親鸞に学ぶ幸福論

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人生でとてもつらい逆境に陥った時

【精進(1)】

苦しみがドーンと人生に重くのしかかった時、
「なんで私ばっかりがこんな目に」と、
まるで自分が不幸の主人公のように思いがちですが、
決して「私」という存在は、苦しみにただズタズタにされる存在ではありません。
この苦しみにどうやって対処していくかが大事であり、また対処できるのです。

理不尽な苦しみを前に何も私はできないかといえば、そうではありません。
避ける方法は多々あるし、かわす方法、軽くする方法もあり、
私がコントロールできる部分がある、ということを知るのが大事です。

ついつい酷いことがやってくると、
「こんなの無理だよ」「こんなのもう死ぬしかないよ」と投げやりにもなるのですが、
対処する方法は必ずあります。

その事実がわからず、つい私たちは苦しみから逃げてしまいます。
見ないようにする、聞かないようにする、苦しみから逃げ回る、
ところがそうすると、かえって苦しみはどこまでも追いかけてくるのです。

私は小学校3年生の時、犬に追いかけられた経験があるのですが、
当時の私くらいの大きさの黒い犬が通学路にいて、
逃げると追いかけてくるのです。
何回かあったので、そのうちその道は避けて違う道を通るようにしていたのですが、
ある時その違う道にも、その黒い犬が現れたのです。
「おっ、こいつだ」とでも思ったのか、いつものように自分に向かって吠えながら追いかけてくる。
こちらはあわてて逃げようとしたのですが、
その時、なぜか私も「なんでここにも現れるんだ」とちょっと腹が立ってきまして、
逃げるのやめて、その犬の目を見つめて立ち向かってみたのです。
黒い犬の目をじーっと見て、一歩二歩とその黒い犬に向かって近づいて行くと、
その黒い犬は立ち止まり、ちょっとうろたえたような顔になって、やがてパーッと逃げていったのです。

これは私の経験ですが、苦しみとはこの黒い犬みたいなもので、
逃げるとどこまでも追いかけてきます。
ごまかそう、ごまかそうと逃げると、追いかけてくるのです。
「よし、今回はこの苦しみと対峙してみよう」と覚悟を決め、
できることは何か、一つ一つやっていこう、とするのが、
一歩二歩とその黒い犬に向かって進むということです。
そうすると、案外大したことなかったな、けっこう対処できたな、という結果になるのです。

そういう経験をいくつか積み重ねると、今度の苦しみもそうだろうな、と思えてきて、
実際また乗り越えられるようになってくるのですね。
知っておかなければならないのは、
決して対処できない苦しみではない、ということです。

 

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方便の教えがなぜ大事なのか

【方便(1)】

仏教に「方便(ほうべん)」という言葉がありますが、

「方便」と聞くと「ウソも方便」ということわざがあるせいか

ウソのことを方便、と思っている人は結構あります。

あるいはウソのことだとまでは思わずとも、

「方便とはいい加減な、どうでもいいもの」

と受け止めている人も多くあります。


しかし元来「方便」とは仏教の言葉ですから、

仏教で言うところの本来の意味を知らないと、

仏教の教えはわからなくなります。


「方便」はお釈迦様の説かれたインドの言葉では「ウパーヤ」といい、

「近づける」という意味です。

では何に近づけるということかというと、「真実に近づける」という意味です。

方便は「真実を近づけ、真実を体得させるのに必要なもの」です。

真実には必ず方便が要ります。

もし真実だけでいいのなら、お釈迦さまは方便の教えを説かれません。


そんな簡単に真実は分からないのです。

真実のない私達に真実をわからせようとすることは至難です。

それでどうしても仏様の方から

「これは真実をそのまま言っても分からないだろうから、方便から導くしかない」

と方便の教えを説かれたのです。


日本の教科書でも知育の発達に応じて教え方を変えることはあります。

たとえば理科の教科書では、小学校2年生くらいまでは

「太陽が東の空から昇って正午に南になり、西の方に沈んでいく様を観測してみましょう」

と、太陽を観測する授業があります。

その際は太陽が動く「天動説」の立場で教えるのですが、

それから知育が発達し「地動説」を理解できる年齢になってから、

実は太陽の周りを地球が動いているんですよ、と教えます。

最初から「地動説」は教えずに、

「天動説」からだんだん知育が発達していくのにあわせて導いていくという形ですね。



仏教の真実は、そのまま話しても我々凡夫にスッと受け止められないものです。

「素直に受け止めりゃいいじゃないか、真実を真実と素直に受け止めればいいのに、なんでわからないのか」

と言う人もあるかもしれませんが、そんな簡単に真実の教えは分かりません。

簡単に真実が分かるものなら方便は要らないのです。


「八万四千の法門」といわれるお釈迦さまの膨大な教えは

私たちに真実をわからせるために、種々に方便の教えで導かれる苦心惨憺の記録です。

わからず屋の私達に、なんとか真実をわからせたい、

との釈迦の強靭な忍耐によって方便の教えが数あまたあり、

その仏のお導きによって、私達は真実に誘引されるのです。

 

 

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苦悩の根元の究明が人類の急務

 

【苦悩の根元(1)】

仏教では「人間にはさまざまな苦しみがある」と教えられ、

これを「四苦八苦」と説かれています。

では、それらの苦しみの根本原因は一体何なのでしょうか。

仏教は常に因果関係を教えます。

私達の人生が苦しみに染まる元凶は一体何なのか、

これを明らかに観る教えが仏教です。


「あなたを苦しませ、悩ませている原因は?」と訊かれ、

「それはやっぱりあんな人と結婚したからだ」と答える人がいます

夫が悪いからだ、妻が悪いからだと苦しんでいる人です。

あるいは「こんな親の元に生まれたからだ」「こんな子供を持ったからだ」という人もあれば、

「こんな会社だからだ」「こんな上司だからだ」「こんな部下を持ったから苦しいんだ」

「近所にこんな人がいるから苦しいんだ」「病気だから苦しいんだ

「こんな性格だから苦しいんだ」

あるいは「貧困で苦しいんだ」「こんな容姿だから苦しいんだ」

「こんな政治だから自分の人生は苦しいんだ」「こんな才能がないので自分は苦しいんだ」と思います。


ところがお釈迦様は驚くべきことに

「今あなた方が言われたようなことは苦しみの根本原因ではありませんよ」

と説かれているのです。


確かに今挙げたような事柄が私達を悩ませてはいますが、

苦悩の根元ではないとお釈迦様は喝破されているのです。

もし、金や名声、家族、才能などがないのが苦しみの根元ならば、

これらに満たされた人の人生は喜びに輝いているに違いありません

ところが実際はどうでしょうか。

お金もある、名声もある、美貌にも才能にも恵まれた人で、

ドラマや映画に引っ張りだこの人が自ら命を絶つというニュースが時々流れます。

私達からみると、「あれがあったらいいのにな」と羨んでいるもの全てを持っていたような人たちです。


なぜそんな人が自ら命を絶ったのか。

もし金や名声、家族、才能がないことが苦しみの根本原因ならば、

これらを十分に手にしていた彼らに自殺という悲劇はなかったはずです。


あまりに苦しくて、こんなにつらいなら死んだほうがましだ、

と彼らを思わせたものはいったい何だったのでしょうか。

人知れぬ苦悩をその人が抱えていたのだけは間違いないことです。

幸せな人は自殺しません。

なぜ金や名声や家族や恋人などに恵まれていた人が自ら命を絶つのか、

その苦悩の根元の究明こそが人類の急務と言えましょう。

そしてその答えをズバリ明らかにされたのが仏教であり、

日本にあらわれられた親鸞聖人なのです。

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まず汝自信を燃やせ

【布施 (2)

蓮如上人は室町時代の方で、

親鸞聖人の教えを正しく、また大変多くの人に伝えられたという点

蓮如上人以上の方は今日までありません。

なぜ蓮如上人は、一代にして親鸞聖人の教えを日本全国津々浦々にまで伝えることができたのでしょうか。

 

まさに「燎原(りょうげん)の火のごとくそれは伝わった」と形容されます。

 

燎原の火とは、枯れた野原に火がつき、それがメラメラとたちまちに広がっていく様ですが、

この時代、驚くべき勢いで親鸞聖人の教えが日本全国に伝わっていったのです。


蓮如上人が43歳で本願寺の法主になられた時は、

四間御堂、ほんの八畳にもならない狭い本堂でした。

それがわずか一代で、浄土真宗を日本全国に広められたのですが、

なぜそんなことができたのでしょうか。

それは蓮如上人の強い志、なんとかこの親鸞聖人の教えを皆さんに伝えたいという熱い思いから始まったのです。

四間御堂の小さな寺で、蓮如上人は

「親鸞聖人の教えを正確に、一人でも多くの人に何とか届けたい」

と熱い志を燃やされました。



蓮如上人は「専修正行の繁昌は遺弟の念力より成ず」と言われています。

「専修正行」とは浄土真宗のことですが、

「専修正行の繁昌」浄土真宗が繁盛する、とはどういうことでしょうか。

ラーメン屋だったら客が押し寄せ、列をなしている状態でしょうし

会社ならば一部上場してどんどん株が上がっていく状態を言うのでしょうが、

親鸞聖人の教えの繁盛、浄土真宗の繁盛とは、

親鸞聖人の教えを正しく知り、聞き、そしてこの教えに出会えてよかったと

心から喜ぶ人が多く現れることです。

これが浄土真宗の繁盛です。



「遺弟の念力より成ず」の「遺弟」とは

遺された弟子、親鸞聖人の教えを受け継ぎ、伝える者のことです。

親鸞聖人の遺された教えを受け継ぎ、それをまた伝える人を

ここで「遺弟」と蓮如上人は言われています。



親鸞聖人の遺されたこの教えを何としても皆さんにお届けしたい、

という強い心のことを、「遺弟の念力」と言われているのです。

その一人一人の胸に燃える「親鸞聖人の素晴らしい教えをなんとか皆さんに知ってもらいたい」という志から

浄土真宗は繁盛するんだと、蓮如上人は言われているのですが、

まさに蓮如上人ご自身が、その熱い心に突き動かされ、

日本全国、布教の旅に費やされたご一生でした。



「まず汝自身を燃やせ しからば他を焼かん」

どんな消防車を持ってきても消えない山火事、

二日も三日も燃え続けるような山火事であっても、

最初はマッチ一本なのです。

マッチ一本の火が、あのように山一つ焼いてしまう山火事になっていくのです。

どんな山火事も最初はマッチ一本の小さな火。

問題は、その小さな火を自分が起こせるかどうか、

自分がマッチの役目になれるかどうか、です。

ここにかかっています。

自分がマッチの役目にならずに

「誰か燃やしてくれんかな」と待っているだけでは、何も起きません。

 

 

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人を変えようとするのではなくて、自らを変えようと努める

 

【布施(1)】

 

「呼べば呼ぶ 呼ばねば呼ばぬ 山彦ぞ まず笑顔せよ みな笑顔する」

という歌があります。

山彦とは、見晴らしのいいところで向こうの山に向かって「ヤッホー!」と声をあげると

「ヤッホー!」と返ってくる、あの山彦のことですね。

こちらが「ヤッホー」と大声張り上げなかったら

向こうからは返ってきません。

呼べば呼ぶ、呼ばねば呼ばぬその山彦のように、

まず自分が心をひらいて笑顔しなさいと。

すると向こうも心をひらいて笑顔を返してくれるようになりますよ、というのが、

「まず笑顔せよ みな笑顔する」ということです。



「なんであいつ不愛想なんかな」

「あいつ、こっちに心の壁を作ってるのか、態度悪いな」

「あの人、もうちょっとなんとか変わってくれんかな」

と上司は部下に対して思います。

あるいは部下も上司に対して

「ちゃんとやってくれよ」「あの言い方と態度、なんとかならんもんか」

と思うのですが、

それはお互いが、自分が「ヤッホー」と叫んでいないのに、

向こうから山彦が返ってこない、と山に怒っているようなものです

「まず自分から」ということですね。



例えばこちらが部下の立場ならば、

まず自分が意欲的に仕事に取り組みましょう、ということです。

すると上司も「あいつ変わったな。これなら今度の仕事は彼に任せてもいいかな」と変わってきます。


こうお話ししていると、よく顔をしかめて言われる方があります。

「いやあ、うちの上司はそんなこと言っても無理ですよ。よけい図に乗ってワンマンになるだけですから」

その気持ちもわかりますし、確かに一週間や二週間、一ヶ月や二ヶ月では変わらないかもしれませんが、

これが一年、二年、三年となっていくと、必ずその人のワンマンな姿勢も変わってくるものです。


こちらが意欲的になれば、相手からのリアクションは変わってきます。

もし自分が上司だった場合はまず、

部下を全然信用しない姿勢だったり、

部下の言うことに全然耳を貸そうとしないワンマンな態度を改めるべきです。

部下を信頼してやらせてみることです。

「そんなことしたら余計あいつ怠けますよ。俺がガツンと言ってやらなきゃダメなんです」

という気持ちをまず改め、自分が信頼することに努めてみることです。

「まず自分から」です。

すると「上司もこれだけ信頼してくれるんだから期待に応えよう」

といつしか部下の仕事に対する態度というのは変わってきます。



この歌のメッセージは

「人を変えようとするのではなくて、自らを変えようと努めなさい」です。

私たちは人を変えよう変えよう、何とかしてあいつを変えなければと、

そこばかり努力しますが、その努力よりも

自らを変えることに努めなさい、と言われている歌なのです。

 

 

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妄語が人を悪道に引っ張る

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【妄語(1)】

 

自信を持てなくさせる最たる行動は「うそをつく」ことです。

うそはその人から自信を失わせます。

 

仏教ではうそのことを「妄語」といいますが、

仏教で教えられる「十悪」の一つに数えられており、

不幸を引きおこす十の悪い行い、とお釈迦様が説かれた一つに数えられています。

 

うそをつけば悪因悪果は歴然で、

やがて発覚し信用を失うという悪い結果が引き起こりますし、

たとえうそがばれなくても、

その「うそをついた」という後ろめたさが

その人の自信を失わせる、という悪い結果がおきます。

 

いつかばれるのではなかろうかとビクビクしているので、

どこか表情も声もおどおどして、目線も弱々しく、

全体的に自信なさげな雰囲気を醸し出すようになってくるので、

結果的に人から信用されなかったり

好かれなくなるという形となって、その人の人生に表れます。

たとえ人にバレてないと言っていても、

何か直感的に感じるものがあるということです。

 

大岡越前の名裁きの中に「起き上がりこぼし」という話があります。

「起き上がりこぼし」とは、ひょうたん型の形をした人形なんですが、

下に重しがあるので、

横から指でつついて人形を倒そうとしても、

いったんはごろんと転ぶものの、

グラグラしながらも結局また起き上がってくる、

指で突くたびにグラグラグラグラ揺れるのですが、

バタンと倒れることなく、

最後はピタッと元の位置に戻る、

そういう人形を「起き上がりこぼし」と言います。

 

さて大岡越前の「起き上がりこぼし」とはどんな話なのかと言いますと、

ある事件に二人の容疑者がいた。

仮にA助・B助としますが、

A助は一般庶民、容疑をかけられてオタオタしています。

アリバイの説明もまどろっこしく、

受け答えにもいちいち目が泳ぎ、

声も震えて、狼狽している。


一方B助はというと、実はこちらが犯人なんですが、

アリバイも用意してあり、

どんな質問にも淀みなく答えられるように

周到な準備をして臨んでいる。

 

A助はいろいろ尋問すると、

アリバイが不完全で頼りない。

たとえば「その時はちょうど家にいて寝てた」とか。

「誰か証明できる人はあるか」と聞くと

「いや証明と言っても一人だったんで....」

とオタオタしてる。

 

一方B助は

「その時間何やってたか」の問いに

「その時間はどこそこでこうしてました」とよどみなく、

「証人は一緒にいたあの人です」と全部用意している。

 

尋問は最初こそA助が頼りなく、あやふやな答弁が多いのに対し、

B助は淀みなく答え、表情も笑みさえ浮かべ、問う人の目を見て、自信を持って答えている。

これはA助の方が怪しいな、という気持ちになるのですが

そういう時に大岡越前は

次から次へと細かい質問を重ねていくという。

「それでどうなった」

「それだとこれはどうなんだ」

「あれはどうしたんだ」

矢継ぎ早に質問を重ねてくとA助はオタオタしながらも

正直にそのまんまのことを言ってるので、

辻褄が合うのですね。

ところがB助は自信を持って答えてるのですが

じょじょに辻褄が合わない所が露呈してくるのです。

うそをついてますから、つじつまが合わないことを言ってはならないと緊張し、

ウソが発覚しそうになると、

さらにウソの上塗りをするのです。

そうこうするうちに

「あれ、だととしたらさっきのあれはどういうことだ?」

とだんだん矛盾点が浮き彫りになっていきます。

だんだんB助はうろたえ始めてくる。

 

A助はというと、思い出すのに時間がかかり、

とつとつとしゃべり、もたもたしながらも

言ってることに一貫性があるので、

だからどんなに突かれても

起き上がりこぼしのように最後は元の所に戻ります。

 

B助はそれに比べてレンガを立てたみたいなもので、

ドシリと重く、ちょっと指でつついても微動だにしないのですが、

つつき続けるとある瞬間、突然バターンと倒れてしまい、

二度と起き上がってこれないようなものです。

 

うそをついている人は、一見頼りがいのあるように見えても

それは見せかけであり、自信のなさがどこかに透けて見えてくるのです。

そしてやがてそのうそが露呈し、バタンと倒れてしまうのです。

倒れる不安を常に抱えて生きているので、

常にどこか挙動不審なのです。

 

またうそをついている人は、そのうそを隠そうとうその上塗りをするので

どこまでがうそでどこまでがうそじゃないか、

本人自身もわからなくなってきます。

 

さらにはうそを隠すことに余計な神経使ってますから、

本当に自分がやらなきゃならないことに集中できないのです。

 

そして結末は、

やがて必ず発覚し、余計自分の人生に自信を失っていくのです。

 

田村正和さんの代表作のドラマ「古畑任三郎」はまさにそんな内容のドラマだったと思います。

犯人は完全犯罪を計画し、色々なアリバイを用意周到に準備してるのですが、

何かちょっとした些細な綻びから、

「あれ、それはちょっとおかしいですね」と切り出していって、

どんどん質問していって、

やがて犯人が自らバターンと転ぶと、

こんなパターンでした。

 

うそをつかずにいれば、古畑任三郎の前でも誰の前でも、毅然としておれます。

実は「嘘をつかずに生きる」というこの生き方ほど、

自信を持てる生き方はない、といえます。

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