全ての定説は仮説である

哲学、心理学、脳科学、宗教、古典、世論の意見、様々なことを学び、思考するブログです

【人生を楽に生きる】馬を水辺まで連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない

上司に認めてもらえない、好きな人に振り向いてもらえない
自分はこれだけしているのに、なんで分かってもらえないんだ!
と、悩んでいる人も多いと思います
この悩みは非常に辛いものですよね

自分はやれるだけのことをしているのに、結果が伴わない
相手が考え、答えを出すことだから、自分ではこれ以上どうしようもできない
無力感で疲れ果ててしまいます

さて、そんなあなたが楽になる言葉を一つ贈りましょう

「馬を水辺まで連れていくことはできるが、水を飲ませることはできない」

つまり、自分にできる努力は最大限行うが、最終的な判断は相手に委ねられている
ということです

これは、色々な状況に照らし合わせることができます

例えば、
・好きな人に振り向いてほしいのに振り向いてもらえない
・上司に認められたいのに、認めてもらえない
・なぜか人から嫌われてしまう

人に好きになってほしい、認められたい、というのは最終的に判断を下すのは相手ですから、そこはもうコントロールのしようが無いんですね

もちろん、好きな人に尽くすだとか、お洒落に気を使う、モテる会話を学ぶ、など
”望んだ結果を得られるよう、できる限りの努力を行うのは当然”ですが、だからといって、必ず好きになってもらえるわけではない訳です。

そこはもう望んでもどうしようもない、悩んでもどうしようもない
だって、馬を水辺まで連れて行くことはできても、水を飲ませることはできないんだから

人に嫌われた?それはあなたが悩む問題ではなく、相手が悩むべき問題

これまでの説明でご理解いただけたかと思いますが、嫌われるつもりはないのに、
・相手に嫌われてしまった
・職場の人に嫌われてしまった
・友だちに嫌われてしまった
という問題も、自分が悩んでも仕方ないわけです

そもそも、他人に嫌われよう!と思って行動する人はいませんよね?
それでも結果的に他人に嫌われてしまったのなら、それはもう仕方ない
嫌われたとき悩むべきはあなたではなく、相手が悩むべき問題なんです

自分にとってやるだけのことはやった、でも嫌われた
しかし嫌われたくないから、相手の好きなこと、気に入ることをする
という風に行動してしまうと、相手が望む行動や言動をとってしまいます

それはつまり、自分の人生ではなく他人の人生を歩んでしまうことに他なりません

どうしても嫌われてしまったのなら、嫌われていてもいいと、それは相手が悩むべき問題なのだから、自分が悩んでも仕方ない、と割り切って過ごす
仕事上の関係であれば、そう割り切って、こちらからは普通通り話しかけて仕事を進めるのが理想でしょう

相手が自分が嫌っているからといって、自分も相手を嫌う必要はありませんから

どうしてもそれが辛いなら、職場を変えるなどそもそも付き合う人を変えるしかないですね

 

【馬を水辺まで連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない】

この言葉はたくさんの場面で応用できる言葉です
心の奥にしまっておき、辛い場面で思い出してみましょう
すっと楽になるはずです

【人生を楽に生きる】何が良いか、悪いかは分からない

生活していて、”あ〜もう最悪だ”とか、”うわ!最高!”など、色々な出来事があると思います。
それらに振り回されていると疲れてしまいますよね
特に最悪な状況だ、と思ってしまうと途端にきつくなるものです。
さて、これら状況に振り回されないように一つ、面白い話しを紹介しましょう

今から話す話は僕も一度しか聞いたことがないので、細かい部分は間違っているかもしれません
しかし、この話の言わんとすることは伝わると思います。

何が良いか、悪いかは分からない

ある村に青年が住んでいました。
青年が森に行くと、立派な馬を見つけ村に連れ帰りました。
村人「そんな立派な馬を見つけるなんて、運が良かったな!」
青年「いや、良いか悪いかは分からない」

その後、連れ帰った馬が領主に気に入られ、高額で買いたいと言われました。
しかし青年は、馬は大切な家族だから売らない、とそれを拒否しました。
村人「なんてもったいない、悪いことをしたんだ!」
青年「いや、良いか悪いかは分からない」

しかしその後、馬が脱走し姿が見えなくなりました
村人「あぁ、運が悪かったな、売っておけばよかったんだ」
青年「いや、良いか悪いかは分からない」

数日後、なんと脱走した馬は子馬を引き連れ家族で帰ってきました
村人「なんて幸運だ!良かったな!」
青年「いや、良いか悪いかは分からない」

青年が馬にのり森を駆けていると、不慮の事故から落馬し足を骨折してしまいました
村人「あぁ、馬のせいで、悪いことが起きたな」
青年「いや、良いか悪いかは分からない」

その後村人が住む国で戦争が勃発しました
村の若者はみな戦争に駆り出され、命を落としました
しかし、青年は足を骨折していたため戦争には駆り出されませんでした
村人「馬のおかげで骨折していて良かったな」
青年「いや、良いか悪いかは分からない」

 

とまぁこういう話ですね、
何が起こっても、その後どうなるかは分からない
今最悪なことになった、と思っても実はそれが功を奏するかもしれない
何事も「良いか悪いかは分からない」

これを知っているだけで、人生だいぶ楽になります

読書は必要なのか?絶対的に必要です、簡単な理由です

読書をしているとふと疑問や不安に思いませんか?
”読書をしている意味はあるんだろうか...”
今回はそんな不安へ答えを書いていきましょう

読書は寿命を延ばす唯一の方法である

さて、読書のメリット・デメリットを説いたサイトは他にいくつもありますが、メリット・デメリットなんてどうでもいいんです。
読書の良さを一言で言うならば、読書は寿命を伸ばす唯一の方法であるということです。

小説を読めば他人の人生を生き、
ビジネス書を読めば他人の人生を賭して出した答え、過程を知ることができます。

例えば、自分一人で考えていては人生のうち10段階のうち3段階目までしか辿り着けないとしても、読書をすることで3段階、5段階目までひとっ飛びしてかからスタートすることができます。

ある意味で、本を読めば読むほど他人の人生の時間を、自分の人生の時間にプラスすることができるんです。
僕は多読家なので、知識におけるの寿命はもう既に1,000歳ぐらいには到達しているかもしれません。

読書は最も真実に近い情報が詰め込まれている

一応、もうひとつ読書の良さについて語っておきましょう。
それは、SNS、メディア、ニュースに比べ質が高く、正しい可能性が高い情報に触れることができる点です。

例えば、SNSは個人が好きに情報発信している場合が多いので、正確性に乏しいです。
ではニュースなら大丈夫かと思うとそうでもなく、政府の意向に沿っていたり、資金を出しているスポンサーにとって都合の悪い情報は流せない、など情報に偏りや、時には明らかな嘘を出していることも多いです。
新聞でも同様ですね。

新聞やニュースで言われているけど嘘である、というのが皆さんはっきり分かってらっしゃる例を挙げると、”国の借金は1,000兆円で、国民は一人あたり数百万のツケを負っている”という話ですね。
これが嘘であるのは説明するまでもなく、1,000兆円の借金は政府の借金であり、国民は逆に政府に貸し、つまり債権を持っているわけですからね

さて、これらの事例からも分かるように本当に正しい情報源というのは、かなり乏しいわけです。
ここで本の出番です。
本はスポンサーがいるわけではありません、しかも本に嘘を書いて出版すると著者や出版社の信頼がガタ落ちし、売れなくなり経営危機に陥りかねません。

なので、本を出版する際は著者はもちろん、出版社も書いている内容に間違いがないかしっかりと調べ、その上で出版するわけです。
もちろん、たまに間違っているということがあとから分かることもありますが、
もともと偏った情報しか流さない他の媒体に比べれば、本の正確性は比じゃありません

 

正確性の高い本を沢山読み、正しい知識や思考力を高め、情報に流されないように生きていきたいですね

欲望的幸福を求めた結果、宗教の礼拝へ至るー礼拝は依存させるためにあった

昔から凄く不思議だったんです。
なぜ宗教には礼拝があるんだろうか、と。
一日何回も手を止め、わざわざ礼拝室へ行き祈ったり感謝する、物凄い時間無駄にするのになんであるんだろう、するんだろうって不思議じゃありませんか?

最近、脳科学を学ぶなかで”なるほど”と、この問題の答えが見つかりましたので、解説しようと思います。
先に答えを言ってしまうと、”礼拝により幸福感や安心感を覚えさせ、それを日々繰り返すことによりその宗教自体に依存させ、離脱しないようにするため”です。
順を追って解説していきましょう

脳内物質の威力

まずはこの話の肝になる脳内物質について解説します。
多数ある脳内物質の中から、今回は幸せや安心感に関係する物質、セロトニンドーパミンが中心になります。

さて、まずはこのドーパミンの威力を理解してもらうために、あるマウスの実験を紹介します。
マウスの脳に電極を埋め込み、レバーを押すとドーパミンが放出されるように施されたマウスの実験です。
レバーを押すと快楽、幸福感が出ると分かったマウスは、レバーを一時間に7,000回というペースで押すようになったそうです。
さらに、食事を近くにおいても、発情しているメスを近くにおいても目もくれず、死ぬまでレバーを押し続けました。

つまり、脳内物質が食欲や性欲など基本的欲求に勝ったんです。

「それはマウスだけの話でしょ?」
いえいえ、実は昔、人間でも似たような実験が行われ、人間もゲームのボタンを連打するかのように、ひたすらボタンを押すようになったそうです。

これらの実験の様子は、”脳内物質”という中川信子さんの著書に詳しく書かれていますので、気になる方はぜひ読まれてみてください。

脳内物質による依存症の危険性

さて、このセロトニンドーパミンは何も電極を頭に埋め込まなくても放出されます。
通常は、
・楽しいことをしているとき
・目的を達成したとき
・他人に褒められたとき
など問題がなく、むしろ好ましい状況で放出されます。

しかし、これが依存症に繋がる場合があるんですね。
上記の他にも、以下のような状況で放出され、その快楽からその事柄をやめられなくなり、依存症になるんです。
例えば、物質的にはニコチン(タバコ)やアルコールを摂取したとき、行動においてはギャンブルや夜の営み、恋愛や宗教などです。

説明するまでもないですが、これらに依存すると、最悪の場合身体的、または金銭的、人間関係が破滅してしまいます。
依存症というのは非常に怖いものであることは、ご存知の通りです。

生活を破滅させず、後天的、人為的に脳内物質を分泌できないだろうか?

さて、脳内物質の威力を分かっていただけたと思いますが、次の疑問が浮かびます。
”生活を破滅させないようにしながら、後天的、人為的に脳内物質を分泌できないだろうか?”
これができたら、凄く幸せですよね。
食欲や性欲をも上回る快楽を自分の思い通りにコントロールできるんです。
でも、そんなこと可能なんだろうか?

ここで注目したいのが、次の脳内物質が分泌される条件の一つです。
・目的を達成したとき

わかりやすく言うと、目標としていた学校に合格できた、目標の会社に就職できたなどなどです。
あれ?これって後天的に身に着けた目標ですよね?
まさか生まれたときから、良い学校に合格したい!なんて思わないわけです。
そもそも日本以外じゃ学校すらないとこも多いですからね

つまり、後天的に、自分の意識的に、目標を設置することができ、さらにそれを達成することによって、脳内物質が分泌され、達成感・幸福感を感じることができるということです。

しかし、受験なんて数年に一度ですし毎回では疲れてしまいます。
もっと気軽に、これを達成できないだろうか?努力を必要とせず、しかし、やるべきこととし、それを行うことで達成感、セロトニンが分泌される・・・
あれ、それって宗教の礼拝じゃありませんか?

礼拝を定めることで、信者はそれを行いセロトニンなどが分泌される

簡単に言うと、宗教において礼拝を行うよう定めることで、
それを達成することでセロトニンの分泌を促し、幸福感、安心感を覚えるわけです。
日本人にわかりやすくいうと、仏教において
南無阿弥陀仏を唱えなさい、そうすれば何事も大丈夫だ」
というのがありますよね。
実際、そこまで仏教を信じていなくても、
”そうか、じゃぁ唱えてみよう...南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏...”
少し、安心感を覚えませんか?セロトニンが少なからず分泌されているんです

さて、これら礼拝を毎日毎日行うことで、脳内物質が分泌され、それが日常化していきます。
これは依存症の過程によく似ています。

宗教をやめる人の過程は、依存症の離脱症状によく似ている

実際に、宗教を離れることを決めた人の手記やエッセイを読んでいると、依存症の離脱症状によく似ています。
例えばそれまで毎日行っていた礼拝をやめたときや、掟で”結婚するまで夜の営みは禁止”と定められていたのを破ったとき、宗教をやめると頭では理解し、決意していても、皆さんしばらくの間焦燥感や不安感を覚えるようです。

このことから、やっぱり礼拝をやめれない、宗教に戻るという人も多数いらっしゃるようですね

このように、宗教における礼拝を定める理由とは、礼拝を定めそれを達成させることで脳内物質を分泌、さらに日常化させることで依存状態にし、宗教から離脱することを妨げるというわけです

昔は脳内物質の存在なんて明らかになってなかったわけですから、教祖の方は実際の経験的に分かっていたんでしょうね
日本の天皇の継承条件、男系男子に似たような、科学などはなくても経験的に分かっていた、という不思議なものですね。

全ての定説は仮説である-全ての思考の根本理念

思考の最も根本として置くべき理念

哲学や人間関係、経済...etc
何を考えるときでも、思考の最も根本に「全ての定説は仮説である」という考え方を念頭に置くべきだと考えています。
これを置くことで、他人との余計な衝突を避け、さらには今現在最も合理的に正しいと思われる結論に近づくことができるからです。
今回はこの「全ての定説は仮説である」という考え方を解説します

 

絶対的に信じていることも、時が過ぎれば間違いに気づくことが多い

例えば、昔の人は天動説(宇宙の中心は地球である)や地球平面説を間違いない絶対的なものだと信じていたわけですが、現代ではそれらが誤りであることは、言わずもがなです。

他にも、キリスト教において人間は、神が作り上げた完璧な生き物だと信じていたわけですが、解剖学や科学が進歩するにつれ、「それはどうも誤りである」と、人々が気づき色々な宗派が誕生しました。

現代の例をだすと、”ダイオキシンは猛毒である”とメディアなどが囃し立て、日本中がダイオキシン排除に躍起になったわけですが、その後の数々の研究で”ダイオキシン猛毒説は誤りである”とわかり、今ではダイオキシンという言葉すら滅多に聞きません。

さらには、今現在(2019年)誰も疑わない”地球温暖化”の問題ですが、これも誤りである可能性が非常に高くて多数の著名人が声を上げていますよね
そもそも、二酸化炭素は植物や動物(もちろん人間も)全ての生物の必須の食料なので、これがなくなったら生物は絶滅してしまいますからね
将来的には、二酸化炭素排出施設が多数誕生してるかも?

さて、これらのように当時は間違いない真実と思えることでも、実際は間違っているということはいくらでもあるわけです。

 

学問においても定説は仮説である

学問においても、全ての定説は仮説であると言えます
歴史は分かりやすいですね。
新たな発見があると書き換わることは皆さんもご存知の通りです
これは科学も同じで、5年〜10年経つと8割ほどの定説は誤りであると判明するそうです。

「教科書に書いてあることは正しい」と信じて疑わない方が多いですが、間違いも大変多いです。
この話題は私が解説するよりも、より専門的に解説しているサイトが多数ありますので、ぜひ「教科書 誤り」といったキーワードで検索してみてください。

そもそも、教科書は政府のチェックが入っているのは皆さんご存知かと思いますが、
そのチェック作業にGHQの影響など多分に残っています。
”政府のチェックが入り、許可がおりた教科書しか使えない”
まぁ情報にフィルターがかかった洗脳に他なりませんね

 

このように、全ての定説が仮説なんですね
地球が平面だと信じていた方は、いくらそれをもとに研究をしたところで
そもそも前提が間違っているので、正解には辿りつけないんです。
この時代に「まっすぐ東にいけば一周してこの地に戻ってこれますよ」なんて言っても、異端者扱いされて最悪宗教裁判行きです。

 

全ての定説は仮説である、をなぜ基本理念に置くべきか?

では次に、なぜ”全ての定説は仮説である”を基本理念に置くべきかについて解説していきましょう。

シンプルにいうと、
「自分の意見に執着しすぎず、他者の意見と総合的に思考でき、より合理的に正解に近いと思われる解に近づける」

よく自分の意見は間違いない!それ以外の意見は間違いだ!と言って、
SNSやニュースサイトで他者の意見を初めから否定している方がいますよね
自分はこう思うんだが、どうだろうか?と反論をし、意見を深めるならいいんですが、
否定だけする人って多いですよね
これが行き過ぎると「魔女狩り」や「宗教裁判」、「ある民族を虐殺する」なんて悲劇が起こるんですね

こうなる前に、全ては仮説である、と分かっていれば、
”自分の意見も仮説に過ぎない、相手の意見も仮説に過ぎない、ならお互い違うと思う場所の意見を交換しあって、より合理的に正解に近いと思われる仮説に近付こう”
と思えるわけです

自分と異なる意見に耳を傾け、正しいと思うところは受け入れ、足りない部分を補う
これを繰り返すことが重要ということです

宗教すらも仮説に過ぎないと分かり、視野が広がる

この基本理念をしっかり理解できると、宗教すら人が考えたものである以上仮説にすぎないと分かります
その結果として、僕は人生や幸福など哲学的なことを考える際、
キリスト教イスラム教、仏教、儒教などの解説書を購入して学び、参考にしています
一気に視野が広がりますよね

少しだけ脱線しますが、私は宗教っていうのは、
「人生に悩んでいる人への思考のビギナーズセット」だと考えています

バーベキューしよう、でも初めてでどうしたらいいか分からない!
→「これ一つで台から炭まで全て揃ってます!」っていう商品みたいなイメージです

人それぞれ身長はもちろん、脳の作りであるとか脳内物質の出方、受取り方、好み、性格、など全て個人個人違うのだから、宗教のように”全員こうしろ!”っていうのはありえないと思いますね

あくまでも、宗教の教えの中から、
・あ、ここは参考になる
・お、これは実践しよう
・ここは違うんじゃないか?
という風に、参考程度にとどめ自分にあった結論を出していくべきだと思います

なんせ、宗教ですらも仮説に過ぎないのですから