そのしくみ、気になるぜブログ

世の中のほとんどが「しくみ」で成り立っています。見えそうで見えない「しくみ」を自分なりに解釈していくブログです。

寄らば大樹の陰?その1

今いる組織だけなのか、日本全体のことなのかわからないけれど、
従業員が数十人の零細企業から、従業員何百人の中堅企業に転職して衝撃だったのは、
今期の目標なんかで○○の効率化!とか、○○の生産性向上!なんてことを口酸っぱく言っているのに、本当は効率化なんてしてはいけないと、みんなが心のなかで思っているということだ。

効率がUP→空き時間がUP→仕事量がUP→時間あたりの生産性がUP→会社の業績がUP→個人の評価がUP→報酬として給料がUP→モチベーションがUP→効率がUP→・・・・・というUPの好循環が続けばいいんだけど、こんなのは机上の空論であることをみんな気づいている。

実際のところは、効率化しても、評価が上がるわけでもないし、仕事が減るわけでもないし、早く帰れるわけでもないし、もちろん給料が上がるわけではないから、賢い人間ほど、ズルをするようになる。ズルというのは、仕事をしているフリだ。

年配の人の労働観には、未だに長時間労働の美徳が根付いている。
定時上がりが続いたとき「お前最近早く帰りすぎだよ。仕事してるの?」みたいな理由で怒られたことには驚きを隠せなかった。

もっと驚くことに、その当人は、部下の見えないところでソリティアをしている。そして帰りが遅い。
念のためいっておくと、ソリティアをしているから帰りが遅いとは断言しない。
ソリティアをすることによって、集中力が上がり、業務効率が上がっている可能性は一概には否定できないからだ。笑

個人的には思うのは、今のこの組織をきちんと効率化すると、おそらく1/4くらいの従業員は職を失うことになるだろうということだ。
効率化して無駄を省くと、従業員そのものが無駄になるというのは滑稽な話だが、これは事実だ。
ただ、そんな正論を言う人はいない。
無駄や非効率を抱えていないと、自分のクビが飛ぶかもしれないからだ。
多くの従業員は、自分の仕事の成果ではなく、自分の時間を切り売りして生活費を稼いでいる。

ここまで、従業員目線で会社の業務を効率化することの無意味さを書いてきたが、
それでも効率化を目指すことにんには、個人レベルでメリットがあると思う。
長くなったので、次稿はその理由を考えてみようかと思う。

旅をすると心が動く心情のしくみ

石田ゆうすけの「行かずに死ねるか!」を読んだ。

まぁ有り体にいうと、旅に出たくなった。

旅の本を読むと旅に出たくなるのは、現代社会に生きる人間の性なのかもしれない。

 

一口に旅に出たくなるといっても、その奥に眠る動機は人それぞれだと思う。

だが、その主な原因としては、以下の2つなのではないだろうか。

1.旅先での風景、景色の描写に心を打たれて自分も見に行きたいと思うパターン

2.旅先で現地人との交流を通じて旅人が精神的に成長する様を読んで感動し、自分もこんな素敵な出会いがしたいというパターン


どうだろう?

後者を好む人が多いのではないだろうか。ちなみ僕が好きなのも後者だ。

なぜなら風景の描写なら旅のガイドブックを見れば事足りるからだ。


本書では著者である旅人が北米から南米を縦断し、次にヨーロッパからアフリカを縦断し、最後にユーラシア大陸を横断し世界一周を果たすという流れだ。

僕が一番心打たれたのが、アフリカで生きる人との関わりを書いた場面だ。

現地での人との触れ合いを経て生きるとは何かを考えている筆者の姿は、心なしか他の章よりもアツかった気がする。

アフリカ。

インドではなく、アフリカだ。

そこでは、貧しくも清らかな心を持った現地人のやさしさが溢れ、人が生きることの美しさを感じざるをえなかった。

ではなぜ、アフリカの人たちは、心がきれいなのか?なぜインドではないのか?

思うに、人の心が純朴かどうかというのは、貧富の差ではなく、その人が関わった人の絶対数に反比例すると思う

アフリカの住民たちは基本的に物や情報に恵まれておらず、数少ない隣人と数少ない物を共有しながら暮らしている。

当然そこではコミュニティ意識が強く働くため、人は悪いことはできない。

悪いことをするとそのコミュニティから追い出されてしまうため、生きていけなくなるからだ。

そんな中で育った子供たちは当然、そんなに悪いことはしない。

一方で、人との関わりが量的な意味で多い都会などでいると、いろんな人が自分に関わってくる。
もちろんその中にはいい人もいるし、悪い人もいる。
そんな場所では、一人ひとりへの関心が弱くなる。
コミュニティ機能が働かず、人に感謝されることも少なくなれば、悪い人を断罪する人も少なくなる。
人間関係は希薄化し、人は人を疑うようになる。
こうやって純朴な人は純朴でなくなっていく。

別にアフリカでなくとも、日本でもある程度は同様のことが起きているはずだ。

田舎の人間が騙されやすいのはこのせいだと思う。

 

あともう一つ、彼らのような人たちの特徴は、生きていることに全力を投じていることが特徴的だ。
そして、そんな彼らに我々は感動するのだ。

なぜか?

彼らは明日を生きるために水を得なければならない。食料を得なければならない。

生きていくために子供を作り、その子供たちはまた生きるために懸命にもがき続ける。

そうして生きる力をつけた子供たちが大人になっていく。

それに対して、先進国に生きる我々は、社会のしくみのおかげで、自分で生きようとしなくても生きていける。

逆にいうと、憲法や法律、経済のしくみによって守られているため、ちょっとやそっとでは死ぬことができない。

死ぬ人がいないものだから、死が非日常のものになっていき、人々は死を忘れていく。

 

自分が死ぬかもしれないという可能性を忘れたとき、生きているという素晴らしい可能性をも忘れてしまうのが人間なのだと思う。


 

行かずに死ねるか!―世界9万5000km自転車ひとり旅 (幻冬舎文庫)

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肩書き

最近、◯◯セラピスト、◯◯トレーナー、◯◯アドバイザー、◯◯コンシェルジュのような肩書をついた名刺をもらうことが多い。

こういった名刺を配る人の100人中95人くらいは、何をしているのかわからない。

そして本人自身、自分の肩書について明確に説明できる人は少ない。

 

人は、自分に自信がない人であればあるほど、肩書きに頼りたがる一面がある。

 

肩書が力を発揮するときはいつだろう?と考えてみるとよい。

そもそもだが、肩書きにはそれ自体には力はない

肩書きの価値は、肩書が乗っかっている組織の力の大小に左右される。

 

例えば、IBMで働いている人であれば、課長であれ部長であれ、係長であれ、

「おぉなんかすげー」ってなる。

つまり、組織に力があればどんな肩書であれ、力を持つことになる。

 

逆に、組織に力がなければ、どんな立派な肩書であれ、力は持たないと考えてよい。

 

むしろ、変な肩書によって逆ブランディング、つまり、自滅する可能性が高い。

 

ちなみに、その名刺はトラッシュボックスに直行しました。

実質○○円という巧妙な手口

ものを買うときに考えるのが、そのものは実質いくらで買えるのか?ということだ。

定価は10,000円だが割引が5,000円あるから、つまり実質は5,000円でそのものが買えるよね!ってことである。

これはよくインターネット回線や携帯電話などでよく見かける販売手法だ。

ここでは、割引もしくは特典がいつもらえるのか?ということが非常に大事だという話をしたい。

 

先日、見に覚えのないギフトカードが自宅に届いた。

送り主を見ると、三井○友カードからだった。

そこで記憶を掘り起こしてみると、半年くらいまえにクレジットカードを作ろうとウェブから申込をしたときに、そんな特典があったようななかったような、と薄らぼんやり思い出した。

正直、そんな特典がもらえるということを忘れていたときに、ギフトカードが届いたものだから、気分的には棚からぼた餅である。これはかなり気分がよかった。

 

対照的な話なのだが、ビッ○ローブでインターネット回線を買った時の話をしよう。

実家のインターネット回線を契約したときの話だ。

このとき、キャッシュバックの特典があったのだが、その条件が、契約して1年後の所定の期間に、所定のウェブページからキャッシュバックの申込をして初めて特典が受けられるというものである。

忘れっぽい僕は、もちろんこの特典をみすみす逃してしまったことはお察しのとおりである。

 

どうだろう?契約するときは、ふむふむ、これは覚えておかないといけないなと思いながら契約するが、結局1年後にはその特典そのものを忘れている人は珍しくない

そうなれば企業側からすると、実際の契約者全てにキャッシュバックをする必要がない。

 

これは消費者の購買特性をついた見事な広告手口で、特典を逃したときは、消費者としてはぐぬぬ・・・だったが、販売者の視点で考えてみると舌を巻いたものだった。

 

つまり、

 ①電気、ガス、水道、通信、保険などのライフライン

かつ

②料金が自動的に引き落とされる

商品については、契約時にはよく考えるが、一度契約してしまうと、契約の内容を忘れてしまうという特性を利用したものだ。

 

僕のようにすぐに忘れてしまう人は、特典での還元率が多少下がったとしても、すぐに受け取れる特典、もしくは、自動的に受け取れる特典がある商品を選択したほうが、結果的に得することを体感した。

「◯◯するなら読んでおくべき◯冊の本」という謎の紹介

ブログをやる目的は人それぞれだ。

 
アフィリエイト目的でブログをすることについては、批判の気持ちなどこれっぽっちもない。
 
ただ、ものすごく違和感がある記事が最近多いので、その違和感について自分の気持ちを記事にしておいてもバチは当たるまい。
 
その違和感とは、タイトルにあるような、「◯◯するなら読んでおくべき◯冊の本」というタイトルで書かれている記事だ。
 
何に違和感を感じるかというと、何十冊という本を紹介している(もちろんアフィリエイトリンクで)記事なのに、その書評は数行(!)ということが珍しくないからだ。
 
それってどっかからコピペしてきたんじゃないの?と言わざるを得ない。
 
紹介というしくみの本質は、紹介した人が持つ付加価値を紹介される物にくっつけることだと思う。
 
一番分かりやすいのが芸能人による広告だ。
「みんなもよく知っている私も、この商品を使ってます!こういうところがいいんです!」って言う芸能人の広告は、ざっくりいうと広告という媒体を使って芸能人から紹介を受けていると考えることができる。これは芸能人であることの付加価値を商品にくっつけているのだ。
 
では我々一般の人が商品に価値を与えるためにはどうしたらいいのだろうか?
もちろん、芸能人みたいな広告効果はない。
商品についてのコピー、つまり紹介文こそ、ネット紹介の一番大事な肝だと思う。
 
よくわからない人が、出処のわからない文章を数行載せて、何十冊の本をこれいいから買ってよね!って言ってる。これに何の価値があるのか。
 
アフィリエイトの面で考えると、短期的には収益が上がるのかもしれない。
PVがあるブログなら、商品をずらーっと並べるだけで効果的なのかもしれない。
 
ただ、私ならそんなブログは次からは読まない。
 
極論かもしれないが、1記事に1商品みたいな縛りを設けるとずいぶんと健全化するのではないだろうか。
 
ブログは読まれてなんぼなので、アフィリエイトのしくみだけ考えてもしょうがない。
人の気持ちにもしくみがあることを忘れてはならない。

さぁ、しくみを知って人生を取り戻そう

はじめまして、気になるマンです。

 

私は社会人としてはまだまだヒヨッコのどうしようもない人間ですが、こんな人間でも四半世紀を生きたあたりから、世の中って自分の意志ではどうにもならないことがわかってきました。

 

私は大学を卒業してからなんとなくサラリーマンになって、半年くらい旅人をした後、またサラリーマンになりました。

旅人をしている最中は、自分は自由だなんて勘違いをしていましたが、結局、お金がなくなってからはまたサラリーマンをして社会のしくみに組み込まれないと生きていけないようになりました。

 

ほとんど人がそうであるように、会社という組織のために働き、会社という組織からサラリーをもらうことによって生活をしています。

ではその会社がそのしくみの大元なのかというと、もちろんそうではなく、会社もまた別のしくみに組み込まれた一部でしかありません。

 

家庭から憲法まで、全てしくみでなりたっています。

しかも私たちは、生まれたときからそのしくみの一部として生きているので、しくみに組み込まれたパーツであることも意識していません。

 

ある日、私は気づきました。

世の中がしくみで成り立っているのに、そのしくみをほとんど知らないというのは、もしかしたらとても危ういことなんじゃないか。

本来、しくみというのはツールであって、主ではなく従のはず。

ところが今はしくみが主で、個人の存在が従になっているのでは。

くそー、しくみに利用されたままで終われるはずがない。

世の中のしくみを知り、そのしくみを利用できるようになってこそ、初めて自分の人生の舵取りをしていることになるんじゃないか。

そんな思いから、世の中のしくみ、特にお金周りのしくみを調べていこうと思い立ち、このブログを始めることにしました。

 

さぁ、しくみを知ろう。