鹿児島フリーライターのブログ

横田ちえのブログです。

【4万坪の大庭園】東雲の里の春夏秋冬


鹿児島県出水市の山奥に「東雲の里」という大庭園があります。紫陽花の季節が有名で、梅雨時期になると約4万坪の敷地に色とりどりの紫陽花が咲き乱れています。北海道の蝦夷紫陽花から屋久島紫陽花まで日本中の品種が植えられていて、その数は160種類以上とも。

園主は宮上誠さん。今から31年前の1992年、陶芸家・看板屋として仕事をしていた宮上さんは「自分の作った器で、最高の景色を見ながら蕎麦を食べてもらいたい」と大いなるロマンを抱き、手付かずの山でひとり開墾を始めました。

その宮上さんの開拓ストーリーを以前メシ通で記事にしました。

www.hotpepper.jp

結構大きな反響をいただき、県内だけでなくはるばる県外からもたくさんのお客さんが訪れてくださったと聞きました。私は宮上さんのお話をそのまま記事にしただけなのですが、素敵な場所を多くの人に伝えられてうれしい限りです。

メシ通の記事では紫陽花の季節の写真を中心に紹介しましたが、「東雲の里」は春のツツジ木蓮、桜、輝くような夏の新緑、秋の紅葉、冬の静かな雪景色も素晴らしく、年間を通して変化してく山と植物が美しいところです。一度訪れると、いろんな季節の風景を見てみたくなります。

そこで、今回の記事では「東雲の里」の一年を通しての風景をお伝えたいと思います。四季折々で変化する風景や植物、蕎麦屋のメニューを写真と共に紹介ます。春、夏、秋、冬と分けたので、気になる部分だけ読んで頂いてもいいかと思います。ぜひ旅の参考にしてください。

ちなみに私のおすすめは春です。ハヤトミツバツツジや梅、桜がとてもきれいで、紫陽花シーズンほど混んでおらずのんびり過ごせます。


※この記事の中で紹介する開花時期はあくまでも目安です。最新の情報は東雲の里のインスタグラムでご確認、または施設に問い合わせください。


冬枯れの山に灯りがともったような桃色に心躍る【春の風景】


鹿児島は南国のイメージを持つ人も多いかと思いますが、「東雲の里」のある出水市の冬は冷え込みが厳しく毎年雪が積もるほどです。だからこそ、草木が芽吹き、花が野山を彩る春の喜びは大きいものです。生き物たちが静まり返るような、しんしんと凍えるような冬が終わりに近づくと、冬の間じっと眠っていた植物が一気に目を覚ましていくようです。

 

 

冬枯れの山々に灯りが灯ったように、河津桜、梅、岩ツツジ、ヤマブキ、レンギョウハクモクレン、桃、山桜と次々と咲き乱れていきます。まさに百花繚乱の美しさ。ピンクってとても気持ちを華やかにしてくれる色ですよね。淡い桃色から濃いピンクといろんなピンクがあって見惚れてしまいます。


晴れた日もきれいですが、霧のかかったくもりの日は幻想的な美しさがあります。水墨画の世界から浮かび上がってきたよう。


 


春で最初に見頃がくるのが、岩ツツジ(ハヤトミツバツツジ)。2月末~咲き始めて、3月が見ごろです。ハヤトミツバツツジは元来山に自生している花でしたが、その美しさから乱獲されてしまい山ではほとんど見られない絶滅危惧種です。人が近づけない断崖絶壁に少しその姿を残すだけ。

 


濃い桃色といい、可憐な花の佇まいといい、とても愛らしい花です。

 


ハヤトミツバツツジを追いかけるようにして、やぶ椿、梅、木蓮、ミヤマカイドウ、ヤマブキ、レンギョウが花開いていき、4月頃に桜が見ごろを迎えます。


ヤマブキと桜の満開時期が重なると、黄とピンクのコントラストが鮮やかです。


これは2020年4月の桜。この年は暖冬のせいか、花が満開になる前に先に葉が出てしまったそう。冬の冷え込みが厳しい年の方が、桜は美しく満開になるそうです。厳しい寒さに触れると、温かくなった瞬間に子孫を残そうと一気に花開くためなのだとか。

 


「東雲の里」の桜は、ソメイヨシノは駐車場付近に少し植えてあるだけ。ソメイヨシノは接ぎ木を繰り返しているからおしべ、めしべが退化していて子どもができないそう。河津桜やしだれ桜などを中心に植えてあります。


春の「草の居」

 


まだ冬の寒さを残すこの時期、園内にある蕎麦屋「生そば 草の居」では暖炉が赤々と静かに燃えていて、じんわりと温かい店内が居心地良いです。「生そば 草の居」は11:00からの営業で手打ちの十割蕎麦を提供しています。なくなり次第終了なので、蕎麦目当ての人は早めに行きましょう。


ほの暗い店内から見る庭園の岩ツツジや桜がきれいです。随所に飾られた盆栽や野の草花が可憐です。


この時は「かけ蕎麦」を頼みました。どの蕎麦メニューにも前菜が付いてきます。前菜はその時々の旬の野菜や山菜を使ったものなので、その季節らしさを感じられるのがうれしいです。この日はキンカン煮、土筆に見立てた牛蒡とゴマ、お浸し。器に添えてくれた桜の花がかわいらしいです。


春とはいえまだ風が冷たい時に、温かいそばを食べるとほっとしますね。たっぷり出汁を吸った揚げがジューシーでおいしいです。添えられた柚子がいい香り。

 

梅雨空にしっとり浮かび上がる紫陽花【夏の風景】

 


6月は「あじさいまつり」のシーズン。この時期は入園料が500円になります。咲き誇る約10万本の紫陽花は、山の起伏や植生の中に美しく調和しています。曇り空のくすんだ日に見ると、青や紫、赤、ピンク、白と色鮮やかな紫陽花がしっとりと浮かび上がってくるようです。


植えられている紫陽花の品種は多種多様で、200種類以上。屋久島紫陽花から北海道の蝦夷紫陽花まで、日本の北から南までいろんな品種を揃えています。


西洋紫陽花は少なめで日本在来種が中心です。山紫陽花などの日本在来種は、西洋紫陽花のようにぱっと派手な美しさはありませんが、詫び寂びを感じさせてくれるような、心に染み入るよさがあります。それは、実際に山を歩いて見て回るとより実感できるかと思います。

山紫陽花をいくつか紹介しましょう。


・紅(くれない)


山紫陽花の紅(くれない)。咲き始めの装飾花は真っ白なのに、徐々に紅色に変化していく不思議なヤマ紫陽花です。日の光を浴びることで色が変わるのだとか。白く可憐な佇まいも、紅の艶やかな風情も、どちらも美しいです。

・日向紅(ひゅうがべに)
 


宮崎の山に自生する「日向紅(ひゅうがべに)」。朝の柔らかな光の中で見る姿はしっとり艶やかでした。一株の紫陽花の装飾花の中にも、赤や青、ピンク、紫と繊細な色のグラデーションが感じられます。一言では説明できない色合いがなんとも美しいです。


・城ケ崎(じょうがさき)
 


静岡県伊東市城ヶ崎海岸に自生するガク紫陽花「城ケ崎(じょうがさき)」。八重咲きの大きな装飾花が印象的。梅雨で蒸し暑いこの時期に、青と紫の繊細な色合いが涼やかに目に映ります。

 


梅雨の季節は湿気が多くてじめじめしますが、降り続ける雨にどこか落ち着いた気持ちになることもありますよね。長雨は大気中のちりやほこりを洗い流してくれるように感じられます。そして何より雨に濡れた紫陽花には、この季節にしか見られない趣があります。

 


もちろん晴れた日に見る紫陽花も清々しくてきれい。

 


紫陽花シーズンが終盤になると、山の緑が一層輝いて見えます。梅雨で水をたっぷり吸いこんだ草木は、夏に向かって勢いよく成長しているようです。花咲く山もきれいだけれど、生命力あふれる輝く緑もすばらしいなと感じました。

 


山道にはホタルブクロが咲いていました。俯いているような釣鐘型の花が愛らしいです。

 



園内の道に置かれている水鉢は、睡蓮が花開いていました。ピンクとオレンジのグラデ―ションがきれいです。午前中に咲いて、夕方にはしぼんでしまいます。見るなら午前中から昼頃がきれいです。

夏の「草の居」


 前菜は紫キャベツの酢のもの、蕎麦屋の卵焼き、ごま豆腐。添えてくれた紫陽花がなんとも涼やかです。

 


 ざるそばはいつの季節でもおいしいけれど、夏に食べるのは特別いいものですね。つるんとした喉越しが気持ちいい。

 


おやつに珈琲とチーズケーキも頂きました。黒い器に紫陽花の青が映えますね。


可憐な大文字草に蕎麦の花、紅葉が楽しめる秋【秋の景色】

 


「東雲の里」ギャラリーでは毎年10月頃になると「大文字草展」を開催しています。

 


小さく可憐な花を咲かせる「大文字草」は、花の形がまるで「大」の字に見えることから名付けられたそう。山地の岩の上など、湿気の多いところに咲いている山野草です。愛らしい姿に和みますね。

 

 


品種や色によってその姿はさまざま。色や花弁の形がいろいろあって、じっくり見ていると楽しいです。

 


この時期になると夏に咲いていた時のみずみずしさはすっかり抜けて、紫陽花は枯れていました。真っ盛りの勢いはないけれど、茶色く乾いた花びらに秋らしい情緒を感じます。

 


裏手の畑には蕎麦が植えられています。「草の居」で提供している蕎麦は鹿児島や北海道など各地から仕入れていますが、自家栽培でのオリジナル品種づくりにもチャレンジしています。9月頃に種を撒いて、10月には真っ白な蕎麦の花が咲いていました。

 

 

11月に入ると紅葉シーズンの到来です。

 


朝晩の冷え込みを感じるようになった頃、山々の植物も葉から水分が抜けて赤や黄、オレンジに色づいていきます。

 


「東雲の里」の紅葉は2段階あります。色づき始めた葉と夏の名残を残して緑に輝く葉のコントラストが美しい前半の11月上旬~中旬ごろと、すべての葉が染まって赤や黄色で埋め尽くされていく後半の11月中旬から下旬ごろ。(※年によって時期は異なります。お問い合わせください)どちらの紅葉もそれぞれ違った良さがあります。

 


モミジの木は一面の黄色です。モミジの木は紅くなることもあれば、黄色くなることもあるそう。気候や年、条件などによって変化するそうです。この年は黄色に紅葉していました。

 


ギャラリーの近くにある紅葉の木は、岩の上から生えています。これは岩の上に紅葉の種が落ちて、発芽して、それが徐々に大きく成長して、7~8年という歳月をかけてとうとう岩を割ったそう。自然の力強さに驚きます。

 


岩の上に生えているのは岩ツツジの芽。「毎日観察していても、次から次へと驚くこと、感動することがある」宮上さん。岩の上は夏に太陽熱で50℃以上の暑さになるから、岩ツツジが死なずに芽吹いたのはすごいことです。

「東雲の里」の樹木は、種から育ったものが多いのも特徴です。芽が出たら鉢植えにして、何年かかけて太らせてから植えているそう。長い歳月をかけた庭園づくりをされています。

 


夕方になると西日に照らされたモミジが燃えるよう。西日が差し込んで赤く輝いている部分と影になっている部分の、赤と黒コントラストがきれいでした。

 


夕暮れ時の空気の澄んだ感じで、秋の訪れを実感します。西日が落ちていく遠くの山脈の鼠色から墨色のグラデーションがきれいでした。



秋の「草の居」
 


秋になると、「生そば 草の居」の軒先には柿がぶら下がっています。

 


このオレンジ色を見ると秋だなぁとしみじみします。

 


庭先の手水鉢(ちょうずばち)の周りにはホトトギスが咲いています。

 


前菜は蕎麦屋の卵焼き、自家製こんにゃく、くずもち。蕎麦の花が添えられていてかわいいです。

 


そば粉は北海道産。そば粉は北海道、熊本、鹿児島とその時々に応じて仕入れているそうです。この後に蕎麦湯が来ました。この季節の蕎麦湯は沁みますね。



静寂に包まれた山景色が心に染みる【冬の景色】

 


紅葉が終わった冬枯れの時期ですが、静寂に包まれた山の雰囲気もいいものです。

 


冴え冴えと澄み渡った空気と、枯草や枯れ木が作り出す“詫び寂び”的な冬景色。静かな情緒があっていいなあと思いました。「東雲の里」を訪れるお客さんの中には「冬が一番好き」という人もいるそうです。この静かな雰囲気は他の季節にはない安らぎがあります。

 

 

冬の夕日にはなんだか郷愁を覚えます。

インスタで写真を見ていると雪景色もとてもきれいです。私は雪の日に「東雲の里」に行ったことがないので、先方から提供して頂いた画像で紹介します。※雪景色の時に訪れる場合は道路状況に注意してご訪問ください。臨時休業になる場合も多いので、インスタで確認してからの訪問がいいでしょう。

 

 


まだ夜が明けきらないうちに見る雪景色は幻想的な美しさです。

 

冬の「草の居」


店内は、ストーブの火が赤々と燃えていて暖かいです。パチパチとはぜる音も炎が揺れる様子も心地よくて、ずっと見ていたくなります。私は冬に「草の居」で食事をしたことがないので、蕎麦紹介は割愛します。今後利用することがあれば追記します。

 

 

「東雲の里」の年間スケジュール ※あくまでも目安です。
2月 ハヤトミツバツツジ、やぶ椿、河津桜、梅
3月 木蓮、ミヤマカイドウ、レンギョウ、ヤマブキ
4月 しだれ桜、ソメイヨシノ、新緑
5月 アジサイ、アヤメ、ホタルブクロ
7月 水連
10月 大文字草展
11月 紅葉シーズン、アケビ、栗

「東雲の里」
住所:鹿児島県出水市上大川内2881

定休日:木曜・金曜 ※祝日や紫陽花、紅葉時期は休みなく営業しています

公式サイト:https://www.nippon-no-ajisai.net/

Instagram:https://www.instagram.com/shinonome_no_sato/?hl=ja

 
 
 
 
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九州で最後のうどん・そば自販機 43年現役稼働を続けてきた「阿久根商店」の思い出

次々と消えていく全国各地のレトロ自販機。2020年5月31日には埼玉県行田市にあるレトロ自販機とレトロゲームの隠れた名店・オートレストラン「鉄剣タロー」が多くの人々から惜しまれつつ32年の営業に幕を閉じた。

f:id:kirishimaonsen:20210623011439j:plain▲阿久根商店のうどん・そば自販機(2020年7月撮影)

鹿児島県南さつま市の阿久根商店には「九州で最後」「日本最南端」と言われるうどん・そば自動販売機があった。1978年に設置されて以来43年の長い間訪れた人々の胃袋を満たし寒い冬には体を温めて続けてきた。しかし運営元の製麺所を営む阿久根商店が廃業したため2021年6月21日に自販機は撤去された。

f:id:kirishimaonsen:20210623011454j:plain▲自販機で提供されるうどん。麵は自家製麺で、つゆもかき揚げも手作りだった

自家製麺や手作りのつゆ、かき揚げが好評で「おいしい」とファンの多いスポットだった。もうないのは寂しいけれど、ひとつのものが役割を全うして消えていくのはごく自然なことなのだろう。

むしろメーカーが1995年に製造を中止してアフターサービスも終了した機械が、その後25年にもわたって稼働し続けたことがすごいことだと思う。アフターサービス終了後、機械の故障やメンテナンスの理由などから、うどん・そば自販機は全国各地で続々と失われていった。

だからこそ、ここで稼働していた頃の様子を記録にとどめておきたいと思う。コンビニもなかった時代の深夜の心安らぐ場所であり、誰かと集える場所だった。そこにはささやかな憩いがあり、懐かしい思い出や在りし日の地域の姿があった。

お金を入れて25秒 めんを湯切りしてだし汁を注いで作るうどん

f:id:kirishimaonsen:20210623011503j:plain▲「阿久根商店」は南さつま市の国道226号線沿いにある

私が2020年7月に利用した時の画像で紹介する。 

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ドリンク類の自動販売機と並んで、うどん・そば自動販売機がある。「阿久根商店」は食べ物と飲み物で小休止できる場所だ。(※現在もドリンク類の自販機は稼働中)屋外にあるので、売り切れていなければ24時間いつでも利用できた。
 

f:id:kirishimaonsen:20210623011540j:plain350円を投入して購入。昔はそばも提供していたが、装置が故障してうどんだけの運用となった。

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お金を入れると、機械の内部ではお湯を麺に注いで回転しながらほぐして湯切りを行う。そして適温になった麺にだし汁を注いで下の取り口から出てくる。その間なんと25秒。利用したことがある人ならわかるだろうが、汁をたっぷり入れてくれるので、出てくるとき勢い余ってちょっとこぼれちゃうのはご愛敬だ。

麺を湯切りして調理するところ、だし汁は後から注がれるところがカップヌードル自販機と大きく違う点で、おいしさの一因だ。その分動きも複雑になるため、機械の故障も多かったようである。

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後ろを振り返れば緑が眩しい南薩の夏。この環境で食べるのもおいしさの一要素だった。

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食べる場所は立ち食いカウンターと、横のテーブルコーナーがある。

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容器を覆い尽くすほど大きな存在感のあるかき揚げ。かまぼことさつま揚げも入っていて、どれもが阿久根商店の自家製だ。甘いつゆを吸ったかき揚げのやわやわ感が最高だ。

f:id:kirishimaonsen:20210623011450j:plain▲うどんはほどよいコシがあり、喉越しもよくおいしい

昔は10%の確率で自家製チャーシューまで入っていたのだとか。全国各地にあったうどん・そば自販機は、食材のセッティングはそれぞれの運営元で行うので、それぞれの特色があり、だからこそファンの間で各地の自販機を回る楽しみがあるのだろう。

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温かいうどんを食べてじんわりと汗をかいたところに、窓から吹き抜ける風が涼しかった。

 

釣り人が温まり、深夜に若者が集った

阿久根商店がうどん・そば自販機を設置したのは1978年(昭和53)に遡る。当時のことを、南さつま市の老舗醤油店「丁子屋」の宮本佳春さんはこう語る。

「設置された1978年当時から通っていました。コンビニも何もない時代に24時間利用できたからすごくありがたかったです。釣り仲間同士でよく利用していました。自分たちは14時ごろ釣りに出て、小腹が減った夕方に食べて帰る感じです」

「阿久根商店」のある226号線沿いは東シナ海に面しており、枕崎方面に向かって南下していくとリアス式海岸と豊かな漁場が広がっている。近くには小湊漁港や野間池漁港があり、釣り客が行き帰りに立ち寄りやすい場所だった。
 

f:id:kirishimaonsen:20210623013017j:plain▲海岸沿いの道には「南さつま海道八景」があり、絶景スポットが多いことで知られている。絶景を求めて訪れるバイカーやサイクリストにも「阿久根商店」は人気だった。写真は坊泊漁港

当時はうどん・そば自販機のほかに、ハンバーガー自販機、おにぎり自販機などもあってバリエーション豊かだったという。近くに車を停める空き地があり、夜の21時すぎ頃になるとたむろしている若者もいたそうだ。今でいうコンビニ前に集うような感覚だろうか。

また、同じころ小湊漁港にもラーメン自販機が設置されていた話を聞いた。ここでも釣り人達が釣りをして体が冷えたりお腹が減ったりしたらラーメンで温まっていたのだろう。しかし、2003(平成15)年頃にはもうなかったという。

「中途半端な時間でも利用できるし、釣りシーズンは冬だからあったかいもんがうれしかったです。出来立てでおいしいし。たまに夜小腹が減って、家から走って食べに行ったりしていましたね」

  

深夜に働く人たちの癒し

うどん・そば自販機の正式名称は「富士電機めん類自動調理販売機」で、1975(昭和50)年に開発・量産化された。この機械の開発当時はどのような需要や目的があったのだろうか?

メーカーの富士電機株式会社に問い合わせたところ、詳しい資料が残っておらず当時の販売台数、販売先、地域特性など細かいことはわからなかったが「カップ式自販機・瓶・缶自販機等の飲料自販機以外に食品自販機・物品自販機等を開発しラインナップの拡充を図っていたようです」と回答してくれた。

日本に飲料自販機が登場したのは1962年。アメリカの大手飲料メーカーが日本に進出し、1967年には100円硬貨が改鋳されて硬貨が大量流通することで、飲料自販機は使いやすくなりさらに広まっていく。(参考:一般財団法人全国清涼飲料連合会「自販機の歴史」

さらに高度経済成長期を経て、日本の夜は明るくなっていた。深夜に働く人たちが増え、夜どこにも食べに行く場所がない人たちにとって、自販機の飲み物はありがたく、さらに食べ物の需要もあった。

f:id:kirishimaonsen:20210623013349j:plain▲指宿の夜景

うどん・そば自販機は、高速道路のサービスエリアやパーキングエリアなどにもよく設置された。現在はうどん・そば自販機の姿はもうほとんど見ないが、さまざまな飲み物や食べ物の自販機が揃うスポットだ。深夜に長距離移動をするトラック運転手にとってほっと一息つける癒しである。

 

24時間いつでも訪れる人たちを受け入れてきた「コミジョイ」

阿久根商店のうどん・そば自販機は、設置された昭和から平成、令和と、43年にわたって稼働し続けてきた。

これだけ長い間稼働を続けたのは、自販機を阿久根商店社長自らが修理を行っていたことによる。1978年ここにうどん・そば自動販売機を設置した頃、その他県内各地にも同じ機械を設置した。合計で6カ所。その後故障したものから部品を移植して、メンテナンスを続けてきた。

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「阿久根商店」のことを、地元では「コミジョイ」の愛称で呼ぶ。これは24時間いつでも営業しているファミリーレストラン「ジョイフル」にちなんだ「小湊のジョイフル」からきている。中高生たちにも人気で、学校や部活帰りにちょっとおしゃべりをしてうどんを食べたり飲み物を飲みに立ち寄る場所だった。24時間営業のファミリーレストランのように、「コミジョイ」はどんな時間帯に訪れる人のことも受け入れ、寄り添ってきた。

南九州市川辺在住、南さつま市勤務の原田さんは「関西に長くいて鹿児島に戻ってきたころ、噂を聞いてすぐに訪れました。みんなが「コミジョイ」っていうから何のことかと思っていた」と話す。

「冬の仕事帰りに助かる存在でした。小腹減ったな、寒いからあったかいもの食べたいなって時に、あつあつでボリュームたっぷりのうどんが食べられました。製麺所の麺だから本格的だし、つゆもおいしかったです」

f:id:kirishimaonsen:20210623013556j:plain▲このひたひたにたっぷり注がれたつゆが最高だった

懐かしく思い出される地域の名スポット

このうどん・そば自販機は、訪れた人にさまざまな思い出を残してくれた。

f:id:kirishimaonsen:20210623013811j:plain南さつま市の海岸沿いへ行くときによく通った道。雄大金峰山と周囲の田園風景が印象的な、どこか懐かしさを感じる風景

南さつま市は鹿児島県の西南端にある。入り組んだリアス式海岸雄大金峰山を望む風光明媚で美しい土地だが、観光地としての知名度は低く訪れる人の数は決して多くない。そして、多くの地方の例にもれず、少子高齢化・過疎化が進行する土地である。

それでも、この「九州で唯一」「日本最南端」のうどん・そば自販機を目指してやってくる酔狂な人たちも多くいた。ここは間違いなく地域の名スポットだった。

記憶の中で思い起こされるとき、ある人は自分の青春時代の部活帰りの同級生との時間を、ある人は深夜の仕事帰りの癒しの時間を、ある人は釣果に喜んだ帰り道の時間を、またある人は遠路はるばる目指してやってきた旅の時間を、この自販機とうどんと共に懐かしく思い出すのだろう。

私も数回訪れた時のことを懐かしく思う。特に夏が印象的で、道中通った道沿いの風景や、南薩特有の草の匂いと湿気を含んだ空気のことを強く覚えている。

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撤去されたうどん・そば自販機はどこへ行ったのだろうか? まだ稼働していたし、ファンの多い貴重なレトロ自販機だ。廃品処分されたのではなく、どこかに買い取られて再び稼働するのではないかと、またどこかで再会できるのを期待している。もし新しくうどん・そば自販機が設置されたのを見かけた人がいたら、ぜひ私にも教えて欲しい。

 

 
(取材・文/横田ちえ)

参考資料:
富士めん類自動調理販売機PDF
2019年5月16日付朝日新聞「うどん自販機 レトロ感も味」
一般財団法人全国清涼飲料連合会「自販機の歴史」

夢破れても筆折らず 生涯ツルを描き続けた孤高の画家・宮上松岳の絵に魅了されて

熊本との県境に位置する鹿児島県出水市は、日本最大のツルの渡来地として知られている。その出水で、ツルを描き続けた画家がいる。宮上松岳さん(1914-1988)だ。


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毎年10月中旬から12月にかけて、はるかシベリアから出水までやってきたツルは、翌年3月頃まで越冬する。長い果て旅路の果てに羽根を休め、エサをついばみダンスをするその姿は、出水の冬の風物詩である。


私が松岳さんの絵に初めて出会ったのは、出水市の山深い場所にある大庭園「東雲の里」だ。園主の宮上誠さんは、看板と陶芸の仕事をしながら46歳の時に山を購入。「ここに最高に美しい庭園を作ろう」と20年以上の歳月をかけて開墾し、花や木を植え、石畳を敷き、園内に蕎麦屋や陶芸窯を設けて、一大庭園を築き上げてきた。


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▲初夏には約10万本のアジサイが山を彩る。「東雲の里」は日本各地のみならず海外からも人が訪れる出水市の観光名所だ


そんな「東雲の里」園内にある蕎麦店の片隅に、『出水ところどころ』と題された古い画集があった。


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何気なくページをめくってみると、紫尾山や牧場など出水の素朴な風景が美しく流麗な筆づかいで描かれていた。私は情感あふれる、郷愁をさそうような絵に心惹かれた。そこはかとなく寂しさが漂うのも心に残る……。聞けば、園主・誠さんの亡き父、宮上松岳(本名:松市)さんの自費出版だという。


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「親父は無口で不愛想。人と朗らかに話しているところなんて見たことがない。そんな人を寄せ付けない性格もあってか、描いても描いてもあまり絵を見に来る人はいなくて、晩年は創作意欲が失せてしまっているように見えました。やっぱしなぁ、人が見に来てくれたり買いに来てくれたりするような、意欲が湧くようなことがなければ、作家はダメなんですよ」


画集最後のページを開くと美術展での数々の受賞歴が記されてあるが、画家として広く世に出ていくことは叶わなかったようだ。筆一本で生きる道は厳しく収入は看板製作だったという。


いったい松岳さんはどのような人生を歩んできたのだろうか? 私は、強く人を惹きつける絵を描く力がありながらも、画家として報われない運命を辿ったひとりの人物のことが強く気になってしまった。


人と馴れ合わない孤高の画家のイメージが浮かんだ。しかし、残された絵や文章に目を通し、親族に話を聞いて取材を続けるにつれ、私の中の松岳さん像が揺らぎ、無彩色だったその姿は、次第に色を帯び、陰影が深まっていった。


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大画伯たらんと青雲の志を抱いて

私の少年期は貧困で、修学旅行にも行かれない時代であった。しかし、向学心は人一倍強く、番頭、土工、牛乳配達、氷配達等様々な仕事をやり、NHKドラマおしんの少女物語よりひどいものであった。勉強の出来ないところには永居せず次の土地へ転出しつつ上る。昔は職を選ばなかったら仕事にありつけた。熊本、福岡、連絡船で関門を渡り岡山、姫路、大阪、名古屋、東京等。大画伯たらんと青雲の志をいだいて。  ―『出水ところどころ』より


松岳さんは画家を目指して歩んだ道のりを一切語らなかった。「とにかくしゃべらん人でな」と誠さん。しかし、画集や文化誌への寄稿でいくつか自分のことを書き残している。そこには、夢いっぱいに郷里を後にして、苦労しながらも新しい世界へ飛び込んでいった少年のみずみずしい高揚感が表れている。


焼けつくようなアスファルトの上を歩いて氷を運び、得意先の冷蔵庫に収めた。午前中いっぱいで氷配達を終えると、午後からはスケッチブック片手に街をぶらつく。百貨店や呉服屋のウインドーから着想を得て着物の図案を描いて、それを織物屋に売って下宿代を稼いでいた。


貧困の中でも、若き松岳さんは身一つ、筆一本で力強く世の中を渡り歩いた。


漂泊の少年時代を経て18を過ぎた頃、大阪で南画家の大家である矢野橋村の書生になる。矢野橋村が校長を務める大阪美術学校にも通い始め、画家としての道の第一歩をいよいよ踏み出し、絵の道に邁進できるかと思われた。しかしそんな松岳さんの思いとは裏腹に、戦争の暗い影が忍び寄っていく。


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二十歳の徴兵時期を迎えたので、居留届なく検査は帰郷、出水小学校の一室で甲種合格のらく印を押された。入隊までは数カ月の間があったので米ノ津で店員をしていた。初志挫折。現役二年、支那事変二年半、対戦と続く。終戦。  ―『出水ところどころ』より


掴みかけた夢は儚く消えた。色鮮やかだった世界は戦争で黒く塗りつぶされた。まるですべては幻だったかのように。


運命を変えるはずだった一通の手紙

こんこんとした戦後の世相の中で食わねばならない。筆で生きるには……。  ―『出水ところどころ』より


戦火は松岳さんの左足のひざに直径4センチの傷跡を残した。復員後すぐに矢野橋村に手紙を出し、再び書生になりたい旨を知らせたが、待てど暮らせど返事は来なかった。白黒の似顔絵描きをして働くうちに、シノメさんとお見合いをして結婚が決まる。松岳さんは初婚、戦争で夫を亡くしたシノメさんは再婚で、亡き夫との間の一人息子がいた。


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結婚の日取りも決まったある日、掃除のために普段は締め切っていた雨戸を開けると封筒が落ちた。郵便配員が差し込んだものを、家族の誰もが気づかなかったのだろう。配達から大分日数が経っていたが、矢野橋村からの便りで「門下生が一人不足しているからすぐにいらっしゃい」と書いてあった。

結婚をふり捨てて出掛ける勇気もなくチャンスを失して残念。今でもその事は心のこりである。こうして米ノ津に住み着いてしまった。あの時一通の手紙を配達当時見ていたら私の人生も変わっていたかも知れない。 ー『出水文化』(1970.11発行)より 


郷土史家の田島秀隆さんは、鹿児島市で開催された広告展(野外広告美術コンクール)で松岳さんの展示を見ている。多くの展示物の中にひときわ目を引く作品があり、それが松岳さんの絵だったという。いつも群を抜く入選作だった。松岳さんの画集『群鶴百態』の序文にこう寄せている。

専門の画家としての修養をされたなら、どれ程の成長を見られた事かと惜しまれてならない。それでも国際美術展のフランス・ニース大賞展入賞など、国際的にも着々とその地歩を築いて来られた。  ―『群鶴百態』より


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▲松岳さんの看板絵


矢野橋村の書生となり、大阪でひたすら絵に打ち込んだ日々、この時間があともう少し続いたのなら……、便りに早く気がついていたら……。この世に「もしも」はないが、存分に才能を伸ばす時間や環境があったならと思わずにはいられない。


郷里の風景に美しさを見出して

仕事で出水のあっちこっちに出かけると広いなあとつくづく思う。上場高原、ここのお茶は特にうまい。芭蕉の山々、展望では矢筈・紫尾の両山。積水工場の先に出水養鶏所がある。ここから見る北は特に広さを感じさせる。  ―『出水文化』(1967.9.発行)より


結婚後、息子(誠さん)と娘が生まれる。しばらくすると、長男は戦死したシノメさんの亡き夫の母からぜひにと乞われて、引き取られていった。松岳さんは水俣太陽映画館で看板を描く職を得たのち、昭和24年独立して看板店を設立した。


家族がおり、生活があって、画作にのみ邁進することはできなかったけれど、看板屋の仕事でリアカーに荷物をのせてあちこちを奔走しながら、松岳さんは出水の風景に美しさを見出していった。仕事の合間に絵を描き続けた。


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▲『紫尾の夕映』 今仰ぎ観る無窮の大地を、青空に映えて夕日に染む


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▲『名古港展望』 清風と緑を展望の東光山、ここから見る出水平野八代海は人々の心に風光明美の趣をあたえて、わが心に忘れていた野生をゆさぶる


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▲『福之江海岸』 あの松並木を誇った頃の並木も今はあとかたもなく消えた。海水浴場として永年親しまれたが、これも消えた


日常の延長線上にある出水のあたり前の風景を、詩情豊かに描いている。絵には文章が添えられたものが多く、心象を反映させた言葉に松岳さんの感性が光る。絵からは、人々の温もりや時代の移り変わり、それに付随するさまざまな感情までが浮かび上がってくるようだ。


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▲『雪の仁王橋』 たまたま積もった雪の早朝。新聞少年自転車をこぐ後方の山は東光山


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▲『五月のころ』  ここに男子あり五月のぼり。矢筈山を背景にあそこにもここにも晴れやかにおよぐ庶民のまつり


私は、松岳さんの絵と文章が、郷里の風景の捉え方が好きだと思った。


空想や幻夢ではない、生きた鶴の佇まい


風景と合わせて、最も多く描いたのは出水に飛来するツルの姿だ。


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▲『声風』


寒風を裂いて鶴の鳴き声が響く様を描いた松岳さんの代表作。独自の冴え冴えとした色調からは、冬の出水平野の透き通るような空気感が伝わってくる。


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松岳さんのツルの絵を収録した画集『群鶴百態』を出版した村田書店店主は、丹念な写生から出発した松岳さんの絵を高く評価している。

そこには空想や幻夢ではなく生きた鶴の佇まいがあり飛翔が感じられるのである。一つ一つの姿態をつぶさに観察し、一瞬の微動すらも捉えて離さない画家の研ぎ澄まされた目がこの様な多種多様の鶴を生み出すのである  ―『群鶴百態』より


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檻の中の鳥ではなく自然の摂理だけに頼って生きる鶴だからこそ、その静も動も真実の姿であろう。そしてその自然は出水であり、宮上氏も鳥達と同様に出水の自然に導かれ、鶴が愛してくれるこの郷土を愛し、この郷土故に筆を採るのである。  ―『群鶴百態』より


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夢を託して玉を磨く


松岳さんは、地元の人々から舞台の背景絵や文化誌への挿絵を頼まれればほとんど断らず、無償で引き受けていた。しかし、一部では絵はタダで描いてもらえて当たり前、感謝さえ言われないこともあったようだ。


無報酬であることは決して厭わなかったが、頼んだ人からお礼すら言われないことへの不信感、貸した絵を返してくれない不義理な人物への憤りを書き残している。一方で、会社の解体工事に伴い以前寄贈した絵を返しに来てくれた人や自分の絵を認めてくれた人への深い感謝の念も綴っている。


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数々の賞に応募し着実に画家としての評価を上げていた。日展や二科一陽展はもとより、フランスニース国際展やオーストリアウィーン国際展での受賞歴があり、現代の名工として鹿児島県知事表彰も受けた。昭和53年の美術年鑑では、一号4万円の評価額だ。一号はハガキ一枚のサイズ。つまり10号の絵を描いたら40万円になるはずである。


しかし、絵が売れることはほとんどなかった。


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どの時代、どの地でも、画家が才能を認められてその道で生きていくのは厳しいが、まわりに同じような画家や作家もいなかった出水の地で、孤独はさらに深まる。


妻のシノメさんは、独立して収入の少なかった頃から松岳さんを支えたが、絵の理解者ではなかった。「いつか海外にスケッチに行ってみたい」と夢を語る松岳さんに、「ゼン(銭)もなかとに大きなこと言いなさんな」と諫めている。

私は私なりに夢がある。その内どこかの人が画を2,3枚買ってくれるよ。そしたら百万円くらいの銭はできるよ。そんな夢を託して玉を磨く。実現せずともよい。それが私の生きがいだ。

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地域の歴史を振り返る絵を描いて街頭展なども行った。


開催された数々の絵画展の記録からは、周囲に理解されにくい環境でも、ひたむきに画作に励んだ画家の孤独と情熱が見えてきた。


親父の絵はどこにあるのか?


けれども息子である誠さんの、画家としての松岳さんに対する評価は、決して高くはない。


看板屋の仕事を手伝うようになり、創作意欲に従って陶芸を始めて、自分の感性を育むにつれ「親父の絵はとても上手だけど、それ以上のものがない」と感じるようになったと言う。


「絵は上手やったど。油絵も水墨画も似顔絵もなんでもきれいに描く。でも強烈な個性がない。親父によく言いよったとです。『親父の絵はどこにあるのか?』と。人の心に残る絵を描いている人は、一目見てその人だってわかる個性がある。やっぱり画家なら自分の絵を追求しなきゃいかんやんか。画家は自分の個性を見つけるのにしのぎを削っている」


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「『俺は好きに絵を描いて本望だ』って言っとった。でも年を取ると親父は絵を描かなくなった。老後は土手の草を払ったり、花を植えたりするばかり。人が来て褒めてくれたり、買ってくれたりすることで、刺激を受けるようなことがなんもなかったからなあ。やっぱり画家は人から認めてもらって創作意欲を掻き立てることが大事なんだと思う。そのためには見に来てもらえるような強烈な個性がないと」


松岳さんに厳しい目を向ける誠さん。それは絵に夢を託しながらも、決して広く世に出ていくことのできなかった父親を反面教師にしなくてはいけないと思うからだと言う。


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果たして松岳さんの絵に個性はないのだろうか? 見る人によってその評価は異なるのだろう。


私には絵の素養がないけれど、独特の情感あふれる絵だと感じた。出水のささやかな風景の中に輝くものを見出して、自分の感性で郷里を捉えた素晴らしい絵だと思う。人が暮らす気配やツルの躍動感が伝わってくる。


「お父さん、お母さんには内緒やっど」


孫の里香さんもまた、誠さんとは違った視点を持つ。


「父は祖父の絵を『個性がない』と言いますが、それは二人の作家としてのタイプが違うからだと思います。祖父はものすごく真面目で。例えば、円を描くにしても父は感性に従って大胆に描くタイプだとしたら、祖父は何かで計ってきっちり円を描く人なんだと思います」


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▲出水のツルを描いた看板絵。


「確かに父の言う通り、ぱっと見て興味を惹く絵とは少し違いますが、私は祖父の絵が好きです。認めてくれている人もいて、『もったいないから世に出しましょう』と東京の出版社の方が熱心に説得に通ってくれて、鶴の絵を集めた画集『群鶴百態』が出版されました。けれども本人は『わからんやつに持っていてほしくない』と、結局画集を自分で買い占めてしまっていました。それが自信のなさなのか、作家としてのプライドなのかは私にはわかりませんが……」


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「私は大のじいちゃん子でした。口数の少ない人でしたが、私が祖父のアトリエで絵に興味を示すと『なんでん描け』と、キャンバスでも画材でも何でも使って好きに書いていいと。そして『父ちゃんと母ちゃんには内緒やっど』と、親が買ってくれないような駄菓子をこっそり買ってきて渡してくれました。私はじいちゃんが大好きでした」


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▲松岳さんが描いた幼き日の里香さん。自宅にずっと大切に飾ってきた。


数々の絵を、小学校や文化施設に自主的に寄贈することもあった。それは人づきあいがさほど得意ではない松岳さんにできる、人との交流の手段であり、感情表現だったのだろう。


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▲自主企画した「絵で見る新町50年史展」。地域の変遷を看板絵で伝えた


「不器用だったんでしょうね、祖父は。立ち回りが上手くなくて、それは画家として成功するには良くなかったのかもしれませんが、周囲にあまり認められなくても出水の街やツルを愛し描き続けた祖父のことを、私は愛しく思います」


小さな美術館を残したい


誰よりも松岳さんの作家としての姿勢に厳しい誠さんは、また誰よりも同じ作家として松岳さんに共感を示す。現在、松岳さんの残された作品を展示する小さな美術館を建設中だ。


「小さくてもいいからなんか残してやりたいと思って。親を思う気持ちっていう以上に、作家として認められたいって気持ちがわかるから」


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▲大庭園「東雲の里」の一角にある納屋を改修して、宮上松岳ギャラリーを開設予定。


松岳さんの絵は、果たして訪れる人々にどんな印象を残すのだろうか? 小さな美術館が完成したら、ぜひ自分の目で確かめて欲しい。順調にいけば年明け(2021年)2、3月頃には完成だ。


現在、出水市へのツルの飛来数は1万羽を超え、それはさまざまな地域の問題を内包する。農作物を荒らされず共存できるようにはじめた餌付けは、さらなるツルの渡来数増加につながり、伝染病発生のリスクもはらんでいる。だから出水は美しいツルの渡来地とシンプルに礼讃できる状況ではない。


けれども、この地で絵に夢を託し、ツルを描き続けた孤高の画家がいることは、ささやかでいいから誰かが覚えていて欲しいと願わずにはいられない。

大画伯たらんと志した夢は棒にふったけれど、耐乏生活し乍ら筆に生きたことは一貫性があるのでマアイイさ。筆に謝し5年前、せまき我が庭に筆塚を建立してまつる。わがしょうがいは 筆にたくして生きる道。と刻む  ―『出水ところどころ』より


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(取材・執筆 横田ちえ)