メイドラゴン、台詞から読み解くトールの”居場所”

小林さんちのメイドラゴン、最終回がとうとう終わりました。あっという間ですね。個人的にはめちゃめちゃ好きで毎週見ていましたが皆さんはどうでしたか?

このアニメの一つの大きなテーマとして挙げられる、「居場所」。十三話では今までのコメディから一転、シリアス調のエピソードでしたが、特にそのテーマが色濃く表れていたように思います。

今回は十三話の登場人物達の台詞から、トールの「居場所」について考えたいと思います。

”戻る”と”帰る”

最終十三話では、買い物途中でトールが終焉帝に連れ戻され、元の世界に戻ってしまうわけですが、そこでのドラゴン(トール、カンナ、終焉帝)の台詞には微妙な使い分けがされています。

以下、十三話のドラゴン達のセリフの抜粋です。

「一緒に帰るのだ、トール。お前の居場所はここではない。」(終焉帝)

トール様帰った。」(カンナ)

「たぶんもう、こっちの世界には戻ってこない。」(カンナ)

「でも、戻ってきました!」(トール

「なぜ勝手に戻った。」(終焉帝)

「私と一緒に帰るのだ。」(終焉帝)

 いずれも「こっちの世界」に対しては”戻る”、「あっちの世界」に対しては”帰る”という表現が使われています。

そもそも”戻る”と”帰る”は何が違うのか、という話ですが、現代ではほとんど同じ意味で使われてはいるものの、微妙なニュアンスの違いがあります。

「帰る」と「戻る」はどう違う?|日本語・日本語教師|アルク

引用元によると、”戻る”は一時的に所属する場所に使うのに対し、”帰る”は本来所属している場所に対して使うようです。

だとすれば、トールは「ここにいたい」「ここが自分の居場所」という旨のセリフを使いはしていますが、無意識に自分の立ち返る場所は「あっち側」だということを理解していると捉えることができます。

それでは、結局「小林さんち」はトールにとって「居場所」ではないのでしょうか。

それは結論から言えば答えはノーです。つまり、トールにとってこっちの世界の「小林さんち」もまた、彼女の居場所であるということです。

ただいま

その根拠は、「ただいま」ということばにあります。

 「ただいま」という言葉は、家に帰ってきたときの挨拶です。ただいま(帰りました)とただいま(戻りました)どちらにも続く言葉ではありますが、それと対になる「お帰りなさい」という言葉を考慮すれば、「ただいま」は「帰りました」が省略されていると考えるのが自然でしょう。つまり、トールはちゃんと「小林さんち」を自分の帰属する場所として、ないしは居場所として認識しているのです。

本編では

「ただいまです、小林さん!」

 と、あっちの世界から勝手にこっちの世界に戻ってきた際に、二度同じ台詞を言っています。大事な事なので云々ではないですが、強調の効果を感じます。

そしてラスト、

 「ただ、今、この時間を大切に。」

 というトールの台詞に続き

「ただいまー!」

 という小林の台詞で締めくくられます。

人間とドラゴン、決して同じ時間を最期まで共にすることはできません。そんな異種間の宿命ともいえる切なさを感じさせながらも、また一方で希望も孕むトールの台詞と、これまでの展開で言葉以上の重みを蓄えた小林の挨拶によって、「異種間物」、「居場所」というテーマによって構成される「小林さんちのメイドラゴン」というタイトルを間接的に、別の角度からの表現で回収した、優れた最終回でした。

冷血篇の構造的解釈と、それを踏まえたうえでキリスト教的観点から傷物語三部作に新たなアプローチを試みる

 非常に仰々しいタイトルだがいつものとりとめのない戯言、あるいは妄想の拡大だ。相も変わらず一度きりの鑑賞をもとにしているため(熱血、鉄血はこれを書くにあたり改めてもう一度だけ鑑賞した。)、穴は多いと推測される。もちろんネタバレの温床のため、視聴していない人は今すぐこのページをブックマークに追加し、そのまま閉じるボタンを押すことを勧める。

 それでは早速冷血篇の解釈から。前回の熱血篇では三人組を返り討ちにし、キスショットの四肢を取り返し終えた。冷血篇はその続きからとなる。前半私が書き記したいのは、簡潔に申し上げると「冷血篇登場人物の持つ役割について」である。

 前作同様今作でも色は非常に大きな意味を持っていると考えられる。それは黒、白、赤の三色である。この三色はそれぞれ阿良々木、キスショット、羽川に対応していて、またその役割を象徴している。

 まずは黒と白、すなわち阿良々木とキスショットについて考えていこう。黒と白は互いに一番遠い存在であり、その二色を扱えば容易に対比の構造を生むことができる。いや、自動的に生じると言ってもいい。実際劇中で二人は対比の構造をとっている。基本的にその二つの色は変わらず同じ距離を保っているが、学習塾跡で、自分の行った行為の意味を、キスショットの捕食を目の当たりにすることで理解した後、数シーンはキスショットが白から黒に変わっている。これは吸血鬼は人間側の悪だと認識を改めたため、阿良々木のキスショットの見方が変わったことを一時的に阿良々木の視点のフィルタを乗せ、表したのだろう。

 その後羽川とのアレがあり、そして阿良々木は人間に戻るためキスショットとの戦いへと赴く。戦況は拮抗しどちらも優勢にならずまた劣勢にもならない。二人は白と黒であり、バランスの取れたフェアな関係であるため、そうなることは自明である。しかしある人物がこの場に介入することで物語は動き出す。そう、羽川翼である。このように彼女は膠着した場面に現れ、ストーリーを進める役割を担っている。アレの場面では懊悩し苦しみ喘ぐ阿良々木に道を示した。そしてここでは違和感の正体を阿良々木に伝え、停滞した状況を打破し、キスショット本人の口からその心中を吐露させるに至るのである。生き物は体内に血が流れていなければ生命活動を維持することができない。羽川翼はいわば物語の血だ。彼女がいなければ物語は進展しないのである。

 そして物語は最終局面。阿良々木はキスショット、つまり吸血鬼側、羽川、つまり人間側の究極の二択を迫られることとなる。しかし彼は吸血鬼であり、また人間でもある。したがって、どちらの選択肢も、物語という理の中で、ある役割を果たすキャラクターとして縛られている以上、選択することができないのだ。しかし、だからこそ忍野メメを呼ぶという第三の選択肢を得る事もできた。

 当然、忍野メメは言うまでもなく非常に重要なキャラクターである。役割は羽川と類似しており、同じように彼の登場で物語は転化する。しかし二人の役割には明確な違いがある。それは「外部からの干渉か内部からの干渉か」である。確かに羽川は物語を動かす役割を持っているが、それはあくまで内部的なものなのである。彼女の行動によって場面は変化するものの、それはその世界の中だけの話であり、三人の世界の理を越える事は叶わない。ここまで述べてきたように、このストーリーの世界は阿良々木、キスショット、羽川の三人で構成されており、そこに忍野の入る余地はない。しかし、忍野メメはその三人の世界の外側に位置している事で、理を越えて新たな選択肢を提示することが可能なのだ。そのため阿良々木は「皆で不幸になる」選択肢を選ぶことができたのである。

 忍野メメの登場は一作目の鉄血篇と同じようにあらかじめ暗に示されていた。今回は映画のカウントダウン、螺旋階段に加え、体育倉庫の天井の漏れる十字の光も彼が登場する伏線となっていた。カウントダウンと螺旋階段については、鉄血篇の考察で述べた様に、それらは目を想起させるアイテムであり、目→メ→メメという意味が込められているとして、十字架がどうして忍野メメを象徴するのか、という疑問を持ってもおかしくない。その理由は忍野メメの身に着けているアクセサリーが十字を模ったものである事、そして忍野メメのとった行動である。彼は阿良々木に「皆が不幸になる」選択肢を提示したのである。つまり忍野メメは彼らに「十字架を背負わせた」のだ。

 さて、少々突飛だが、「十字架を背負う」という表現に少し目を向けてほしい。この表現は、イエスがゴルゴタの丘に向かう道中、自らが磔にされる十字架を担っていたことに由来し、苦難や消えることのない罪などをいつまでも抱き続ける事を意味する。それでは、罪を十字架に対応させるのであれば、それを背負う三人は何を意味するのか。それはイエスである。

 

 ここから後半戦、タイトルの「キリスト教的観点から傷物語三部作に新たなアプローチを試みる」という部分に入って行く。冷血篇の構造から、「十字架を背負う」「三人をイエスとしてとらえる」というキリスト教的観点を見出し、物語の始めに立ち返り、もう一度それを追っていくと、新たな側面が見えてくる。これからそれについて述べていくにあたり、論の目指す処ががぼやけてしまうのを防ぐため、あらかじめ簡潔にどのような説であるかを提示しておく。それは「傷物語はイエス伝になぞらえているのではないか」という説である。

 イエス伝とはつまるところイエスの生涯の事である。そしてそれは大きく「幼少時代」「布教活動時代」「受難」の三つの時代に分けることができる。私はこれからそれら三つをそれぞれ傷物語の「鉄血篇」「熱血篇」「冷血篇」に重ね、その構造を紐解いていく。

 まず鉄血篇について。ここで対応するエピソードは「受胎告知」「処女懐胎」「降誕」「マギの礼拝」の四つである。「受胎告知」とは、マリアの元に大天使ガブリエルが訪れ、イエスを身ごもったことを知らせるというエピソードだ。その後マリアは誰とも交わることなく実際に子を身ごもり(処女懐胎)、そしてイエスを産む(降誕)。「マギの礼拝」とは、ユダヤの王が誕生したという星のお告げに導かれた三人の博士が、東方から贈り物を持ちイエスの元へやってくるという話だ。一方、鉄血篇は阿良々木、羽川、キスショットの三人がめぐり合い、物語の起点となる話である。その全ての始まりは阿良々木が羽川から吸血鬼の噂を聞くことであり、そして阿良々木はキスショットと出会う。つまり、物語は羽川によりもたらされた「告知」によって、三人の人物(=イエス)が揃う。つまり世界に”降誕”し、物語は始まるのだ。その後阿良々木の元へ三人のヴァンパイアハンターが訪れる。私はここを「マギの礼拝」に重ねた。しかしながら、「マギの礼拝」の博士たちは友好的、少なくとも敵対はしていないのに対し、鉄血篇の三人は疑いの余地なく敵意を持っており、一見そこに関連性はないように見える。そこでマギの贈り物に焦点を当ててみる。

 贈り物とは、黄金、乳香、没薬の事である。黄金は権力として、王としてのキリストを象徴し、乳香は教会で焚くお香として使われるため、神としてのキリストを象徴し、没薬は防腐剤として用いられていたため、キリストの死を象徴していた。つまり、それらの贈り物は全てキリストの属性を象徴するものなのである。ここで、ドラマツルギー、エピソード、ギロチンカッターの三人の属性を考えてみる。それぞれ、ドラマツルギーは吸血鬼であり、エピソードは吸血鬼であり人間、そしてギロチンカッターは聖職者、つまり人だ。一方で、イエスを象徴する三人、つまりキスショット、阿良々木、羽川もそれぞれ吸血鬼、吸血鬼であり人間、人間なのである。ここからヴァンパイアハンターの三人はイエスの役割を担う三人を象徴していると分かり、そしてそこから「マギの礼拝」に当てはめることができる。

 次に鉄血篇。第二部である鉄血篇は何かを思わせる、考えさせるというよりは、ヴァンパイアハンター三人との戦闘を中心に据えており、事実の消化としての側面が強く、熱血篇ほどキリスト教を思わせるものはあまり見られない。しかしやはりいくつかの場面で私たちにそれを想起させるようなヴィジュアルは存在する。

 さて、鉄血篇はイエス伝の布教活動時代にあたるわけだが、イエスはヨルダン川で洗礼者ヨハネに洗礼を受け、宗教家として歩みを始めた。通常、洗礼の主題を描く際は、イエスが水に浸かっている、または水を振りかけられている、というのが一般的である。鉄血篇の冒頭では阿良々木がドラマツルギーと向かい合っていたが、その場面は大粒の雨が降っている。ここをキリストの洗礼の場面と捉える事もできるのではないか。そして羽川の復活の場面。ここでは「ラザロの蘇生」の逸話が見て取れる。

 ラザロの蘇生とは、亡くなって四日がたったラザロという男を、イエスが奇跡で蘇らせたというものである。羽川もエピソードの巨大な十字架によって腹部を裂かれ、一度死亡する。その後阿良々木が血を分け与えることによって傷は再生し、再び息を吹き返す。また、死亡してから生き返りを為すまでの時間が約四分であることもあり、羽川の死亡から復活までの流れと、ラザロの蘇生を重ねていると考える事は不自然ではないだろう。根拠は弱いが、三人との戦闘もキリストの誘惑ととらえることもできるかもしれない。

 三作目、冷血篇である。イエス伝の受難期は「最後の晩餐」の場面から始まる。冷血篇における最後の晩餐とは、阿良々木が人間に戻る前にコンビニへ食べ物、飲料を調達しに行き、帰ってくるとキスショットがギロチンカッターを捕食していた場面にあたる。最後の晩餐とは、イエスが弟子たちに自らの血として葡萄酒を、自らの肉体としてパンを与え、そしてイスカリオテのユダの裏切りを予言した事件である。キスショットは文字通り血と肉を食べており、また食べられているのはギロチンカッター、つまり聖職者である。そして阿良々木はその光景に吸血鬼という存在の認識の裏切りを感じ、ショックを受ける。それは序盤に記述したように一時的にキスショットが黒く描写されることで表現がなされている。

 逃げ出した阿良々木は、体育倉庫で吸血鬼を助けたという自分の行為の意味を理解し、その事実と自分のすべきことに疾苦する。そこへ羽川がやってきて、阿良々木は立ち直り、キスショット打倒の決心をする。自分の死を悟ったイエスも、阿良々木と同じように、最後の晩餐の後にゲッセマネの園で、死を受けなければいけない、しかし受けたくないという葛藤に苦しむ。「どうか杯を私から取り除いてください。」と祈るのだ。これを「ゲッセマネの祈り」という。羽川は懐中電灯を持っており、それを二人の横に置き、その黄色い光は二人を照らしていた。これを俯瞰で見るとその形はまるで杯のようであり、阿良々木の苦悩を象徴的に表していた。そして最後の場面、忍野の提案により三人は十字架を背負い生きていく事となるのである。

 最後にメタ的な表現にも触れておく。熱血篇、鉄血篇、冷血篇のテーマカラーを思いだしてほしい。それぞれ赤、青、白である。この三色の意味について、私はある人物を思い浮かべた。聖母マリアである。

 聖母マリアは一般的に真実を象徴する青いマントと、慈愛を象徴する赤い服を身に着けている姿として描かれ、また清純を象徴する百合も、聖母のアトリビュートとしてはポピュラーな部類に入る。それらは見事にその三色に合致しており、関連性を感じざるをえない。では、その三色が聖母を象徴するとはどういった意味なのか。阿良々木、キスショット、羽川の三人がキリストであるという事を考えれば見えてくる。マリアがイエスを身ごもったように、傷物語も阿良々木、キスショット、羽川、その三人を孕んでいる、ないしはその生涯そのものを内包しているという構造が成り立つのである。

 このように傷物語三部作にはイエス伝のエピソードが盛り込まれており、その上それらは順序が入れ替えられることなく割り当てられている。すると、彼らの向かう先はおのずと見えてくるのである。そう、三人は一生癒えることのない「傷」を背負い、ゴルゴタの丘へと向かうのだ。

 

おまけ

阿良々木とキスショットの主従関係について。一人目の眷属が日を浴びて自ら死を選んだ事に呼応する形で、阿良々木とキスショットが屋上で会話する場面で、キスショットがスポットライトに照らされるシーンがある(キスショットのセリフから生きていく意思が読み取れる為、対比構造だと分かる)。しかしここで照らされているのは本来主従の「主」でなければならないはずのキスショットである事から、この時点で阿良々木とキスショットの立場は逆転していると考えられる。

鉄血編の考察(過去記事)

過去記事の再掲になります。(2016/2/13)


今日傷物語見て演出的な考察なんですけど、最初の螺旋階段を登る時の煽りのカットや日の丸、羽川さんと冒頭で阿良良木が話した場所で夕日に照らされて影になった所、阿良良木の部屋の時計などなど露骨に目を意識させるカット、アイテムが多かったんですよね、それに加えて非常に目のアップが多かった。

これは何を意味しているんだろうと思いながら映画を鑑賞し、終盤でてくるキャラクターが「忍野メメ」なんですよね。つまり今までの目(メ)を想起させるモノはこのキャラクターの強調の為だったんです。なるほど!って感じ!

それに加えて、劇中シンメトリーな建物やカットも多かったように思えました。これはキスショットと阿良良木がそれぞれ相反するモノであるというメタファーなのかなあと思ったり。ただ、劇中学習塾で阿良良木が「自分は人間に戻れるのか」と問う印象的な場面で、キスショットと阿良良木がそれぞれ画面の両端に位置しており、画面中央に大きな木が位置していました。この木は宗教絵画にも見られるような、何かを「分かつ」意味合いで配置されていたのは間違いないでしょう。つまり(元)人の阿良良木と吸血鬼のキスショットの対比構造です。

そしてその後阿良良木、キスショット、メメの3人が会話する場面でメメを除いた2人の配置はそのままに、先ほど木のあった場所に忍野メメがくる構図になります。

彼の台詞には「仲介」「2つを繋ぐ」といったものがありました。木の役割がメメにそのままスライドする事で、彼のキャラクター性を一層判りやすく強調したという事でしょう!

つまり何が言いたいかと言いますと、この鉄血編は忍野メメの登場の物語なんだな!という事です!(あくまで個人の考察です。)