愛の生活・森のメリュジーヌ (講談社文芸文庫)

愛の生活・森のメリュジーヌ (講談社文芸文庫)

表題作である短編「愛の生活」のみ読了。
金井美恵子を読んだのは、高校の時に読んだ『小春日和』以来。
作者が19歳の時に描いた短編ですが、19歳にしてはうまいと思うものの、作中の時間が混乱しており、それが意図的なものなのか、それともたんに小説を書くのが下手なだけなのかわからず、いささかとまどいました。

マイノリティ・リポート―ディック作品集 (ハヤカワ文庫SF)

マイノリティ・リポート―ディック作品集 (ハヤカワ文庫SF)

この中の「マイノリティ・リポート」と「追憶売ります」を読了。
どちらも原作から大幅に脚色された映画がある(前者はスピルバーグ監督。トム・クルーズ主演の「マイノリティ・リポート」、後者はバーホーベン監督、シュワルツェネッガー主演の「トータル・リコール」)
感想としては、「マイノリティ・リポート」は映画よりも原作のほうが断然上。ディックの短編はほとんど読んだことがないけど、この作品はディックの短編の中でもかなりの傑作といえるのではないかと思った。
映画のほうはよく覚えていないけれど、トム・クルーズが罠にはめられるという結構単純な話だったと記憶がある。けれど原作のほうは人間が人知を駆使しても逃れられない運命を描いたものだということが言え、その点でギリシャ悲劇のような作品だと思った。
「追憶売ります」のほうは原作のほうが面白いですね。ディック的というよりも星新一的といった方がよい、皮肉っぽい作品だけど、「マイノリティ・リポート」に比べれば深みのない、どんでん返しだけが重要な作品なので、話が四転五転する映画のほうが単純に楽しめます。

コンテンツの思想

コンテンツの思想―マンガ・アニメ・ライトノベル

コンテンツの思想―マンガ・アニメ・ライトノベル

実写映画でなぜ編集が可能なのかと言えば、つまり、作品よりも世界そのもののほうが豊かだからです。
(中略)
まんが・アニメ的リアリズム」も、作品の外側に「まんが・アニメ的世界」というのが広大に開けていて、その一部を切るとこういう作品ができました、みたいなものだと思うんです。
p33-34 東浩紀発言

「視覚の優位」*1ではなく、「編集の優位」という言葉が思い浮かんだ。

斎藤:手塚の昔のマンガにある、コマを突き破ったりぶら下がったりする表現が、今のマンガの絵でやると不自然になるという指摘がおもしろかったんですけど
(中略)
夏目:大塚英志が、大友克洋が出てきたときに、マンガがつまらないとなぜみんな言わないのか、ということをたしか言っていて、もはやマンガに語るべきものは何もない、と言っているんですね。、僕はまだマンガがおもしろかったし、語ることはたくさんあると思ったから、それが非常に不思議だったんですが、大塚さんは大友克洋のリアリズムに対してどうも違うという感じをもっていた
p150-151

筒井康隆が『文学部唯野教授』で、メタフィクションの具体例として手塚のマンガのなかに手塚自身が登場人物として出てくることを挙げていたのを中学生のころに読んだため、手塚治虫のマンガとメタフィクションが自分の中では強く結び付けられているが、このやり取りはなぜ手塚のマンガではメタフィクション的なことが可能だったかということを示唆している。
つまり手塚のマンガは(リアリズムに則った大友のマンガ*2に比べると)記号的だからこそ、メタフィクションが可能だったのだと。
同じようなことは小説でも言えるような気がする。例えばセルバンテスの『ドン・キホーテ』はメタフィクション小説だと言われるが、同時にドン・キホーテという人物ほど、古今東西の小説の登場人物の中でそのキャラが広く流通した人物はいないだろう。

ライトノベルは)四〇〇字一エピソードの単位で基本的に完結していて、それが連なっているのをどこから読んでもいいというものになるのではないか
p186 新城カズマ発言

面白い。辞書のような小説。

*1:©蓮實重彦

*2:大塚の大友批判については『サブカルチャー文学論』が詳しい

開会の言葉

頭の中ではいろいろなことを考えていて、たまにいいアイディアを思いついたりもするんだけど、頭の中に記憶しているだけではすぐに忘れてしまう。
最近そういうことがすごくもったいないと思い始めたので、再び(というか四回目くらいになるけど)ブログを始めてみよう。
大学院とどこまで両立できるのかは問題だけど。

三 コミュニケーション行為と討議

  • 1 討議においては、言語的発言だけが主題として許される。たしかに参加者の行為や自己表出は討議に伴いはするものの、それらは討議の成分ではない。そこでわれわれはコミュニケーション(あるいは談話)の二つの形式を区別することができる。一方はコミュニケーション行為(相互行為)であり、他方は討議である。
    • 了解は、コミュニケーション的行為において素朴に前提されていた妥当要求が問題視されるときに発生する状況を、克服することを目標にする。
  • 2 行為に付随する合意は発言の命題内容に、従って思念された事柄に関係すると共に、間主観的に妥当する相互的な行動期待に、従って規範にも関係する。

  

  • 3 コミュニケーションにおいて素朴に妥当している意味連関の四つのレヴェル
    • (a)相互人格的関係の語用論的意味(=発話行為において口頭言語化される)を志向的に伝達し、それ相応に把捉することができる
    • (b)自分達の発言内容の意味を志向的に伝達し、それ相応に把捉することができる
      • (a)(b)の合意に語用論的な障害が起こる場合は解釈で答える
    • (c)自分達がコミュニケートする思念された事柄の妥当要求を疑わない
      • 合意の障害には主張と説明で応対する
    • (d)自分たちがその都度従おうとしている行為規範の妥当要求を受け容れることができる
      • 障害には弁明を持って答える

  

  • but上記の返答は妥当要求に対して疑いを表明しているような質問を満足させるわけではない→討議の中でしか答えることはできない
    • 解釈を理論的解釈に、主張を命題に、説明を理論的説明に、弁明を理論的説明に変形する必要

なんで討議が必要なのかいまいちよくわからない

  • 4 討議が持つ位置づけを相互行為が持つそれから区別できるようにする観点として、最も重要な二つ
    • ①討議はそれ固有の要求に従って、行為にまつわる様々の強制の潜在化を要求する。
    • ②討議は妥当要求の潜在化を要求する。この潜在化によって、われわれはコミュニケーション行為の対象が実在するということをひとまず留保し、
      • (a)成り立っているとされているが、成り立っていないことも可能であるような事態と、
      • (b)正当だとされているが正当でないこともありうる勧告と警告とについて討論する
  • 5 真の合意と偽の合意とを区別する可能性については次節に後回し。規範の妥当要求の意味を明らかにすることを先にやる
  • 6 (操作できる対象としてでなく、主体としての)相手に出会う場合に、われわれはその相手には責任能力があるものと想定する。
    • このとき相手が「自分がなぜ、所与の状況でこのように振舞った/振舞わなかった」と述べることができるであろうことを前提とせざるを得ない。
    • 「もしわれわれが他者にたずねるならば、彼はわれわれと同じ仕方で自分の行為について理由を挙げることができる」という直感的知識は、二つの反事実的な期待において明らかにされる。
    • (a)行為する諸主体は、自分達が遵守している全ての規範に志向的に従っている、とわれわれは期待する。→相互行為そのものにおいては、相手が無意識の動機を持っている、とすることはできない。
      • ∵無意識の動機を帰す→間主観性のレヴェルを離れてしまい、他者を客体(それについて第三者とコミュニケートできるが、それ自身とはコミュニケートできないもの)としてとり扱うことになるから。
    • (b)行為する諸主体は、自分たちに正当だと思われる規範だけに従っている、という想定を含んでいる
      • したがって、現実に規範に従っておりながら、しかもその規範を承認しないであろうと考えられるような規範遵守の仕方を相手に認めることはできない。  
      • 責任能力ある主体は問題視された行為連関からいつでも歩み出て討議を始めることができる、とわれわれは想定する。
  • 8 イデオロギーの逆説的なはたらき:コミュニケーション封鎖(責任能力を互いに相手に負わせることを正真正銘の虚構にしてしまう)--それが虚構であることを見ぬけなくしたまま保持する正統的信念を支えている
  • 9 イデオロギーは、討議による基礎づけという規範の要求が認証され得ないからこそ、規範を見かけ上の弁明という意味で正当化するのに成功するときがある
  • 10 それならば、われわれは討議を行うつもりではじめるコミュニケーションの参加者として、このコミュニケーションそのもののなかで、「真の」合意と「偽の」合意との区別を正しく行うことができる、ということの他に頼りにできるのはない
  • 11 真の合意を偽の合意から区別する十分な基準がなければ了解は可能でないから、理想的発話状況を想定せざるを得ない

二 語用論的普遍態

  • 1・2 発話状況の一般構造に関係する部類の語彙
    • (一)人称代名詞 
    • (二)談話を開始したり、語りかけたりするために使われる言葉と言いまわし ex.呼格、警護
      • (一)(二)は話し手/聞き手と対話への潜在的な参加者に関係づけられている
    • (三)指示的表現、指示代名詞、冠詞、数詞
      • 発言の時刻に関係づけられている
    • (四)遂行的動詞 ex.疑問形、命令形、間接話法
      • 発言そのものに関係づけられている
    • (五)行為遂行的には使われない志向的動詞、若干の様相を表わす副詞
      • 話者の志向、態度、自己表現に関係づけられている
  • 3 われわれが発言において文を使用することができるのは
    • 間主観性のレヴェル(人物がそこで対話関係に入り、これによって言語能力と行為能力のある主体として登場することのできる)と
    • ②対象のレヴェル(実在するものが可能な言明の対象としてそこで描き出されうる)に限られる。また語用論的普遍態は対話を構成する普遍態だと言うこともできる
  • こうした普遍態に準拠しない限り、可能な談話の状況をつくり出している繰り返し現われる成分を定義することは全くできない。
  • 5 ①コミュニケーション型:言う、発言する、しゃべる
  • 6 ②-a事実確認型(主張的):記述する、報告する、伝達する
  • 7・8 ②-b事実確認型(真理要求の語用論的意味):断言する、請け合う、肯定する
  • 9 ③表示型:知る、考える、明らかにする、打ち明ける
  • 10 ④規制型:命令する、要請する、頼む
  • 11 ⑤制度的発話行為:あいさつする、おめでとうを言う、感謝する
  • 12 発話行為=制度を前提する、発話行為に従属している⇔普遍態(対話を構成する)=発話状況の一般構造を初めてつくり出す 
  • 13 発話行為は三つの基本的な区別を行うのに使われる
    • ①存在と仮象:事実確認型を使うことによって公共的世界(間主観的に承認された見解からなる)と私的な世界(単なるおもいこみからなる)との区別が可能となる
    • ②本質と現象:表示型を使うことによって完全に個体化された本質と言語的発言・自己表出・行為との区別が可能になる
    • ③存在と当為:規制型を使うことによって観察され得る経験的規則性と志向的に遵守されたり違反されたりするような妥当する規則との区別が可能になる
  • 最後に
    • 上の三つの区別が一緒になると「真の」合意と「偽の」合意という主要な区別が可能になる