けろけろの考えごと

無駄な思考もいつかは再利用できると信じて

眠るためのソファ

夜、ベッドに入っても寝られないときは、よくリビングのソファに行く。

そして布張りの3人用ソファの上で肘掛けに立てかけたクッションをまくら替わりにし、ブランケットにくるまりながら横になる。

脚を伸ばすとソファからはみ出てしまうから、身体を横に向けて少し膝を折りたたませながら寝る。

少々窮屈だが、ソファにちょうど収まる感じが良い。

 

もちろんベッドのほうが横も奥行も広く、手足を伸ばして眠ることができる。

しかし、そうしたベッドの上だと身体が快適が故に、頭の中でどうでもいいことを考えてしまう隙を与えてしまう。

将来や過去、現在の考えてもどうしようもないことを頭の中でめぐり巡らせ、どれだけ夜更けであろうと頭は一向に休ませてはくれない。

そうなるとついついスマホに手を伸ばしてしまい、さらに目が冴えて寝られない悪循環に陥ってしまう。

その負のサイクルから抜け出すために、一度ベッドから離れ、リビングのソファへと向かうのだ。

少し身体を丸くして横にならなくてはならない窮屈なソファの上は、寝ることに集中させてくれる。

壁に掛けられた時計が目に入るが、暗すぎて今が何時を指しているのかまでははっきり見えない。

今から寝たら何時間寝られるとか、あと何時間で空が明るくなるとか、余計なことは考えずに済む。

 

目を瞑って気が付くと数時間が過ぎ去っている。

スマホを覗くとあと1時間もせずに空が明るくなる時間になっている。

まだ眠い身体を起こし、再びベッドへと戻る。

そしてようやくベッドで眠ることができる。

さっきよりも存分に手足を伸ばし、頭を丁寧に包み込んでくれるまくらに埋もれながら快適な気持ちで眠る。

今の家に越してきてから寝られないときのルーティンとなったソファでの睡眠は、今までずっと寝つきの良くない自分にとっては欠かせないものとなった。

家の中に寝られる場所を複数設けることが、寝ることに対するハードルを一気に下げてくれた。

ベッドに入ったら絶対寝なくてはならない。

もしかしたら今までの自分はそう考えていたのかもしれない。

そうして自らを苦しめ寝つきの悪い自分を作ってしまったのではないか。

これから冬に入り、ソファで寝るのには少々寒くて辛くなるが、今年の冬も寝られない自分をソファへと委ねるだろう。

 

25歳の境界線

「もう自分は25歳の年なの。でも三十路だって言いたくないよ」

 

「もう若くないんだから。アラサーになっちゃうんだから」

 

「二十歳が凄く若く見えるよ」

 

自分の周りでは、もう年だ年だと騒ぐ人でいっぱいだ。

表題にあるように、自分たちはもう25歳になった。

院で修士や博士に行く人以外はみんなもう働いている歳だ。

大卒だと社会人3年目、中卒で働く知り合いはほぼ9年目だという。

つい最近まで学生割が効いて、とにかく酒を飲んで朝までカラオケオールするような、世の中の流行をつくる世代ど真ん中にいた。

だが、25歳になった途端、みんな口を揃えて

 

「もうアラサーだ」

 

と悲壮感漂わせながら言う。

確かにそう語る君らの背中は、10代からおじさんと言われるような30代といっても過言ではないだろう。(半ギレ)

 

自分は25歳になって、初めてアラサーのくくりに入ることを知った。

てっきり30代をアラサーと呼ぶのかと思っていた。

だが、世の中は手厳しい。

生まれてから四半世紀も経てば「アラウンドサーティー」のくくりに入れてしまうらしい。

まだ20代でありながら「トゥエンティ」の名を奪ってしまうのだ。

なぜ20代は10年もあるのに、5年も生きれば「サーティー」の名のつく呼び名(蔑称)を名乗らなければならないのか。

そんな生き急いでどうするのだ。

自分は、自分自身を「アラサー」とは決して言わない。

言葉には言霊というものがあるように、自分を蔑むと本当にそのような姿になってしまう。

だから自分を「サーティー」と呼ぶ気はさらさらない。

そもそも産業革命以降、精神年齢的に青年期は徐々に伸びている。

いまや30歳ですらまだまだお子ちゃまなのだ。

また知能でも名前を覚える能力のピークは30歳ごろだ、

そうであるならば25歳なんて20歳と(ほぼ)違いなんて無い。

社会人になって社会の常識や落ち着きを持った’大人’として敬ってほしいくらいだ。

そんな25歳を「アラサー」だなんて…

「アラサー」なんて言葉をつくったのは一体誰なんだ。悪魔か。

 

おじさんが必死こいて若者ぶってるよ…w

 

と思った君。

罰当たるよ。

 

お盆休みで得られたものと失くしたもの

*1

私の長い長いお盆休みが終わりを告げようとしている。

8月11日木曜日の山の日から8月21日日曜日までの11連休が残り2日となった。

こんなに長い休みを謳歌していると、いよいよ会社なんか行きたくなくなる。

8月22日はきっともぬけの殻状態でパソコンの前に座っているだろう。

 

さて、もうお盆休みが終わろうとしているが、お盆休みが始まった11日までを振り返ってみるとなにか変わった自分はいただろうか。

いや、変わったというより得られたものはあっただろうか。

これだけ休みがあれば、例え何かしらの予定が入ろうとも自分ひとりの時間だってたくさん取れるはずだ。

この連休を振り返って得られたものを探してみると、きれいさっぱり何も無い。

本当に何もない。

しかし、やるべきことはやったと言える。

この休みの間に、パートナーとの結婚による両家顔合わせに、実家の草刈り、久しく会っていなかった友人たちへの結婚報告。。。

こう並べてみるととてもやった感は無い。

本の一冊も読み終えなかった。

それよりも会社の研修に向けた資料作りがまだ終わってなかった。

やるべきことすらやってなかった。

本当にありがとうございました。

 

 

だが、顔合わせを終えたらずっとせわしなかった気持ちが少し落ち着いたような気がする。

これから結婚式のことなどあれこれ考えないといけないものもあるが、なんとなく生活に落ち着きがついたといえるのではないか。

このお盆休みで失くしたものはなにかと問われれば、強いて言えば焦燥感なのかもしれない。

 

これから研修の資料作成に励まなければならないが、なんだかんだ言ってこのお盆休みはとても楽しかった。

ビアガーデンにも行って、美味しい懐石料理も食べて、カラオケでテキーラも飲まされて、久しぶりの人たちにも会えた。

また来月にシルバーウイークもどきもあるからそれまで仕事を頑張ろうと思う。

それとお盆で飲んだたくさんのお酒が、とうとうお腹の膨らみ具合に影響を与え始めている。

元来細いで有名な私がおなかぽっこりの姿になってしまったらもうお終いだから本格的に身体づくりにも励もう。

来年のお盆にはムキムキになって…

 

*1:酔っ払いながら大きい月を撮ろうとしてブレにブレまくった写真

ブログ名を変えました

タイトルにあるようにブログ名を変えてみた。

「考え事は資源ごみへ」

このブログ名はまさにこのブログ自体のことを表している。

このブログは思考の資源ごみ置き場だ。

 

ブログ名を変えた経緯

自分は昔から考え事が絶えない人で、いつも起きてから寝るまで何かしらずっと考えている。

特に今考える必要のない、自分が心配したところで意味のないことをよく考える。

それは自分が気づかないだけで、とてもとても頭を疲れ支える。

日々の考え事の9割は頭のCPUを無駄に消費させて疲弊させる。

どうしたものかと悩んだ。

そんなとき、ちきりんの書籍を読んだ。

「自分のアタマで考えよう」

この本の中で、自分の頭の中に本棚のような、クローゼットのような思考の置き場所を作るんだと書かれていた(はず)。

その思考の置き場所には、日々ニュースだとかテレビを観た際に考えたことを取り留めておく。

そしていつの日かまた全く別の出来事に対して考え事をした際に、その思考の置き場所に置いた考え事が結びつくことがあると。

一見関係ないようなこと出来事の思考が、別の考え事の答えを得るためのヒントになったりすると、書かれていた(はず)。

なるほど、自分も頭の片隅に思考の置き場所を作っておけば、この無駄とも思える考え事も、きっとなにかの役に立つかもしれない。

ちょっと実践してみようか。

そう思い立ち、自分のなるべく意識しない程度の頭の片隅に思考のクローゼットを置いてみた。

それから何年か経ち、思考の置き場所訓練は結構うまく実践できていると思う。

特にコロナ禍以降は世界でいろいろな出来事が起こって。それらは意外にも間接的に影響しあっていたりする。

そんなときに思考のクローゼットにしまっておいた考え事が使えたりする。

だが、起きてから寝るまでずっと考え事をしていると、さすがに思考のクローゼットがパンパンになってきた。

もう考え事をしまう場所がない。

 

ブログを思考の置き場所にしたい

そこで自分は考えた。

ブログを思考の置き場所にしてしまおう。

そうすれば視覚的に自分の考え事を振り返ることができるし、考え事を言語化する訓練にもなる。

そこでこのブログを立ち上げてみたのだが、なんやかんやあり始めはアフィブログになっていた。

そして今、原点復帰したのだ。

このブログを自分の思考クローゼットへとしようと。

クローゼットと言いながら、タイトルが資源ごみとなっている。

それは考え事がいつかどこかで資源として再利用できるという意味で、ブログ名に資源ゴミと名付けてみた。

考え事は資源ごみへ

これから初心に戻ってブログを書き続けてみようと思う。

 

複雑な問題にシンプルな答えを求めがち

コロナ禍以降のSNSは大きく変わった。

いや、変わったというより変な人たちを表にあぶり出した。

世界の見かたを大きく変えたコロナを闇組織の陰謀と、彼らは捉える。

また、トランプ大統領の登場もSNSへの影響が大きい。

特にアメリカ国内だとQアノンだとかいう組織が陰謀論好きな人たちを虜にし、闇組織を蹴り倒すためにトランプが躍動するんだという世界観を共有している。

その世界観がなぜ日本でも多く支持されているのか自分はよく分からないが、現にTwitterでは多くの(Qアノンに毒された)トランプ支持者が存在する。

さらにコロナの蔓延も多くの人々を不安にさせて陰謀論者を増やした。

コロナはビルゲイツをはじめとする世界を牛耳る億万長者たちが、ここらでひと儲けしようと企てた嘘の伝染病だという。

ワクチンがどうのこうの、5GがどうのこうのとSNSでは面白がるように話題となった。

 

そして、直近の話題といえばロシアのウクライナ侵攻だ。

国際連合常任理事国であるロシアが一主権国家の領土に軍事侵攻するという、まさかまさかの出来事が起こってしまった。

一部の国を除いて全世界はロシアを非難している状況だが、ここでもSNSに潜む陰謀論者はロシアを擁護する。

彼らが何を主張してロシアを擁護しているのかは割愛するが、なにがあろうと一主権国家の領土に無断で軍事ヘリや戦車で押し入り内政干渉を図るのは、どんな理由があってもあってはならないだろう。

以上がSNSに潜む主な陰謀論者だが、驚くことにこれらを語る陰謀論者はみな繋がっている。

つまり、ウクライナ侵攻したロシアを擁護する人の多くはQアノンを信じたトランプ支持者で反ワクチンなのだ。

news.yahoo.co.jp

 

なぜこれほどまで陰謀論者が増えたのか。

その推測は主に3つあると考える。

1つは、陰謀論者がよく目につくようになっただけ

つまり、そもそも彼らのような人たちは昔から多く生息していたが、これまであまり活躍する場が無かったのか、陽の目を浴びることは少なかった。

だが、誰でもつながるSNSが発達したおかげで、Twitterのトレンドを開くとよく陰謀論を唱える人を目にするようになってしまっただけなのではないか。

2つ目は、暇を持て余した高齢者が生きがいとしてハマってしまったから

今まで企業戦士として働いてきた定年退職した今の高齢者が、仕事がなくなりこれといった趣味を持たないが為に、ありとあらゆるものが見られるスマホを手にしてしまいYouTubeSNS陰謀論にハマってしまうケースだ。

現にSNSでは身内の高齢者がYouTubeで色々なものを見過ぎるが故に、ワクチン接種をやめるよう電話がかかってきたなどの被害をよく目にしていた。

彼らを陰謀論から救うのはなかなかやっかいだ、

なにせ闇の組織、ディープステートと戦うのが生きがいとなってしまっているのだから。

 

そして3つ目が、世の中の問題が多すぎて考えるのが大変だから

上2つはよくネットでも見る論説だが、この3つ目は私がSNS上で感じ取ったことだ。

今、スマホやテレビのニュース、ワイドナショーでは国内国外関係なく多くの問題を取り上げて私たちに提示し、多くの人々があーでもないこーでもないと自身の考えを表明している。

特にここ2年間は私たちの生活に直結する大きな問題が起こり過ぎている。

自分の身に直接かかわる問題だから何も考えずやり過ごすことは難しい

だからといっても現代の問題はとても複雑だ

簡単に答えなどは見つからない。

いや、単純な答えなど存在しない

コロナだってはじめは中国の市場が発端というが、本当のところどうなのか分からない。

いまだに正式に答えが出ていない。

ウクライナ問題だって3月に初めて起こった問題ではない。

2014年には既にロシアによってクリミア半島は占領されている。

つまり2014年以前から色々と問題はくすぶっていたのだ。

だが、多くの日本人は事の発端などよくわからないだろう。

ウクライナ問題にせよ、コロナにせよ、考えなくてはならないことが多すぎる。

そしてそれを調べるのも大変な作業だ。

だから人はつい簡単な答えを求めたがる

全ては闇の組織、ディープステートが悪いと。

 

確かに考える作業はとても大変だ。

考えることなんかせずに色々なトピックに対してすぐに断言をしてくれるひろゆきYouTubeを見たほうが楽だし簡単だ。

だが、その手っ取り早さが一番怖い。

だから考えろ。とは私は言えない。

何度も言うが考えることは大変なことだ。

とても難しい数学の問題を頭をひねりつぶすかのように考え込むのはとても疲れる。

だが、これだけは心に留めておいたほうがいい。

単純な答えなんて無いと。

これだけを心に留めておけば、きっと単純明快な陰謀論にはハマらないだろう。

 

「お金がなくても若者は幸せだ」論は消滅した

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世論で蔓延る若者幸福論

社会学者である古市憲寿の著書「絶望の国の幸福な若者たち」をご存知だろうか。

タイトルにある絶望な国とは日本のことであり、その日本に住む若者は絶望な国という名とは裏腹に幸福と感じている。

ざっくりとタイトルだけでそのような主張がされている本とイメージできるだろう。

実際に著者の古市は様々な現場の若者と対面し取材を重ね、そして国の大規模な社会調査でも今を幸せと感じる若者が多いというデータを基に、なぜ今の若者は幸福と感じている謎を解き明かす。

この著書のネタバレとなってしまうが、現代の若者が幸福と答える理由として、将来に対する失望があるからだと古市憲寿は言う。

日本経済はバブル崩壊後停滞を続け、未だに日本政府は有効的な経済政策が打ち出すことができない状況にある。

さらに高齢社会の進行で税負担は増加し、人口減は止まらない。

今後今の生活よりも豊かになれないと悟った若者は、今の生活環境がこれから数十年続く人生の中で一番豊かで幸福であるという意味で「今は幸福」と答えるのだ。

この本が発行されたのは2011年9月で、私がこの著書を読んだのは4年前だが、その当時でも古市憲寿のこの主張に対しては概ね賛同していた、

 

さらに別の記事になるが、2022年1月のアベマニュースを取り上げたい。

times.abema.tv

Twitterでも一時期バズッた「今の若者の間では年収400万円が高給取りと認識されている」というツイートを基に評論家たちが現代の若者論を展開している記事だ。

さらにこのアベマニュースでは年収300万円のYouTuberりょうさんの家計簿や生活実態を紹介し、それに対して芸人のパックンはこう論じた。

「りょうさんの暮らしの方が圧倒的に豊かだと思う。当時はレンタルビデオ屋さんで、1本1泊400円で映画を借りていたが、今なら1000円くらいで見放題だ。当時がPHSに6000円くらい払っていたが、同じくらいの値段で、今はスマホが使える。確かに実質賃金は下がってはいるが、見えない部分で豊かさが増えていることも忘れてはいけない。」

パックンの昔の貧乏時代に比べ、スマホ一つで様々なジャンルの楽しみを享受できる今の若者のほうが豊かさは増えていると言う。

しかもそれらを低価格で嗜むことができるのだからたくさんの年収だって必要がない。

だからお金がなくても現代の若者は幸福だと言えるのだろう。

その主張も私は概ね賛同していた。数か月前までは。

 

崩壊した若者幸福論

2022年2月24日、ロシア軍によるウクライナ侵攻が始まった。

直ちに世界各国はロシアに対して経済制裁を発動し、ロシアも報復として制裁国航空会社のロシア領空の通過を禁止、天然ガスの供給停止を示唆するなど世界経済に大打撃を与えかねない状況に陥っている。

また、2020年からのコロナ禍によって物流の滞りや原油価格の上昇、半導体不足など企業のサプライチェーンに悪影響を及ぼしている。

それによって日本国内でも物価の高騰が止まらない。

スーパーで買う調味料や洗剤などの消費財、飲食店、自動車などの耐久財などもあらゆる分野、製品の値上げが発表されている。

さらに給与からは雇用保険料の増加でさらに手取りが減る。

過去類を見ないほどの値上げラッシュによって、もはやお金が無くても若者は幸福だ論は崩壊しかかっていると私は危惧している。

今はお金がなくても数千円でたくさんの趣味を謳歌できているが、例えばネットフリックスやアマゾンプライムSpotifyなどがさらに値上げすれば、Uber Eatsの配達報酬額が減らされたら、メルカリの販売手数料が増やされたら、今の楽しい生活を維持できるのだろうか。

 

立ち上がる若者不幸論

実は先ほど取り上げたアベマニュースの記事の最後でジャーナリストの堀潤氏がこう論じている。

「メルカリでの“自給自足”が成り立っているうちはいいけれど、いきなりハイパーインフレになったとか、戦争や大きな災害が起きたということになれば、途端に生活が成り立たなくなる可能性があるわけだ。そうなれば不幸を背負うことになる。今のうちから、余力のある人たちが“やめようぜ、変えようぜ”と言わないとダメだと思う」

まさに今、戦争や災害が世界で起きている。

それによって私たちの実生活に影響が出ている。不幸を背負い始めているのだ。

もう評論家のみならず、若者自身もお金がなくても今が幸福だとは胸を張って言える状況には無いのではないか。

だからこそ、若者が声を上げる時が来たと言える。

社会に対して、政府に対して、企業に対して訴える時がきた。

お金が無いと若者は不幸だと。

 

若者こそテレビを見よ

昨今テレビを見ない若者が増えている。

原因は誰もが分かるようにスマホの利用とネットフリックスなどの動画配信サービスの利用拡大が挙げられる。

テレビは観たいときに必ずしも放送しているとは限らないし、放送中もCMがちょこちょこと挟むなど利用者にとって便利な娯楽とは言い難い。

また、テレビを見ないだけでなく、テレビ自体を持たない世帯も増えている。

そうなれば否が応でも絶対テレビ番組を見ることはできない。

テレビという娯楽が若者世代から無くなりつつある現状がある。

しかし、若者である自分に当てはめてみれば、それは全く異なる。

私はテレビをよく見る。

家に帰ったらまずはテレビをつける。

一世代前の人たちのように、家にいるときは基本的にテレビをつけている。

そんな私だからこそ、見ない若者にこそ言いたいことがある。

若者こそテレビを見よ。

この記事では昨今の流れとは全く正反対の主張をする理由と、私とは正反対の私の周りにいるテレビを見ない若者を紹介しよう。

なぜテレビを見た方がいいのか。

なぜならテレビは目まぐるしく変化する社会を生き抜くための貴重な情報源であるからだ。

 

なぜ若者はテレビを見ないのか

私はいわゆるテレビっ子だろう。

テレビを見て育ち、そして社会人になった今もテレビをよく見ている。

しかし、スマホでネット記事を見ていると、テレビを見ない若者が増えているニュースをよく目にする。

私はとても信じられなかった。

私だって正真正銘の若者だ。Z世代というやつだ。

しかし、よくよく周りの友人たちから話を聞いたり観察したりしていると、確かにテレビを見ていない人が多い。

正確に言えばテレビ番組を見ない。

なぜ彼らはテレビを見ないのか。

この記事の初めに主な原因を書いたが、これも人それぞれの理由があった。

 

テレビがつまらない

大学を卒業し、一人暮らしを始めようとしていた彼女は言った。

「テレビを置こうか迷う。」

私にとってテレビを置かない理由が分からないから、とりあえず置いといたほうがいいのではないかと伝えた。

そのアドバイスに従って一応テレビは中古で買って一人暮らしの部屋に置いたという。

しかし、テレビはもっぱらYouTubeを見るのに使っている。

地上波は全く見ないのだという。

だから今流行りのお笑い芸人や番組は全く分からない。

どうやら彼女にとってテレビ番組はつまらないらしい。

娯楽としての役目を十分に果たす機械ではないのだ。

まあ自分もバラエティはあまり見ない。

モニタリングとかモノマネグランプリとか日本の文化バンザイみたいな番組は好きではない。

だから自分で好きなジャンルが選べるYouTubeをよく見ている。

一応テレビを置くように勧めなかったら、小さい画面のスマホで見ることになっていたから、私はテレビを置くよう勧めてよかったと今では思う。

 

テレビにはエビデンスがない

これまた別の友人になるが、大学を卒業し、晴れてSEとなった彼女はとても張り切っていた。

これからは情報サービスの時代。SEとなって手に職をつけた強い大人へとなろうとしていた。

孫正義や「メモの魔力」というベストセラー本の著者である前田祐二などを崇拝している彼女は、実家を出て一人暮らしを始めるときにテレビを捨てた。

彼女はテレビを見ないだけでなく、テレビを持たない選択を選んだ。

だが、こういった人も最近はよくいる。

なぜ彼女はテレビを持たないのか。

それは、テレビは信用できないからだ。

テレビで流されるニュースにはエビデンスもファクトもない。

そう彼女は言う。

確かにテレビで流されるニュースはどういった検証を行ってファクトチェックしているのかは、テレビを見ている我々視聴者にとっては全く分からない。

完全なブラックボックスといってもいいだろう。

そして時には誤報を流すことだってある。

評論家を招いて一事件の裏側を我が物顔で(そして推測で)語る光景は、もはや当たり前の演出となっている。

「今や情報は自分で集めに行く時代だ。」

ぼけーっとテレビを眺めて流れる情報をただ頭に入れる時代ではないと、彼女は言うのだろう。

今の時代スマホ一台で、好きなときに、好きなだけ、様々な情報が手に入る。

そうやって手に入る情報を自分の力でエビデンス、ファクトチェックをして正しい情報を集める。

それがこれからの時代を生き抜く賢い生き方なのだろう。

 

テレビ番組はバラエティだけでない

テレビ番組がつまらないのは仕方ない。

人それぞれ好みは違うからだ。

しかし、テレビは決してバラエティ番組だけ流している機械ではない。

バラエティのほかにもニュース、旅、スポーツ、ドキュメンタリーなど様々なジャンルの番組がある。

YouTubeにもたくさんのジャンルの動画があるが、多額の予算をかけて構成された番組には、YouTuberには決してまねのできない質の良い番組がたくさんある。

NHKで流れるドキュメンタリーは特に良い。

その番組を見なければ決して目にすることがなかった景色、世界、感情を経験することがある。

それが本物であるから映画とはこれまた違う。

ドキュメンタリー一本見るだけでも、知見はとても大きく広がる。

そして見終わったときには、美味しいステーキを平らげたときのような満足感が得られる。

テレビ全体をバラエティだけでくくらずにもっとジャンルを広く見てほしいと思う。

 

テレビ番組のニュースは貴重な情報源

テレビにはエビデンスが無い。

確かに私たちには本当にファクトチェックされたかは分からない。

しかし、ネットこそそうであろう

誰もが発信者となりえるネットの世界では、ファクトチェックがどうこう以前に、意図的に噓を流している輩がたくさんいる。

自分自身でファクトチェックをするといっても、果たして今の自分に蓄えられた情報たちで本当に噓を見破ることができるのか。

信頼しているネットの著名人が本当に嘘をついていないのか。

1万リツイートされて多くの者に支持されているからといって安心できる情報源なのか。

自分自身を信用している人ほどデマにつかまりやすいという実験結果もある。

news.yahoo.co.jp

また、自分で情報を取りにいくというが、実はネットで見る情報はAIによって恣意的に選ばれている。

kotobank.jp

つまり縦断的に情報を集めていると思っているのに、実は狭まった範囲の情報しか手に入れてない可能性がとても高いのだ。

エコーチェンバーという言葉を聞いたことはあるだろうか。

TwitterInstagramなどのSNSで自分の意見に似た人たちをフォローしまくる結果、多様な意見を取り入れる環境がなくなり、あたかも自分の意見が世間の意見と同じだと勘違いしてしまう現象である。

AIによって自分が見る情報が恣意的に操作(最適化)されているネットだけでは、多様な意見を取り入れるにはとても高度な能力が必要だろう。

そういったときこそ、テレビは必要なのだ。

テレビは自分個人に合わせて流すニュースの内容は変えてくれない。

出演しているご意見番も自分の好みなど考慮してくれない。

一方的に情報を流す機械だからこそ、いい具合にランダムに情報を手に入れることができる。

ニュース番組によって報道の仕方、主義主張も異なる。

テレ朝の報道ステーションやTBSの報道特集、テレ東のWBSなど、さらにBSも加えればゴールデンタイムと呼ばれる地上波がバラエティばかり流す時間帯でも硬派なニュース番組を流している。

様々な情報を取捨選択したいときこそ、テレビはつけるものだと私は思う。

 

テレビの価値は見方によって高められる

テレビはネット配信サービスでは得ることができない知見をくれる。

テレビは私たちの主張を無視して多様な意見を発信してくれる。

これが私のテレビを見るべき2つの理由だ。

ネットばかり見ていると馬鹿になる。

そういう頭の堅い時代遅れな意見を言いたいわけではない。

馬鹿にはならないが、先鋭化した主張をする人間にはなり得るだろう。

そうカッカした人にならないために、私はBSを見ることをお勧めする。

BSは地上波よりも時間がゆっくり流れるような番組が多いからだ。

これは個人的な意見だけどね。