自然と共に
社会の中で生きるとは、法の下に生きること。
法は集団がうまくやっていくために必要なルール。だから、日々ルールを守り、ルールに守られている。
それだけでは、人は疲弊する。
時折、社会人としての自分をリセットする必要がある。
それは法の中に居ながら法の外に出ること。
例えば自然の中に身を置くこと。
自然はすべてを抱きかかえてくれる。
「厳父慈母」
法は父に、自然は母に例えられるゆえんだ。
そこで活力を再生し、法の下に還ってゆく。
かつて家庭や地域がその役割を担っていた時代があった。
しかし現在、それは非常に難しい。
ならば、その代理をする場をつくればいい。
多世界を生きる
整心療法研究所(埼玉県上尾市・大阪市・和歌山市)のブログへようこそ。
従来型の精神分析(無意識を意識化する)を凌駕し、新しい視点から人間の精神にアプローチする方法を研究中です。
今回は『多世界を生きる』について書きます。
現実と信じている世界は、実は世界の中の一つに過ぎない。量子力学の世界では定説になっているのだとか。
その視点から考えてみると、世界は今とはまったく違ったものに見えてくる。
選択してこなかった世界も平行して存在しているというのだから。ならば、後悔や不安など一掃される。あの時こちらを選択したけど、選択しなかった世界もパラレルにある。
じゃあどうすればそっちの世界へ行けるか。
そこまではできなくても、垣間見られるとしたらワクワクするではないか。
量子コンピュータが実用化され、当たり前になったら、タイムマシンであらゆる世界を旅できるかもしれない。
すべては可能態のまま、非決定のままだという。人が観察した時、一義的に決定するらしい。
私の見ている世界とあなたの見ている世界は全く違っていても何ら不思議はない。それを確認する方法はない。
私は私の多世界を生きる。それだけで豊かな人生が開ける。
捨てる、手放す
頭では分かっているけど、行動できない。
手放すことの不安に直面している。その不安を手なずけることがなかなかできない。
エイッと決意しても、不安が押し寄せてくる。そして捕まってしまう。
どれくらい繰り返しただろう。
そこにエネルギーを費やしてしまい、やがて疲れ果てる。「もういいや」と腰を下ろす。
誰にもありがちなこと。
捨てる、手放すこと=何もなくなってしまう。
こんな公式がどこかであるのではないか。
なくなる=消滅=空っぽ=穴=吸い込まれてしまう=恐怖etc
しっかり握った手にはそれ以上入らない、開いた時あらゆるものを掴める可能性が広がる。
捨てる、手放すの向こう側に描く世界によってそれは決まるのではないだろうか。
次の欲しい何か(しあわせ)を掴むために今掴んでいるものを手放す。
次の何かが間違いなく掴めるならきっと手放すことだろう。
ということは、今ある何かを捨てる、手放すことの不安よりも次の何かを掴むことの不安が大きいと考えられる。
捨てられない、手放せないのは実は次の何かに対しての安心感を描けないから。
それを描ければきっと捨てられる、手放せる。
こんなことを考えてみた。
しあわせへの道しるべ
しあわせは語ることではなく、味わうもの。
だから人それぞれ。共通の物差しはない。
私は私の物差しで測る。
あなたの物差しで私は測れない。
それを忘れないで。
そうすれば、この世界はもっと住みやすくなる。
私は私の物差しで私の世界を描くのだから。
すべての人はパラレルの世界を生きている。
交わることはある?
君の名は。のような形でしか交わることができないのかもしれない。
社会への関わり方
社会は象徴的なものが流通している。その最たるものはお金。単なる紙に特定の価値を付加し、承認することで流通している。
個人の自由にはならないもの。
そんな象徴的なものを個人がいかに掴み取るか。その方法さえ手にすればいい。その方法はたくさんある。
自由に合った方法を見つけ、社会の中で流通しているものをその手で自在に掴む。
それを使って社会の中で流通させればいい。そこには人の数だけ方法はある。
そう考えると見え方が変わる。
自分にやさしくする
人は社会の中で生きていく。そのために必要な知識やルールを教えられる。それがフロイトのいう超自我の核となる。
社会の中で生き易くするためのことではあるが、それが逆に個人の自由に生きたいとの想いを制限する諸刃の刃でもある。
うまく適応するはずが、いつの間にか自らの心を疲弊させ、やがて適応することにも疲れ果てる。それらのバランスが上手く取れなくなった結果でもある。
そんな時は、自分に厳しくなっている。
だからこそ、自分にやさしくなることが必要。
自分を許してあげる。
そんな時にいう言葉がある。
「今はこれでいい」
何度も何度でも自らの心に言う。
慰めるでもなく、褒めるでもなく、ただ今はこれでいいんだと言ってあげる。
そして、鏡に向かってにこっと笑顔を見せる。
それだけ。
好奇心をそそる
子ども時代に自発性を育てる環境を与えられた人は、興味を持ったことには積極的に参加することができる。これは当然。
自発性を何らかの要因で育てられなかった人は、自らのやりたいことが分からなくなるようだ。それが一番表面化する時期が思春期。
自発性を育てるには、好奇心が必要。
好奇心を一番育てやすい環境は、何といっても自然の中だと考えている。