「ボーロ」「天ぷら」「カッパ」「オルガン」「ビードロ」
これらはポルトガル語が語源となって現代に伝わった言葉です。
遠く離れたポルトガルの言葉が日本に伝わったのは、「南蛮貿易」で日本とポルトガル・スペインがつながっていたからです。
戦国時代、日本の戦国大名たちは銀などの貴金属と引き換えに火薬の原料である硝石や高級絹織物の原料である生糸をポルトガル人・スペイン人といった南蛮人から購入していました。
今回は南蛮貿易の大まかな内容や輸出入品、石見銀山の銀産出拡大に貢献した「灰吹法」、江戸時代初期の朱印船貿易との違いなどについて解説します。
ぜひ、参考にしてください。
南蛮貿易はどんな貿易?
南蛮貿易とは、南蛮人と呼ばれたヨーロッパ人と日本の戦国大名や豪商が行った貿易のことです。
南蛮貿易の大まかな内容や重要ポイントについてまとめます。
南蛮貿易とは何か
南蛮貿易とは、16世紀後半から17世紀初頭にかけて、日本とポルトガル・スペインなどのヨーロッパ諸国との間で行われた貿易のことです。
この貿易によって、ヨーロッパの文化や技術が日本に伝えられ、また、日本の銀が世界各地に流通することになりました。
南蛮貿易の輸出入品
南蛮貿易の輸出入品は以下のとおりです。
輸出品 | 金、銀、銅、硫黄 |
---|---|
輸入品 | 生糸、鉄砲、硝石、鉛 |
硝石は火薬の原料となるもので、鉛は鉄砲の弾丸となるものです。
したがって、戦国大名たちは鉱産資源を輸出して武器の原料を輸入していたことがわかります。
輸入品のうち鉄砲は後に国産化されましたが硝石や鉛は輸入に頼るしかありませんでした。
この当時、中国産生糸は白糸と呼ばれて珍重されました。
江戸時代に入ると白糸貿易は江戸幕府の管理下に置かれ、幕府が認めた特定の商人(糸割符仲間)だけが取引できる「糸割符制度」に移行します。
糸割符仲間は京都・堺・長崎・江戸・大坂の五カ所商人で構成されました。
大学入学共通テストの日本史では、南蛮貿易や朱印船貿易の内容と区別させる出題がありますので、受験生は気を付けましょう。
絹織物の原料である生糸や絹織物が国産化されたのは江戸時代の中期以降で、明治時代には日本を代表する輸出産業に成長します。
銀はなぜ必要とされたのか?
南蛮貿易で重要な輸出品となったのが銀ですが、なぜ、銀は重要な輸出品となったのでしょうか。
西洋人(南蛮人)や中国人(明王朝)が銀を欲しがった理由を見てみましょう。
なぜ、南蛮人は銀を欲しがったのか
日本からの輸出品で重要な位置を占めていたのが「銀」です。
輸入品である生糸や硝石、鉛の対価として日本から輸出されていました。
16世紀の世界で銀は貿易の決済通貨として使用されていました。
簡単に言えば、銀さえあれば世界各地の物産をスムーズに売買できたので、現代のドルと同じような役割を果たしていたのです。
大航海時代の少し前、ヨーロッパの銀は南ドイツのアウクスブルクで産出されており、銀山を所有していたフッガー家は巨万の富を築いていました。
フッガー家による銀の独占を崩したのがスペインです。
中南米を征服したスペインは16世紀中ごろの1545年にポトシ銀山を開発し、インディオを労働力として銀の大増産をスタートさせます。
これにより、大量の銀がヨーロッパにもたらされてフッガー家の独占を突き崩しました。
スペインが中南米から銀を持ち込むために編成した艦隊は「銀艦隊」とよばれ、オランダやイギリスの私掠船に狙われるようになります。
その後もスペインはメキシコなどでも銀の採掘を進め、日本の銀にも強い関心を示します。
中国でも銀が必要だった
中国は古い時代から銅銭を使う国でした。
織田信長の旗印として有名な「永楽通宝」は明の永楽帝の時代に鋳造された貨幣です。
永楽帝について知りたい方はこちらの記事をどうぞ!
永楽帝の時代から100年以上たった16世紀中ごろ、明では銀の需要が高まっていました。
その理由の一つが軍事費の増大です。
明は北の遊牧民と南からの倭寇という海賊の侵攻に対抗するため多額の軍事費を必要としていました。
北方民族の侵入と倭寇による沿岸部での活動を合わせて「北虜南倭」といい、明を脅かした2大脅威として知られています。
これらのうち、明にとって大きな脅威だったのは北方の遊牧民(北虜)でした。
1449年にはオイラト部のエセン=ハンが明の正統帝を捕虜とする土木の変が発生し、明を恐れさせました。
1542年にはモンゴルで勢力を拡大したアルタン=ハンは明との国境を突破し、山西地方を1か月にわたって略奪します。
さらに、アルタン=ハンは1550年に明の首都である北京を8日にわたって包囲します。
明の首都である北京を脅かす遊牧民に対抗するため、兵を雇って北方の防備を固めるための銀が大量に必要だったのです。
かの有名な万里の長城を今の形にしたのは明の時代で、あれだけの大建造物をつくるには巨額の費用が必要だったことが想像できます。
その費用の一部として銀が使われていました。
また、明とスペインの貿易でも銀(メキシコ銀)が決済通貨として使用されたため明国内に大量の銀が流れ込むことになります。
1580年代、万暦帝のもとで政治改革を行った張居正は銀を基準とする一条鞭法を定めて銀を中心とする新しい税制をスタートさせます。
こうして、日本産の銀は世界経済の重要な構成要素として組み込まれるようになったのです。
世界遺産「石見銀山」のすごさとは
石見銀山は2007年に世界遺産に登録されましたが、石見銀山の何がすごくて世界遺産となったのでしょうか。
すごかった理由は、石見銀山は世界の歴史を動かした銀山だからです。
ここでは、石見銀山のすごさと石見銀山を世界屈指の銀山に押し上げた「灰吹法」について解説します。
石見銀山はなにがスゴイ?
石見銀山は鎌倉時代末期に発見され、周防の守護大名である大内氏が中心となって開発した銀山です。
本格的に開発を行ったのは博多の大商人である神谷寿禎(かみやじゅてい)です。
彼が石見銀山沖を船で通りかかった際に、山が光るのを見て銀の存在を確信し、大内義興の支援を受けて本格的な開発をスタートさせました。
江戸時代初期に当たる17世紀初頭の石見銀山の産出量は年間1万貫(約38トン)で、世界の産出銀量の3分の1を占めたといわれます。
石見銀山の銀は南蛮貿易や日本と明との勘合貿易を通じて中国に流れ、中国経済に大きな影響を与えます。
世界遺産 石見銀山の近くにある温泉津温泉
世界遺産である石見銀山の周辺は銀山以外の観光スポットもたくさんあります。
レトロな雰囲気を味わいたい方におすすめなのが温泉津(ゆのつ)温泉です。
温泉津の港は石見銀山からとれた銀の輸出港として栄えました。
温泉津温泉の泉質はpH値6.3の中性温泉で癖がなく肌に優しいのが特徴です。
「しまね観光ナビ」によると、きりきずや末しょう循環障害、冷え性、うつ状態、皮膚乾燥症などに効果があるとされています。
塩分と炭酸ガスの働きにより肌がつやつやになるといいます。
温泉街そのものもレトロで、どこか懐かしい雰囲気を味わえますので、ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。
石見銀山を成長させた「灰吹法」
灰吹法は鉱石から金や銀といった貴金属を取り出すときに用いられる精錬法です。
灰吹法の手順は以下のとおりです。
- 銀鉱石に鉛を溶かして銀と鉛の合金(貴鉛)をつくる
- 「灰吹」を行って鉛と酸素を結合させ、貴鉛から鉛を取り除く
- ボタン状の銀(灰吹銀)ができる
参考:石見銀山世界遺産センター
灰吹法によって石見銀山からとれる銀の量は急増し、世界的な大銀山として成長することができたのです。
巨万の富をもたらす石見銀山は大内氏と敵対する尼子氏にとっても喉から手が出るほど欲しいものであり、大内氏と尼子氏は石見銀山を巡って死闘を繰り広げます。
最終的に石見銀山は大内氏と尼子氏を倒した毛利元就が支配しました。毛利元就について知りたい方はこちらの記事もどうぞ!
朱印船貿易とは
朱印船貿易はどんな貿易?
朱印船貿易とは、豊臣秀吉や徳川家康がおこなった貿易のことで、朱印状という貿易許可証を持った船が東南アジア各地に派遣されて盛んに交易を行いました。
許可証を発行するのは豊臣政権や江戸幕府でしたが、実際の貿易は西国大名や京都・大坂・堺・長崎などの大商人です。
有名な大商人は京都の角倉了以・茶屋四郎次郎、長崎の末次平蔵などです。
角倉了以は京都の大堰(おおい)川・高瀬川、静岡県の富士川・天龍川などの水路を開発した人物として有名です。
貿易先である東南アジアには「日本町」がつくられ、朱印船貿易の拠点となります。
カンボジアのアンコール=ワットには朱印船貿易の時代に訪れた日本人の落書きが残っています。
朱印船貿易の主な輸出入品
朱印船貿易でも主な輸出品は銀でした。
輸出品 | 銀、銅、漆器 |
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輸入品 | 生糸、絹織物、蘇木など |
朱印船貿易は上記の貿易品をやり取りし、鎖国令が出されるまで続きます。
南蛮貿易とほぼ違いはありませんが、朱印状という形で中央政権(豊臣政権・江戸幕府)が貿易をコントロールしていたという点で大きな違いがあるといえます。
朱印船貿易にまつわるエピソード
江戸時代初期、シャム(タイ)の日本町で活躍したのが駿河国出身の武士である山田長政です。
長政がシャムにわたったのは関ヶ原の戦いや朝鮮出兵、大坂の陣などが起きた慶長年間(1596~1615)のことです。
シャム王国のアユタヤに拠点を構えた長政は国内政治や戦争で功績をたててシャムの王女と結婚して王族になりました。
1628年にシャムの王が亡くなると幼い王を補佐して権力を握りますが、他の王族にねたまれて毒殺されました。
山田長政以外にも、海外で活躍した日本人が多数存在した時代で、日本版の大航海時代といってもよい状況でした。
朱印船貿易の終わり
豊臣秀吉は長崎や浦上などの地が協会に寄進されていることを知ると、これらの土地を没収して直轄領としました。
その後、伴天連(バテレン)追放令を発しキリスト教の布教を取り締まります。
この段階の布教禁止はあまり厳しいものではありませんでした。
しかし、1596年には神父ペドロ=バプチスタら宣教師6名と日本人の信徒が処刑される長崎二十六聖人殉教事件がおきるなどキリスト教への圧迫が強まります。
江戸幕府を開いた徳川家康は貿易を優先し布教を黙認したため、信者数が75万人に達しました。
その後、家康は方針を転換して1613年に全国で禁教令を発して高山右近や内藤如安をマニラに追放するなど弾圧を強めます。
家康の死後、朱印船貿易は徐々に制限されました。
1631年には朱印船のほかに老中奉書が必要となり、1633年には老中奉書がない船は渡航禁止となり、朱印船貿易は行われなくなりました。
1635年には日本人の海外渡航が禁じられ、海外から日本に帰国することもできなくなります。
こうして、日本版大航海時代は幕を閉じました。
まとめ
今回は南蛮貿易や石見銀山の歴史、朱印船貿易の特徴などについて解説しました。
南蛮貿易が行われた期間は100年に満たないものでしたが、日本の歴史に大きな影響を与えました。
石見銀山でとれた銀は世界経済の重要な要素として世界史を動かしていきます。