自己投影乙。(2)

同人作品における、自己投影に並ぶ代表的な心理効果をもうひとつあげよう。

「理想化」である。

単純に言えば、相手が自分にとって欠点のない完璧な存在だと錯覚することである。

夢小説で顕著だが、他の同人ジャンル、特に二次CP作品だと夢小説とほぼ同頻度ではないかと思えるくらい顕著に見られる。

実は、理想化と自己投影の起こる文脈には類似点がある。

「作品全体の文脈の無視」と「対象キャラの特性の無視」である。

この二つは切り離せない。

「作品全体の文脈を見る」とは、登場人物の言動の意味への注目を含む。作品における主要な主張は大抵登場人物たちによって語られるからである。
そしてその際に「登場人物の特性に着目する」のは至って当然のことである。
主人公の宿敵たちはおそらくアンチテーゼの役割をしているだろうし、彼らの作中での扱いを通して、アンチテーゼの作中での意味内容が了解される。
そういった作業を繰り返して、作品全体の文脈を受け手は理解していく。

では、これを行わないとはどういうことか。
一つは、「最初から作品全体の文脈を無視する」。

たとえば、映像のみを楽しむとか、キャラのやり取りのみを楽しむとか、局所的な楽しみ方のみをするということだ。

もう一つは、「作品の文脈を自分の望むように曲解する」。
確かに受け手は物語について、いくらかは自分の望みを投影しているはずである。
だが、前述の文脈を考える作業を行っていれば、曲解には限度がある。
つまりここでいう曲解とは、望む物語を作り上げるのに都合のよい部分だけを、前後の文脈を無視して局所的に拾い、新しい物語を創造する行為である。
その局所的な部分の中には当然キャラも含まれ、元々の特性を無視して新しい物語の文脈の中でキャラ特性が付加される。

実は、文脈を無視しない自己投影がある。

それは文脈から想像されるキャラの立場と心情を自分に置き換えたうえで、共感することである。
そしてキャラ特性への理解は、それ以外の場合の自己投影を妨害する働きがある。解釈できる内容を限定する働きがあるからだ。
理想化についても、作品のキャラ演出方法にもよるが、文脈やキャラ特性が同じ働きをする。

同人において自己投影が切り離せないというのは、実にこの背景、偏見を多少込めて言えば、物語の文脈重視、つまり「物語萌え」しているヲタは意外と少ないという事実がある。

自己投影乙。

夢小説のことか、と思われた方もいるかもしれない。
が、今回は、実は同人全体と自己投影が切っても切れない関係だということを語りたい。

腐女子は平均的に言って、自己投影という言葉が嫌いである。そして夢小説が嫌いである。
彼女たちの言い分とは、自分たちが耽溺しているのはキャラ同士の関係であって、そこに自分は居ないといったことである。

ここで彼女たちの言う「自己投影していない」とは「キャラと恋愛しているつもりではない」という意味である。

これは同人における本来の「自己投影」をかすりもしていないと思う。

後出し情報だが、私は夢小説ユーザーである。
ただし、夢小説は単なるオリジナルキャラクターが出てくる小説として捉えている。

また、「二次元キャラと恋愛したつもりになる」とはどういうことか皆目見当もつかず、想像も及ばない。
というか二次元にいるキャラとどうやって恋愛するのか謎である。

従って、腐女子がやたら夢小説pgrするのは全く謎である。

二次キャラを何らかの目的で消費する時点でやっていることはだいたい一緒である。
目的自体に対する非難や否定は、自分に直ぐ様跳ね返ってくる。


――腐女子が自己投影を嫌うのは。
嫌う対象ではなく本人たちの裏に何かあるのだろう、と正直思っている。
強烈な嫌悪は、自分に関する感想と裏返しである。

心理学では、自己投影は投影という心理的働きのひとつとして定義されている。

たとえば、他者投影。
同人的に言えば、気にくわないキャラAが居たとする。その理由とは、現実で自分が嫌いな人物を思わせるところが、キャラAにあったからだった。
つまりキャラAに他者投影していたのである。
そういう場合、キャラAのヘイト作品には、おそらく「自己投影」した他キャラたちが出てくるだろうし、作品世界全体が積極的に自分の思想を正当化するものとなっているはずだ。

ここから、自己投影は他の心理的な働きとセットになる場合があり、願望等に裏打ちされた独自の文脈を持つことがわかる。

――実は、自己投影は私の「地雷」である。
正確に言えば、「文脈によって自己投影の意味内容を理解した」時、地雷が発動する可能性が著しく上昇する。
ただ、いつもいつも他人の願望が気持ち悪くて許せないわけではない。
無視できずに地雷が発動される場合は、きっと自分の側に何かあるであろう。

他人は自分を映す鏡とは全く至言である。

自重乙。

同人でよく使われる、自重、という言葉がある。
その時々によって多様な意味があるが、大抵、何かの権威を挙げて相手の行動を規制するのに使われる言葉である。
そして、この権威とは、二次創作の文脈に限って言えば、閲覧者か「公式」である。

ヲタクは決して均一な集団ではない。
むしろ全くバラバラな嗜好を持った集団である。
ヲタクの世界では、完全に多数派など幻想である。
たいていのヲタクはそれを痛感し、互いに探り合うようにして交流している。

ここに、自重という言葉を多様するユーザーがいる。

彼・彼女らは、絶対的多数派が存在しないことを分かっていないわけではない。
むしろ、幻想を作ろうとするのである。
自重も何もヲタクである時点で皆似たり寄ったりであろうという、当たり前の指摘は通じない。
実際、彼・彼女らと、それ以外の者たちの間に会話が成立することはない。
彼・彼女らは機械である。
内なるマニュアルに書かれた手順に沿って、働きかけ、つまりゴリ押しをすることしか出来ない。
そして彼・彼女らのマニュアルには、「相手を理解するには」という項目が抜け落ちている。

彼・彼女らのマニュアルは全くの赤の他人で画一化・規格化する機会が無いのに関わらず、大部分が一致している。
この世の神秘である。

そのマニュアルの中に、「閲覧者」か「公式」の権威を笠に着ろという項目が存在するらしい。
そのマニュアルの文脈の中では、閲覧者とは常識や規範を現す存在であり、公式とは二次創作における最大の権威である。
彼・彼女らはその二つのうちどちらか或いは両方の代弁者である。

――と「思い込め」という手順がマニュアル内に存在する。

そして彼・彼女らは必ずそれを実践する。

彼・彼女らの謙遜とは、自分はただの崇高なる信者であるということだけである。
大体、どこぞの民族のごとき選民思想を持ち合わせている。
他人には伺い知れない基準により教義と儀式を創造し、異教徒に対して十字軍時代の某教のごとき感情を持ち合わせている。
彼・彼女らは思想に敏感であり、自分の思想を体現したように見える二次創作物を素晴らしいと思う傾向がある。
それ以外の思想に関しては、得てして粗探しに熱心である。

信者とアンチは紙一重という噂が同人界にはあるが、それは太古の昔に拡張しても当てはまりそうである。

腐女子が嫌い

いわゆる隠れ腐女子でぬるヲタの私。
某大型掲示板でのやり取りでふと気付いた、「腐女子」が嫌いだと。
自分でもちょっと吃驚したのは、同族嫌悪が理由ではないからだ。
むしろ異物を排除する感覚に近い。
自分と全く思想や着眼点が異なる人間が、同じコンテンツを享受していて、同じ名称で呼ばれることに対して、まず本能的な苛立ちを覚えたのだ。
そして第二に、彼女たちの多くは、異物に対して無理解である以上に、自分自身や享受する対象に対して無理解であるということ。
この世の中では、少なくとも内省が無ければ、享受という行為は資本主義的な消費しか生まない。
喜びも悲しみも、売り買いできる対象になりつつあるからだ。
享受するものに対して、積極的に意味を見いだそうとしない限りは、それは商品の域を脱しない。
そして意味とはステータスではなく、絶対的な個別性だ。
意味は自分の中から生み出されるもので、自分でその源を探らない限りは、意味はすぐに消えてしまう。
彼女たちの多くは、それを全く理解していない、いや、全く気に止めていないように思う。
彼女たちは意味を感じている状態を継続しようとするだけだ。
それを指して、享受する対象に対するリスペクトとする。
私にはその姿勢は異物かどうか以前に、思考停止しているように見える。
勿論、それに当てはまる人間は腐女子以外にもいると思う。
だが、腐女子、ひいてはヲタの多くは、それに対して排他的かつ非常にわかりにくい信仰を持っている。
それが自衛と、時には積極的に他者攻撃の機能を果たしているように見えるので、尚更鬱陶しい。
私が挙げたことは、特に、二次同人に関わる層に顕著だと思う。
勿論、全てのその層の腐女子に当てはまることではないが、その界隈で思考停止そのものが内なる規範化していそうなムードも垣間見える。
何故か。その理由も朧気に見当がついている。想像が当たっていないほうが、精神衛生上はよい。
おそらく、コミュニティへのコミットメントと、縄張り争い、アイデンティティーの確保が重要なキーワードだ。
その場に持ち込むべき事柄かどうかを問い、ナンセンスだと外部から嘲笑するのは簡単だが、しかし、私はその真意をできるなら知りたい。
本当に大事なのはそれなのか、他人ではなく自分に対して、「愛」を胸を張って語れるか、問いたい。
おそらく、彼女たちにしたら、私の問いのほうを「ナンセンス」に感じるであろうが。