あばたもエクボなのか
マルハラという、マルありをハラスメントとするには、異議がある。マルに威圧感とは、納得できない。22歳の青年に聞いた。「どうして威圧感を、感じるのか」「マルでなく、びっくりマークか、はてなマークがあればわかりますね」飲み会での話し。行間を威圧感として読んでしまう、と言う事である。それまで、マルハラなんて、それがハラスメントではないかと思ってもいたが。
まだ自分が携帯電話を持ってないころ、ある先生が生徒がこんなメールを送ってきました。と見せてくれたとき、私もこれはケンカ腰のようだなと感じたこともある。でも、生徒がどのような意図なのかは、はっきりとはわからず、メールも誤解を生む恐れが多いのかなと、思ったまま。
店の人は「◯◯さんだったですよね」と言われる。この弁当屋さんに何度きたものか。仕事の休憩時間にとりに来ようと、仕事場にいく途中、のり弁など、注文している。1時に取りに来るのも、私の名前も覚えてくださったのである。月3〜4日ほどのこの某レンタル屋さんの仕事をそれほどまでに長くしているのか、弁当屋さんが素晴らしい顔覚え術の持ち主なのか、それははっきりしないが、あるいは両方かもしれない。
某日土曜日、この仕事日。9時30分。ひたすら一時置き場にある商品を棚まで運び棚にならべる。「なにやってるの」と保育園児のような子がいう。「返してくれるでしょう、それを元のところにおいてるんだよ」と言うのに、その子は走り去っていてもういない。
「〇〇はあるんですか?。24巻まで見たのですけど。そのあとありますか?」。それが借りてられたら、「ない」しかありません。借りられてるかわかりませんよ。「聞いてきます」。窓口の人に聞くと、パソコン操作で調べてくれた。
「あと26巻から30巻までありますが、全部借りられてます。(ので、今は借りれなく、待つしかありません)」
「いつ借りれるの」「それは、それが返されたときです。それがいつかは私は、わかりません。(あなたが、ここにきて、そのものを確保するしかありません)」
「ここに来たの二回目なので、よくわかりません。こんなのを見たいけど、どこにあるのかわからなくて。」(そのうちにわかります)
「あなたはいつから、この仕事してるの」(それは業務以外なので、言えないなあ)「3年くらいになります」「頑張ってね」
「〇〇はどこにありますか」「アニメ?」「アニメっぽいけど、アニメではなかったと思います」「こっちの棚かなあ」心当たりの棚に近づくと、その子は「あった。これ」え、すぐ見つけたのか。素晴らしい。よかった。
ハードな仕事。でも楽しいことも結構あるし、からだ特に足の訓練にはなる、月に3〜4日だけど、何年かという時間が過ぎて、好きになっている。
◯のある文章を読み、また書いて来ただろうのに、いまさら◯が威圧感を感じるのは、◯抜きのメールなどが多くなったのと、行間が威圧と思えてしまう生活があるのだろう。若者も、この社会に漠然たる不安をもち生きていることかもしれない。マルハラが、ハラスメントだと捉えていたのは、大きな間違いであった。それは対立にしかならない。
◯なしの文も、◯ありの文も、どちらも認められるような人間関係をつくって威圧感が、なくなることかと思う。
あばたもエクボということか
好きになるには我慢も時間も必要ということか。
(熊本教育ネットワークユニオン MAE)