるだろうか。まるで、暖簾の向こうで見てきたようまちの風情を描く。たいした筆力だ。ただただ恐れ入る。
 大団円を迎えるまで、地味なシーンに時間を掛ける。それには理由があるし、そこがいい。何かが起こった後の話しなので、基本、何も起こらない。こうだったああだったということになる。でも、前に進むことだけが今を生きるということなのだろうか。振り返りを続けることでかえって今が明瞭になることもあるのではないか。そうして見えてくる今とは、なぜ、こうした今があるのか、という理解が進んだ今であり、「腑に落ちる今」を手にいれるということだ。
 アイデアの勝利、発想がすべてと言われるかも知れない。しかし、読者として、ジリジリとした時間を江戸の風の中て過ごさせてもらったことに感謝したいし、そうして読者を信じて筆を進めた胆力を讃えずにはいられない。
 全六幕の章立てだ。六夜連続の講談ものとしてかけてみる噺家はいないかね。


読書感想文「成瀬は信じた道をいく」宮島 未奈 (著)

 人格の形成とはいつ成されるのだろうか。
 持って生まれた性格や才能、能力が揃い「その人」らしさが形づくられ、他からもそう認識されるのはいつなんだろうか。何を言いたいのかと言えば、続刊であるこの本にもおいても、成瀬あかりはあいも変わらず天然・自然由来の成瀬あかりであった。
 成長し大学生になったが、大人びたり世間擦れしたりせず、無欲で無垢の聖性を帯びたまま、かえって行動半径が広がった成瀬あかりが際立っている。そして、今回、両親が明かされる。気になっていた読者も多いはずだ。あの成瀬の親とはいったい?と好奇心も高まっていたのだ。しかし、どうだ。「この親にしてこの子あり」も、「この子ならばこの親」の要素は全くない。父も母もフツーの人だし、世間のリミッターの内側で暮らしている人だ。
 子どもとは、授かりものである。天才で能力者ぶりを発揮し出したとき、親は自分がどうこうというよりも、神や天から持って生まれたものとして自分の子どもを見つめるしかない。預かっている、という感覚だ。
 そして僕らもヒヤヒヤしながら成瀬を見る。予測不能な側の一員として。