恋人と付き合ったり別れたりするたびに日記を書いている

2年ぶりにこの日記を書いている。

日記というか、感情の備忘録だけど。

 

タイトルのままである。

 

あんなに幸せに満ちたエントリーの後にこの投稿をするのは気が引けるけど、

”恋人と付き合ったり別れたりするたびに日記を書く”

という変な習慣に妙に抗えず、キーボードを叩いている。

(この2年でPC環境も変わってしまったな…)

 

あんなに、あんなに好きだった人のことを好きじゃなくなってしまう

という経験はかなりショッキングだ。

自分のことを信じられなくなる。

 

だけど、やっぱり別れる選択をした自分は間違ってないよ、と

自分で自分をハグしてあげるしかないのだ。

ただ、今回に関しては、自分ではなくて母がハグしてくれた。

「あなたの選択は間違ってないと思うよ」と言って。

愛情深いこの女性に育てられたことを本当に嬉しく思う。

あなたに育ててもらったから、愛されていると思うから、

私もまた誰かを愛せるし、愛したいと自信を持って言えるのだ。

それがわかっただけでも、この2年は本当に価値のある2年だった。

 

恋人と別れるというのは、結局のところ

もう同じ場所にはいられないと思ってしまうからなのだと思う。

良くも悪くも成長し、変化し、そこにはいられなくなってしまう。

次に向かう場所があるから。

 

私の場合は、社会的にも物理的にもそうだった。

あなたのおかげで、私は変化し、あなたの隣が窮屈になってしまった。

 

こうしてみるととても残酷に思える。

隣の木の養分を吸い取って咲く花みたいだ。

(自分を花に例えるのは気恥ずかしいね。)

 

だけど、私だけがもらってばかりで、

どんどん変わっていったわけではないってこと。

非常に穏やかな別れ話をした最後、彼が教えてくれた。

「自分は人と付き合うとかそういうこととは縁がない人生だと思っていた」

「でも、あなたに出会って、

自分にもできることがたくさんあるんだなって自信が持てた」

 

うん、そうなんです。あなたは誰かを愛せる素敵な人です。

非常に勝手なことを言うようですが、

あなたにこんなに大事にしてもらえたことが、

愛してもらえたことが、私にとっては誇りなんです。

だから、どうかお互いに、これからも素敵な人生を。

 

母が言ってくれた言葉には、もう1つ忘れられないものがあって、

この先の私の人生にとってお守りになるような気がしている。

 

「一人の人にこんなに大事にしてもらえるってことは、

あなたが本当にその人に誠実に向き合ってきたってことやから」

 

やっぱり私は、一人の人間と誠実に、

真剣勝負で向き合うことを諦めたくないなと思う。

彼と別れ、生まれ育った土地を離れ、3ヶ月経った今は、

今更変えられることでもないのだ、とも思っているけれど。

 

彼については、こうやって書いても書き切れることはない。

2年の間にいろんなことがあった。あの6年に匹敵するような。

 

ただ、まあ、ひとまず、また一人の人間として精進するしかない。

 

そう言いつつ…

すでに心を奪われつつある別の誰かについては、また今度。

 

 

はい、もう、オッケー。

最後の更新から2年近く経った。

今までの記事を読み返すと、結構おもしろい。

そんなこと考えてたんだ、とか。

これ今でもそうだな、とか。

 

あれから、元恋人への未練は、日を追うごとに薄れゆき、ここ1年は思い出すこともなくなっていた。

 

うそ。思い出すことはわりとある。

インスタ、フォローしてるし。

 

でも、関心がなくなった。驚くほどに。

 

彼が幸せであろうとなかろうと、どうでもいい。

私の幸せには関係がない。

 

ここまで来るのに、2年くらいかかった。お疲れ、私。

やっぱり間違ってなかったよって、もう一回あの時の私をハグしてあげよう。

 

 

そして、恋人のいないまま2年半が経って、1人でいることの自由さや気楽さを謳歌している。

 

うそ。謳歌していた。最近まで。

 

ついこの前、すごく大切な人ができた。

 

小さい頃に身内を亡くして、すごく好きな人と出会って別れて、そんなに好きになれなかった人と出会って別れて、すったもんだして、泣いて笑って、心底ひとりを楽しんで、そうやって歩いてきた今までの人生を、

 

はい、もう、オッケー。

あなたに出会えたので、オッケーです。

人生、百点満点です。

 

そんな風に思える人に出会えた。

 

今、めちゃくちゃ幸せ。

 

 

人生何があるかわからない。

 

それを私はよく知っているけど、それでも、だからこそ、この尊い今を大切にせずにはいられない。

 

今は浮かれる時期なので、間違いなく幸せなんだけど、できればずっとこの幸せを噛み締めていたいなと思う。

 

 

付き合い始めたばかりだけど、明日から遠距離になる。

 

ものすごく寂しいけど、あんまり不安はない。

 

いつでも、お互いの健康と命を心配している。

自分の命を大切にしてくれると、信頼しているし、信頼されている。

 

とてつもない愛だなと思う。

 

来月末には恋人の配属が決まる。

三年は国内で全国転勤。それ以降は海外転勤もある。

なんなら、この夏には、私がしばらく日本を離れる。

 

どんなに遠くにいても、心は近くに。

恋人だけじゃなくて、家族や友達にもそうでありたい。

 

そのために、大切な人に言葉を尽くせる人でありたい。

 

なんて。

 

“忘れたくないこと“、忘れていたけれど、読み返すと今は結構できている気がした。

だから、4年前の私よりは、成長しているんだと思う。

 

これからも、心配しすぎず、マイペースで、楽しく人生を歩いていきます。

 

呪い

 

これはもう、呪い以外の何物でもないような気がする。

 

6年近く付き合った彼と別れて1年と3ヶ月。

別の人と付き合ってみたりしたものの、(月並みな表現ではあるけれど)私のどこかにぽっかりと空いた穴が塞がれることはなかった。

最初は穴が空いていることさえ認めたくなかった。

けれど、この1年と3ヶ月の間に穴があるな、と思えるようになり、指でそっと淵を撫でるようにしてその穴の存在を確かに認められるまでになった。

確かに、ある。

私のどこかに、あなたのせいで空いた穴がある。

そして、私は穴の空いた私を愛せるようになりつつある。

 

彼と別れてから少なくとも3回は同じような夢を見た。

夢の中で、私は彼を忘れられないまま彼に再び会うのだけれど、最後に彼は私に復縁しよっかと言ってくれるのだ。

しゃーなし、といった様子で。

そして、私はいつだって飛び上がるほど喜んで、夢から覚めると喪失感を味わった。

しかも、そんな夢を初めて見たのはもう彼のことなんか忘れたと思い込んでいた頃だったので、随分と心を乱された。

どうして、なんとも思っていないのに、もう終わったことなのに、これは呪いか、呪いに違いない

 

しかし、呪いでもなんでもこの際はっきり認めたほうがよさそうだった。

私はどうやら、夢に見るほど、復縁を求めているらしい。

 

ただ、彼には彼女がいるのである。

ひっそりと愛しい淵を撫で続けるしかない。

と、思っていた。

 

ひょんな事から彼とまた連絡を取るようになり、この夏ひさしぶりに顔を合わせることになった。

お互いに積もる話があるだろうから、と。

 

ただ、彼には彼女がいるのである。

良き友人として接していかねばならない。

気があるそぶりなど決して見せてはならない。

それが元カノの意地である。

と、思っていた。

 

風の噂で彼が彼女と別れたと知った。

この舞い上がる心をどうやって宥めればいいのだろう。

ワンチャン狙ってるこの心のなんと単純なことか。

 

ここまで来れば、やはりもう呪い以外の何物でもない。

呪いは解かれるのか、呪いに殺されるのか。

どうにでもなればいい。

この夏はもう間も無く。

 

ひとりで立つ

お久しぶりです。

といっても、読んでいる人はほとんどいなくて、自分のために書いているようなものなのですが。

 

このブログを始めてから、三ヶ月後にはあっさりと志望校を変え、だらだらと勉強し、行事もそれなりに頑張り、成功したりしなかったりして、卒業して、大学に合格して、恋人と別れて、別の人と付き合って、オランダに行って、もうすぐ別れようとしている、というところです。

 

相変わらずだなあ。

 

1年以上前に書いた記事を読み返すと、わりと良いこと言っていました。

というか、今でも”忘れたくないこと”です。

(こういうのって振り返ると、青臭くて恥ずかしくて死にたくなるのですが、思っていたよりすんなり読めてしまったので、まだまだ私は青臭いのかも。 )

star-t.hatenablog.com

 

恋人との関係性についてなんかはまさにそうで。

自立した1人が2人、並んで、自分の足で歩くことがやっぱり大切なんですよね。

そして、私はまだまだ自立した1人ではなかった。

(まず、この恋愛脳をどうにかしないといけないと思う…)

 きちんと生活して、勉強する。そうして自分の軸をしっかり持つ。

真剣な恋愛って、多分それからじゃないとできない。

 

前の人のことを考えると、幸福に満ちていた時間を思い出して、どうしようもないタラレバを考えてしまう。

だけどそれは、新しい恋人がいる彼への対抗心や、私にも新しい恋人ができたことで彼がいかに素晴らしい恋人だったかということを思い知らされたことや、その他もろもろによる執着の産物です。知ってる。

人間、思い出さなければ忘れていくんだ。

 

それでも、思い出してしまうし、どうにもできない過去のことをあれこれ考えてしまうとき、私は、何回でもあのときの私に声をかけて抱きしめてあげることにしています。

「あのときのあなたの判断は間違いじゃなかったよ」って。

 

書くことで今の胸の内が整理されるかと思ったけど、あんまりすっきりしなかったので、本当のところは全然違うことを考えているのかもしれない。

 

とりあえず、”忘れたくないこと”を思い出すところから。

湿気

どうしてこんなに惨めなんだろう。

ここのところずっと、塾の友達には嫌な態度をとっている。みんな、私より賢いから。

塾の中では、劣等生なんだ。
幼い頃から賢いと言われ続けてきたから、賢くない自分をいまだに認められない。
劣等生になったのはつい最近のことのようだけど、最初のきっかけはずっと前だった。
中学受験の時も、劣等生に成り下がりかけた私は、ふわふわした気持ちで志望校を変えたのだ。
内部進学に切り替えたわけだけど、進学先はそこそこ悪くなかったから、志望校を落としたという感じはしなかった。
H中学はみんなも行くし、自由だし。
私の志望していたK中学は、私の肌には合わなかったの。
それに、女子校ってちょっとね。
そんな風なことを思っていた。

あのとき頑張らなかったことが、この今の頑張れない人生に続いている。
そして今も頑張れないでいる。

違和感

産経新聞に、アイルランド同性婚が認められたことを受けて、「カトリックと同性愛」という記事が掲載されていた。

この記事の最後に、「また同時に、今後の人類社会にとって、同性婚が広がったらタダでさえ深刻な少子化問題はどうなるのかも心配になる。」とあった。

なんだか違和感を感じた。
それとこれとは別なのでは、という思いが芽生えたが、もう少し考えてみようと思った。

占い

占いをしてもらうのは好き。
実際にやってもらったことはなくて、インターネットや本などの簡単なものを楽しんでいる。

最近は石井ゆかりさんの占いが好き。
石井さんの占いは、身近な言葉で書かれているけれど、やっぱり書いてあることは抽象的でなんだかわかったようなわからないような気持ちになる。
今ぼんやりと思ったことだけれど、石井さんの書かれていることを日常で感じるにはもう少し余裕が必要かも、と思った。
もっと自分の感覚を大切にしないとなかなか感じにくいところがある気がした。
だけど、読んでいい気持ちになるからやっぱり好き。

手軽な手相占いや血液型占いも好き。
でも、こういうのはやっぱり遊びだなぁと思う。
私にとっては楽しむためのもの。
昔というか今もだけど、私は占いを見るときに何かを懸けているところがあった。
でもそういうのは違うなと思った。
占いで人生を決めるのはよくない気がするし、必死に占いに答えを求めるのはなんだか滑稽な気がした。

ホンモノの占い師さんに実際に見てもらったら色々変わるのかもしれないけれど。
とにかく今の私は、自分で自分の哲学を探していくことを大事にしていきたい。
占いをほんとうに楽しむのはそこからなのかも。