「前神一心堂」の『水軍太鼓』、『よろい最中』 (愛媛県今治市)
狭い路地の途中に、創業120年余の老舗和菓子屋「前神一心堂」はあります。
昭和で時間が止まったかのような、なんともレトロな外観。
店内も素朴で、昔ながらのお菓子屋さんといった感じ。
店内も素朴で、昔ながらのお菓子屋さんといった感じ。
このお店では、大島・宮窪らしいお菓子を作っています。
いくつか紹介しますね^^
いくつか紹介しますね^^
まずは、『水軍太鼓』。
まん丸な形のお饅頭です。皮には「みやくぼ 水軍太鼓」の焼きが。
まん丸な形のお饅頭です。皮には「みやくぼ 水軍太鼓」の焼きが。
ふつうのお饅頭だと思って、一口食べてビックリ!
磯の味と香りが口の中に広がります。
磯の味と香りが口の中に広がります。
食べ終わった後、歯に海苔が付いてないか確認が必要なお饅頭というのも珍しいです^^
食べさせた人、みんなビックリしてましたよ。
食べさせた人、みんなビックリしてましたよ。
続いて、「よろい最中」。
鎧の形をした面白い最中です。
村上水軍博物館に展示されている能島村上氏伝来の鎧がモチーフだと思いますが、
なんだかすごい細かいとこまで再現されてます。
中にはやさしい甘さの餡が入ってます。
それと、蜜柑まんというお饅頭も有名。
まん丸なお饅頭の中には、蜜柑の皮入りの白餡がぎっしり。
しまなみの特産品、蜜柑を使ったやさしくて素朴なお菓子です。
鎧の形をした面白い最中です。
村上水軍博物館に展示されている能島村上氏伝来の鎧がモチーフだと思いますが、
なんだかすごい細かいとこまで再現されてます。
中にはやさしい甘さの餡が入ってます。
村上水軍博物館蔵の鎧 入場券の半券(ポストカード)撮影 |
それと、蜜柑まんというお饅頭も有名。
まん丸なお饅頭の中には、蜜柑の皮入りの白餡がぎっしり。
しまなみの特産品、蜜柑を使ったやさしくて素朴なお菓子です。
出迎えてくれたお店のおばちゃんは、長年一人で店を切り盛りする名物おばちゃん。
僕が訪ねた時も気さくに話しかけてくれました^^
いつまでも元気で伝統のお菓子を作り続けてほしいです。
僕が訪ねた時も気さくに話しかけてくれました^^
いつまでも元気で伝統のお菓子を作り続けてほしいです。
能島城 (愛媛県今治市)
★★登城33城目★★ 訪問日:2010年4月4日
【通称】 なし【城郭構造】 水軍城
【天守構造】 なし
【築城主】 村上雅房
【築城年】 応永26年(1419)
【主な城主】 能島村上氏
【廃城年】 天正13年(1585)
【遺構】 曲輪、岩礁ピット跡
【指定文化財】 国史跡
解 説
戦国時代、瀬戸内海を制圧した三島村上氏(来島・因島・能島)。その能島村上氏の本拠だったのが能島城である。
城の築かれた能島と鯛崎島は周囲長1km余りの小島で、島全体を三段に削平して曲輪を形成している。
本丸、二の丸、三の丸があり、東の尾根には矢櫃、南には東南出丸、能島のすぐ南の鯛崎島も頂部を
削平し曲輪が展開する。
城の構造は簡素で、通常の山城に見られる土塁や堀切は確認されていない。
周囲には最大10ノット(時速約18km)の複雑な潮流が取り巻き、渦巻く急流を天然の要害としている。
周囲には最大10ノット(時速約18km)の複雑な潮流が取り巻き、渦巻く急流を天然の要害としている。
なお、能島には水が得られないことから、近傍の鵜島や木浦から補給していたとされる。
対岸の宮窪には「幸賀屋敷」をはじめいくつかの城跡があり、これらが連携して本拠を防衛する
城塞網を構成していたと思われる。
戦国時代に瀬戸内海一の水軍勢力を誇った海賊衆、能島村上氏の城です。
対岸の宮窪には「幸賀屋敷」をはじめいくつかの城跡があり、これらが連携して本拠を防衛する
城塞網を構成していたと思われる。
感 想
瀬戸内海に浮かぶ能島に築城された能島城。戦国時代に瀬戸内海一の水軍勢力を誇った海賊衆、能島村上氏の城です。
一番上の写真は、対岸の山頂にあるカレイ山展望台から能島城を眺めたもの。
手前左側の島が「能島」、右側の小さい島が「鯛崎島」です。
この二つの島には、お城だった当時は橋が架かっていたそうです。
能島の奥に見えるのは「鵜島」という島で、先端の砂浜になってるところには造船所があった
と言われています。
手前左側の島が「能島」、右側の小さい島が「鯛崎島」です。
この二つの島には、お城だった当時は橋が架かっていたそうです。
能島の奥に見えるのは「鵜島」という島で、先端の砂浜になってるところには造船所があった
と言われています。
今回は、そのシャトル便に乗って能島城に登城しました!
宮窪港から船に乗って、5分ほどで能島に到着します。
コバルトブルーの海の色が綺麗です。
島に入ると、地元の子供たちが郷土芸能 能島水軍太鼓でお出迎え。
今回は海賊のお城ってだけで、なんだかテンションが上がります(笑)
城跡に建物は残っていませんが、曲輪がよく残っています。
左下の写真は、矢櫃という弓矢の訓練を行う場所だったとか。
戦国時代のお城らしく、矢の材料となる矢竹が植えられています。
瀬戸内の青い海と島々に囲まれて桜を見るというのもいいものです^^
コバルトブルーの海の色が綺麗です。
島に入ると、地元の子供たちが郷土芸能 能島水軍太鼓でお出迎え。
今回は海賊のお城ってだけで、なんだかテンションが上がります(笑)
城跡に建物は残っていませんが、曲輪がよく残っています。
左下の写真は、矢櫃という弓矢の訓練を行う場所だったとか。
戦国時代のお城らしく、矢の材料となる矢竹が植えられています。
能島の海沿いを歩いていると、岩礁に左下の写真のような穴がいくつも見つかります。
これは岩礁ピットと言って、繋船施設の柱穴跡なんだそうです。
上の右の写真のように、船を繋いでいました。
城全体で400基近くあるそうです。
上の右の写真のように、船を繋いでいました。
城全体で400基近くあるそうです。
そして能島城の特徴はなんといっても、島を取り巻く潮流です!
宮窪に戻って、村上水軍博物館の前にある船乗り場から、能島周辺の潮の流れを間近で見られる
「潮流体験」という船が出港しています。
こちらは年中運航。
宮窪に戻って、村上水軍博物館の前にある船乗り場から、能島周辺の潮の流れを間近で見られる
「潮流体験」という船が出港しています。
こちらは年中運航。
さっそく乗船します。
能島周辺に付くと、海の水が川のようにゴーゴーと流れています!
波立ってるのは船のあとじゃありません。
途中、船のエンジンを止めるイベントがあるんですが、潮流に流されて船が横滑りするんです!
「湧き潮」や「うず潮」も見ることができました。
満潮、干潮時はもっとスゴイそうですよ。
この潮流に囲まれていれば、敵の船は容易には城に近づけないでしょう。
波立ってるのは船のあとじゃありません。
「湧き潮」や「うず潮」も見ることができました。
満潮、干潮時はもっとスゴイそうですよ。
この潮流に囲まれていれば、敵の船は容易には城に近づけないでしょう。
このあたりは瀬戸内海の主要航路でもあったそうで、一般の船舶には潮流を熟知した海賊衆が
水先案内人を務めて、お金を稼いでいたんだそうです。
水先案内人を務めて、お金を稼いでいたんだそうです。
「松屋菓子舗」の『鶏卵素麺』 (福岡県福岡市)
菓子の栞にはこんな注意書きが。
「このお菓子は形が素麺に似ていますので、湯などをかけられる方もあるように
聞き及んでおりますが、湯水をかけられず、このまま適当な寸法に切って、お箸で
お召し上がりください。」
聞き及んでおりますが、湯水をかけられず、このまま適当な寸法に切って、お箸で
お召し上がりください。」
確かに未加工の鶏卵素麺の見た目は乾麺みたいだし、名前も素麺だし。
気持ちはわからないでもないですが、、、
いるんでしょうね。お湯かけちゃう人(笑)
気持ちはわからないでもないですが、、、
いるんでしょうね。お湯かけちゃう人(笑)
そもそも、「鶏卵素麺」の元はポルトガルから伝わった南蛮菓子。
「フィオス・デ・オーヴォス」ポルトガル語で「卵の糸」を意味するお菓子だそうです。
砂糖が高級食材だった時代、卵黄と砂糖のみで出来ている当時としては夢のお菓子です。
「フィオス・デ・オーヴォス」ポルトガル語で「卵の糸」を意味するお菓子だそうです。
砂糖が高級食材だった時代、卵黄と砂糖のみで出来ている当時としては夢のお菓子です。
このお菓子に330余年の昔、長崎の平戸を訪れた松屋菓子舗の初代 利右衛門が出会います。
その味に感動した利右衛門は、点心師の鄭(テイ)さんという人に製法を伝授してもらい、
さらに、それを日本の風土に適応するように研究工夫をかさねて完成したのが「鶏卵素麺」です。
その味に感動した利右衛門は、点心師の鄭(テイ)さんという人に製法を伝授してもらい、
さらに、それを日本の風土に適応するように研究工夫をかさねて完成したのが「鶏卵素麺」です。
では、さっそくいただきます!
口の中で金の束がほろほろと解けていく。
そして噛みしめるたびに、ジワっと甘い蜜が舌に広がります。
その甘さの中に、卵黄のふんわりとした風味が。
口の中で金の束がほろほろと解けていく。
そして噛みしめるたびに、ジワっと甘い蜜が舌に広がります。
その甘さの中に、卵黄のふんわりとした風味が。
普通の和菓子とは、やはり少し趣が違います。
それにしてもこの甘さ。作られた当時は衝撃的な甘さだったことでしょう。
贅沢な甘さと風味に、当時の人達は異国を感じたのかもしれませんね。
贅沢な甘さと風味に、当時の人達は異国を感じたのかもしれませんね。
福岡城 (福岡県福岡市)
★★登城32城目★★ 訪問日:2010年3月21日
【通称】 舞鶴城、石城【城郭構造】 梯郭式平山城
【天守構造】 不明
【築城主】 黒田長政
【築城年】 1601年
【主な城主】 黒田氏
【廃城年】 1871年
【遺構】 櫓4棟・門3棟、石垣、堀
【指定文化財】 国史跡
(出典:ウィキペディア)
はじめ名島城に入城したが、領国経営の利便性を考えて慶長6年(1601)、この地に福岡城を築城し、
ここが明治まで黒田氏の居城となった。
解 説
関ヶ原の戦いの戦功により黒田孝高(如水)、長政親子に筑前が与えられた。はじめ名島城に入城したが、領国経営の利便性を考えて慶長6年(1601)、この地に福岡城を築城し、
ここが明治まで黒田氏の居城となった。
普請奉行は石垣積の名人と言われた野口一成が務め、今もなおその規模の雄大さを誇っている。
そして、その球場の下から福岡城が築城されるよりもずっと前にあった建物「鴻臚館」の跡が
発見されます。
鴻臚館は平安時代に建てられた古代の迎賓館で、唐や新羅からの使節や商人をもてなすのに用いられた
建物です。
現在も発掘調査が続けられています。
発見されます。
鴻臚館は平安時代に建てられた古代の迎賓館で、唐や新羅からの使節や商人をもてなすのに用いられた
建物です。
現在も発掘調査が続けられています。
また、「福岡」という地名も、実はお城の築城にあたって付けられたもの。
当時、この辺りは「福崎」と呼ばれていたのを、黒田家再興の地である備前国福岡の地名にちなみ
「福岡」と改めたのだそうです。
もし、地名がそのままだったら「福岡県」は「福崎県」だったかもしれなかったのかな?
当時、この辺りは「福崎」と呼ばれていたのを、黒田家再興の地である備前国福岡の地名にちなみ
「福岡」と改めたのだそうです。
もし、地名がそのままだったら「福岡県」は「福崎県」だったかもしれなかったのかな?
現在、福岡城には数基しか櫓が残りませんが、その中で一番立派なのが南の丸多聞櫓。
江戸時代から城内にそのまま残っている数少ない建物のひとつです。
南の丸に長~い平櫓の両端に2階建ての角櫓を備えて存在感を放っています。
江戸時代から城内にそのまま残っている数少ない建物のひとつです。
南の丸に長~い平櫓の両端に2階建ての角櫓を備えて存在感を放っています。
そして、福岡城には巨大な天守台があります。
大天守、中天守、小天守が連結する天守台は、立派な石組に圧倒されます。
ここに実際に天守が建てられたかは不明だそうですが、もし建てられていたら熊本城の天守と
同規模のものになるそうです。
大天守、中天守、小天守が連結する天守台は、立派な石組に圧倒されます。
ここに実際に天守が建てられたかは不明だそうですが、もし建てられていたら熊本城の天守と
同規模のものになるそうです。
決定的な資料が見つかれば、ぜひ復元してほしいものです。
移 動:市営地下鉄空港線「赤坂駅」下車~徒歩5分
特産品:博多ラーメン、明太子、鶏卵素麺
写真04:扇坂御門跡/写真05:本丸表御門跡/写真06:祈念櫓
写真07:本丸跡/写真08:鉄御門跡/写真09:埋門跡
写真10:小・中天守台/写真11:天守台/写真12:天守跡
写真13:裏御門跡/写真14:御武具櫓門跡/写真15:生捕櫓跡
写真16:水ノ手御門跡/写真17:南丸多聞櫓/写真18:桐木坂御門跡
写真19:名島門/写真20:母里太兵衛邸長屋門/写真21:下ノ橋御門
写真22:伝・潮見櫓/写真23:下之橋/写真24:大堀
見どころ
南の丸多聞櫓、天守台、潮見櫓、祈念櫓、下の橋大手門情 報
住 所:福岡県福岡市中央区城内移 動:市営地下鉄空港線「赤坂駅」下車~徒歩5分
特産品:博多ラーメン、明太子、鶏卵素麺
Photo
写真01:上之橋/写真02:上之橋御門跡/写真03:東御門跡「一蘭」の『博多ラーメン』 (福岡県福岡市)
初めてお店に入った時は、びっくりしますよね。
食券を買って案内されるのは、クイズ番組でもするの??と思うような左右に仕切りがある席。
「味集中カウンター」って言う名前らしいです。
「味集中カウンター」って言う名前らしいです。
確かに周りを気にせずに、ラーメンと向き合える気がします。
女性ならラーメン食べる時、うっかり自分の髪の毛まで一緒に食べてても大丈夫!誰も見てない。
女性ならラーメン食べる時、うっかり自分の髪の毛まで一緒に食べてても大丈夫!誰も見てない。
オーダー表で麺の硬さとかを選んで、しばらく待つと、来ましたよ。おいしそうなラーメンが^^
カウンターにラーメンが置かれると、店員さんが正面の暖簾も下げてくれます。
これで左右と前を仕切られて、目の前にはおいしそうなラーメンのみ。
カウンターにラーメンが置かれると、店員さんが正面の暖簾も下げてくれます。
これで左右と前を仕切られて、目の前にはおいしそうなラーメンのみ。
舞台は整った。いざ実食!!
スープを飲んで、麺をすすって。やっぱおいしい!
もちろん食べ終わったら、替え玉!
博多の味を満喫しました^^
博多の味を満喫しました^^
大野城 (福岡県大野城市)
★★登城31城目★★ 訪問日:2010年3月22日
【通称】 なし【城郭構造】 山城(古代朝鮮式)
【天守構造】 なし
【築城主】 大和朝廷
【築城年】 天智4年(665)
【主な城主】 不明
【廃城年】 不明
【遺構】 石垣、土塁、門跡、礎石群
【指定文化財】 国特別史跡
北は博多湾から南は筑後方面を眼下に納める絶好の場所に立地し、山頂と山腹に土塁が、谷間には石垣が
構築されている。
また、山頂や稜線を土塁や石塁で取り囲んだ城郭内には食糧の備蓄や居住に利用されたと考えられる70棟
余りの建物の礎石が残されている。
構築されている。
また、山頂や稜線を土塁や石塁で取り囲んだ城郭内には食糧の備蓄や居住に利用されたと考えられる70棟
余りの建物の礎石が残されている。
四王寺山の山中には、現在も至るところに石塁や礎石群が残っています。
それでは、古代山城の遺構を求めて散策してみましょう!
それでは、古代山城の遺構を求めて散策してみましょう!
太宰府から林道を登ってくると大宰府口城門に辿り着きます。
この城門は、大宰府政庁側に位置し、幾つかある城門の中でも規模が最も大きいことから大野城の正門では
ないかと考えられているそうです。
城門に接して左手には石塁(水の手口石塁)が、右手には土塁が築かれています。
明らかに人口的な土塁や石塁が張り巡らされている様子に、当時の緊張感を感じることができます。
この城門は、大宰府政庁側に位置し、幾つかある城門の中でも規模が最も大きいことから大野城の正門では
ないかと考えられているそうです。
城門に接して左手には石塁(水の手口石塁)が、右手には土塁が築かれています。
明らかに人口的な土塁や石塁が張り巡らされている様子に、当時の緊張感を感じることができます。
城門から少し歩くと、尾花礎石群(上写真左)という建物の跡が。
食糧や武器を保管する倉庫として建築されたものだそうです。
近くには、焼米ヶ原(上写真中)というところ。
なんでも、昔ここに建物があり、火災で焼けたという言い伝えがあるそう。
辺りを探せば、黒く炭化した米や麦が見つかるそうです。
しばらく地面を探してみましたが、残念ながら発見できませんでした。
なんでも、昔ここに建物があり、火災で焼けたという言い伝えがあるそう。
辺りを探せば、黒く炭化した米や麦が見つかるそうです。
しばらく地面を探してみましたが、残念ながら発見できませんでした。
ここからの景色も最高です。
八ツ波礎石群という建物の礎石跡。
結構な広範囲に、四角く区画された礎石の跡があります。
どんな役割の建物が建っていたのでしょうか?
結構な広範囲に、四角く区画された礎石の跡があります。
どんな役割の建物が建っていたのでしょうか?
さらに先に進むと、大野城最大の見どころ百間石垣が見えてきます。
どどーんと長大な石垣が奥まで続いています。
谷間に当たるところは、土塁ではなく、石を積み上げてダムのような石塁を築いているそうです。
こんな石塁や土塁が、山をグルっと取り囲んでるというんだから、相当な労力がかかっただろうな。
この百間石垣をはじめ、大野城の多くの石垣が、近年の集中豪雨で被害を受けたのだそう。
復旧工事で今の姿まで復元したそうで、工事にあたった方にも頭が下がります。
どどーんと長大な石垣が奥まで続いています。
谷間に当たるところは、土塁ではなく、石を積み上げてダムのような石塁を築いているそうです。
こんな石塁や土塁が、山をグルっと取り囲んでるというんだから、相当な労力がかかっただろうな。
この百間石垣をはじめ、大野城の多くの石垣が、近年の集中豪雨で被害を受けたのだそう。
復旧工事で今の姿まで復元したそうで、工事にあたった方にも頭が下がります。
道を挟んで反対側には、北石垣(上写真右)という大きな石垣も。
四王寺山の名前の由来となった、四王寺の跡(上写真右)。
その先に大石垣という名前の通り大きな石垣があるんですが、標識に従って歩くと急斜面が。。。
でも確かに下には石垣らしきものが見えます。
でも確かに下には石垣らしきものが見えます。
滑り落ちるようにして、斜面を下るとありました大石垣。
この石垣も大雨の被害を受けて、修復されたものです。
とはいえ、高さも長さもなかなかのもの。
下って来た斜面も、どうやら石垣の上だったみたいです。
この石垣も大雨の被害を受けて、修復されたものです。
とはいえ、高さも長さもなかなかのもの。
下って来た斜面も、どうやら石垣の上だったみたいです。
最後は増長天礎石群。
土塁に囲まれた、建物跡がいくつかあります。
食糧庫として使われたそうです。
すぐ近くには円形の井戸跡、鏡池(上写真右)。
池の底には鏡が沈んでいるそうで、日照りが続く時には、この池に沈んでいる鏡を取り出して雨乞い
をしたといわれています。
今でも、水が湧きだしています。
土塁に囲まれた、建物跡がいくつかあります。
食糧庫として使われたそうです。
すぐ近くには円形の井戸跡、鏡池(上写真右)。
池の底には鏡が沈んでいるそうで、日照りが続く時には、この池に沈んでいる鏡を取り出して雨乞い
をしたといわれています。
今でも、水が湧きだしています。
「梅園」の『梅守』 (福岡県太宰府市)
お店に入って物色していると、お店の方がお茶を出してくださいました。
お茶なんか出されたら、試食の手が止まらなくなります^^
片っ端から試食して、今回は『梅守』というお菓子を購入しましたよ。
お茶なんか出されたら、試食の手が止まらなくなります^^
片っ端から試食して、今回は『梅守』というお菓子を購入しましたよ。
食べると、お煎餅のサクッという食感の後に、滑らかな漉し餡の上品な甘さ。
甘さの加減といい、なんとも気品のあるお菓子です。
甘さの加減といい、なんとも気品のあるお菓子です。
大きさはレギュラーサイズとミニサイズがあります。
上の写真のはレギュラーサイズ。
上の写真のはレギュラーサイズ。