変わるということ

変わりたいと思う気持ちは自殺だよね

そんな台詞を本屋で目にした。
あれは確か中学生の時のこと。

小説の帯にかかれていた文言に、私はとてつもなく大きな衝撃を受けた。

その言葉の意味を、今でも思い返し考える。

変わりたいと思うことは、今の自分を否定して新しい自分になりたいということ。

今の自分を否定するということは、今まで積み重ねてきた出会いや感情、自分自身の価値観や正義を少なからず犠牲にして駆逐しようとすること。

だから、変わりたいって気持ちは、今の自分を傷つけ殺めようとすることなのかもしれない。

その言葉に救われてもいるし、囚われてもいる自分がいる。


世の中、変わろうとすることは素晴らしいこと、成長するということと前向きにとらえられる。

でも、変わらずにいること、現状維持を目指すのは志が低く意志が弱いと思われがちだ。

変わることは誉められて常に良い変化、成長を求められる。

でも私はそれにすごく苦しめられている。

自分を変えようと何度も思った、無理をして人付き合いをして、傷ついて、傷つけて、なんでここまでして変わろうとしてるんだろう、と思った。

うまくいったらそうは思わないかもしれない。

でも、結局自分を変えることが上手くいった試しが一度もないんだ。
希望すらもてなくなるでしょ。

人は本質では変わらない、いや変わる人もいるのだろう。

出会いによって、小さなきっかけで変化できる人はこの世に沢山存在して、そういう人は価値観も言動もどんどんアップデートしていくし、それが自然なのだろう。

でも、私は気づいてしまった。自分がそっち側ではないことに。
別の人間になるのは記憶喪失にでもなるか生まれ変わらなくちゃ駄目だけど、自分をかえるくらいできるんじゃないかと思ったけど。
それすら出来ないことに気づいてしまった。

自分の意志が弱いから私がだめな人間だからそうだと思ってた。
でも、最近はこの世には、自分が願うように変われない人間もいるんだろうと思うようになった。

それは努力とか気合いとかそういうのではどうにもならない本質的な問題で。

自分自身を曲げることがとても難しい、他人によって人や物との出会いによって、簡単に変わることのできない鋼の意志みたいなんがいつの間にか構築されていたのかもしれない。

希望を捨ててる訳じゃない。
いつか、数十年後か、もしくは明日か、私を大きく変えるような、今までの自分をぶち壊すような出会いが、契機が私に訪れるかもしれない。

でも、それは一生こないかもしれない。

だから、私は自分で自分を変えようとしてる。
そして失敗を繰り返してる。

過去の挑戦の結果を、失敗を恥じる気はさらさらない。でも、傷つけて、自分も傷ついたことばかり。同じ事を繰り返してもまた人が離れていってしまうんじゃないかと、そう思って本気の一歩が踏み出せないところもある。

私はわたしを信用できない、いまさら。
私が変われるとは思わないから。

洋楽で、タイトルは忘れたけど、明日の自分は今日よりましな自分になってるはずだ、みたいな歌詞をくり返す曲があった。
そんな感じ。
きっと明日は変われるはず。
明日の自分は今日の自分を殺して前に進んでくれてるはず。

期待はずれの日々の積み重ねでそういう風にも思えなくなってるけど。

それでも、私は前に進みたい。 
きっかけは無くてもいい。

また何度もいっぱい失敗してもっと自分のこと嫌いになったっていいから、私はちょっとでも変わりたいと思うし、変われると信じたい。

そうでなくても生きてはいけるけど、それじゃだめなんだと心の中で誰かがいってる。

きっと絶望を繰り返すのだろうけど、それでも私は私に機会を与え続けよう。

私は私を変えられる、本気で信じられなくてもきっといつか、そのわずかな希望は捨てられないから。

だから、明日も私は前を向いたり後ろを向いたりしながら生きていく。息をしていく。
たまに息苦しくてしんどくなるけど。
それすらも含めて、私は自分を、過去の自分を今の自分を許して殺して乗り越えて愛せるようになりたい。そうなってやる。
その決意をここに残して、死ぬまで生き続けるしかないこの世界を、この残酷で美しい世界を生きていく。

これをひとつの墓標にしよう。誰がなんといおうと、私は私を愛するために私を殺すしかない。

愛の国

中山可穂の『愛の国』を読んだ。

相変わらず壮絶なまでに魂のこもった小説だった。

同性愛を禁じられた国家で戦うミチル達。

この人の作品はどれも壊れるほど深く愛することの美しさと悲惨さを描いていて、その強烈なエネルギーの果てにある虚無や絶望を突きつけてくるところが、好きだ。

同性も異性もこれほど強く愛したことがない私には、ミチルの狂おしい愛は理解しがたい。

この3部作を読むとトオルに同情する気にもなる。才能を愛し惚れ込んだ女も、自分との間に命を宿している大切な守りたい女も、彼を置いていくのだから。残酷な運命だと思う。

しかもその大切な二人が心中し、ひとり取り残される。
気が狂いそうになるだろう。

生きることも愛することもシンプルな事のはずなのに、互いを傷つけずに愛することも生きることも出来ないのは何故なのだろう。

傷つけ、傷つき、それでも愛してしまうどうしようもなさ。

人間が嫌いで関わりたくない、ひとりがいいと思っていても、それでも人と関わらずに生きていくことは出来ないから。

本当は、人を好きになって愛されて満たされたいし、孤独は嫌い。
それでも強がって誇りをもって生きることの美しさ。
そんな高尚な魂をもてる人になりたいと、そう思わせる作品。

中山可穂は、これまで出会った作家の中で一番魂をかけている物書きだと私は感じた。
この人以上にすべて注ぎ込んですり減らして物語を紡いでると感じる人はなかなかいない。

こんなにも美しくて心を震わす文章が私にも書けるのならば悪魔に魂を得るのもやぶさかではない。
そう思わせる魅力。

小説の力を再認識した瞬間だった。

トルソー

トルソーとは、簡単にいえばマネキンみたいなものだ。よく洋服屋さんに飾ってあり、衣装を着てる。
服を展示する用の人型のマネキン。

ものによって様々な形があるが、私が好きなのは頭部と四肢がないトルソー。

胴体だけのシンプルな形で造形美を感じさせる。

多くの人にとってトルソーは単なる洋服屋のマネキンだろうけど。
それでも、いやだからこそ私はトルソーの隠れた美しさに惹かれたのかもしれない。

トルソーを意識したキッカケはある小説だった。

豊島みほの『ぽろぽろドール』

中学の図書室で借りて読んだと思う。

不思議な読後感だった。
優しいような包み込むような突き放すような悲しいような

あどけない絶望、みたいな。

上手く表現できないけれど、当時の私はドール、人形のもつ生命の無さ、無感情さみたいなものに寄り添いたい気がした。

人間のぐちゃぐちゃした感情や激情に振り回されることに嫌気がさしていた。

人と関わるよりも、無機物と過ごす方がよっぽど心温まると、あの頃どこかで思っていた。

その思いが煮詰まった結果一人きりの今があるのかもしれない。

ぽろぽろドールはたしか短編集で、その中でトルソーがメインの話があったのだ。

大学のとき読み返そうと思って文庫版を買ったら、そこにはその話が入ってなくて、結局読み返せず、内容はほとんどすべて忘れてしまった。

それでもトルソーへの意識や興味は心の奥の方に残り続けていた。

ある雑貨屋さんでトルソーに出会った私は運命を感じた。

そのトルソーは暗がりの中で光っているように見えた。照明の加減とかもあるけど、そういうのを超越して存在感を放っているように、私には見えた。

赤や薄紅色の花の柄があしらわれたトルソー。

静かにひっそりと、でも確かにそこに鎮座していた。

トルソーなんて買っても使わないし、場所をとるし、とかも思った。

だけど、私は結局その存在を無視できなかった。

トルソーが私の部屋にきて少し居心地悪そうにしてるのを見て心が安らいだ。

あのトルソーは今も未だ私の中で大きな存在で、でも一番輝いていたのはお店にぼおっと浮かび上がっていたあの姿であることだけは確かだった。

綺麗で特別な存在も手に入れば汚れて霞んでいく。
欲しいと、手に入れたいという願望が幻想の輝きをもたらすのだと痛感する。

どんなに特別でも平凡に成り下がってしまうのは必然なんだろうか。命もそう。
そんなことを思うのだった。

誹謗中傷と批判の境界線

私とYouTubeの出会いは中学の頃。
ボカロ曲や歌ってみたを聴きあさっていた。 

YouTubeでサーフィンする中で思いも寄らない曲に出会うのは面白かったし、自分の知ってる歌謡曲とは歌詞も曲調も一線を画す新しい音楽に出会えた事にときめいていた。

友達におすすめしたり、おすすめされたり、そんなのもとても楽しかった。

悪食娘コンチータとか、人柱アリスとか、ローリンガールとか、その辺りが初めて聴いたボカロ曲だった。

ストーリー性があったり、上手く普通に適合できない自分に寄り添ってくれたりするボカロにあの頃沢山救われた。

鬱屈した学生時代に一時の安らぎをもたらしてくれた存在だった。

高校に入ってからもボカロは好きだったけれど、その頃初めてYouTuberの動画を少し見るようになった。中学高校の頃は、正直YouTubeよりもニコ動の方がメジャーというか流行っていた気がする。

それでも私はなんとなくYouTube派で、ボカロを聴くのもYouTubeだった。

YouTuberの動画をたまーに見てみたりしても、それ程興味はなかった。
大学に入ってからもオタクあるあるみたいな動画を極たまに見るくらいだった。

YouTubeにどっぷり浸かるようになったのは、コロナで自粛が始まった時期から。
その頃から毎日みるようになり、多くのYouTuberを知った。

色んなジャンルの人がいて、この人はこれからチャンネル登録者数増えそうだなとか、この人たちは編集凝ってるなとか分かるようになってきた。

昨今YouTuberの炎上やそれに伴う彼ら彼女らへの誹謗中傷が話題にのぼる。

YouTubeにはコメント欄があり、ファンが感想を述べたり、YouTuberがそこから意見を掬い取ったりしてる。

コメント欄が良い形で機能すればよいけれど、動画内容やYouTuber自身が炎上した時、コメント欄は誹謗中傷の主戦場とかす。

私自身コメントを書き込んだことはないが、動画を観るときには大抵コメント欄を眺めている。
そこに書き込まれている匿名のコメント。

そんな誹謗中傷コメントをする心理が私にはよく分からない。
自分が何らかの被害にあうとか、自分や身近な人、大切な価値観なんかを批判されたから誹謗中傷する、というならまだ分かる。

でも誰々が可哀想とか、匂わせ、とかそんなのは結局個人の主観じゃないだろうか。

自分に直接関わる事じゃないのに非難するのは不思議だなと思う。

YouTuberの動画外の姿や実際の関係値なんて、結局画面越しにみてる人々に分かりはしないのに。

誤った正義を振りかざしているように見えて、正直見苦しいなと思うこともある。

こういう考えに対して、誹謗中傷ではなく中身のある、愛ある批判だという人もいるだろう。

確かに人の変えられない要素や容姿を馬鹿にしたり、あからさまな悪口を言うのは、決して良くない。

でも、だからといって自分の意見や価値観を正当なものと思って人に押し付けるのは、余計に厄介だしはた迷惑だろう。

意味のある意見だから構わないだろっていうのは違うと思う。

それをジャッジするのは匿名でコメントする側の人間ではないと、私は思う。

ファンあっての視聴者あっての客商売だとしても、視聴者が演者を支配しコントロールしようとしている様をみるのは、正直気分がよくない。

良くも悪くも距離が近くて、友達感覚だからこそなのかもしれないけれど。

自分の意見が相手に届かないのは可笑しいなんて考えこそが、ちゃんちゃら可笑しい。

YouTuberは大変そうだなと思う。
どんな仕事も大変じゃないものなんてないけれど。

面白い動画をだらだらみてへらへら笑える日々が続けばいいと思う。

神様からのプレゼント

録画した深夜番組『ねほりんぱほりん』をみていて、久しぶりに「生産性がない」発言のことを思い出した。

当時はこの発言が大変世間を賑わせた。
その時、私も奇妙な気持ちになった。
この言葉は現代社会のやりきれなさを痛感させるな、と思った。

年頃になったら結婚して子供を産んで健康に長生きする。それが幸せ?

その答えはYESでもありNOでもあるだろう。
「普通」は結局幻想で、端から見れば普通に幸せに生きてるような人でも内面は深い闇を抱えてるかもしれない。

そんな事考えても所詮本当のことなんて分かんない。

人はわかった気になるのばかり得意。私もそうだけど。
自分の手の届く範囲で見えるものしか見えてない。
そのくせ見えてるものがすべてだと、正しいのだと思い込むのが得意なだけ。


話が脱線したが、「生産性がない」発言から芋づる式で思い出した記憶がある。

高校の時の全校集会。
肌寒かったから秋から冬にかけてだったかな。
体育館で開催されたのは、産婦人科医の先生による講習会。

今思えば性教育の一環だったのかな。
事前にアンケートがあり、講習にやってくる産婦人科医の先生に訊きたいことを紙に書いた。書かされた。自分はなんて書いたか忘れたけど。

講習の冒頭でその先生がいくつかのアンケートの内容に答える流れになった。

その中で、ある男子生徒からの質問があった。

匿名だったけれど、確かにその場にいた大勢の高校生の中の一人だったんだろう。

彼は、自分が同性に好意を抱く人間であること、それを周りに知られて馬鹿にされて孤立していることを匿名のアンケートで告白した。

そして、「命の尊さ、避妊の大切さ」とか「子供を産み育てる素晴らしさ」がテーマの講習の先生に、自分のような人間はどうすればいいのか、と疑問を投げかけていた。

もしかしたら、そのアンケートは全くの創作で、面白半分で講師を困らせようとして書かれたものかもしれない。周りもそういう反応をしてた。

でも、私はなんとなくそういう茶化した内容ではないんじゃないかと、この場にいる誰かの悲痛な本音なんじゃないかと、そう思った。

この問いに対して講師の先生は、それでも子どもを産むことは素晴らしいことですよ、と言った。


トンチンカンだなぁと思った。


この人は立場上そう言うしかなかったのかもしれない、と今なら思う。

でも確かにあの瞬間、大人に深く失望したのを覚えてる。

ひとりの男子生徒の気持ちや叫びなんて、世間の、普通の前ではあっけなくなぎ倒されて無かったことにされるんか、と思った。

それ以降の講習の内容は頭に入ってこなかった。


そのかわり私はその頃読み終わった窪美澄の『ふがいない僕は空を見た』を脳内で回想していた。

作中で、田岡さんという男性が登場する。
彼は、自分の性的指向に苦悩する。
自分のことをとんでもない人間だと言い、主人公達に親切に振る舞うが、彼の本質は彼の気持ちを裏切っているのかもしれない。

そのアンバランスさに凄く惹かれた。
その息苦しさ、生き苦しさに私は酷く共感した。

彼は自分の性的指向のことを神様がくれたいらないオプションだと言う。

確かにそうかもね。

普通に異性を好きになって、普通に結婚して、お手本みたいな道を歩ける人間であれば悲しい思いも苦しい思いもせず、周りの大切な人を傷つけ失望させることなく生きていけたのかもね。

でも神様から与えられてしまったそのオプションが彼に備わっているからこそ、田岡さんは人の苦しみや弱さを受け止められる。そして、アンバランスな魅力を放っている。

時代は変わっているし、昨今は学校の授業でLGBTQの話も出てくるらしい。

性的指向の「当たり前」が崩壊して、誰を好きになっても、誰も好きにならなくても、色んなすべての人の心に自由が訪れればいいなと願う今日この頃。

ついに活動休止してしまった嵐

いつの間にか当たり前のように好きになってたアイドルが、普通に見れなくなるなんて。悲しい。

特別ファンとかではないのに、気づけば好きなグループになっていて、その延長線上でジャニーズに興味を持つようになった。

嵐の番組で沢山笑って、沢山温かいものを受け取ってた。5人の仲の良さとか些細な言い合いとか掛け合いとか楽しい雰囲気に日々癒されてた。


今でも覚えている。
物心ついてから初めて音楽を聴いて涙を流したのは『love so sweet』を聴いた時だった。

なんでかは分からない。小学2年の時、たまたま家でひとりでテレビを付けたら音楽番組をやっていた。
この曲を聴いて感動して泣いた。
泣くような曲ではないのかもしれない。

けど、曲の歌詞や曲調の美しくて切ない雰囲気に感じ入る所が当時の私にはきっとあったのだろう。

それから大学受験の時、Mステの『GUTS』を何度も何度もみていた。ニノの笑顔やウインクに辛いとき救われた。

仕事を辞め無職になって泣いてばかりいた時、『サクラ咲ケ』を聞いた。振り向くな後ろには明日はないから前を向け

綺麗事だよなと思いながら、そんな綺麗で純粋すぎる言葉に元気をもらえることもあった。


生活とともに幸せや苦しみとともに嵐がいた。

最高のアイドル。


それと同時に自分が社会人となり日々働く毎日の中で彼らのプレッシャーや多忙さの苦しみもちょっとは想像できるようになった。

彼らと自分とでは差がありすぎるけれど、「働く」そして「働き続ける」事の重みを社会人になって痛感した。

休止発表を学生の時に聞いたらなぜ?という気持ちの方が大きかったろうけど

今はただ彼らが自分らしく生きれればそれで良いのだろうと思う。

さよなら嵐
ありがとう嵐

ずーっと一緒にいよ

って書いてあるプリクラを見つけた。

実家に帰って大掃除の片付けを進める中で出てきたプリクラ達。

ずーっと一緒に、なんて言葉が呪いのように思える。 
そのプリクラに写った友達とは高校に入ってから一度も会ってない気がする。

成人式のときにも話をしなかった。

人と人との関係は、なんて脆くて儚いのだろう。
よく耳にする戯言だけれども。
どうしようもない程にそう思う。

あんなに毎日学校帰りに会ってたのに、プリクラを取りに行ったりプールに行ったり、思い出がフラッシュバックする。

当たり前みたいに未来に不安なんて抱かず生きれていたあの頃を懐かしいと思う。
同時に羨ましい。


今の私は未来に絶望しかないから。
絶望とともに平気な振りして生きていくことが出来るようになっちゃったから。

あの頃はあの頃で大変なこととか友達との人間関係の悩みとかあったはず。早く大人になりたいと思ってた時もあったはず。

でも今はあの頃のような未来への、自分の将来への、世界への漠然とした期待や輝きの余地みたいなもんが全く消えてしまった。


人はいうかもしれない。
あなたはまだ若いんだから、これから先に明るい未来があるだとか、なんだとか。この先どうとでもなるだとか。

どうにもならないから今のこの心にたどり着いたのに。
どうしようもなくて、どうにもならなくてこんな風になっちゃったのにね。
今更そんなこと言われてもね。

結局そうやって自分に閉じこもった結果、見事にひとりになった。
一人じゃなくて独りだ。
それでもよしとできるほど、私は器用に生きれないし、賢くも強くも潔くもないのだ。


ここから逃げ出したい。遠くに行ってしまいたい。
でも、このぐらぐらな足元から飛び立つ先にあるのは孤独以外のなにものでもないと知ってる。


もう一度子供時代から生き直したとして、きっと今と絶望の絶対値はそれほど変わらないだろう。
種類が多少変わったとしても

実家から東京へ。束の間の夢の自堕落生活から、また一社会人として責任をもてとか言われ自分を追い込むことになる苦しみにまみれた生活に戻るのか。

駅と駅の間隔の長いこの短い旅路の中でそんなことを考える今日この頃