ぶきっちょさんの共働き入門

2021年夏より家族でアメリカ居住。異国暮らしとキャリア断絶について考える日々

【育児】お母さんなんだから

「お母さんなんだから、痛い思いをして産んでこそ愛!」

「お母さんなんだから、子供が小さいうちは自分で面倒見なきゃ!預けるなんて可哀想!」

息子を授かってからずっと、周囲からの「母親かくあるべき」というプレッシャーに息苦しさを感じていたのだと思う。

 

出産が怖くて仕方ない、陣痛が来るのが怖いと泣いたあの日の私も、

育休から復帰してずっと「子供がかわいそう」と言われてきたあの日の私も、

アメリカで出来た子沢山ママたちのおかげで、後ろめたさや罪悪感と一緒に丸ごと吹き飛ばされてしまった。

 

彼女たちは、私の不安をガハハと笑い飛ばして言う。

「ママだって人間なんだから、痛いのは嫌だし、子供と24時間一緒にいるのは疲れるよ!愛情の大きさとは別の話!パパは出産を経験してないし、毎日仕事で一緒にいるわけじゃないけど、愛情はあるわ!それと一緒!」

そりゃあそうだ。世の愛情あふれるパパたちに失礼な話である。

でもそれを、面と向かって「当たり前でしょ」と言ってくれた人は私にはいなかったから。

 

アクシデントで麻酔が効かなかったために4人目の子供にして初の普通分娩を体験した友人は、のちに「あれは人間が体験していい痛さじゃない。人間の耐えられる痛みではない。もう子供は怖くて産めない」と語る。

そうか、私が軟弱だっただけじゃないんだな。あれは普通に「人間の耐えられる痛みじゃない」と言っていいやつなんだな、とほっとした。

 

そして働いている間だけでなく、夫と二人きりのデートをするためにもバンバン子供を預ける彼女たちは、日々子供たちへの愛情をこれでもかと表現している。

迎えにいけば「会いたかったわよ!」と満面の笑顔で抱きしめ、ダメなことをすれば「なぜダメなのか」をしゃがみこんで子供と目線を合わせながら根気強く語り、本人たちの前で「うちの子がいかに素晴らしいか」を友人や親せきに話す。

一緒にいる時間が長いだけが愛情ではないのだ。彼女たちの子供たちへの愛情が、日本式より劣っているとは私には思えないから。

 

もちろん無痛分娩のリスクを回避するために普通分娩にする人もいれば、こどもと一緒にいたいから、と仕事を辞めるママもいる。アメリカだけが最高とも思わないし、全アメリカ人ママが同じ思想であるはずもないけれど。

 

それでもここでは「お母さんなんだから苦労しなきゃ!」という根拠のないプレッシャーを周囲から無遠慮に浴びせられることはずっと少ないように感じるし、息苦しさから随分解放された。

あの日のわたしの肩をバンバン叩いて、大丈夫だと笑ってやりたい。ガハハ。

 

【アメリカ生活】ごはんを毎日つくるということ

ごはんは毎日つくるもの。

もちろん毎日ちがう献立を、できれば品数多く、なるべく彩も豊かに。

きちんときちんと。

いつの間にか自分自身にかけていた「毎日ごはん」の呪い。その呪いから解放されて、ちょっぴり肩の荷がおりた出来事。

 

 

アメリカに住み1年と少し。定期的に会う友達も増えた。その仲間内での日常会話で頻繁に登場する質問に「今日、あなたは料理をする予定?」がある。とくに疑問も持たずに「料理するよ~」と答えていた私だったけれど、ある日いぶかしげに聞かれた。

 

「あなたはいつも料理をしているようだけど・・

 週にいったい何回料理をしているの?」

「どういう意味?

 ・・料理は毎日しているよ。ごはんは毎日食べるでしょ?」

「なんてこった!毎日料理をするなんてクレイジーね!」

 

聞けば、週に数度は旦那さんが料理をするからする必要がないだとか、「煮込み料理をドーンと鍋一杯!」「オーブン料理をドーンと皿一杯!」に大量につくって数日かけて食べきるだとか、週に一度は友人の家で食べる(お互いに行き来しあう)だとかで、料理の負荷は最小限にしているのだとか。あの手この手である。

私が毎日家族みんなの食事を日に三度用意していると聞いた友人たちはこぞってアドバイスをしてくれた。「肉も野菜も一緒に調理してしまえば、一品でも必要な栄養はとれるのよ」「料理は保存容器に入れて冷凍しておくと腐らないのよ」「スープはたくさんつくって冷蔵庫に入れておけば数日大丈夫」「カップラーメンって知ってる?」などなど。

 

彼女たちにとって、料理をすることは立派な「予定」なのだ。毎日当たり前にするべきことではなく、効率化するべき、大変で、立派な「仕事」なのである。外での仕事を持っている、持っていないに関わらず、だ。

日本で共働きをしていたころは週末にまとめて作り置きをしていたし、何日か同じ献立を食べることに罪悪感もなかった。しかし、夫の海外赴任を機にアメリカに帯同し専業主婦となった今、料理はいつの間にか「毎日きちんと」しなければならない義務になっていた。誰に言われるでもなく。

 

毎日ちがう献立を、できれば品数多く、なるべく彩も豊かに・・だなんて、夫も息子も、ちっとも気にしないに違いないのに。そりゃそうだ、カレーしかり炒め物しかり、茶色い一品料理はいつだってテンションがあがるし美味いのだ。

家族がお腹いっぱい食べられて、健康でいられること。にこにこと食卓を囲めること。

「ごはん」はそれで充分なのかもしれない。

 

料理が陣取っていた生活の余白。その分で友達と会ったり、息子と粘土で大作をつくったり、面白い映画を見つけたり。

するとほら、減らした品数の分だけ、楽しい話題が夕食の場に増えるのだから。

【今週のお題】冷やし新幹線、はじめました。

「冷やし新幹線、はじめました」

ふと夏の甘酸っぱい麺類を宣伝する看板が頭をよぎった。チリーンという風鈴の音色付きで。

 

たまごポケット。

冷蔵庫をあけてすぐ、ドアの内側に備え付けられているあのスペース、よそのご家庭では何が収納されているのだろうか。以前の我が家では、たまごの居場所だった。なんせたまごポケットというくらいなので。

たまごは万能食材。調理に使用する頻度が高いためなのか、冷蔵庫内で最も取り出しやすい位置にある。まさに特等席。

そんな食品の特等席であるはずの我が家のたまごポケットには、たまごよりも少し小ぶりな新幹線たちが仲良く3台、神妙な面持ちで眠っている。

 

息子がプリスクールから汗びっしょりで帰宅すると、真っ先に向かうのが冷蔵庫だ。たまごポケットでキンキンに冷やされた新幹線のもとへ一目散。取り出した新幹線をためつすがめつ眺めて、頬ずりしたり鼻にひっつけたりして堪能する。

この新幹線、母国日本で販売されている「冷やすと色がかわる」という素晴らしい特性を備えたシロモノで、長らく息子の第一軍おもちゃとして活躍してくれている。

(ちなみに3歳の誕生日に与え、彼が包みを開いた時の喜びようはとんでもなかった。

「ここ、こ、これはあああーーー!!

 う、う、ううううれしいーー!うれしいいぃぃぃーー!!」と絶叫)

 

プリスクールを頑張ったら、かえっておうちで「冷やし新幹線」タイム。

大切な息子のルーティーンだ。

プリスクールではどうやら、いつもより少しキリっとした顔で周囲と足並みをそろえて頑張っているらしい息子が、一息つける時間。やれやれ、今日もよくやった。

 

こども体温で握りしめたり、ほっぺたにくっつけたりしているとすぐに色が変わってしまうので、息子の「冷やし新幹線」タイムはすぐに終わってしまう。そして名残惜しそうに、母にぬるい新幹線を手渡すときには、息子は「おうちの自分」を取り戻している。

よく笑いよく泣きよくしゃべる、父母にまとわりついてけたたましい声をあげて喜ぶ、甘えん坊の騒々しい息子に。

 

毎日少しずつ成長していく息子が、彼なりに編み出したリラックス方法。

きっと我が家では当分、たまごは冷蔵庫の奥に追いやられたままだろう。

特等席はもうしばらく、新幹線さんたちの居場所である。

 

「冷やし新幹線、はじめました」

 

 

 

 

 

今週のお題「冷やし◯◯」

【今週のお題】頭に流れるあのメロディー

「ふぁんふぁんふぁん  ふぁーーーん・・・」

息子の口から再生されたのは、完璧な音程のあのメロディー。

残念なときや失敗したときに、バラエティやクイズ番組で流れるアレである。

 

3歳になる息子は、大変保守的な性格だ。

得意なことには素晴らしい集中力を発揮し、何度も誇らしげにやってみせてくれるのだが、ひとたび彼の「苦手なこと」にリスト入りしてしまうと、もう何があってもやりたがらない。

例えば、ふりかけ(瓶詰めではなく、ひとつひとつプラスチックで個包装された5cm四方のキャラクター付きのもの)を開けること。両手でふりかけの端をつまんで、片方の手だけをひねって引っ張る、という動きが難しいようで、盛大にこぼしてしまったことがある。どうやら息子は「できるに違いない」と自信満々だったようで、いざ失敗しとときの嘆きようは、それはもうすごかった。

「僕の手がねえ!まだ小っちゃいからねえ!!できないんだよおおお・・!」

両手で頭を抱えてオンオン泣く様は、もはや慟哭であった。

※しかし立派な釈明付き。

とにかく「失敗」が嫌なようである。

 

彼にとって、毎日がピンチの連続だ。ふりかけをこぼしては悲嘆にくれ、パズルが解けなくては床にうずくまって泣き、塗り絵をはみ出しては「もうイヤ!」と匙を投げる。

 

うーん。嫌なことは無理やりやらせる必要はない気もするけれど、ちょっと打たれ弱すぎる気もする。どうしたものか、まあそのうち人生の荒波に飲まれるか、と呑気に眺めていた私は、ある日衝撃を受けることになる。

 

コップで牛乳を飲んでいた息子が、勢い余って中身をぶちまけ、周囲は牛乳の海。朝着替えたばかりの、お気に入りの新幹線Tシャツが早くも牛乳まみれ。

あ、これはまずい・・と思ったのも束の間、流れてきたのは冒頭のあのメロディー。

「ふぁんふぁんふぁん  ふぁーーーん・・・!!」

呆気にとられて、訪れた静寂。支配するのはなんともコミカルな空気。

息子は泣かなかった。嘆きもしなかった。ただバツが悪そうに笑っていた。

彼はいつの間にか身につけたのだ、失敗と折り合いをつける彼なりの方法を。

 

これには親である私が度肝を抜かれてしまった。

息子は「失敗」を恐れながら「失敗を恐れている自分」にも危機感をもっていたのだ。

そしてそれ以来、息子は失敗を以前ほど恐れなくなった。

 

失敗しても大丈夫、無敵のあのメロディーがあるから。

人生はピンチの連続。でも大丈夫、またやり直せばいい。

 

息子から学んだ大変よい学びではあるが、ひとつだけ疑問なのは、一体彼がどこでそのメロディーを覚えたのかということ。両親ともに日常的に口ずさんだ覚えがなく、アメリカ生活で日本のテレビ番組に触れる機会もない。

もしかして、日本人の遺伝子に組み込まれているのかな?という疑問を残したまま、今日もやらかした息子は口ずさむのだ。

「ふぁんふぁんふぁん  ふぁーーーん・・・」

 

 

今週のお題「人生最大のピンチ」

【今週のお題】日本のおうちに帰りたい

今思い出しても胸がぎゅっとなることがある。

 

日本から、アメリカの田舎町に越してきて数か月。夏は暑く、冬は極寒となるこの街での暮らしもようやく馴染んできた。

長い長い冬がようやく終わろうとしている4月。アパートのベランダから見える大きな木にはきみどり色の若葉がちらほら見えてきた。住んでいるアパートよりも背丈が高く、葉っぱもたっぷりと茂らせてくれる気前のよい木だ。

何の木だかも分からないけれど息子は「アメリカの木」といって気に入っている。

アメリカの木、なんか葉っぱが生えてる感じするねえー」

アメリカの木、なんかリスさんがいそうな感じするねえー」と、窓からのぞく雄姿を見つめては報告してくれるのだった(おかげでリビングの窓には、いつも同じ高さに息子の鼻をこすりつけた跡がある)。

 

来米したときにちょうど2歳だった息子。当初の2週間ほどは、時差ボケも緊張もあり努めて気丈にふるまっていたのだと思う。だがある日の夕方、部屋の隅で丸くなってポツリと言った。

「ぼく、日本のおうちに帰りたい・・」

 

冷や水をかけられたようだった。たかだか2歳、まだ何も分かっていないであろうと侮っていた。大人の都合で、見知らぬ土地になんの了解もなく連れてこられてしまったというのに。

持ってくることのできなかったお気に入りのおもちゃ、何度も読んでいた絵本、手を叩いて笑いながら見ていたテレビ番組、慣れ親しんだ保育園の先生とお友達、いつも優しく声をかけてくれたスーパーのおばちゃん、美味しいコロッケを売っているお肉屋さん。

彼のお気に入りがいきなり全てなくなってしまって、平気な訳がなかったのに。

 

そこからは毎日、お気に入りを見つける日々だった。

スーパーで一目見て気に入った蛍光カラーの派手なミニカー、図書館でみつけたエリックカールの絵本、アメリカで人気の子供向けYoutube、日当たりのよい園庭と優しい先生のいるプリスクール、息子と同じく車好きなお友達、偶然会うとニコニコと声をかけてくれる司書さんやアパートの管理人さん。

そしてベランダからいつでも見える大きな木と、飛び回る鳥や走り回るリスたち。

 

たくさんの新しいお気に入りを見つけた息子は、今日も勇ましくプリスクールへ通っている。そして迎えの車に乗り込んで言うのだ。

アメリカのおうちにかえろうね!」と、満足そうに。

 

 

今週のお題「好きな街」

【育児】小さないいもの、お裾分け

かあちゃん、どうじょ」ぱらぱら

「とうちゃん、どうじょ」ぱらぱら

 

最近、お食事時にたまに見られる光景だ。息子からの小さなお裾分け。

かなり立派になってきたとはいえまだまだ小さな親指と人差し指。まだ煮豆より小さく見える指を私と主人の白ご飯の上ですり合わせ、ぱらぱらっとなにかを振りかける素振りをする。動作はゆっくりでかなり勿体つけており、さも「いいもの」を分け与えたぞと言わんばかり。

お礼をいうと「いいもの、みんなで食べるとおいしいねええ」とご満悦。

 

息子の指から提供されたその「いいもの」はなにかというと、ふりかけである。白いご飯のお供に最適なあれである。移り住んだアメリカの田舎町でようやく発見した貴重な日本食だ。おかかと海苔の風味も豊かでとても美味しい(なんなら日本で購入していたものより好き)。にぎりこぶし程度の量が素っ気ない小瓶に入っているところも日本の風情を感じさせる。一瓶600円くらいする高価なお品だが、いまや息子の大好物なので「とっておきのお楽しみ」として、ときたま食卓に登場する。

以前は、日本から持参したストック(トーマスやしまじろうやが印刷された個包装のやつ)がたくさんあったので頻繁に食べさせていたのだが、最近は残量が心もとなくなってきたのでセーブしていた。そんな折に見つけた現地調達ふりかけを、彼はたいそう気に入っているのだった。

 

2歳の息子は、いつのころからか美味しいもの、自分の好きな物を両親に分け与えてくれるようになった。彼はそれらを総じて「いいもの」と呼んでいるのだが、「いいものだよぉー」と太っ腹に両親に分け与えてくれるのだ。それちょうだい、などと言ったことはないつもりだけれど、彼があんまり美味しそうに食べるので、眺める我々もうっとりと物欲しそうに見えたのだろうか。

彼が「いいもの」を食べているとき、私たちもまた「いいものだなあ」と幸福な思いにひたっている。ふりかけという「ちょっといい」程度のものが、息子にかかると抱腹絶倒絶品の「かなりいいもの」に見えてくるのが不思議だ。

 

ただひとつ気になることがあるとすれば、息子が親指と人差し指をすり合わせてもふりかけらしきものは一粒たりとも我々の白米に落ちてこないということくらいだろうか。なにせ自分のごはんに降りかかっているふりかけを、つまんでいる素振りはないのだから当然である。

分け与えたい、でも自分の分は減らしたくない・・という葛藤の末の「エアふりかけ」。我々の白米に降りかかっているのは、ふりかけではなく息子の葛藤なのであった。

 

今週のお題「最近あったちょっといいこと」

【育児】テベリとネガメとコンコロコシ

直さなきゃ、直さなきゃ・・と思いながらどうしても直せずにいるものがある。

 

2歳の息子の「テベリ」と「ネガメ」と「コンコロコシ」だ。なんとも愛しい「テレビ」と「メガネ」と「トウモロコシ」の言い間違いたち。おそらくは期間限定でしか聞くことのできないであろう言い間違いたち。

息子の言語習得のことを思えば、都度正しく言い直してあげるべきなのだろうけれど、あまりの可愛さに「せめて動画に撮るまで・・」「せめて遠方の母にテレビ電話で聞かせてから・・」などと渋っているうちにずいぶん経ってしまった。

どこの子供もこう間違えるのだろうか。知り合いのお子さんが全く同じいい間違いをしていたので、発音しずらい単語たちなのかもしれない。となりのトトロのめいちゃんも「トウモコロシ」と言っていたことだし。

 

私の知人に子供の言い間違いは絶対に修正しない(可愛いから)という人がいて、その人は自然に任せていたらいつ頃正しく直るのか観察していたらしい。いわく、娘さんの愛しの「テベリ」は小1の夏に姿を見せなくなってしまったとのこと。先生にやんわり修正されたためだ。一人で歩けるようになったときよりも、ママ嫌いと言われた時よりもショックが大きかったと言っていて「そんな大げさな」と笑ったのだが、息子がまさに「テベリ」と言っている今、全くの同感である。

 

朝起きて自分が身支度する間、たまにテレビを見せる。

それを息子は「あしゃのテベリタイム(朝のテレビタイム)」と気に入っているのだが、ソファーで足をぶらぶらさせながら「テベリテベリ」と喜ぶ息子が見られなくなる日が待ち遠しいような、全然来てほしくないような、ふしぎな親心を抱えている。

息子がどこかに隠してしまったリモコンを探しながら「テベリのリモコン、テベリのリモコン」と繰り返してしまう私は、まだしばらく愛しの「テベリ」とお別れできる気がしないのだった。