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いっそその手で抱きしめてほしい、顔をなぞってほしいとは思うけどそれはすけべ目的でなく、より安心したいから
この感情は恐らく「安心」である。
人を好きになった時はたいてい胸が苦しく、とても痛む。つまり人を好きになった時自分は激しく傷ついている。何かを期待して得られないもどかしさ、相手に何も与え返すことのできない悔しさ等、何を思い描いても現実はどうにもならないこと、どうすることもできない自分とその感情にただただ傷ついていた。
今回は胸は少しも痛まないかと言えば嘘にはなるが、優しい言葉をかけてもらったり音楽の話をしたり笑いながらバカ映画の話をするたびに気持ちがフラットになる。胸の奥がポカポカしてる。お互い割とぼそぼそ喋るタイプなのでそこも波長が合うのかもしれない。
お互い趣味の音楽の話ががっつりできるので話題が尽きることがなく、自分のしけた身の上話を大してせずに済んでるのもでかいと思う。これも自分が苦しんだり会った後自己嫌悪に傷つかずに済んでる所以である。
先日ようやく名前を教えることができた。
○○ちゃん。と呼ばれて嬉しかった。
名前を、それもちゃん付けで呼ばれるのは嫌いなはずなのにすごく居心地が良かった。
こんなことは初めてである。
好きで好きでどうしようもない、という激しさがない。シンプルに楽しくて、嬉しくて、居心地良い。だから自分、今しんどくない。会う度に少しづつ心が豊かになっていってるような気がする。次の日も、切なくならずにただ胸の奥に温もりが残ってるだけである。
何よりも、向こうがマメに連絡くれたり定期的に誘ってくれるから自分のこと嫌いかどうかわからんという不安がない(文章にしたらちょっとずるいけど)。少なくとも嫌われてはいない、むしろ好かれてるだろう。お金払わせてしまうと誘いにくくなる、と言われた。だんだんいい意味で気を遣わなくてもよくなっていくのだろう。自分も。
恋人とか何とか、そういう契約を結ぶのをお互い望んでなさそうな感じも良い。年の離れた友達、向こうは先輩。自分の好きな音楽のこと、たくさんたくさん知ってるからおすすめされるレコードに間違いはなく、単純に尊敬できる。
んで、自分は気ぃ遣いだから、うんと年上の懐の深い人でないと余裕持って甘えられないのだと思う。
少しずつ、少しずつ他人に素直にありがとうを言えるようになってきたんだ。
2019年4月初頭の手記より
一年間のブランク、とても長かった。沢山の不具合と不条理…社会vs自分の圧倒的な自分の敗北を見た。そしてじんわりとしたあきらめが、いい湯加減の風呂のように自分を包んだ。
ーー自殺しよう。なんとほっとしたことだろう。
生まれてきた意味なんてなかった。もう先が開けないことに気づいて生まれてくるべきじゃなかったと思った。
きつい意識とそれに伴う胸の痛みをそらすため布団の上で絵を描いて布団の上で飯食って布団の上で音楽聴いて布団の上でスマホいらって布団の上でオナニーして布団の上で寝る、一生この繰り返しなんだろうなあと思った。
だったら、続けることは同じ痛みを伴うことで同じ痛みから逃げ続けることだと気づいた。だからこれ以上続けても意味はないだろう。もう見えてしまったのだから。
一人暮らしがまじで楽しい。人生で今一番元気だ。気が狂ってない。
同時にもう自分は誰とも一緒に暮らせないことを思い知った。愛と憎悪の間で揺さぶられるのはもうごめんだ。
このお口がいけない。誰にも執着してはいけない。あんたは何も掴めないしもらえないんだ、今までもずっとそういう思いしてきたから慣れてるだろ。
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いしきがきつい
恋をすると、なんでこんなに胸が痛むのだろう普通に生きてるだけでも痛いのに、もっと痛いことになる
今までなくてもへいきだった「好きな人」の存在がわたしの日常を、自分自身を、ばらばらに焼いていく、壊していく
自分を切り刻むかわりに、紙に線をかきなぐった
ボールペンのボールが沈んで壊れた
音楽でお腹いっぱいになるはずだったこの胸のすきまがうまらなくなってしまった
でもきっと自分だから、今回とてほしいものは何も得られないのだろうと、あきらめてしまうことが大事だと思うのです。その方が自分が傷つかなくてすむので。ね。
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私は子供だ。どこまでも子供のまま、20歳になる。
はやく漆の黒い海にさらわれたい。もうそこにいるんだろ、はやく迎えに来てよ。
そしてずっとずっと私を抱いて、深い海の底に沈めてほしい。
ペーパームーン
孤独を孤独と知るのがある程度大きく育ってしまってからだったので一回一回が落ち着くまでの苦しみが普通の人の比ではないような気がする。
セックスなんて悪いことでしょう。こんないらないガキが産み落とされてしまうのだから。誕生日は呪うべきものだ。これが苦しみの始まりであったことには自我が芽生えて程なくして気がつく。せっかく父が父の父たちを説得して子供生まれなくてもいい許可もらったのに、タイミング悪く自分は出来て生まれてしまった。
兄弟がいたらまだ違ったかもしれない。兄弟がいたら、こんなに1人遊びが上手にならなくて済んだだろう。もっと滑らかに人と関われただろう。しかし母はもうひとり産める身体ではなかった。そのことに関しては責めようがない。しかしそうならそうで自分のことも産んで欲しくなかったな。とたまに思うくらいは許してほしい。親子関係とは相互に作用する呪いだ。どちらかが無傷ということはあり得ない。間に挟むもの(人)が何もなかったという点においてもやはり兄弟は必要だったなと今振りかえってみてしみじみ思う。
愛情に飢えるのと、愛情に悪酔いして拒むのと、どちらが苦しいかなんていうのは決められることではないのはわかる。食事が与えられないのと与えられた食事を陰で全部吐くのとの違いだと思うが、どっちみち栄養失調になる。そして人間としての罪の重さは明らかに後者なのだろう。
自分はその後者であった。それを贅沢な悩みと言われることが自分の苦しみである。自分の感情のたいていは罪に値するのだと、無意識に思ってしまう。
愛情をかけられたり優しくされたり大事にされるとその分行動や言動を縛られたり期待されたりするような気がする。実際何パーセントの確率で相手がそう思っているのかはわかるわけないので結局は全て自分のものの捉えようで、自分の受け止め方を変えないと一生苦しいままだと知っている。というかちゃんと受け止められてすらいないかもしれないのでまずは「ちゃんと受け止める」という次元に行き着くところからか?
誰かに助けてほしかったりもしたのかもしれないけれど、自分が変わらないといけないことに気づいていた。誰のせいにもできないのが悔しくて悲しい。それこそ兄弟がいたら「誰かのせい」に日常的にできただろう。虐められるか、自分より出来が良いか悪いか、ぐれるか、何でもいい。自分よりも親の目を惹いておいてほしかった。
生に対する正当な劣等感をわかりやすく抱けたなら、それをバネに案外ものすごいパワフルに生きていけたかもしれない。少なくとも絵なんて描いてない。
大体のことに気力がなくなった今の自分は、諦念と開き直りで息をしている。井戸の底から、ああ、こりゃあもう無理だなあ、とへらへら笑っている。ただ、人生捨ててかかっている人間の地獄の底から生まれる力だけを信じている。孤独に克つには、それを覆い被せる程の強さがあればいいでしょう。もうその「強さ」の種類や意味などこの際何だってよい。
人は人以外で癒せるかを試すことだけが今の自分の拙い希望である。
晩夏と飢え
急に寒くなったから熱燗と牛スジ煮込みがどうしても食べたくて仕事帰りに近所をさまようもよく行く店は休み、うるさげなところに入る元気もなく、コンビニで買って家で食べた とてもまずかった コメの一粒一粒までもまずくなった。エアコンのリモコンが見当たらないから除湿もできず変な汗が収まるのをバイト先で貰ってきた期限切れの飴を舐めながら待つ。
基本的に生まれた理由ないし生きていたくないから大前提として死にたいんだけど、今生きてるのは生きてないとできないことがあるからで、常に選択にある死を今選んでないのはそれに論破されている状態にあるから 自分と生の知恵比べ 自分が勝ったら死ぬ。勝てない限りは大人しく生きてる。
生きてる理由はある、そこは別の話だと思ったんだけど生まれた意味=生きてる理由になるのか?説明できないけど別な気がした、昨日台所掃除しながらふとそう思った…
アルコール入れる時とタバコを吸う時以外は一ミリの隙間も脳みそに与えてはならんのです でないと自分の毒気に自分で当てられて死ぬ
自分のことは猫かなんかだと思ってるのでたまには高い缶詰を食べさせてあげないといけない。物を食べる意思がある時はまだ生きてたいのだなとしみじみ思う。愚かだとも思う。
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ひどい夢を見た
詳しい経緯は忘れたが好きな人ともっかい会うことになって、でもラインは夢の中でも消えてる設定である。
ライン電話だけはなぜか使えて、一回その辺で会って、みずとりの下駄のはなしをして、待ち合わせる店を教えてもらうんだけどもライン使えないから別れた後店の名前忘れて場所わからなくなって半泣きで彷徨うところで目が覚めた。寝坊した。
久しぶりに男の人を好きになってから改めて自分と世界の距離の取り方について考えた。
自分は誰かのそばにいていいような人間じゃない。物心ついた頃から自分の人生に人の影を感じることはなかった。自分では意識してなかったが人といると必要以上に気を遣ってしまうみたいだし例え大好きな人でも最終的に自分が悪酔いする。
料理も家事も子育てにも興味がないので家庭に収まることは子供の頃よりすでに選択肢から外れていた。共同生活への憧れもない。誰かと暮らすことがいずれものすごいストレスになることを親元にいるとき身をもって感じたのである。
従って、将来の展望がないのに付き合うとかなんとかは向こうに何もあげられるものが自分にないから難しいという結論に落ち着いた。
誰かと生きることは自分の生活信条に反する。大好きな音楽と週に二箱くらいのタバコ、あとはたまに外に呑みに行けるくらいの余裕があれば他には何もいらない。そうやって自分を慰めたりハッパかけながら大人しく死に場所を探しながら生きていく。やることきちんとやって出来るだけ早く死ねるように、準備はしていくつもりだ。生きている間はまっすぐ生きていたい、だから生活信条は曲げられない。誰かを好きになったりなんかしたらそれが曲がってしまうから厄介だ。
死にたいと人に言うのは失礼なことだとわかっている。だからもうなるべく人と話すまい。自分の話をすれば最終的にすべてはそこに向かう。
人生を誰とも共有したくない。誰も自分の人生に巻き込みたくない。だから誰も話しかけないでくれ、期待かけないでくれ
I was walkin'&sleepin'…
向こうは自分の名前を呼んでくれた、でも自分は一度も呼んであげなかった。自分が意気地なくて素直に優しさを受け止められなかった。
優しさをくれたのに自分は与え返すどころかうまく受け止められなかった。それが敗因です。人に優しくされるの怖かったんだよ、ごめんよ でも自分がどうやって生きていくべきかわかったよ。それだけが収穫だ。
ありがとう。ご馳走さまでした。早いとこお嫁さんをみつけて、後悔なき人生を送ってください。連絡つかない私のことは死んだと思っててください。ライブハウスで見かけてもそれは幻なので声かけないでください。もう今度から煙草も吸わずにすぐ帰るから大丈夫だよ。会わないよ。
それでも人を好きになってしまうんよ、辛いな