放課後の渡り廊下

教育に関してあれこれ迷い悩みながら書いています。

春休みに読んだ本。

メディアミックスについて考える

春休みに読んだ本を振り返る。

1年間で数回、女子生徒を中心に、この本がおすすめですと汐見夏衛さんの本を紹介される。映画を見に行った生徒が多いようで、ちらほらと感想が聞こえてきた。

特攻隊を扱った物語なのだけれど、汐見さんの描く物語は、おそらく好みを二分するのではないかと思う。自分への問いかけが多い読者は、気になるところが多すぎるように思う。物語に素直に感情移入していく読者は面白いのだと思う。

地域の図書館司書の方や、国語科教員の方たちともこの作品について話題にすることがあったが、とても微妙な議論になった。

私個人は、物語の質を問うよりも、生徒が私に紹介してくるという事実が何よりも重要に思うので、この本についても「この子はこの本に興味を持つのか、おもしろいなぁ」と単純に思っている。

ただ、メディアミックスについては、改めて繊細な見方が必要に思っている。国語科の教材研究でも、同じ作品をメディアの違いでどう表現されるかに注目する授業展開が想定され、一見、授業のネタとしては面白そうに思う。

でも、なぜ違うメディアで表現することになったのだろうか。

この問いを持ち始めると、他のメディアに置き換えられて表現されることへの抵抗感を私は持ってしまう。

 

探究を深める問いを生み出す力とは何か考える

探究について考えていく中で読み返していた本たち。

「問い」に関する授業づくりは国語科でもテーマとして特集されることが多いと思うのだけれど、探究を深める問いを生み出す力ってどのように育まれるのだろうと考え続けている。やってみて、ひとまずこの問い出しの方法ではだめだなとか、学んでいる途中である。

探究に関するスキルについても興味があって、体系的に考えたい。

ブラタモリは、探究学習の先輩からお借りした一冊。フィールドワークのまとめ方の一つとして面白いかなと思っている。小中学生の頃、NHKが制作した本の編集の仕方を真似して自由研究のレポートをまとめていたことを思い出した。

学習は、教師も一緒になって面白がれることが大切なんだよなと思う。

 

長野県松本市図書館から相互貸借で読んでいた軽井沢風越のプロジェクト本『プロジェクトの学びで私をつくる』もアップデートされるようなので、どこかで読めたらいいなって思っている。

 

「答えを出そうとしないまま保留しているのは、何も考えないのと一緒なんだよ」

「書くことで考える」という、わかっている人には新しくない本だが、もれなく私には色々突き刺さる1冊。改めて読むこと、書くこと、考えることと向き合いたいなと思わせてくれる。物事の可能性ばかり探って答えを保留にしている自分に気付いて面白い。

 

自分ではあまり意識していなかったのだけれど、この1年で読みたい本が変わってきているのかもしれないな。

出会う教室、出会う人たちによって関心が変わっていくのは、漂流しているようだ。

私らしいなと思う。

やれない理由を探すのではなく、どうしたいのかを自分に問う。

覚悟

教育書籍の出版物の多くが、3-4月に集中する。3月は、多くの先生方にとって次の現場への意欲や不安を持ちやすい時期だからだ。

今年は少し、この現象に対して、どうしたものかなと思っている。なぜなら、答えは、外にあるのではなく、自分自身にあることが多いと私は思うからだ。

新しいことを知ることも大切なのだけれど、新しいことへのチャレンジは、子どもたちが見える場でできるのがいいなと思っている。

 

今朝、熊平美香さんの言葉を思い出していた。

日本で、学習する組織のリーダー養成支援を始めた頃、ある企業から、「事業部を超えた連携を実現し、顧客価値を創造するリーダーを養成して欲しい」という依頼を受けました。(中略)いざ、研修を始めてみると、様子が全く違います。グループワークの会話は、やれない(やらない)理由で盛り上がり、「それなら、評価制度を変えて欲しいよな」と、やれない(やらない)理由は自分ではなく会社にあるということで、概ね合意が取れている様子でした。「あなたは、どうしたいのですか」という問いに、「……」と無言のみなさんが、できない理由を語る時は雄弁です。こんな時、組織の一員として自ら手本を示すことができない講師という立場は、無力です。(おわりに p.373)

 

新年度、環境が変わる人も多いと思う。望んでその環境に身を置いている人もいれば、そうではないと思っている人もいると思う。どちらにせよ、「あなたは、どうしたいのですか」という問いを抜きにして、自分の実践の充実を考えることはできないだろう。

 

甲状腺、「揃わない前提の授業とクラス」、iPad

甲状腺の定期通院で札幌に来る

11月以来の通院だ。

雪解けは進んでいるものの、道横には大きな雪の山。

やはりここは、今私が住んでいる街とは違う気候なのだと感じる。

 

血液検査では甲状腺で作られる甲状腺ホルモンの量を測定する。

FT4という甲状腺から分泌されるホルモンが若干基準値以上だった。甲状腺機能亢進症の特徴である。

ただし、FT4を元にして肝臓で作られるFT3は基準値内。つまり、甲状腺ホルモンの全身への作用は正常である。体調的には問題ないだろうとのことらしい。

白血球量のWBCは少し高めだが、日常の体調には影響はないとのこと。

年度末疲れのせいか、甲状腺を刺激して甲状腺ホルモンの分泌を促すTSHは基準値以下。うつ状態ではTSHは低値となることもあるので、まあ、そういうことなんだろうと思う。

ストレスとうまく付き合っていくしかない。

 

1年間を振り返る季節がやってきた

Amazonを除くと、3月のリセット期に合わせた書籍が軒並み上位にランクインしている。

注目すべきは、「揃わない前提」と名付けた授業づくりネットワークか。

11月以降、外に出ることを控えて、極力本務を中心に思考が回っていたが、どの提案にも現実の教室の姿が浮かび上がるようだ。

読者はクラスのあの子や、わたしの担任したクラス、授業で這い回る自分のことを思いながら読むだろう。

「揃わない」というのは、もはや教室の実感レベルの言葉なんだなと思う。

私も1年間の授業を振り返る時期になったけれど、やはり「お付き合い」いただいている感は否めなくて、「ほんとうの学び」というものを考えざるを得ない。

 

新しいiPadを買う

大学院から現場に戻った際に買ったMacBookがいよいよ寿命を迎えている。

1年間の学習記録づくりにおいては、手書きとタイピングの狭間で悩むことも多かった。

共同研究者である子どもたちは、多いにデジタル化の実証実験に取り組んでいたし、

紙とペンに拘り続けた部分もあった。

その中で、ずうっとタッチペンの存在が気になってきた。

 

今年は手帳を手放して、記録をスマホとChromで一元管理したのだけれど、やはり思考はノートだった。

私は基本的にメモ魔なので、全てをメモすることで全体像を掴む。どこでわからなくなったかをたしかめたり、新しい発想が生まれたりするのは、手書きの作業になる。

まとまった文章を書くときのプロット、テスト問題の下書き、単元構想メモなど、自分が考えるために必要なツールは手書きメモだった。

それでもやはり現実的に大量のメモを見返す時間というのはなくて、どっちつかずな状態にある。

 

もはや迷っている場合ではなくて、仕事のために必要なツールは自分のお金で買う。

むしろ遅すぎるくらいだろうな。

 

ビッグカメラでは春の商戦中ということで数分で買うことができた。

明日からはタッチペンというツールが自分の思考とどう関連していくかが楽しみだ。

2月はもう何年も厳しいけれど

寒さが堪える季節。

 

居住を変えて雪のない道路も、温かな日差しも、幾分か私にとっては有難いことだ。

浜の風は時に身に染みますが、それでも、私はこの街を選んだのだと毎朝一歩を踏み出している。

 

なんて、そんな立派な日々ばかりではない。

しかし、自己卑下の言葉ばかり集めても日常は停滞する一方で、無理にでも自分を鼓舞して朝を始めている。

 

2月はやはり鬼門で、メンタルダウンの激しい日々が続く。わけもないザワザワした心が、自分ではどうしようもコントロールすることができない。数日間横になってただ時間と気力の回復を待つしかない日がたくさんあった。

毎日研究に向かっていかなければと思うのに、思うように起き上がれない日々が辛くて、悔しくて、言語化するのも苦しくなるとき、何も考えないようにしなければ、生きていくのが難しいと考えるようになった。

これは自分の生命を軽視しているとかではなく、発作のようにして、考えがばーーーーっと浮かんできて、暴力のように自分に向けて突き刺さってくる。ただただ考えるのをやめることでしか逃れられない時間になるのだ。

 

そんな1ヶ月ほどで、ほとほと疲れた。

誰かが悪いのでもなく、何かが悪いのでもない。

私という人間は、もう何年もこうなのだから、ただ付き合っていくしかないのである。

 

群像の中で描かれていく私たち。

 最初に断っておくと,これから書くことは断片的なメモのようなものであって,私個人の中で一つ一つの作品がどう繋がっているのかを勝手に繋げたものに過ぎない。一方的なまとめ方だと思うので,繊細に一つ一つの作品を大切に思う人,これから小説や映画を見ようと思う人は読まない方が良いと思う。

 

 

 

 

 

映画「キリエのうた」を見ながら思っていたこと

  • 函館に住み始めて困ったなあと思うのは,観たい映画が公開されてすぐに観られないことだ。映画の公開が決まって,前売り券を買って,公開初日に映画を見にいこうとしたら,公開している劇場が札幌にしかなかった。まま,こういうことはよくある。映画館や図書館,コンサートホールなど,文化を受容する箱があるだけでそれはとても有難いことなのだと思い知る。人口が多いということは,それだけ多様な文化に触れる機会も多いということだ。もちろん函館でしか知り得ないことだってたくさんある。
  • 岩井俊二作品はコロナ禍で閉鎖する直前の映画館で見た「ラストレター」以来。一貫して描かれるその瞬間の美しさと,新宿・大阪・仙台・石巻・帯広の街を交差する世界に3時間ワクワクした。全体的に題材として描かれる世界は暗くて嫌悪感もものすごく残るのだけれど,雪のシーンが美しくて印象に残る。もちろん,キリエの歌声も。
  • どうしても気になってしまうのが,東日本大震災をどう取り上げるのか。これは新海誠の「すずめの戸締まり」を見た時にも思ったことだ。

     

  •  貧困が再生産されてしまうストーリーをどう受け止めてよいのかわからない。生まれ育った環境の中で,色々な嫌悪感を抱きつつも,親から手渡されるものをどう受け止めて生きていくのか。弱者だと決めつけられた人が出てくる作品は少し手を伸ばせばいくらでもある。一つ一つ全然違う物語だということは前提の上で,それでもなお,外からはよくあるストーリーとして一括りに解釈されてしまうことに問題がある。
  • 誰とも共有できないと思っていた価値観を「繋がり」に求めることをどう考えるか。言葉を尽くしても語れない関係性というのが世の中にはあって,それはまだ,「友達」「恋人」「家族」とか,わかりやすい言葉にもなっていないことであり,言葉にもなっていないのだから,当然,他者にわかってもらえない。司法の前では「正しく」あることができない。そういう生きづらさを感じる人々を描く作品がたまたまなのか,私の前にある。

 

札幌西線を歩く。

”街ブラ”という発見の方法

 NHKの番組「ブラタモリ」に詳しいわけではないが,街をぶらぶら歩くことで街の何かを発見する行為は,TV番組の一つのパッケージになっている。そこでは,ただ単に興味深いお店の紹介や街の人々にスポットを当てるだけではなく,街の持つ歴史的な背景や新たな価値の創造を見出すことがある。

 探究の授業で「実地調査」(フィールドワーク)に取り組んでいる。探究活動では,情報検索でさまざまな問いが簡単に明らかになってしまうが,それだけでは気づかないディテールやストーリーが世の中にはあるのだとも気付かされる。

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鑑賞体験と創作意欲のプロセス

 甲状腺治療の定期通院のために札幌を訪れた。秋の紅葉シーズンで,人出も多い。血液検査とエコー検査を終えて,診察までの空いた時間に西18丁目付近をぶらぶらする。

 おしゃれなカフェでランチを済ませ,友人が好きなカヌレをお土産に買う。店が開いているな。それだけ,人の出入りがあるということか。

 時間が余っているので,流れに身を任せて美術館にも行ってみる。

 

 特別展2展が行われていて,日本画魯山人展の人が圧倒的に多い。前に来た時はサンリオ展だったから(そこと比較するのもどうかと思うが),年齢層が極端に高いと感じる。子どもを連れた家族のおでかけ候補にこの企画はならないのだろうな。

 みなさんが熱心に器を見ている姿を,見ていた。少しだけ,断絶を感じる。

 

 私が面白かったのは,魯山人が影響を受けた日本画の方だった。12歳の審美眼ってどこでどう育まれるのだろうと思う。一つの作品群に影響を受けて創作意欲に繋がっていく。こうしたエピソードは珍しくはないものだろうが,その一連のプロセスには人としてどんな衝動があるのだろうか。

 私にもいろんな衝動がある。それとこれは,同じなのかな。違うのかな。そういえば日本画ってどのように描くのかイメージがつかないな。描いたことないな。体験はいろんな自分に気づかせる。

イメージからの打破

 むしろ面白かったのは,もう一つの方の特別展だったかもしれない。これまで多くの人が美しいと思ってきたものを美しいものとして描きたいのか?その枠組に捉われないで新しいものを産み出したいのか?あなたはどっちなの?そんな問いかけの街ブラだった。

【特別展】揺さぶる絵 変貌する日本画のイメージ | 北海道立近代美術館

 

 

『学級経営の教科書』を読み始める

学び直しを恐れずに進む

 職場環境が変わって半年,考えさせられることが多くなった。今まで当たり前だと思ってきた慣行がそうではなかったり,見通しもなく急に提案される初見の学校行事だったり,即時その場で対応して何とか乗り切っている(失敗している)感じだ。力のあるソロプレイヤーが多い職場では,個人の先生が自律して立ち回れることが期待されている。

 しかし,実際には,私は今の学校においては経験のない初任者教諭である。どうしても自分の力では埋められないものがある。借りた力は,どこかで必ずお返しをしようの精神で,チームの力で問題解決のプロセスを歩んでいると言える。本当,借りた力は,どこかで必ずお返しをしよう。そして,ちゃんと失敗から学ぼう。

いわゆる私は「狭義の学級経営」論者で「やさしい先生」だった

 そんな状況の中にいると,学ぶことは切実さを増す。困っている時ほど,何か現状を打破する方法はないものかと考える。「教育とは何か」とこの半年で何度思ったことだろう。

 一昨日Amazonのおすすめから届いた白松賢『学級経営の教科書』の第一章,第二章を読んで,考えさせられることが多い。「先生,もっと怒ってください」と言われる私は,この本で言う「やさしい先生」で,秩序化の計画的実践に大きく成功しているとは言えないのだ(=生徒にとっては頼りない先生なのだ)と思う。

 にも関わらず,もう一つ致命的なのは,私が志向する学級経営観が「狭義の学級経営」であることだ。要するに,教科指導のために集団を統治することを目指している部分が大きいのである。一方で,よく言えば柔軟に,悪く言えば中途半端に,「自発的」で「自治的」な方法を選択するので,結果として無秩序になる場面が生じてしまうのである。

 なるほどなあ,なんて呑気なことを言ってはいられないのが現場である。PDCAサイクルのDO!DO!DO!に常に立たさせているのだから,難しくても苦しくても行動するしかない(状況によっては行動しないことも選択をしなくてはならない)。

 奇しくも11月。問題がこれまで以上に顕在化する今だからこそ,現状と対峙することが必要となる。