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南蛮貿易はどんな貿易?世界を魅了した石見銀山の銀のゆくえは?朱印船貿易との違いは?

「ボーロ」「天ぷら」「カッパ」「オルガン」「ビードロ

これらはポルトガル語が語源となって現代に伝わった言葉です。

遠く離れたポルトガルの言葉が日本に伝わったのは、「南蛮貿易」で日本とポルトガル・スペインがつながっていたからです。

 

戦国時代、日本の戦国大名たちは銀などの貴金属と引き換えに火薬の原料である硝石や高級絹織物の原料である生糸をポルトガル人・スペイン人といった南蛮人から購入していました。

 

今回は南蛮貿易の大まかな内容や輸出入品、石見銀山の銀産出拡大に貢献した「灰吹法」、江戸時代初期の朱印船貿易との違いなどについて解説します。

ぜひ、参考にしてください。

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南蛮貿易はどんな貿易?

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南蛮貿易とは、南蛮人と呼ばれたヨーロッパ人と日本の戦国大名や豪商が行った貿易のことです。

南蛮貿易の大まかな内容や重要ポイントについてまとめます。

南蛮貿易とは何か

南蛮貿易とは、16世紀後半から17世紀初頭にかけて、日本とポルトガル・スペインなどのヨーロッパ諸国との間で行われた貿易のことです。

この貿易によって、ヨーロッパの文化や技術が日本に伝えられ、また、日本の銀が世界各地に流通することになりました。

南蛮貿易の輸出入品

南蛮貿易の輸出入品は以下のとおりです。

 輸出品   金、銀、銅、硫黄 
 輸入品   生糸、鉄砲、硝石、鉛 

硝石は火薬の原料となるもので、鉛は鉄砲の弾丸となるものです。

したがって、戦国大名たちは鉱産資源を輸出して武器の原料を輸入していたことがわかります。

輸入品のうち鉄砲は後に国産化されましたが硝石や鉛は輸入に頼るしかありませんでした。

 

この当時、中国産生糸は白糸と呼ばれて珍重されました。

江戸時代に入ると白糸貿易は江戸幕府の管理下に置かれ、幕府が認めた特定の商人(糸割符仲間)だけが取引できる「糸割符制度」に移行します。

 

糸割符仲間は京都・堺・長崎・江戸・大坂の五カ所商人で構成されました。

大学入学共通テストの日本史では、南蛮貿易朱印船貿易の内容と区別させる出題がありますので、受験生は気を付けましょう。

 

絹織物の原料である生糸や絹織物が国産化されたのは江戸時代の中期以降で、明治時代には日本を代表する輸出産業に成長します。

銀はなぜ必要とされたのか?

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南蛮貿易で重要な輸出品となったのが銀ですが、なぜ、銀は重要な輸出品となったのでしょうか。

西洋人(南蛮人)や中国人(明王朝)が銀を欲しがった理由を見てみましょう。

なぜ、南蛮人は銀を欲しがったのか

日本からの輸出品で重要な位置を占めていたのが「」です。

輸入品である生糸や硝石、鉛の対価として日本から輸出されていました。

 

16世紀の世界で銀は貿易の決済通貨として使用されていました。

簡単に言えば、銀さえあれば世界各地の物産をスムーズに売買できたので、現代のドルと同じような役割を果たしていたのです。

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アウクスブルク市庁舎「黄金の間」

大航海時代の少し前、ヨーロッパの銀は南ドイツのアウクスブルクで産出されており、銀山を所有していたフッガー家は巨万の富を築いていました。

 

フッガー家による銀の独占を崩したのがスペインです。

中南米を征服したスペインは16世紀中ごろの1545年にポトシ銀山を開発し、インディオを労働力として銀の大増産をスタートさせます。

これにより、大量の銀がヨーロッパにもたらされてフッガー家の独占を突き崩しました。

スペインが中南米から銀を持ち込むために編成した艦隊は「銀艦隊」とよばれ、オランダやイギリスの私掠船に狙われるようになります。

その後もスペインはメキシコなどでも銀の採掘を進め、日本の銀にも強い関心を示します。

中国でも銀が必要だった

中国は古い時代から銅銭を使う国でした。

織田信長の旗印として有名な「永楽通宝」は明の永楽帝の時代に鋳造された貨幣です。

永楽帝について知りたい方はこちらの記事をどうぞ!

 

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

永楽帝の時代から100年以上たった16世紀中ごろ、明では銀の需要が高まっていました。

その理由の一つが軍事費の増大です。

 

明は北の遊牧民と南からの倭寇という海賊の侵攻に対抗するため多額の軍事費を必要としていました。

北方民族の侵入と倭寇による沿岸部での活動を合わせて「北虜南倭」といい、明を脅かした2大脅威として知られています。

 

これらのうち、明にとって大きな脅威だったのは北方の遊牧民(北虜)でした。

1449年にはオイラト部のエセン=ハンが明の正統帝を捕虜とする土木の変が発生し、明を恐れさせました。

1542年にはモンゴルで勢力を拡大したアルタン=ハンは明との国境を突破し、山西地方を1か月にわたって略奪します。

さらに、アルタン=ハンは1550年に明の首都である北京を8日にわたって包囲します。

 

明の首都である北京を脅かす遊牧民に対抗するため、兵を雇って北方の防備を固めるための銀が大量に必要だったのです。

かの有名な万里の長城を今の形にしたのは明の時代で、あれだけの大建造物をつくるには巨額の費用が必要だったことが想像できます。

その費用の一部として銀が使われていました。

 

また、明とスペインの貿易でも銀(メキシコ銀)が決済通貨として使用されたため明国内に大量の銀が流れ込むことになります。

 

1580年代、万暦帝のもとで政治改革を行った張居正は銀を基準とする一条鞭法を定めて銀を中心とする新しい税制をスタートさせます。

こうして、日本産の銀は世界経済の重要な構成要素として組み込まれるようになったのです。

世界遺産石見銀山」のすごさとは

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石見銀山 福神山間歩

石見銀山は2007年に世界遺産に登録されましたが、石見銀山の何がすごくて世界遺産となったのでしょうか。

すごかった理由は、石見銀山は世界の歴史を動かした銀山だからです。

ここでは、石見銀山のすごさと石見銀山を世界屈指の銀山に押し上げた「灰吹法」について解説します。

石見銀山はなにがスゴイ?

石見銀山鎌倉時代末期に発見され、周防の守護大名である大内氏が中心となって開発した銀山です。

本格的に開発を行ったのは博多の大商人である神谷寿禎(かみやじゅてい)です。

彼が石見銀山沖を船で通りかかった際に、山が光るのを見て銀の存在を確信し、大内義興の支援を受けて本格的な開発をスタートさせました。

 

江戸時代初期に当たる17世紀初頭の石見銀山の産出量は年間1万貫(約38トン)で、世界の産出銀量の3分の1を占めたといわれます。

石見銀山の銀は南蛮貿易や日本と明との勘合貿易を通じて中国に流れ、中国経済に大きな影響を与えます

世界遺産 石見銀山の近くにある温泉津温泉

世界遺産である石見銀山の周辺は銀山以外の観光スポットもたくさんあります。

レトロな雰囲気を味わいたい方におすすめなのが温泉津(ゆのつ)温泉です。

温泉津の港は石見銀山からとれた銀の輸出港として栄えました。

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温泉津温泉

温泉津温泉の泉質はpH値6.3の中性温泉で癖がなく肌に優しいのが特徴です。

しまね観光ナビ」によると、きりきずや末しょう循環障害、冷え性うつ状態、皮膚乾燥症などに効果があるとされています。

塩分と炭酸ガスの働きにより肌がつやつやになるといいます。

温泉街そのものもレトロで、どこか懐かしい雰囲気を味わえますので、ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。

石見銀山を成長させた「灰吹法」

灰吹法は鉱石から金や銀といった貴金属を取り出すときに用いられる精錬法です。

灰吹法の手順は以下のとおりです。

 

  • 銀鉱石に鉛を溶かして銀と鉛の合金(貴鉛)をつくる
  • 「灰吹」を行って鉛と酸素を結合させ、貴鉛から鉛を取り除く
  • ボタン状の銀(灰吹銀)ができる

参考:石見銀山世界遺産センター

 

灰吹法によって石見銀山からとれる銀の量は急増し、世界的な大銀山として成長することができたのです。

 

巨万の富をもたらす石見銀山大内氏と敵対する尼子氏にとっても喉から手が出るほど欲しいものであり、大内氏と尼子氏は石見銀山を巡って死闘を繰り広げます。

最終的に石見銀山大内氏と尼子氏を倒した毛利元就が支配しました。毛利元就について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

 

kiboriguma.hatenadiary.jp

 

朱印船貿易とは

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アユタヤ日本人町の石碑

南蛮貿易とよく比較されるものとして「朱印船貿易」です。

朱印船貿易南蛮貿易の違いについて詳しく説明します。

朱印船貿易はどんな貿易?

朱印船貿易とは、豊臣秀吉徳川家康がおこなった貿易のことで、朱印状という貿易許可証を持った船が東南アジア各地に派遣されて盛んに交易を行いました。

許可証を発行するのは豊臣政権や江戸幕府でしたが、実際の貿易は西国大名や京都・大坂・堺・長崎などの大商人です。

 

有名な大商人は京都の角倉了以茶屋四郎次郎、長崎の末次平蔵などです。

角倉了以は京都の大堰(おおい)川・高瀬川静岡県富士川・天龍川などの水路を開発した人物として有名です。

茶屋四郎次郎徳川家康の窮地を何度も救った豪商です。

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アンコール=ワット

貿易先である東南アジアには「日本町」がつくられ、朱印船貿易の拠点となります。

カンボジアのアンコール=ワットには朱印船貿易の時代に訪れた日本人の落書きが残っています。

朱印船貿易の主な輸出入品

朱印船貿易でも主な輸出品は銀でした。

 輸出品  銀、銅、漆器
 輸入品   生糸、絹織物、蘇木など

朱印船貿易は上記の貿易品をやり取りし、鎖国令が出されるまで続きます。

南蛮貿易とほぼ違いはありませんが、朱印状という形で中央政権(豊臣政権・江戸幕府)が貿易をコントロールしていたという点で大きな違いがあるといえます。

朱印船貿易にまつわるエピソード

江戸時代初期、シャム(タイ)の日本町で活躍したのが駿河国出身の武士である山田長政です。

長政がシャムにわたったのは関ヶ原の戦い朝鮮出兵大坂の陣などが起きた慶長年間(1596~1615)のことです。

 

シャム王国アユタヤに拠点を構えた長政は国内政治や戦争で功績をたててシャムの王女と結婚して王族になりました。

1628年にシャムの王が亡くなると幼い王を補佐して権力を握りますが、他の王族にねたまれて毒殺されました。

山田長政以外にも、海外で活躍した日本人が多数存在した時代で、日本版の大航海時代といってもよい状況でした。

朱印船貿易の終わり

豊臣秀吉は長崎や浦上などの地が協会に寄進されていることを知ると、これらの土地を没収して直轄領としました。

その後、伴天連(バテレン)追放令を発しキリスト教の布教を取り締まります。

この段階の布教禁止はあまり厳しいものではありませんでした。

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長崎26聖人殉教記念館

しかし、1596年には神父ペドロ=バプチスタら宣教師6名と日本人の信徒が処刑される長崎二十六聖人殉教事件がおきるなどキリスト教への圧迫が強まります。

 

江戸幕府を開いた徳川家康は貿易を優先し布教を黙認したため、信者数が75万人に達しました。

その後、家康は方針を転換して1613年に全国で禁教令を発して高山右近内藤如安をマニラに追放するなど弾圧を強めます。

 

家康の死後、朱印船貿易は徐々に制限されました。

1631年には朱印船のほかに老中奉書が必要となり、1633年には老中奉書がない船は渡航禁止となり、朱印船貿易は行われなくなりました

1635年には日本人の海外渡航が禁じられ、海外から日本に帰国することもできなくなります。

こうして、日本版大航海時代は幕を閉じました。

まとめ

今回は南蛮貿易石見銀山の歴史、朱印船貿易の特徴などについて解説しました。

南蛮貿易が行われた期間は100年に満たないものでしたが、日本の歴史に大きな影響を与えました。

石見銀山でとれた銀は世界経済の重要な要素として世界史を動かしていきます。

 

逆鱗に触れると何が起こる?『韓非子』が「逆鱗に触れる」で伝えたかったこととは?

伝説上の生き物である「龍」は、ファンタジーやアニメの題材としておなじみの存在です。

中国では皇帝のシンボルとして取り扱われ、日本でも強大な力を持った存在として語り継がれてきました。

龍にまつわる故事成語の一つに「逆鱗(げきりん)に触れる」があります。

今回は「逆鱗に触れる」の意味やこの言葉の出典である『韓非子』の著者である韓非の生涯、『韓非子』の原文や訳などについてわかりやすく解説します。

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「逆鱗に触れる」とは

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「逆鱗に触れる」の意味

故事成語「逆鱗の触れる」の意味は以下のとおりです。

 

帝王の怒りをうける。また、目上の人などの気持にさからって怒りを買う。はげしく叱られる。

出典:精選版 日本国語大辞典

 

龍は高貴なものであることから、帝王や目上の人の象徴として扱われ、龍の怒りを買う、すなわち、目上の人の怒りを買うという意味になったのでしょう。

「逆鱗に触れる」の類義語

逆鱗に触れるの意味は目上の人を怒らせることで、似た言葉に「不興を買う」というものがあります。

 

不興とは目上の人の機嫌を損なうことで、不興を買うや不興を招くといった使われ方をします。

単に不興だけで使うこともあり、その場合は目上の人の怒りに触れて何らかの咎めや勘当を受けることを意味します。

目上に人に叱られる、機嫌を損ねると理解しておけばよいでしょう。

「逆鱗に触れる」と「琴線に触れる」は別の意味

逆鱗に触れると同じように”触れる”という言葉を含むため、「琴線に触れる」が似た意味と誤解されることがあります。

 

琴線に触れるの意味は以下のとおりです。

 

良いものや、素晴らしいものに触れて感銘を受けること

出典:デジタル大辞泉

 

琴線は感動しやすい心を楽器の琴の糸にたとえたものであり、感動や共鳴を与えることを意味します。

逆鱗に触れるとは全く別な意味ですので注意しましょう。

「逆鱗に触れる」の例文

主人公は王様の逆鱗に触れて国を追放された。

課長は部下に対する嫌がらせが発覚し、社長の逆鱗に触れて懲戒処分となった。

 

韓非子』はどんな本?著者の韓非はどんな人?

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「逆鱗に触れる」は中国の春秋戦国時代に生きた思想家である韓非が書いた『韓非子』に登場するエピソードです。

ここでは韓非の生涯や『韓非子』で逆鱗に触れるをあつかった理由、韓非子秦王政の出会いや死についてまとめます。

韓非の生涯

韓非は古代中国の戦国時代に生きた思想家です。

性悪説で有名な荀子の弟子で、法による国家統治を解いた人物で法家の思想家の一人として有名です。

戦国時代に合った7つの国である「戦国の七雄」の一国であった韓の国の公子でした。

 

韓非の祖国である韓は七雄の中で最も弱く、隣国の秦の属国に近い状態にありました。

韓非は秦による韓の併合を阻止する使者として秦の都である咸陽に赴き、秦王政(のちの始皇帝と運命的な出会いをします。

 

韓非に会う前、秦王政は韓非の著作を読んでいたと思われ、韓非を秦にスカウトしようとしました。

しかし、秦の宰相だった李斯が韓非の才能を恐れて王に讒言を行い、韓非を牢獄につなぐよう画策します。

結局、韓非は李斯の策略にはまり牢の中で自害してしまいました。

 

史記』の著者である司馬遷は、「君主を説得することの難しさを説いた”説難”を説いた韓非でも自らの命を助けられなかったのは悲しいことだ」と述べています。

韓非子』はどんな書物?

韓非子』は戦国時代に法家の思想家である韓非が書いた本です。

法家とは、法律による厳格な支配を行って君主の力を強化し、富国強兵を目指す政治思想のことです。

法家の代表的な人物として商鞅と韓非があげられますが、商鞅は秦王政よりも前の時代に秦の力を強化した宰相として有名です。

 

下剋上が盛んだった戦国時代は、家臣による国の乗っ取りも少なくありませんでした。

晋は有力な重臣によって国が3分割されて韓・魏・趙の3国になり、斉は重臣の田氏に国主の座を取られています。

 

韓非は国の力を君主の下で一本化することにより国力強化を図るべきと考えて『韓非子』を著しました

 

韓非子を読んで感動したのが秦王政です。

秦王政は『韓非子』の中の「孤憤篇(こふんへん)」と「五蠹篇(ごとへん)」に感銘を受けたといわれます。

 

君主が意識すべきことを徹底的に解いている点で、西洋のマキャベリと似ているとされています。

韓非子』もマキャベリの代表的著作の君主論も日本語訳が数多く出版されていますので、機会があれば読んでみることをおすすめします。

 

「逆鱗に触れる」は『韓非子』のどの部分?

逆鱗に触れるの出典は『韓非子』の「説難篇(ぜいなんへん)」です。

説難のテーマは君主への進言の難しさで、部下が自分の意見を上司に進言するのは現代でも難しいためとても参考になります。

 

「説難篇」の大まかな内容は以下のとおりです。

 

昔、衛という国に霊公という君主がいて、イケメンの部下である彌子瑕(びしか)を寵愛していました。

 

衛には王の馬車に勝手に乗ったものは足を切られるという法律がありました。

あるとき、彌子瑕は母親が危篤であるという知らせを聞き、無断で王の馬車を使いましたが王は親孝行であるといって許しました。

 

また別の時に、彌子瑕は霊公のお供で桃園を訪れた時に、自分が食べた桃の半分を霊公に食べさせました。

霊公は自分のことを愛しているからこそ、桃を自分に食べさせてくれたのだといって、これも肯定的に受け取りました。

 

しかし、彌子瑕が年を取って霊公のお気に入りではなくなったとき、霊公は「彌子瑕は自分をだまして車を使い、食べかけの桃を食わせた悪党だ」と非難しました。

 

韓非は霊公と彌子瑕の関係を例に挙げ、主君に愛されていればどのような策でも受け入れられるが、憎まれればどのような策を提案しても拒絶されると述べます。

そして、「逆鱗」の由来となる龍のたとえ話につながるのです。

「嬰逆鱗に触る」の本文

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夫龍之爲蟲也、柔可狎而騎也。

夫(そ)れ龍の虫たるや、柔なるときは狎らして騎るべきなり。

そもそも龍という生き物は、従順な性格であるため飼いならして乗るこことができます。

 

然其喉下有逆鱗徑尺。

然れども其の喉の下に逆鱗の径尺なる有り。

しかし、龍の喉もとには長さが一尺くらいの逆さに生えた鱗(逆鱗)があります。

※一尺は約30cm

 

若人有嬰之者、則必殺人。

若(も)し人之に嬰(ふ)るる者有あらば、則ち必ず人を殺す。

もし、逆鱗に触れる人がいれば(いつもは温厚な龍であっても)必ず人を殺します。

 

人主亦有逆鱗。

人主(じんしゅ)も亦た逆鱗有り。

君主にも逆鱗があります。

 

説者能無嬰人主之逆鱗、則幾矣。

説く者能(よ)く人主の逆鱗に嬰るること無くんば、即ち幾(ちか)し。

君主に(何かの策を)説く者は、逆鱗に触れることがないならば(説得の成功に)近いといえます。

 

龍というのはとても温厚で飼いならせば乗ることさえできますが、逆鱗という約30cmの逆さまのうろこを触ると怒り、触った人を殺してしまいます。

逆鱗と同じものが君主にもあり、そこを触ってしまうと説得するのはとても難しいでしょう。

だから、逆鱗に触れないように説得することができれば君主説得の可能性が高くなると韓非は説いたのです。

 

戦国時代のエピソードでは、たとえ話の後に結論がくるという構成が多くみられますので、漢文を読むときの一つのパターンとして覚えておくとよいでしょう。

まとめ

今回は『韓非子』の有名なエピソードである「逆鱗に触れる」を紹介しました。

逆鱗は君主に限ったものではなく、誰しも持っている「触れられたくない部分」なのかもしれません。

人と話すときは、相手の触れてほしくないことをよく考えて対応することが重要であり、そうすることで人間関係がうまくいくのかもしれません。

 

イケメン平安貴族、在原業平をモデルにした『伊勢物語』とは?「東下り」の訳やかきつばたの和歌の意味を徹底解説!

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平安時代のモテ男の条件。

それは、イケメンで和歌が上手いこと。

この2つの条件を満たした貴公子こそ、在原業平です。

 

彼をモデルにした「昔男」が主人公の小説が『伊勢物語』です。

教科書でもたびたび登場するので、高校生にとっては馴染みの人物かもしれません。

 

今回は『伊勢物語』の中でも「かきつばた」の歌で有名な章段を取り上げます。

伊勢物語』とは

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伊勢物語平安時代の前期に書かれたとされる歌物語です。

全部で125段の物語ですが、書き出しが「昔、男~」であることから「昔男」の物語だといわれたりもします。

大半が独立した短編物語で、物語の中に和歌が登場します。

作中で「男」と書かれる主人公の「初冠(ういこうぶり)」から「臨終」までを描いた一代記風の物語となっています。

主人公のモデルはイケメンの在原業平

物語の主人公の「男」は古くから在原業平のことだと考えられてきました。

そのため、業平をあらわす「在五が物語」「在五が中将の日記」などともよばれてきました。

在原業平平安時代初期の天皇である平城天皇の孫で『古今和歌集』の代表的歌人として知られています。

古今和歌集』にはたくさんの歌が納められていますが、その中でベスト6といってもよい歌人が「六歌仙」として知られています。

在原業平のほかには小野小町僧正遍照大友黒主文屋康秀喜撰法師がいます。

大友黒主以外は百人一首に収録されているので、知っている人が多いかもしれません。

今回の主人公在原業平は超が付くイケメンでした。

史書『日本三大実録』では、彼のことを「イケメンで気まま、漢詩文の才能はないけれど和歌が得意」などと書かれています。

和歌が恋愛の絶対条件だった平安時代ですので、業平は当代屈指のモテ男だったといえます。

皇族に生まれながら高位高官を藤原氏に独占され、宮中での出世の見込みがあまりなかった業平にとって、官僚としての出世に必要な漢詩文の勉強はあまり意味がなかったのかもしれません。

ジャンルは歌物語

伊勢物語のジャンルは歌物語といいます。

歌物語は和歌を中心に構成された短編物語で、必ず和歌が登場します。

平安時代前期の10世紀(900年代)に集中的に作られました。

伊勢物語』のほかに『大和物語』や『平中物語』などが歌物語の代表とされています。

 

東下り」の登場人物

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東下り」に登場するには「男」と「もとより友とする人」だけです。

それぞれ、みてみましょう。

伊勢物語』の定番である「昔、男ありけり」の男です。

彼は自分のことを「えうなきもの」と思って、都から東の方に移住しようとしています。

「えうなきもの」とは、必要がないものという意味で、自分には価値がないと思っていたのかもしれません。

当時、都と地方の格差は非常に大きく、都から地方に逃げるようにして去ることは「都落ち」などとよばれていました。

もとより友とする人

直訳すれば、以前から友人としている人となります。

誰を指しているのか定かではありませんが、かなり仲が良い友人だったのかもしれません。

都落ちする男と同行しても、正直な話、あまりメリットはありません。

ということは、男と本当に仲が良く、都落ちする友人を気にかけて一緒に東下りをしてくれた人ではないでしょうか。

東下り」のわかりやすい現代語訳

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東下り」をわかりやすく、ざっくり意訳してみましょう。

品詞分解を厳密に行った精密な訳ではありませんが、全体像をつかむときの参考にしてください。

物語は基本的にナレーション(地の文)をベースに語られます。

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昔、男がいました。

その男は、自分のことを「必要のない人間だ」と思って都を離れました。

男は東の方に住むのによい国を探そうと思って都を出たのです。

以前から仲良くしていた友人一人、二人と一緒に都を出ました。

 

都を出たのは良いものの、ちゃんと道を知っている人がいなかったので、迷いながら東の国に向かいます。

一行は三河国(現在の愛知県東部)の八橋(やつはし)という場所に到着しました。

八橋の名はこの地域の地形に由来します。

川の水がまるでクモの足のように八方に分かれているため、橋を八つかけたことから八橋と名付けられました。

 

一行は流れる川(沢)のほとりにある木の陰に降りて、乾飯を食べました。

その沢には「かきつばた」の花がとても美しく咲いていました。

花を見て、一行の中の誰かが「かきつばたという五文字を句の上において旅の心を詠め」と和歌のお題を出しました。

お題に沿って男が詠みました。

 

らころも

つつなれにし

ましあれば

るばるきぬる

びをしぞ思ふ

 

和歌の意味は後ほど技法と一緒に解説します。

 

男の歌を聞いた人々は、感動して乾飯の上に涙を落してしまいました。

そのせいで乾飯はふやけてしまったといいます。

男はなぜ東(東国)にいったのか

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東下り」は前振りなく始まります。

そのため、男がなぜ東国に行くのか、なぜ、自分を「えうなきもの」と思っているのかについて一切説明がありません。

ここでは「東」の範囲と従来からの最有力説である失恋説、出世が望めないが故の地方移住説などについて解説します。

東はどこ?

東(あずま)は文字通り、都から見て東方を指すザックリとした概念です。

京都から見て東海道をとおって東に行くことを「海道下り」といいますが、途中で東海道に属する三河国によっていることから、男も海道下りをしていたと推測できます。

男とその一行は武蔵国下総国の間を流れる隅田川を船で渡っていることから、少なくとも関東まで行ったことは確かなようです。

その後『伊勢物語』を読み進めると、男は東北地方である陸奥国まで行ったことがかかれています。

最有力の失恋説

古くから最有力の説と考えられているのが在原業平の失恋話として語られる二条后との恋物語です。

二条后は本名を藤原高子(こうし・たかいこ)といい、時の権力者である摂政藤原基経の妹です。

高子と業平には以下のような伝説があります。

二人は人知れず恋愛関係にあったとされ、高子を宮中に入れたい基経は業平との仲を引き裂こうとしていました。

あるとき、業平と高子は駆け落ちしましたが、基経にバレて連れ戻されたといいます。

この時のことを描いたのが『伊勢物語』第6段でした。

事実かどうかはさておき、イケメンの業平の本気の恋は伝説になってもおかしくなかったのかもしれません。

出世が望めず地方に移住

業平が生きた時代、宮中の高位高官は藤原氏に独占されつつありました。

藤原基経率いる藤原北家の力は絶対的で、左大臣・右大臣はもとより、大納言・中納言少納言などの高位高官になるには藤原氏との関係が強く影響していました。

業平は皇族の血をひいていましたが臣下に下っていたため、藤原氏より不利な立場にありました。

彼のような境遇の皇族系の貴族は多数存在しており、実際に地方に下向して国司となり、そのまま土着するものも数多くいました。

全国各地に皇族にルーツを持つ源氏や平氏が存在したのも、元皇族が地方移住したからでした。

男の動きは時代を先取りする行動だったのかもしれません。

 

「かきつばた」の訳と和歌で使われた5つの技法

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「かきつばた」の歌の訳

最初に、「かきつばた」の歌と対訳を書きます。

 

<本文>

からころも きつつなれにし

つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ

 

<訳>

何度も着て体になじんだ唐衣のように自分にとってなじみの妻が都にいるので

その妻を残したまま、はるばる来てしまった旅をしみじみと思うなぁ

 

本文にないことが随分と訳に盛り込まれています

なぜ、そこまで付け足すことができるのでしょうか。

それを理解するには、和歌の技法を知らなければなりません。

折句(おりく)

折句は和歌の最初の句の最初に物の名を一字ずつ置いて読む技法です。

これでは、よくわかりませんね。

簡単にいえば、「あいうえお作文」と同じです。

 

「か」らころも

「き」つつなれにし

「つ」ましあれば

「は」るばるきぬる

「た」びをしぞおもふ

 

句の頭だけを読むと「かきつばた」となりますよね。

枕詞(まくらことば)

枕詞はある特定の語句を引っ張ってくるために、その言葉の前に特定の言葉を置く技法のことです。

「日」の前には「あかねさす」、「大和」の前には「しきしまの」といった感じです。

「からころも」は次の「き(着)」を引っ張ってくるための枕詞です。

枕詞そのものの意味がなくてもよいのですが、「かきつばた」の歌の場合はちゃんと意味がありますので訳に反映させましょう。

序詞(じょことば)

序詞は通常7音からなり、枕詞と同じような働きをします。

「からころも きつつ」は「なれ」を引っ張ってくる役割があります。

枕詞よりは緩いルールで、作者のオリジナル序詞もあったりします。

掛詞(かけことば)

掛詞は一言でいえば同音異義語です。

「なれ」は「馴れ」と「萎れ」の同音異義語であり、「つま」は「妻」と「褄」の同音異義語、「はるばる」は「遥々」と「張る張る」の同音異義語です。

ちなみに「張る」は着物を洗濯してのりづけする作業のことです。

現代でいえばダジャレに近いですが、エレガントなダジャレかもしれません。

縁語(えんご)

縁語は近いイメージの言葉です。

言葉の連想ゲームといってもよいでしょう。

「萎れ」「褄」「張る」「着」は衣服に関する縁語であり、「からころも」と結びついています。

これを踏まえると、「かきつばた」の歌には2つの意味が込められているとわかります。

都で着る美しい衣を着て一緒に慣れ親しんだ妻を都に置き、遠くまで来てしまったなあと思う心情が一つ目です。

もう一つは、着物がよれよれになって川で選択してから着ている様子です。

この二つを重ね合わせることで、「かきつばた」の和歌の意味が浮かび上がってきます

和歌の世界は非常に奥深いです。

同じような秀逸な和歌の例として「大江山」の例外あります。

興味がある人は、そちらの記事も読んでみてください。

kiboriguma.hatenadiary.jp

まとめ

今回は『伊勢物語』の「東下り」を紹介しました。

藤原氏の力が強い都での出世をあきらめたのか、あるいは高子との失恋が原因なのか、はっきりしたことはわかりませんが、「東下り」をした男の姿は在原業平の生涯と重なります。

かきつばたの歌は和歌について学ぶ絶好の教材となりますので、しっかりと学んでいきましょう。

遼・金・元・清は征服王朝ってどういうこと?中国に侵入して王朝を建てた五胡や北魏も併せて解説!

私たちが「中国人」と呼ぶ人々はさまざまな民族によって構成されています。

中国の92%を占める漢民族以外にもモンゴル族ウイグル族など55の少数民族が存在しています。

現在の中国は主要民族である漢民族が中心となっていますが、かつては、周辺の異民族が中国を支配したことがありました。

異民族、特に北方の異民族が中国に侵入して打ち立てた王朝を「征服王朝」とよびます。

今回は征服王朝の歴史についてまとめます。

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征服王朝とは何か?

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征服王朝という言葉を初めて用いたのはアメリカ人の中国研究科ウィットフォーゲルです。

彼は北方の異民族が中国に侵入し、その一部または全土を征服したり支配したりした王朝を征服王朝と呼びました。

征服王朝は中国を支配する際、北方にある本拠地を放棄せず、中国と北方の本拠地を別々の仕組みで支配しました。

そのため、中国王朝と同化した五胡十六国時代の異民族(五胡)や北魏以降の北朝の諸王朝、隋・唐は征服王朝に含めないのが一般的です。

中国の北半分を征服した「五胡」

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三国を統一した晋が290年に起きた八王の乱で衰退すると、それに乗じて中国北方の異民族が豊かな中国に侵入し、独自の王朝を打ち立てました。

その後、五胡をほぼ統一した北魏北魏の流れをくむ隋・唐が中国を支配します。

しかし、これらの王朝は次第に漢民族化(漢化)して独自性を失いました。

「五胡」とは何か

「胡」とは中国から見た異民族のことです。

五胡とは5つの異民族をさす言葉で、匈奴鮮卑・羯(けつ)・氐(てい)・羌(きょう)の5民族を意味します。

五胡が中国北部に侵入できたのは中国王朝が弱体化していたからでした。

三国時代の後半、三国の一つである魏は蜀を滅ぼしたが、重臣司馬炎に皇帝の座を奪われて滅亡しました。

新たに晋(西晋)を建てた司馬炎は三国最後の国である呉を滅ぼし、60年ぶりに中国を統一しました。

しかし、司馬炎の死後に晋の政治が乱れ、王族同士が争う八王の乱が発生します。

このとき、内戦に勝利しようとした王族たちは強い軍事力を持つ五胡を中国に引き入れてしまいます。

やがて、五胡は西晋を滅ぼし、中国北部(華北)の各地に独自政権を建てました。

また、滅ぼされた西晋の王族の一人が南方に逃れ、東晋を樹立したため、中国は長期間の分裂時代に突入します。

304年に匈奴劉淵が王朝を建ててから439年に北魏武帝華北を統一するまでの時代を五胡十六国時代といいます。

中国に吸収された北魏

439年、五胡の一つである鮮卑族の拓跋氏が建てた北魏が中国を統一しました。

以後は、華北北魏にはじまる北朝が、華南は東晋・宋・斉・梁・陳という漢民族系の南朝が支配する南北朝時代とよばれます。

北魏の6代皇帝である孝文帝は都を北方の平城から黄河流域の洛陽に遷都します。

そして、服装や食事、言語などを中国風に変更する漢化政策を実施します。

孝文帝の政策により北魏の支配者層の漢化が進みましたが、それに反発する北方民族は孝文帝の死後に大反乱を起こしました。

この反乱がきっかけとなり北魏は分裂します。

北魏時代に作られた大石窟寺院に雲崗・竜門があります。

世界史の資料集に登場するのでよく目にするかもしれません。

北朝の系譜に連なる隋・唐

北魏東魏西魏に分裂し、東魏北斉に、西魏北周にとってかわられます。

581年、北周の実力者だった楊堅は579年にライバルの北斉を滅ぼし、580年に皇帝として即位します。

この時楊堅が建てた王朝をといいます。

日本が遣隋使を送ったあの隋です。

楊堅自身のルーツは鮮卑族ですが、漢化政策の影響を受けた人物です。

隋は孝文帝時代に始まった鮮卑族漢人の融合国家といえるでしょう。

589年、隋は華南にあった陳を滅亡させ370年ぶりに中国を統一します。

しかし、隋王朝は短命でした。

楊堅の跡を継いだ2代皇帝の煬帝が大運河の建設や度重なる高句麗遠征によって国力を疲弊させ、大規模な住民反乱を招いたからです。

結局、隋は大農民反乱に飲み込まれて618年に滅亡しました。

そののちに成立した唐の始祖李淵楊堅と同じく漢化された鮮卑人をルーツに持つ人物でした。

隋も隋の諸制度の多くを引き継いだ唐も、中国の王朝として君臨するため征服王朝とは考えられていません。

4つの征服王朝とその特徴

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ここまでは、征服王朝の成立以前についてまとめました。

ここからは、ウィットフォーゲルが征服王朝に分類した4つの王朝について整理します。

遼(契丹

遼はモンゴル系の契丹が建国した王朝です。

建国者の耶律阿保機契丹内部の反乱を鎮めることで勢力を拡大。

周辺諸地域を征服して領土を拡大しました。

2代皇帝耶律徳光の時代、中国は唐の滅亡により混乱状態にありました。

唐の滅亡後、華北後梁後唐後晋後漢・後周の5つの王朝が順番に支配したため、のちに五代十国時代と呼ばれます。

五代の一国である後晋契丹の支援を受けるため、領土の一部である燕雲十六州契丹に割譲します。

契丹遊牧民と新たに加わった漢民族の支配を別々に行いました

このような支配体制を二重統治体制といいます。

また、遼は漢字と異なる契丹文字を使用していたのも注目です。

北魏や隋・唐とことなり、遼は自民族の文字を使用しているという点でも漢化され切っていないといえるでしょう。

時は流れて10世紀後半から11世紀初めにかけて、中国全土を統一した宋は燕雲十六州の奪還を掲げたびたび契丹と戦いました。

しかし、軍事面で劣る宋は契丹に勝利できず、契丹の燕雲十六州支配を認めざるを得なくなります。

この時に結ばれたのが「澶淵(せんえん)の盟」です。

宋は領土を奪われただけではなく、毎年、莫大な量の銀と絹を契丹に送ることを約束させられました。

燕雲十六州を巡る北方民族と中後の激しいせめぎあいを描いた小説『楊家将』は中国で人気の小説です。

金(女真

金はツングース系の女真族が建国した国で、初代皇帝は完顔阿骨打です。

金は宋と共同で遼を攻撃し滅亡させました。

しかし、宋は金との約束を果たさなかったため、金が宋の都である開封を占領。

皇帝の欽宗上皇徽宗を北方に連れ去りました(靖康の変)。

明の永楽帝が起こしたクーデタの靖難の変と間違いやすいので注意しましょう。

くわしくは、こちらの記事を見てください。

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靖康の変に勝利した金は黄河より北側の広大な地域を支配します。

金は遼の二重統治体制を引き継ぎます

すなわち、女真人や契丹人などの遊牧民の部族は猛安・謀克とよばれる単位で支配し、漢民族渤海人は州県制で統治しました。

また、金も女真文字を使用し漢字と一線を画していることにも注目すべきです。

元(モンゴル)

元はモンゴル人を支配階級とする王朝です。

2代皇帝オゴタイの時代に華北の金を滅ぼし、5代皇帝フビライの時代に南宋を滅亡させました。

中国全土を支配したフビライは国の名を元と改め、現在の北京にあたる大都を建設し、全土を支配します。

人口のわずか1.5%のモンゴル人が圧倒的多数の漢民族を支配する体制です。

これまでの王朝と比べ中国文化を重視せず、チベット仏教への信仰やパスパ文字の使用といったモンゴル色の強い支配を行いました。

前王朝の宋では儒学的教養を積んだ士大夫とよばれる階級が科挙に合格して完了となっていましたが、元の時代には科挙が停止されるなど不遇の時代を迎えます。

かわって重要な地位(特に財務関係)に就いたのは色目人とよばれる漢民族以外の西方の民族です。

科挙が復活したのは元の末期でした。

元を滅ぼした明の初代皇帝朱元璋について知りたい人はこちらの記事をご覧ください。

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清(女真

清は金と同じく女真族が建国した国で、当初は後金と称していました。

建国者はヌルハチで、2代ホンタイジの時代に万里の長城以北を制圧します。

3代皇帝の順治帝の時代、明で起きた李自成の乱の混乱に乗じて万里の長城を突破し北京を制圧しました。

清は明の支配体制を継承しつつ、バランスの良い統治体制を目指します。

満漢併用制(満漢偶数官制)を採用し、漢民族の懐柔を図る一方、八旗とよばれる正規軍の力や反清活動の弾圧(文字の獄など)により支配体制の維持を図ります。

また、北方民族の風習だった辮髪(べんぱつ)漢民族に強制し、拒むものは殺害しました。

漢字とともに満州文字を使っていたことも清の特徴として挙げられます。

支配階級である満州人と圧倒的多数派の漢民族のバランスをとることで清は長期にわたって中国を支配することに成功したのです。

まとめ

今回は中国の一部、あるいは全土を支配した征服王朝についてまとめました。

以前に比べ、これらをまとめて出題することは少なくなりましたが、遼と金、元と清はよく比較されます。

それぞれの特徴を頭に入れ、正誤問題で間違わないようにしましょう。

 

問屋、問丸、馬借、問屋場、いったい何が違う?わかりやすく解説!

日本史の問題で困るのは、似たような用語の区別です。

鎌倉時代から江戸時代にかけての運送業者としてよく登場する問(問丸)や馬借、問屋の違い、江戸時代に登場する問屋場と問屋の違い、廻船問屋に関する用語は混ざりやすく、間違う生徒が多かったと記憶しています。

今回は出題ポイントや問(問丸)・馬借・問屋の違い、問屋と問屋場の違い、廻船問屋や江戸時代の海運にまつわる用語についてまとめます。

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出題されるポイント

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大学共通テストにおいて、似た意味の言葉の区別は頻出事項です。

二文正誤であれ、四択問題であれ、出題ポイントは似通っています。

これから3つの出題ポイントをまとめます。

時代を問われる

1つ目の出題ポイントは時代です。

問丸・馬借という言葉は鎌倉時代室町時代の用語です。

一方、問屋は室町時代から江戸時代にかけて、問屋場・廻船問屋・東廻り航路・西廻り航路といった用語は江戸時代にもちいられました。

まぎらわしい用語が出てきたら、必ず、どの時代の言葉かチェックしておきましょう。

内容を問われる

2つ目の出題ポイントは内容です。

問丸は、河口や港湾などで総合的な運送業務を担っていたのに対し、馬借・車借は基本的に陸上輸送を担当します。

「馬借は河口や港湾で総合的運送業務を担った」とあれば誤文になるので注意しましょう。

後ほど詳しく述べますが、問丸と問屋、問屋場は見た目が似ているためしばしば正誤問題の材料で使われます。

一つひとつの内容をしっかり理解して問題を解きましょう。

問(問丸)・馬借・問屋の区別

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問(問丸)とは

活躍したのは平安時代末期から中世(鎌倉時代室町時代にかけて。

港や都市など交通の重要拠点に居住

物資の運送・保管・販売を担当しました。

平安時代末期に淀川流域で生まれたとされ、鎌倉時代には荘園領主と結びつき年貢米の輸送などにかかわります。

鎌倉時代末期には運ぶだけではなく物資の販売もするようになりました。

商品流通が盛んになると事業を拡大し、年貢以外も扱う総合運送業に成長します。

中世後期(室町時代)には塩・魚・紙・材木など商品ごとに専門化し、流通や販売を独占するようになります。

問(問丸)の一部は問屋に発展しました。

馬借とは

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出典:東京国立博物館

活躍したのは中世から近世(江戸時代)

水陸交通の接点や街道沿いの地を拠点としました。

馬の背に荷物を載せて運搬した運送業で、船で運ばれてきた物資を京都・奈良などの消費地に運びました。

室町時代には寺社の下で座(同業者組合)のような組織を作り、交通路の利権を独占するものもあらわれます。

交通網を掌握していたため情報を得やすく、しばしば、土一揆の先鋒として活動しました。

土一揆について知りたい人は、こちらの記事を見てください。

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車借とは

活躍したのは中世から近世

交通の要衝を拠点としましたが、活動は道路が整備されていた畿内や鎌倉の周辺に限られました。

荷車を使った運送業者で、荷物を運ぶだけではなく商業活動も行いました。

問屋とは(といや・とんや)

活躍したのは江戸時代

倉庫業と兼務することが多く、生産者や荷主と仲買・小売商人の売買を仲介する商人のこと。

江戸時代の問屋は3種類に分けられます。

荷受問屋

自己資金で取引せず、荷主から預かった商品を保管・販売し、手数料を受け取る

江戸十組問屋大坂二十四組問屋も荷受問屋に含まれます。

仕入問屋

自己資金で商品を購入し、仲買や小売商人に卸売りをする。

廻船問屋

海上輸送を請け負う問屋のこと。

 

問屋と問屋場は何が違う?

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問屋は商品の流通や売買にかかわる組織で、商人と考えるとよいでしょう。

一方の問屋場は江戸時代に伝馬継立を行う施設のことです。

※伝馬は街道の各宿で常備された公用馬のこと。必要な人員や経費は宿が負担しました。

名前は似ていても両者は別物ですので注意しましょう。

廻船問屋(かいせんどいや)とは?

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廻船問屋は船問屋とも言います。

船主のために積み荷を集めたり、船主と契約を結んで自ら積み荷を運んだりしました。

大都市や拠点となる重要な港に成立し、海上交通の重要な担い手として活躍しました。

廻船問屋が活躍した江戸時代の海の道

廻船問屋は江戸時代の海の主役といってもよい存在です。

彼らが行き来した航路は江戸時代の経済を支える大動脈として機能しました。

ここからは江戸時代の海の道を4つ紹介します。

東廻り航路

1つ目は東廻り航路です。

開拓したのは江戸時代前期の豪商河村瑞賢です。

日本海側の出羽国酒田(山形県酒田市)から津軽海峡三陸沖・房総半島沖を経て江戸湾に達するルートです。

このルートの開拓により、東北地方の米(奥州米)が消費地である江戸にもたらされました。

西廻り航路

2つ目は西廻り航路です。

東廻航路と同じく河村瑞賢が開拓した航路です。

酒田を起点とし、北陸沖・山陰沖から下関を経て、瀬戸内海・大阪湾へと向かうルートです。

古代から発達していた琵琶湖を利用したルートにかわり、蝦夷地や北陸地方京阪神地方をつなぐ輸送ルートが生まれます。

南海路:菱垣廻船・樽廻船

3つ目は南海路です。

南海路は大阪と江戸を結ぶ定期航路で、菱垣廻船樽廻船が就航していました。

当時、畿内は手工業などの産業が発達していたため商品の生産が盛んでした。

その一方、江戸は幕府が開かれ、参勤交代などで武士人口が増大したことから一大消費地として成長していました。

大阪方面(上方)からの物資は下りものと呼ばれ江戸で盛んに消費されます。

菱垣廻船
物流博物館

江戸時代初期に南海路で活躍したのが菱垣廻船でした。

江戸十組問屋と手を結んで大量の物資を大阪から江戸に運びこみました。

しかし、のちには樽廻船に押されるようになりました。

樽廻船の主な積み荷は酒や雑貨ですが、船足の速さで菱垣廻船より有利に立ちます

北前船

江戸時代後期から明治時代前期に活動した買積廻船集団のこと。

蝦夷松前に進出した近江商人にやとわれ、越前敦賀松前を往復したのが始まりです。

近江商人の商売哲学について知りたい人は、こちらの記事もどうぞ。

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江戸時代中期の宝暦・天明期に独立した商人が現れ、松前日本海各地・瀬戸内海・上方の市場をつなげ、価格差で利益を上げました。

松前藩について知りたい人は、こちらの記事もどうぞ

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高田屋嘉兵衛
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北前船で富を築いたのが高田屋嘉兵衛です。

高田屋嘉兵衛は淡路島出身の商人で、蝦夷地・箱館に進出しました。

国後島択捉島の航路を開拓し、漁場の運営や廻船業で巨利を得ました。

そして、その財産を箱館の街に投資し、箱館発展の礎を築いたと評価されます。

高田屋嘉兵衛が深くかかわったのが北前船でした。

嘉兵衛は兵庫で仕入れた酒や塩、木綿といった物資を山形県の酒田に運び、酒田の米を箱館で販売することで利益を上げます。

帰路は箱館で魚や昆布、魚肥を仕入れて上方(京大坂方面)で販売しました。

彼の活躍を描いた司馬遼太郎の小説が『菜の花の沖』です。

当時の北前船の様子や彼がロシアに抑留されているときの様子などがよくわかる小説です。

現在まで続く北方領土問題やロシアとの付き合い方についてもうかがい知ることができる良書ではないでしょうか。

まとめ

今回は問丸、問屋、馬借、問屋場など経済史で登場するまぎらわしい言葉を中心に整理しました。

日本史は暗記が中心ですが、単純暗記だけだと似た意味の言葉が出てきたら迷ってしまうかもしれません。

テストや受験の前に、似た言葉を整理することで得点を一気に上げることができるので、しっかり復習しておくことを勧めます。

 

「水魚の交わりってどんな意味の言葉?」「水魚の交わりの口語訳は?」「水魚の交わりに出てくる人物が知りたい」わかりやすくまとめます。

水魚の交わり」は故事成語の一つで、親しく信頼しあう人間関係を示しています。

『蜀志』「諸葛亮伝」や『十八史略』に書かれたエピソードに由来します。

今回は「水魚の交わり」の意味や登場人物、「水魚の交わり」に至るまでのあらすじ、「水魚の交わり」のストーリー、使い方についてまとめます。

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水魚の交わり」の意味

水魚の交わりは以下のような意味の言葉です。

水と魚のような関係。非常に親密な関係のたとえ。

出典:コトバンク

人間関係の近しさを水と魚にたとえ、どちらにとっても必要不可欠であることをあらわしています。

水魚の交わり」の登場人物

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水魚の交わり三国志のエピソードの一つで、三国志好きであれば一度は目にしたことがある有名人が数多く登場します。

登場する人物について簡単にまとめます。

劉備(りゅうび)

劉備
出典:Wikipedia



劉備の姓は劉、名は備、字は玄徳。

※字(あざな)とは成人した時に本人がつけた呼び名のこと。通常は姓+名、姓+字で名乗ります。したがって、劉備であれば劉備または劉玄徳となのります。

現在の北京周辺にあたる涿郡琢県(河北省)の出身です。

漢王朝の王室の血を引くと称する人物で、関羽張飛と義兄弟の契りを結んだことでも知られます。

三国志演義』の主人公で、義を重んじる人物として描かれます。

中国最大の領土を支配した曹操と対立し、都を追われ荊州に亡命します。

水魚の交わり」のころは荊州(現在の湖北省)の支配者である劉表の客将で独自の領土を持っていませんでした。

諸葛亮(しょかつりょう)

諸葛亮
出典:Wikipedia

諸葛亮の姓は諸葛、名は亮、字は孔明

父早くに亡くし、弟ともに叔父の諸葛玄に養われ、幼いころ、徐州(現在の江蘇省北西部)から荊州に移住します。

荊州では晴耕雨読の生活を送り、自らの才能を古の名宰相管仲や名将楽毅に並ぶものだと思っていましたが、それを認める者は多くありませんでした。

しかし、彼のことを認める徐庶や黄承彦のような人物もいたため、いまだ世に出ていない大人物という意味で「伏龍」ともいわれていました。

劉備は3度にわたって諸葛亮のもとを訪れ、彼を口説き落として軍師としました。

この劉備のふるまいから、礼を尽くして才能がある人物を招くことを「三顧の礼」というようにまります。

司馬徽(しばき)

司馬徽の姓は司馬、名は徽、字は徳操。

荊州に住んでいた人物鑑定家で水鏡先生と呼ばれていました。

劉備に伏龍が諸葛亮鳳雛龐統であると告げた人物。

龐統ほうとう

龐統の姓は龐、名は統、字は士元。

口下手で身なりが粗末であったことから良い評判がありませんでした。

しかし、司馬徽が才能を高く評価したことで世間に知られるようになります。

後に劉備に仕え、劉備の蜀遠征軍の参謀として活躍しますが、落鳳坡の戦いで命を落としました。

徐庶(じょしょ)

徐庶の姓は徐、名は庶、字は元直。

司馬徽の門下生の一人で、諸葛亮とも親交があった人物です。

荊州にやってきた劉備徐庶を高く評価していました。

徐庶から諸葛亮の話を聞いた劉備は、諸葛亮を呼んでくるよう徐庶に頼みますが、徐庶は「こちらから行けば会えますが、無理に連れて来る事はできません」と断ります。

それを聞いた劉備は、自ら諸葛亮のもとに足を運びます。

曹操(そうそう)

曹操の姓は曹、名は操、字は孟徳。

黄巾の乱で勃興した軍閥の一人で華北を中心に勢力を拡大していた人物で、劉備にとって最大の敵です。

200年に起きた官渡の戦いで最大のライバルだった袁紹を倒し、中国最大の勢力とを築き上げました。

荊州の支配者だった劉表が死去すると、後継者をめぐる混乱に乗じて荊州を占領。

その勢いに乗じて長江下流孫権と戦いますが赤壁で大敗しました。

孫権(そんけん)

孫権の姓は孫、名は権、字は仲謀。

長江下流域の江東の支配者です。

兄の孫策が築いた地盤を支配し、独自勢力を打ち立てていました。

後に諸葛亮の説得に応じて劉備と同盟を結び、赤壁の戦い曹操に勝利します。

赤壁の戦い後、荊州劉備に奪われますが劉備の義弟関羽を倒して荊州を占領。

劉備の怒りを買ってその侵攻を招きました。

激しい戦いの末、夷陵の戦い劉備軍に勝利し、荊州支配を確たるものにしました。

水魚の交わり」までのあらすじ

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200年、劉備は董承を首謀者とする曹操暗殺計画に加わりましたが事前に露見したため、曹操との関係が急速に悪化しました。

そして、翌201年に曹操との争に破れ荊州を支配していた同族の劉表のもとに逃れます。

劉表劉備を客将として迎えましたが、独自の領土を持つことはできず、劉表は以下の一部将として時を過ごします。

参謀役を欲していた劉備荊州で人材を探していました。

水魚の交わり」のストーリー

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水魚の交わりの本文は以下の3つに分けられます。

この3つに分けて口語訳します。

伏龍・鳳雛のうわさ

琅邪(ろうや)からやってきた諸葛亮は、襄陽(荊州の中心都市)の近くで仮住まいしていた。

いつも、自分を春秋戦国時代の名宰相の菅仲や名将楽毅と比べていた。

劉備司馬徽に優秀な人物はいないかと尋ねると、司馬徽

時局を知るには優秀な人物であるべきだ。そうなると、自然と伏龍・鳳雛という2人の人物が思い浮かぶ。(伏龍は)諸葛孔明、(鳳雛は)龐士元です。

徐庶もまた、劉備に「諸葛孔明臥竜である」と述べました。

臥竜:伏龍と同じく、世に知られていない優秀な人物のこと

諸葛亮の進言

劉備は3度訪問して諸葛亮に会えた。

そして、劉備諸葛亮に(これからどうすればよいかという)策を訪ねると、諸葛亮は次のように言いました。

曹操は100万の軍を率い、皇帝(天子)奉じて諸侯に命令しています。

※天子は皇帝のことで、ここでは後漢最後の皇帝である献帝のこと

※諸侯は有力貴族のことで、ここでは有力者ぐらいにいみになる

この勢いがある曹操とまともに戦ってはなりません。

孫権は江東(長江下流域)を支配し、国は守りやすく、人民の支持も得ています。(この孫権と手を組み)ともに助け合うのは良いのですが、争ってはなりません。

荊州は軍を動かしやすい場所です。(その西にある)益州は険しい地形に守られ、肥沃な大地が広がる天から与えられた土地です。

益州四川盆地を中心とした地域で、のちに劉備が蜀を建国する

もし、(あなた:劉備)が荊州益州を領有し、その要害の地を保てれば、天下に大きな動きがあった時、荊州の兵は重要拠点の宛や(都のある)洛陽を攻め、益州の兵は秦川を攻めることができます。

※秦川:かつて秦が支配していた陝西省周辺、現在の西安市付近

(そうなれば)天下の人民はこぞって将軍のために食物を捧げ、迎えてくれるに違いありません。」

劉備は「善しといいました。

結び

これ以後、(配下に加わった)諸葛亮劉備の親交はどんどん深まりました。

そして劉備は「私にとって孔明がいるのは、魚が水を得たようなものだ」といいました。

水魚の交わり」が書かれた本

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水魚の交わりについて書かれた本が2冊ありますので紹介します。

『蜀志』

1つ目は『蜀志』です。

『蜀志』は晋の歴史家陳寿が書いた歴史書です。

小説である『三国志演義』と区別するため『正史 三国志』とよばれることもあります。

魏志』『呉志』『蜀志』と3国を別々に扱っているのが特徴です。

 

十八史略

十八史略』は宋末から元の初期に南宋の曾先之(そうせんし)によって書かれた本です。

史料的価値は低いものの、中国史の大まかな流れを知るのにふさわしい入門書として親しまれてきました。

日本語訳で一番のおすすめは陳舜臣十八史略です。

ある程度、受験対策にもなるので気が向いたら読んでみてはいかがでしょうか。

故事成語水魚の交わり」の使い方・例文・類語

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劉備諸葛亮の交流は故事成語水魚の交わり」として知られています。

故事成語としての使い方や例文、類語についてまとめます。

使い方

並々ならぬ親しさを表現する際に使います。

友人関係や夫婦関係でも使用されます。

例文

高校時代から苦楽を共にした彼との関係は水魚の交わりといってもよいものだ。

類語

刎頸(ふんけい)の交わり

刎頸の交わりも互いの親密な関係をあらわす故事成語です。

相手のために首を切られても悔いはないという意味で、いわば運命共同体として相手をみなしています。

あたかも、メロスとセリヌンティウスの間柄のようですね。

まとめ

今回は「水魚の交わり」についてまとめました。

諸葛亮を得た劉備は喜びのあまり、いつも諸葛亮と話をして義兄弟の関羽張飛がドン引きしてしまいます。

ただ、諸葛亮の才能は本物で、劉備に仕えてから蜀の建国を助け、劉備の死後は子の劉禅に忠節を尽くします。

劉備がはるかに年下の諸葛亮を軽んじず、三顧の礼で迎えたことに対し、諸葛亮は自分の全身全霊をもって答えました。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

『今昔物語』に登場する源博雅ってどんな人?「玄象の琵琶」のエピソードと登場人物・あらすじを紹介します!

『今昔物語』は平安時代末期に成立したとみられる説話集で、全31巻・1040話が納められた大著です。

しかし、だれが書いたかわからないなど謎が多い書物でもあります。

今回は『今昔物語』の話の一つで、笛の名手である源博雅が登場する「玄象琵琶為鬼被取語(玄象の琵琶、鬼の為に取らるる語」をとりあげます。

◆この記事でわかること◆
・『今昔物語』とは何か
・「玄象の琵琶」の登場人物やあらすじ
定期テストで出題されるポイント
月岡芳年が描いた「朱雀門の月 博雅の三位」について
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『今昔物語』とは

和綴じの本
写真AC

『今昔物語』は12世紀前半頃に編集されたとされる説話文学です。

全31巻、1040話という大作です。

ちなみに、日本で最も古い説話文学集は平安時代前期に編集された『日本霊異記』です。

日本霊異記』に収録された物語について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ!

kiboriguma.hatenadiary.jp

天竺(インド)・震旦(中国)・本朝(日本)の三部構成で、ほとんどの話が「今は昔」から始まることから『今昔物語』と名付けられました。

『今昔物語』は『宇治拾遺物語』や『古本説話集』・『宇治大納言物語』とかぶる話を収録していて、相互に似通っています。

芥川龍之介

芥川龍之介 - Wikipedia

作家の芥川龍之介は『今昔物語について』の中で、”「今昔物語」の芸術的生命は生々しさだけに終わっていない。brutality(野生)の美しさ”を激賞しています。

近現代に生きた芥川龍之介も『今昔物語』に強い影響を受けていたのでしょう。

芥川は『今昔物語』から『羅生門』と『鼻』を取り上げてよみがえらせていますが、そのストーリーは現代の目から見ても古臭さを感じません。

ちなみに、芥川は『宇治拾遺物語』の「絵仏師良秀」をもとにした『地獄変』という作品も書いています。

「絵仏師良秀」に興味がある方は、こちらの記事もどうぞ!

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「玄象の琵琶」とは

琵琶のイラスト
写真AC

「玄象の琵琶」は村上天皇遺愛の琵琶です。

唐から伝わったとされる名器で剣璽とともに歴代天皇に受け継がれる「累代御物」の一つです。

唐にわたった藤原貞敏が琵琶の名手である廉承武から譲り受けた琵琶の一つで、黒い象が描かれた居たため玄象と名付けられたとも言いますが、定かではありません。

玄象は楽器を弾くに値しない人物が奏でても鳴らないことや火災のときにひとりでに内裏から避難したことなどから、「心」をもった琵琶として伝えられてきました。

玄象に関する伝承について知りたい方は、成城大学のこちらのサイトをご覧ください。

admission.seijo.ac.jp

玄象についてのそのほかのエピソードも書いているのでお勧めです。

 

「玄象の琵琶」の登場人物

「玄象の琵琶」に登場するには源博雅村上天皇・鬼(鬼神)の3人です。あらすじに入る前に彼らのキャラクターを整理しましょう。

源博雅

源博雅

源博雅 - Wikipedia

源博雅みなもとのひろまさ)は、平安時代中期の公卿で醍醐天皇の孫にあたります。

はじめは皇族で博雅王と名乗っていましたが、源姓を与えられ臣下の籍に下ります。(臣籍降下

最終的に従三位まで登ったことから、博雅の三位ともよばれました。

博雅のように源姓を与えられて臣下となった血筋を「賜姓源氏」といいます。

雅楽に優れ、筝(そう)・琵琶・篳篥(ひちりき)・笛の名手として名をはせました

蝉丸法師のもとに通い詰めて琵琶の名曲「啄木」と「流泉」を伝授されたことでも知られています。

村上天皇が主催した天徳内裏歌合では読み方として参加するなど、村上天皇時代の宮廷行事に欠かすことができない人物でした。

天徳内裏歌合について知りたい方は、こちらの記事もどうぞ!

kiboriguma.hatenadiary.jp

村上天皇

村上天皇

村上天皇 - Wikipedia

第62代天皇(在位946年~967年)。

醍醐天皇の第14皇子で、先代の朱雀天皇の弟として生まれました。

949年に朱雀天皇時代から関白を務めた藤原忠平が死去すると、以後は摂政・関白を置かず、親政の形をとりました。

そのため、村上天皇の治世は醍醐天皇の「延喜の治」になぞらえて「天暦の治」と称されます

村上天皇の力が発揮されたのは芸術の分野でした。

勅撰和歌集の『後撰和歌集』の編纂を命じたり、天徳内裏歌合を主催したことから、和歌の振興に力を尽くしたと評されます。

雅楽にも精通しており、自ら琵琶や琴などの楽器を演奏しました。

玄象は村上天皇が愛用した琵琶であり、彼の芸術面での才能を後世に示す逸品ともなってきました

鬼(鬼神)

玄象の琵琶を宮中から持ち出した犯人。

鬼は琵琶を持ち出した後、朱雀大路を南に下った先にある羅城門の上で琵琶を奏でていました。

作中に鬼のセリフはありませんが、鬼が琵琶の演奏をしていることからも、博雅と同じく芸術センスのある鬼だったことが想像できます。

「玄象の琵琶」のあらすじ

昔々、村上天皇の時代に「玄象」という琵琶が突然なくなってしまった。

この琵琶は天皇家に伝わる大切な品物だったことから、村上天皇はとてもお嘆きになりました。

「このような大切な宝物を、自分の時代に無くしてしまうとは」

天皇がこのように悲しまれたのはもっともなことでした。

玄象の琵琶は盗んだからといって、ずっと保管できるような品物ではないことから、村上天皇に恨みを持つ人物が持ち去って、壊してしまったのではないかと思われていました。

しばらくして、夜に玄象の音が聞こえてきました。

この音を聞いたのが源博雅です。

博雅は管弦の道を究めた人物であり、玄象がなくなったことを人一倍嘆いていました。

その博雅が、ある夜に宮中の清涼殿で宿直の任務についていると、静かな夜のはずなのに、なくなったはずの玄象の音が聞こえてきます。

彼は宿直の姿格好で靴だけを履き、小舎人童を一人連れただけで音のする南の方角に向けて歩き出しました

宮殿の南門である朱雀門を出ても、音は南から聞こえてきます。

朱雀大路を南に下りながら、博雅は「これは、玄象を盗み出したものが楼観でひそかに弾いているのでは」と思いましたが、楼観についても、音は南から聞こえてきます。

音をたどって朱雀大路を南に歩いていた博雅は、ついに都の南門である羅城門にたどり着きました。

羅城門の下にたどり着くと、門の上から玄象の音が聞こえます。

博雅は驚きあきれながら「これは、人ではなく鬼が弾いているに違いない」と思いました。

玄象の琵琶の音はいったん止まって、また、続いている。

源博雅「これ(玄象)は誰がお弾きになっているのか。玄象の琵琶は数日来、行方が分からなくなり、天皇村上天皇)がお探しになっていたものです。」

「今宵、清涼殿で玄象の琵琶の音が南の方から聞こえたので、ここ(羅城門)にやってきました。」

博雅がこういうと、琵琶の演奏が止み、門の上から降りてくるものが見えました。

博雅は恐ろしく思って立ち退き、降りてくるものを見ると、それは縄で下におろされている玄象の琵琶でした。

博雅が恐れつつ、玄象の琵琶を手に取って宮中に引き返すと、村上天皇に報告して玄象の琵琶を返却しました。

村上天皇はとても感心して、「やっぱり鬼が持って行ったのか」とおっしゃった。

人(周りの貴族たち)は、博雅の行為をほめたたえました。

玄象の琵琶は、天皇家の宝物として今も存在している。

この琵琶はまるで生き物のようで、引手が下手だったり、手入れをしていなかったりすると腹を立てて鳴らないのです。

その機嫌の良し悪しがはっきりとわかるということだ。

内裏が火災に遭ったとき、だれも持ち出さないのに玄象の琵琶が自分で庭に出ていたという。

これはとても奇異なことだと伝えられています。

 

テストで出題されるポイント

「玄象の琵琶」で出題されるのはどのような部分でしょうか。

出題ポイントを3点まとめます。

「定めて鬼などの弾くこそあらめ」と思った理由

こんな夜中に、遠く離れた宮中まで玄象の音を響かせられるのは鬼以外にあり得ないと博雅が思ったから「定めて鬼などの弾くこそあらめ」と予想したのです。

このころ、羅城門は荒れ果てていました。

そのため、羅城門には人ならぬ鬼が住んでいると噂されていました。

ちなみに、芥川龍之介の「羅生門」のモデルになった門は羅城門であり、話の内容は『今昔物語』の内容をもとにしています。

「人皆博雅をなむ讃めける」の意味と理由

玄象の琵琶の音に気付いたのは博雅が一流の楽人で、玄象の音を聞き分けられたからです。

しかも、音をたどって羅城門まで行き、鬼から玄象の琵琶を返してもらうというのは常人には難しいことと考えられました。

それゆえ、博雅の才能と勇気を人々が褒めたと考えられます。

月岡芳年作「朱雀門の月 博雅三位」

朱雀門の月 博雅の三位」

源博雅 - Wikipedia

月岡芳年は幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師です。

手前の貴族が源博雅、奥にいる人物は朱雀門にいたという鬼です。

博雅は相手が鬼と知らず、相手と向かい合って笛を吹きます。

そして、互いに笛を交換してなおも吹き続けました。

その様子を描いたのが「朱雀門の月 博雅の三位」です。

この絵画についてのエピソードは太田記念美術館の公式才知に詳しいので、そちらの記事もぜひご覧になってください。

otakinen-museum.note.jp

まとめ

今回は『今昔物語』の「玄象の琵琶」をとりあげました。

非常に不思議なエピソードであり、当時の人が抱いていた「鬼」についても知ることができる面白い作品です。

源博雅夢枕獏の『陰陽師』シリーズで主人公安倍晴明の相棒として登場し、映画でも活躍します。

高校で習って終わりにするのはちょっともったいない気がしますので、高校卒業後に『今昔物語』で関連作品を読んでみてはいかがでしょうか。

 

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