Final Fantasy VIIの思い出
最近は全くと言っていいほど、ビデオゲームで遊ぶことが減った。しかし、中学・高校・大学の頃はそれなりにRPGをやってきた。RPGについて性格柄か、結構きっちり遊ぶタイプで一周目はストーリーを楽しみ、二周目は100%(宝箱全回収、Lv99など)を目指して遊ぶことが多かった。
遊ぶことが減ってきたのは大学院に入って研究をするようになった頃から。研究が楽しくなったというのもあるし、物理的に時間がとれなくなったというのも大きい。かれこれゲームから遠ざかってだいぶ経つが、それでも記憶に強く残っているのがFinal Fantasy VIIだ。中学3年生の2月、最初にプレイステーションを起動して、観たオープニングの衝撃は今も記憶に残る。多くの人が口々に言っているけれど、これは誇張じゃなく、あの時FF7をプレイしたすべての人が感じたことだと思う。
1997年に発売されたFF7はこれまでのファイナルファンタジーシリーズとは一線を画し、プレイステーションの機能を用いた3Dポリゴンを採用したものだったが、当時としては圧倒的なクオリティのCGで表現された世界に皆圧倒された。特に序盤のミッドガルが顕著だったけれど、まるでそこにあるかのように緻密に作られていて、演出や描写が素晴らしかった。特に教会の光の表現などがすごく綺麗だった。
ストーリーについては、正直なところ、初めてプレイした中学生の頃は壮大かつ複雑な設定に理解が追いつかなかった。古代種ってなに?ジェノバってなに?リユニオンって?とか思いながら、それでも進めていた感じ。実際にストーリーを細かいところまで理解できたのは、大学の後半ぐらいに改めてインターナショナル版をやり直した時。その時に、細部まで作りこまれている世界を実感し、作品の良さを再確認した。
それからFF7の良さは、世界観だけでない。むしろゲームとしてのエンタテインメント性に優れているところこそFF7の魅力だと思うし、中学生の頃に最後までプレイ出来たのは、この部分がしっかりしていたおかげだと思う。プレイした人ならわかると思うが、FF7はストーリーを進めるごとにミニゲームが山ほど出てくる。例えば時限制の電車イベント、女装イベント、バイクを使っての逃走劇、コンドルフォート、パレード、スノーボード、チョコボ育成、潜水艦などなど、挙げたらキリがない。そして何より、ゴールドソーサーでいくつかのミニゲームを単体で遊べるため、ゴールドソーサーで本編以上の時間を潰した人も多いだろう。スノボはどうにかして「変態」を出そうと苦労したが、ついぞ出せなかった。
戦闘システムはマテリアシステム。何らかの効果を発揮するマテリアを武器や防具に付けることで、魔法を使えるようになったり、ステータスが変化したりするというもの。歴代のFFの戦闘システムの中でも自由に戦略を立て、組み合わせの妙を楽しめる、優れたシステムだと思っている。FF12のガンビットの次に好きだ。また、マテリアをマスターにすると増殖するというのも、やりがいを出させてくれた。アポカリプスにナイツオブラウンドをつけて、ひたすらマジックポットを狩っていた、あの日々が懐かしい。
魅力的なキャラに美しい映像、引き込ませるストーリー展開。FF7は魅力たっぷりの作品だ。そんなFF7が今度PS4でリメイクされるらしい。こんな思い出話を書いてみようと思ったのは、そのリメイクのニュースを見たから、なんだけれども。
PS4の圧倒的なクオリティで一体どこまでリメイクできるのか。ストーリー重視でゲーム性が失われてしまったら悲しいけれど、かといって、上記のミニゲームを全て再現するのは、またそれはそれで難しいと思うので、どうなることやらという感じ。スクエニとしては最後の切り札とも言える、すさまじいカードを切ってきたわけで、是非ともいい作品を作ってくれることを期待したい。
ハンドル名とブログの話
既に何度か書いてると思うけれど、ハンドル名の由来は、小学校中学校の時のアダ名から。
ブログを始めたのは今から約9年2ヶ月前。第一次ブログブームに乗っかって、始めたのがきっかけだ。日付もはっきり覚えている。2005年2月26日だ。あの頃はまだ修士1年だった。
どういうハンドル名にしようかと悩み、自分が小さい頃言われていたアダ名を取って、ケロというハンドル名にした。なので、このケロというハンドル名はブログを始める前からの名前でもあるので、かれこれ25年近く世話になっている。未だに小中学校の同窓会に行くと、この名前で呼ばれる。
ちなみに、keroではなくkeloにしたのは、keloの方が日本語のけろの発音に近いんじゃないかなーという程度で決めているので、それ以上の深い意味は無い。
それからハンドル名にinwellをさらに付けたのは、前のブログをやめて今のブログにする時だったから2010年の7月ぐらいか。inwellの由来は「井の中の蛙大海を知らず」の諺の原典でも有名な、荘子秋水篇のこの一節から来ている。
北海若曰、井蛙不可以語於海者、拘於虚也。夏蟲不可以語於氷者、篤於時也。
(書き下し)
北海若曰く、井蛙は以て海を語るべからざるは、虚に拘ればなり。夏蟲は以て氷を語るべからざるは、時に篤ければなり。
ちなみに、ブログタイトルのPursuing Big Oceansもここから取っている。世の中、知らないことがまだまだあるという未熟さをハンドル名やブログ名で常に意識しているわけだ。ある意味、マゾだよな。
それから自分のブログのモデルは、言うのも恥ずかしいんだけど、極東ブログだ。あのブログに憧れて、9年書き続けてきて、今のブログのようなものが出来上がってきた。
あと、これいうと「へえ」と言われることが多いのだけど、自分のブログの一番の想定読者は未来の自分だったりする。未来の自分があとで読んでも納得するようなものを書くようには心掛けている。まあ言うなれば、自分版Wikipedia作りみたいなものかな。なので今後もだらだらと未来の自分に残していきたいものをその時その時で書き続けていくつもり。(にしては更新頻度少ないですが・・・。)
書きかけのブログエントリー
消すのも何なんで、貼り付ける。
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表題のとおりなんだけど、こんな記事を見たんですよ。
ネイチャー誌の最新号の中で、米心理学者のディーン・ケイス・サイモントンは"現代科学は発想の転換をするよりも、すでに分かっていることを基礎にしているだけだ。"と語った。この世から天才は一掃されてしまったのか?これまでの考えを根底から覆すような第2のコペルニクスやダーウィン、そしてアインシュタインは今後現れないのか?
彼の文脈にそって、「天才」がいなくなってしまった理由を言うならば、科学が発展し、知が細分化していく中で分野を横断するような研究/発見をする人が減ってしまったから、というのが挙げられるだろう。細分化によって、分野内の人ですらその業績を評価することが難しくなってしまったというのもあるかもしれない。
でもまあ、元記事に反論するならば、筆者の視野が狭いだけではないかとも思う。世間の耳目を集めないだけで、もしくは周りが評価を下せないだけで、科学分野に「天才」はそれなりにいると思っている。筆者の文脈にそって、現代人で天才というなら、テレンス・タオなんか天才の部類だろう(参考)。
「天才」って言葉ほど捉えどころのない言葉も無い。「天才」は社会が決めるものだと思っている。社会が決めるという点では、「美人」と似ていると思う。社会の要請によって、その価値が決まるものなので、個人がどうこう決められるものではないと思うし、時が経たないと「天才」であるかどうかが分からないこともある。
ただ、まあ世に「天才」といわれる人たちの思考というものを想像することはある。一般に人は、周囲から評価されるようなことをする。これは人の常であり、現代風に言うなら戦略だ。でも天才は違う。まず先に自分のやりたいことをする。そして、それが周囲に評価される(ことが多いように思う)。
人と違うことを情熱を持ってやり続ける。これは一種の狂気だと思う。こうした狂気はクリエイティブな仕事によく見られる。孤独に耐えることが研究者にとって大事なことの1つと常々言っているんだが、まさにこれが「天才」の狂気性に当てはまるだろう。そういう意味では研究者は皆「天才」に肉薄している。さらに言えば、孤独に耐えられない人は、その人の天才性から遠ざかっていくのだろうと思う。
本格的に実験が始まって
本格的に実験が始まるようになったが、今のところまだ実験前の準備段階で相当な時間と条件検討をかけている。まだうまく行く気配すらないが、引き続きやっていくしかないと思っている。先は長そうだ。
こうした時間が精神的に参ってくるので、美味しいものでも食べて、気晴らしするようにしていきたい。