タイムカプセル⑥

 手紙の続き

 

 これからの私ってどんなだろう。

 未来でこれを読んでいる私は、もうすべて知っているんだね。

 未来の私がこれを読んでがっかりしないように、1日1日を楽しく大切に過ごすからね。 

 

 やや情緒不安定気味の手紙は、なんとか上向きな気持ちで締めくくられていた。

 

 その後の私はどうなったかというと……。

 

 ダンス教室をサトミとカズミが辞めた後はしばらく寂しい気持ちでいたが、辞めずに残ったアヤノと精力的にレッスンをするようになった。また、アヤノや若い勢力になんとかして抗おうと、内緒で別の教室にも通ったりした。

 仕事面では、翌年、希望していた快適な環境の事務所への異動が叶い、心機一転仕事への意欲が出た。

 彼氏や結婚についてどうこう考えるのはやめて、今自分が一番楽しいと感じることに気持ちを集中させた。

 日中は職務を全うし、夜はダンス教室に通い、女子会や合コンに参加し、読書し、文を書き、映画鑑賞をし、石垣島の友人を訪ねる。

 同じ生活の繰り返しの中にも、小さな成長や気持ちの変化はあった。

 29歳になった私は、不思議と明るい色の服を選ぶようになった。

 GW直前、新しい服を着て合コンに参加し、そこで夫となる男性と出会った。

 合コンの終盤、私がトイレに行くと、トイレから戻ってきたその男性と廊下の角で鉢合わせた。

 目が合った瞬間、ピンクレディーの「インスピレーション」という曲が私の頭の中で流れ始めた。

 そして「私はこの人と結婚するんだろうな」と思った。

 

特別好きなタイプでもない人なのに

最初からなぜか心惹かれたの

電気のようにビリビリと体が震え

愛してしまった私

          ピンクレディ「インスピレーション」

 

 私はこの曲が小学生のころからずっと好きで、家ではいつも口ずさんでいた。

 夫は、私にとってまさしくこの歌詞のような人だった。

 

  私たちは、1年半後の2001年11月に結婚した。プロポーズの言葉も特にないまま、とにかくなんだかトントン拍子に結婚が決まった。

 2003年、ミツキが生まれる3か月前に新居を購入。25歳の私の予定通り、貯めていた預金はマンション購入の頭金に活用。

 4年後にはリオが生まれた。

 夫とミツキとリオとの4人の生活は、とにかく楽しい。

 27歳の私が「未来の私がこれを読んでがっかりしないように」と心配しているが、手紙で気持ちをさらけ出したあと、気を取り直して前向きに生きてくれたおかげで、今の私の幸せがある。

「1日1日を楽しく大切に過ごすからね」という言葉通り過ごした成果だ。

 過去の私に感謝。

 

 子育てに心配事は付きものだけど、心配事も幸せの一部だ。27歳の私には想像しようにも想像できないほどの幸せが詰まった23年間だった。

 

 今までの人生の節目、節目に思ってきたことがある。

 例えば小中高短大の卒業の時に感じたこと。

「ああ、この学校生活楽しかった。学びもたくさんあった。最高な気分だ」

 小学校卒業時感じた最高の気分は、中学校の卒業時には最高の気分のレベルが更新され、もっと最高の気分を感じている。そして、高校卒業時も短大卒業時もまた更新だ。

 会社員時代も楽しかった。学びもたくさんあった。でも、この子育て期の楽しさや学びの多さには敵わない。

 どの時代も楽しかったけれど「○○の頃に戻りたい」と思ったことはない。

 その時その時が一番楽しいし、未来はもっと楽しいのだろう。

 

 ミツキとリオも大きくなり、家族のライフスタイルが変わりつつある。

 この先更にどんな楽しいことが待っているのだろう。

 60歳の私、70歳の私、80歳の私、90歳の私。うーん、さすがに100歳は……。

 

 20年後の私と家族に手紙を書いてみようかな。

 まずは素敵なレターセット購入から始めることにしよう。

 

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タイムカプセル⑤

 手紙の続き。

 

 近頃の私には抱負がない。「前向きに生きる」が私の座右の銘だったのに……。

 考えが変わったわけではない。周りに合わせて、無理して余計なことまで抱負にすべきでない、ということだ。

 だって「今年は文をたくさん書く」が抱負なら、そんなの私個人の問題だからあっさり達成できるだろう。

 でも、周りの人のように「今年は彼氏をつくる」を抱負にしても、こればかりは巡り合わせもあるからどうしようもない。

 だから敢えて、何も考えずに周りに踊らされることなく自然体でいたいんだ。 

 

 おーっと、なにやらゴチャゴチャと言い訳がましい表現が増えてきた。

 どうした、27歳の私。

 

 アヤノ、サトミ、カズミがとても羨ましい。でも、私は別に寂しいわけじゃない。これが強がっているだけなのか、心からそう思っているのかも分からない。

 私のことが私にも分からない。遠くから自分を眺めているようだ。

 周りの人に面倒なことは言われたくない。面倒なこととは「結婚は?」とか「彼氏は?」ってこと。

 でも、そう言いたくなるのが人の性。それを言わせないためにも、彼氏と結婚は必要なんだ。そんなわけで、私は結婚したいと思うことがある。

 でも、それが結婚したい理由って寂しいよね。

 だから、だから、だから、敢えてもうこのことは考えるのをやめましょう!

 こんな風に珍しくナーバスな気分になるのは、アヤノ、サトミ、カズミ、関くんの結婚がバタバタと決まったからだね。

 でも、私は私。のんびり行くからね。

 

 なるほど、ゴチャゴチャ言い訳がましくなった理由が分かった。

 当時の私は、友だちの結婚ラッシュにダメージ受けまくりだったのだ。

 ダンスの仲間で年齢も近いアヤノ、サトミ、カズミが立て続けに結婚。そしてその直後の関くんの結婚で完全にノックアウトとなった。

 関くんとは、高校時代の私の初彼氏。一緒にいるだけでドキドキするかわいいお付き合いだった。交際期間は1年に満たなかったが、その後は友人関係がずっと続いていた。社会人になってからは、仕事帰りの飲み友だちだった。

「オレ、結婚することになったんだ。だからさ、今後はもう飲みに行けなくなるよ」

 急展開のこのセリフに一気に酔いが覚めた。前回会ったときに気になる子がいると言っていた。その数か月後には結婚報告。なんと展開が早いのだと驚いた。

 だが、そんなことはどうでもいい。私が一番驚いたのは、結婚したらもう一緒に飲みに行けないということだった。飲み仲間が1人減る!

 私は「男女の友情は成立する派」だった。だから関くんともずっと友だちだった。私に彼氏がいても、関くんに彼女がいても、友だちとして飲みに行っていた。

 結婚したら、もう飲みに行けない。関くんのその真っ当な線引きに「……まあ確かに」と納得しながらも、私はのたうち回るのだった。

 なんともとんでもない時期に未来の自分宛の手紙を書いたものだ。この時期でなければ、

「50歳の私もハッピーでしょう?過去(いま)の私も毎日ハッピーだよ」と書いていただろう。

 いや、そんなことないのかな?時間が経つと都合悪い記憶は忘れてしまって、楽しかった記憶だけ残っているだけなのだろうか。

 この手紙を読むまで、27歳の私がまるでアラサー女子ドラマの主人公みたいな悩みを抱えていたとは、完全に忘れていた。

 さあ、手紙も残り3行だ。

                    次回に続く

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タイムカプセル④

 手紙の続き

 

そろそろ私の過去(いま)の心境について書いておくことにする。

 過去(いま)の私の生活は会社の仕事・ダンスレッスンの2つがメインで、その繰り返しだ。

 仕事面は、地下街勤務で日が当たらないのが不満。仕事にも何の喜びも感じない。仕事に夢中になれた昔を懐かしく思う。

 こんな毎日にヨロコビを与えてくれるのが、ダンスレッスンと読書とビールを飲むこと。それから、ときどき文を書くことだ。

 ダンスは、昔のようにただ楽しいだけではなくなってきた。誰でもこういう気分を味わう日がやってくるのだろう。

 19歳でやっとダンスに復帰して、運良くメインメンバーとして、ただ、ただ、楽しく踊ることができた。あれから8年。私なりには上達しているが、若手も急成長してきていて焦りを感じる。

 こんなちっぽけな世界でも、私はもう限界を感じている。でも、負けたくない。

 

 すっかり忘れていたが、27歳の私は、どうやらくすぶっていたようだ。

 仕事面では、異動先事務所の立地に不満を感じ、また日々の業務の繰り返しに飽きてきたころだった。

 ダンスでは、自分は下手の横好なのだとひしひしと感じていたころだった。

 

 読書と文を書くのは、ダンスほどではないけど私の生活の大部分を占めている。

 特に椎名誠村上春樹の世界にすっかりはまってしまった。

 こうして、突然未来の私に手紙を書き始めたのも、椎名誠の「はるさきのへび」という本がきっかけだ。忘れていたらもう一度読んでみて欲しい。

 

 ここでいきなりの伏線回収。手紙を書いたキッカケは、椎名誠の「はるさきのへび」だった。

 私の本棚には、表紙にトレーシングペーパーをかけた椎名誠村上春樹の本がズラッと並んでいる。

 早速「はるさきのへび」を取り出し、読み返す。それは、文庫本250ページ「娘と私」の中にあった。

 27歳の著者が1歳の娘にむかって独り言のように語りかけた手紙を、47歳の著者が見付けたという話。

 

書いたことはもうすっかり忘れてしまっているから、自分の書いたものでありながら、私はなんだかとんでもないヒミツの日記を見つけてしまい、すこしうろたえたような気分にもなっていた。

          椎名誠著「はるせきのへび」より

 

 おそらく当時の私は、著者のいう「すこしうろたえた気分」に憧れたのだと思う。しかも、ちょうど著者と同じ27歳なのだ。

 書いたはいいが、数年で見つけて開封してしまわないように、区切りよく50歳になる年を記入したに違いない。

 椎名誠は、妻と娘とのささやかな幸せを事細かに書いている。当時の私はまだ独身。だから、ありのままの現状を未来の自分に残そうとしたのだろう。

 そうでなければ、開封前の私が想像していたように、未来の展望を書いたと思うのだ。なぜなら、私の性格だと、未来の自分に向けて、現状の自分の嘆きなど書き残さないと思うからだ。

 更に手紙を読み進めていくと、この先の手紙の内容は、現在の私が完全に忘れていた27歳の私の感情で、椎名誠同様に「私はなんだかとんでもないヒミツの日記を見つけてしまい、すこしうろたえたような気分」となるのだった。

                     次回に続く

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タイムカプセル③

 ついに「1998.5 → 2021まで封印」と書かれたグレーの社用封筒を開封する日がやってきた。この封筒の中には、27歳の私が50歳の私に宛てた手紙が入っている。

 封筒から便せんを取り出す。

   うわー!質素な便せん。

   縦書き、且つ鉛筆書き。

   思った通りだ。ダサすぎる。

 気を取り直して、3つ折りの便せんを開いた。

 

 50ぎたがこれをむとき、どんな気持ちなのだろう。23年間この手紙存在れることなくいられるだろうか?すことなく、内容をスラスラとうことができるのだろうか?それとも意外引越しやかで、あっさりとくしてしまっているかな?

 できることなら、これをむシチュエションとしては、ある日何かの偶然突如見付けた。そして、この存在をすっかりれていた。という具合がベストだ。

 では、この存在をすっかりれていた50歳過ぎのへ過去(いま)ののことをえてあげよう。 

 

 27歳の私が予想し願っていた状況通りになっていることにワクワクした。

 

  過去(いま)は、1998年5月10日(日)。

 私は27歳。急に文字の線が細くなったのは、この家にはシャーペンなんて物はなく、あったのは丸まった鉛筆だけ。初めのうちは丸まっていてもガマンしようと思ったけど、やっぱり許せなくなって家中を探したら、私が小学生のころ使っていた赤い鉛筆削りが出てきた。小学生以来使っていなかったから、少し懐かしい気持ちだね。

 この家っていうのは、○○の団地。ずっと住んできた家だから一生忘れないだろうね。あっ、でもきっとお父さんとお母さんが未来でも住んでいるだろうね。私も一緒に住んでたらちょっと怖いなぁ。

 過去(いま)の私は、昨年の冬から練馬区で1人暮らしをしているんだけど、ここのところ貧乏なので実家に戻ってくることが多い。

 私にとって実家は、単に「実の家」ではなく「実に楽できる家」だ。なんて、お母さんに言ったら殴られるだろうな。

 練馬の家は駅から遠いけれど、家賃の割には広いし、ある程度満足している。1DK・ガスキッチン・バス、トイレ別・追い炊き機能付バス・窓からの眺めもいい(モクレンキンモクセイなど季節の花が咲く)。春先から初夏にかけて、爽やかな風が流れてまことに気分がいい。まるでちょっとした高原のペンションに来た気分になることもできるのだ。

 次に引っ越ししたとしても、もう実家に戻ることはないと思う。

 

 ありがたいことに鉛筆書きの謎回収をしている。実家帰省中に突発的に書いたようだ。

 確かに実家の電話台の上にあるペンスタンドにはボールペン数本と丸まった鉛筆しかなかった。修正液がないので、鉛筆を選んだのだろう。

 両親と暮らした団地はその後引き払い、当時は元気だった父も2年前に他界した。

 気になったのは「実家」を「実に楽できる家」と表現していることだ。「お母さんに言ったら殴られるだろうな」と言っているが、母でなく現在の私でも、なんと図々しい娘なのだろうと腹が立つ。今や私の思考は、母の立場になった。

 26歳のとき、母の爆ギレの末1人暮らしを始めた。母は私が本当に出て行くとは思っていなかったようだ。

 1人で契約や支払を済ませて帰宅した私は、父に保証人を頼んだ。それを見た母は、突然私に対して優しくなった。

 1人暮らし開始後は、実家に帰ると母は私を大歓迎した。母は、近所の人に「うちの娘は、年中うちに帰ってくるのよ」と困った表情をしながら満足そうに言う。

 そこにつけ込んだ私は、給料日前になると実家に1週間近く滞在し、母と衝突しそうになると、自分のアパートに逃げ帰った。

 27歳の私はクズだった。

 練馬の家は、練馬駅豊島園駅の中間辺りにあった。部屋は2階で、北の窓の前にはモクレン、東の窓の前にはキンモクセイがあった。窓を明けて花を間近に眺めていたことを思い出した。

                    次回に続く

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タイムカプセル②

 「1998.5 → 2021まで封印」と書かれた「27歳の私が50歳の私に宛てた手紙」の封筒は、当時私が勤めていた会社の社用封筒だった。

 グレーの長3封筒に鉛筆書き。

 ありえない……。貴重な手紙を書くときは、おしゃれなレターセットに高級万年筆(持ってないけど)で書くものでしょう、普通は……

   なに?どういうこと?思いつき?

   そもそも、なんで書こうと思った?

   書いた記憶が全くない。

   何を書いたんだろう。

   結構分厚い。長文のようだ。

 両手で封筒を持ちながらひとしきり考えを巡らせた後、笑いが止まらなくなった。

 なんだかすべてが私らしい。

 23年後の自分に手紙を書こうという発想や、友だちと一緒にノリで書くとかでなく、人知れず書くところが私らしい。

 それに、こんな珍しいことをしたら、そう簡単には忘れないものではないか?  
 キレイさっぱり忘れてしまうのも私らしい。

 なにより、社用封筒に鉛筆書き! ダサい、ダサすぎる。このダサさがなんとも私らしい。情けなくなる。

 社用封筒チョイスは、私の愛社精神の表れだろうか。

 ふと、中の便せんが気になった。社用便せんなんて物はなかった。いったい何に書いたのだろうか。本文までも鉛筆書きの可能性もある。ゾッとするな……。

 内容を想像してみる。27歳の私といえば、現在とは全く違う生活をしていた。

 夫との出会いは29歳。当時は交際相手もいなかった。

 26歳で1人暮らしスタート。愛社精神を持ち、職務全うを心がけていた。水木の仕事後と土日にダンスレッスンに通い、月火は合コンもしくは女子会。金はしっぽり家飲みしながら映画鑑賞。

 そして、年に1、2回1週間程度の休暇をとって、石垣島に住む友人の家に滞在。生活のルーティーンが確立していた。

 26歳で1人暮らしを始めたのは、想定外だった。

 私は母との折合いが悪く、常に独立は頭にあった。ただし、独立するときはマンションを購入したときと決めていて、預金に励んでいた。

 マンション購入を考え始めたのは25歳。電車の中吊り広告を見て新築1ルームマンションの見学を思い立った。

 25歳の私は結婚願望がまるでなく、一生独身なら1ルームで十分と思っていた。しかし、実際に部屋を見るとその狭さに息苦さを感じた。

 何軒かの物件を見学し、ある不動産屋の言葉によって考えが変わった。

「1ルームを購入して、住んで、結婚したら貸出して、家賃収入にするといいですよ。でもね、1ルームだと借り手が付かないこともあります。だから、購入するなら3LDK以上がオススメです。結婚してそのまま住んでもいいし、貸出す際も借り手が付きやすいです」

 当時の預金額は1000万円程度で、3LDKを購入して1人で返済していくには心もとない。

 母との衝突を避けて大人しく過ごし、実家にいられる間にもっと預金を増やそうと奮起した。

 ところが、そう思った矢先にやらかした。母の逆鱗に触れ「出てけ、出てけ」の雨嵐。私は逃げるようにして、賃貸アパートの契約をした。

 敷金礼金、家賃、生活費。思ったようには預金できなくなり、預金は腹ばい状態になった。

 ふと、結婚して、私が頭金を支払い、残りは2人で返済するという案が頭に浮かんだ。非常に不謹慎な思いつきだが、初めて結婚の2文字が頭に浮かんだ瞬間だった。
(相手もいないのに……)

 それから1年後、27歳の私は、どんな心境で50歳の自分に手紙を書いたのだろうか。

 予想としては、未来の私がどんな暮らしをしているのかを問いかけ、予言めいたことを書き、未来の夫や子どもに話しかける文もあるのではないか。

 そんな想像をしながら、50歳までの2年間を楽しみに過ごすのだった。

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タイムカプセル①

 2021年2月、私は50歳の誕生日を迎えた。

 年を重ねるにつれ、誕生日を手放しで喜べなくなるのが人の常だ。60歳以上になると還暦、喜寿、傘寿など長生きのお祝いムードになるが、50歳は「初老」とか「戦国時代の寿命」などと皮肉を言われがちだし、自虐する人も多い。

 しかし、私は50歳の誕生日を2年前から待ちわびていた。

 

 2年前、ミツキが高校に入学し、リオは小6、実父は亡くなり、私は暇を持て余していた。

 そこで、家中の物の棚卸しを始めた。

 

 今の家に住み始めたのは、ミツキが生まれる3か月前。身重の体での引っ越し作業は、お腹の張りとのタタカイだったことを懐かしく思い出す。

 使用頻度の高い物は棚の一等地に。思い出の品や使用頻度の低い物は、高い場所や奥の方に収納した。

 

 それから15年間、子どもたちの成長に合わせて一等地の物の配置替えは頻繁にしたが、使用頻度の低い物は手付かずの状態だった。

 記憶の隅に追いやられている品もあるはず。全ての扉を開け、次々と荷物を床に広げていった。

 引越当初は、使用頻度は低くとも大切に思っていた品々。しかし、15年ぶりに見ると何の魅力も感じない物が結構多い。迷うことなくサクサク処分。

 

 ふと、ベッドの下にも引出しが付いていたことを思い出した。

 そこには、横38×縦25×高さ12のこげ茶色の箱があった。中身がパンパンで上蓋が少し浮いている。

 箱の中身は、結婚式にまつわる思い出の数々だった。

 

・招待客から返信された招待状・電報

・お祝いの手紙・結婚証明書

・アルバムに収まりきらなかった写真

・式場との打合せ内容の書類・担当者名刺

・費用明細書を貼付した書類

・自分で作成した収支明細表

 

 改めて自分の細かさに驚きつつ、ひとつひとつ手に取りながら見ていく。

 すると、箱の一番底からA4サイズの青色のクリヤーブックが出てきた。

 それは、結婚以前の私の歴史ファイルだった。

 表紙をめくると、1ページ目には定期券が5枚貼付されていた。

 

・初めての定期券高校1年

・短大1年・短大2年

・1人暮らしの家から会社

・社会人最後の定期券

 

 ここまで揃っていると、社会人最初の定期券がないことが悔やまれる。

 次のページからは、

 

・高校の受験票

・高校の入学試験結果通知書

高3 2学期中間の個人成績表

大受験時の調査書

・短大の入学許可書

・短大の成績通知書

・初短期バイト(高2冬)の給与明細書

・初長期バイトの給与明細書(稼ぎまくり) 

・会社内定書・会社辞令・会社誓約書

・会社先輩からの励ましメモ

500円札

・各種検定の合格証

・退職金計算書

新聞切抜き(エッセイ優秀賞受賞)

 

 15歳から30歳までの私の記念品だ。

 なぜ成績表が高3の2学期中間のものだけを残しているのかがよく分からない。

 

 高校時代の私は試験勉強をあまりしなかった。500人中70位くらいでいいと思っていた。

 確かにその成績表をみると50位になっているので、好成績な方だ。しかし、高2は30位のときがあったと思うのだが。

 高2の担任は、試験直前に生徒1人1人の自宅に「激励電話」を架けるガサガサ声の熱血な先生だった。

 

 先生  激励電話です。娘さんお願いします

 母   娘は夜に勉強するとのことで、今は寝ています

 先生  起こして下さい。娘さんは夜中に勉強しません

 

 無駄に寝ていることは先生にはバレバレで、勉強せざるを得ない状態に追い込まれた。

 結果、2学期期末の数学は小学生以来の100点獲得。やればできるという自信が付いた。

 しかし、長くは続かない。担任が替われば元の木阿弥だ。

 そんな訳で、記念として残すべきは高2の成績表なのにと不思議に思う。

 

 短大受験時の調査書は、短大受験時に高校が発行した私の高校3年間の成績の記録だ。親展で短大側に提出したはずなのに、なぜか私の手元にもある。

 調査書の中で一番のお気に入りは、3年時の所見の欄だ。3年時の選択科目でとっていた小論文について書かれている。

「独創的な考え方で文章を書くのに優れている」

 これを初めて読んだときの喜びを覚えているし、今読んでもうれしくなる。

 これを機に文を書くことが好きになった。誰に読ませるでもなく、エッセイらしきものを書き溜めていった。

 

 そして、結婚直前に応募したある新聞社のエッセイコンテストで優秀賞を受賞した。

 新聞の切抜きを見るたびにニヤける。

 そんなわけで、今も趣味として思ったことを書き続けている。

 

 懐かしい気持ちでクリヤーブックを捲っていくと、最後のページに見覚えのある懐かしい封筒が入っていた。

「1998.5 → 2021まで封印」

 手に取ってもしばらくは何だか分からなかった。

 なぜ2021年なのだろうと考え、それが私の50歳になる年だと気付いた。

 27歳の私が50歳の私に宛てた手紙だった。

 

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父の車で通学

 高校の3年間、私は父の運転する高級社用車で途中まで送ってもらおうと常に狙っていた。

 1,2年生のころは部活の朝練があり、父とは時間が合わなかった。狙いは定期試験1週間前。部活が休みになる期間のみだった。

 学校は8時40分までに登校なので、本来なら7時半に家を出れば十分間に合う。起床時刻は6時半で十分だ。しかし、私は6時には起床し、父の様子を窺っていた。

 

 某自動車メーカーで役員付のドライバーをしている父が家を出る時間は、基本は2パターンだった。ゴルフ場などの遠方送迎で早朝に家を出るか、近場送迎で7時に家を出るか。私は、父が家を7時に出る日を狙っていた。

 父が7時に家を出ると分かると、私も身支度を進め、しれーっと父と一緒に家を出た。

 

「あんたって図々しい子だね」と母は言った。

 

「遅刻回避のために乗るのは教育上良くないけど、私の場合は車に乗るためにわざわざ早く家を出るのだから問題ないね」と言い返す。

 

 今思うと、本来ならばそもそも論点はそこではないはず。社用車に勝手に乗ること事態が良くないのだが、その点は父母共に緩かった。

 

 高校までの路線経路は、1回乗換えて2路線使用。乗換駅で友だちと待ち合わせて登校。

 車で行く場合は、乗換駅で降ろしてもらった。

 

 車の方が早く、待合せ時間まで30分以上あった。ちょうど定期試験前ということもあり、私は駅のホームのベンチで試験勉強をした。

 たくさんの人の往来の中にもかかわらず、不思議なほど集中できた。満員電車で押し潰されることもなく、待ち時間に勉強も出来て、一石二鳥のお得感がうれしかった。

 

 

 朝の車中の思い出といえば、TBSラジオ大沢悠里のゆうゆうワイド』だ。父はいつもこれをかけていた。大沢悠里さんの声は、私のザワつく心を落ち着けてくれる作用があった。

 

 私の高校生活は、傍からしたら順調に見えたことだろう。しかし、本当の私の心の中は、3年間いつもザワついていた。

 共学ですぐに初の彼氏もできて、先生や先輩にも公認のカップルだった。1年ほどで別れてしまったが、その後も友だち関係は続き楽しかった。

 部活もマネージャーという仕事は学びが多く、刺激的で楽しかった。

 いつも行動を共にする気の合う友だちもいて、校内も放課後も楽しかった。

 

 それなのに、常に『高校の友だちとはこの3年間だけの付き合いかもしれない』という漠然とした思いがあった。

 自分とは何かが違う人の集まりに感じ、高校生活を楽しむために演じる必要があった。

 だから、心はザワつき、疲れていた。みんないい人ばかりなのに、なぜか疲れた。

 

 大沢悠里さんの声はそんな私の心を癒やしてくれたし、父はいつも通り無口で居心地がよかった。2人でただラジオを聞いて、おもしろい話に一緒にクスッと笑うだけだった。

 

 

 記憶を辿りながら書いているので、あれは本当に『大沢悠里のゆうゆうワイド』という番組だったのだろうかと、念のためウィキペディアを確認した。

大沢悠里のゆうゆうワイド

ジャンル       バラエティ・生活情報番組

放送方式       生放送

放送期間       1986年4月7日 - 2016年4月8日

放送時間       平日8:30 - 13:00(270分)

放送局     TBSラジオ

パーソナリティ   大沢悠里

         出典: フリー百科事典『ウィキペディア

 

  1986年から放送開始とある。正に私が高1のときなので間違いないと思った矢先、放送時間に驚いた。8時30分から。これでは私が車の中で聞けない。いったいどういうことだろうか。

 定期試験日は、登校時間が1時間遅かったたのだろうか。

 

 ラジオのタイトルコールが

『おーさわゆーりの♪ゆうーゆうーワイードー♪』

 という歌だったので間違いないはずなのだが。

 

 誰かに確認したいが、高校の友だちとの付合いはないし、父にももう確認できない。

 父との数ある思い出の中でも上位に入る思い出なのに、なんだか妙にモヤモヤしてしまった。

 

 

 

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