じっくりとはなしをした

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あー今日はゆっくりと話をしました。

脳がじわじわと疲れているのがわかります。

 

お互いの感情と考え方をじっくりと交換し合うように話せる時間は充実しますね。

 

いろんな方にインタビューをし、それをできれば冊子化したり、ネット上で共有をし、読者の(聞いている限り主に子育て世代かな)心に響くものを作りたいという方とのお話でした。

 

自分でメディアとかを作るのはすごくいいと思う。

あと目的が素敵なので、今後もいろいろと話を繰り返したいと思う。

失業して役割を失ったので、ちょっと役割について考えている

結構いきなり失業状態になったことで、役割について考えている。

 

今まで、仕事があったことで、なんとなくやらなきゃいけないことを課されている状態だったので、

そのためにやらなきゃいけないことをやるみたいな感じになっていたと思う。

その結果、会社にいる間はもっとこうすべきだよねとか、もっと社会としてこうならなきゃ、高齢者の社会課題は解決されないよなあとか、色々考えていたのだけど(そしてそれらは決して嘘の感情ではない)

いざ役割をはずされると、もっと役割とは関係のない部分の自分が全面に出てきている気がする。

これらは会社に属しているときにも自分の中にあった部分なんだけど、そこに向き合う時間が実質的にないので、はっきりと意識化されなかった部分だと思う。

 

だから今は、役割があんまりない自分はなにをしたいのかというのを、ある意味自由に考えられる状況になっている。

 

同時に漠然とした不安がある。

今後どうやって生活するのかとか、あんまり考えられていないし。

 

今漠然とおもっていることは、役割を自分で作っていったほうがいいかな~ということ。

与えられた役割をやるというより、自分で作った役割を自分で担う方が、自分にあっているかもしれない。

自分で既存の役割について、やりたいとはっきりと思えている人(自分で決定できている)はそれでいいと思う。僕は今までの仕事は自分で選んだ感が足りなかったのかもしれない。

 

 

 

今日は一日家にいたんだけど、やっぱり家の中にいると、だらだらしてしまう。

 

とりあえずyoutubeを開いて、一個だけみよう~なんて思っていると、どんどん違う動画を開いて、あっという間に1時間くらいたっている。

 

やらなきゃいけないことにたどり着かなくて、それに対して自分があーあ、って思ってしまい、悪循環でしかない一日だった。

 

それでも村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読み終え、そのほかの本もパラパラと読んだ。

 

ジャズのレコードを2枚ほど聞いて、ソファで居眠りなんかしていた。

 

夜は2時くらいまで後輩と話をして、貧乏旅行でもしようかな~なんて話をしていた。

 

明日は雨だ、午後の空いた時間はなにをしようかな~。

自分の領分をわきまえる

 

 

多分今日は頭の中がぐるぐる回っていて、いい状態じゃない。

 

僕は、シリアの戦争を止めることができなかった。

そんなことを勝手に風呂に入りながら考えていた。

考えながら、いやーな気持になっていた。

 

僕という人間は、もともとそんな遠くの国のことに責任を持つことは(がんばれば一部貢献できるのかもしれないが)容易にはできないだろう。

 

現代社会が発達し、グローバルな情報が届くようになった。

そのせいで、自分が考られる範疇以上の出来事や情報にさらされているように思う。

 

そもそも人間が処理できる情報の量は、昔からそれほど変わっていないと思う。

そう考えると、おそらく農耕民族だったであろう僕(根拠不明?)が処理できる情報量や責任の範囲というのは、今でいうと町内とかいうレベルで起きている出来事に対してとか、たまーに旅でやってくる人が持ってくる、他の村の世間話、程度なものじゃないだろうか。

 

そんな頭しかないのに、自分が行こうにも行けないくらい遠い国の人のことを、責任持って考えられるわけがない。

 

シリアの戦争について考えを巡らせたり、学んだりすること自体は、大事だと思う。むしろすべきことだとも思う。

でも情報がグローバルになったからって、僕が考えられる容量や、責任の取れる範囲はそれほど広がらない。

 

自分の領分をわきまえなきゃ、と思った。

持たない幸福論 ~働きたくない、家族を作らない、お金に縛られない~ phaさんより

今日は、貨幣についてよく響いた言葉が、タイトルの本のあとがきに書かれていたので引用します。

 

ミダス王は黄金を何よりも愛し、手に触れるものすべてを黄金へ変ずるという力を獲得するのだが、水を飲もうとしても水が黄金に変わってしまうので、のどが渇いてしんでしまうというものである。

ミダス王の神話を生んだ時代の人々が鮮烈に感覚したのは、貨幣の欲望は一つひとつの具体的な事物の味わいや楽しみを抽象化してしまうということ、それゆえに貨幣の欲望には限度がないこと。貨幣の欲望にとり付かれた人間は、現代の人間のように、死ぬまで乾き続けるということである。

 

 

なるほどと思います。

貨幣自体が持つ本質を書いてくれています。

お金にまつわる様々な感情について、こうした本質を忘れたくないものですね!