私生活

プライベイトなタイムカプセル。

蛇にピアス

今更ながら映画『蛇にピアス』を見た。

 

色んな解釈ができる映画だと思うけど、私は解釈というような客観的な視点でこの映画を見ることはできなかった。

 

どちらかというと共感だった。

私は映画の登場人物のような世間の常識から逸脱したような生活を送っていたわけではないけれども、フラッシュバックのようにかつての感情が蘇ってきた。

 

痛みを感じないと生きている実感が湧かない。

 

そんな馬鹿のような話は私の現実にもあった。

 

人間、あまりに痛みを感じると心が麻痺してしまうのだろうか。

もっと痛い刺激がないと、自分の心を誤魔化せない。

 

だから、辛い時は好きでもない男と寝たりした。

好きでもない他人に心のない自分が道具のように扱われていると、どこかでほっとした。

自分の身体が如何ように支配されても、心は自分に所属している、それをきちんと確認できた。

嫌な感情も全部自分のものだった。

それでなんだか自分が保たれたような気がした。

 

意味も分からず刺激を求め、浮気をしたり、他人を傷つけたりして、結局私は何がしたかったのだろう。

寂しかったのか、何かに飢えていたのか、辛かったから頭がイカれたのか。

快感だけでなく、罪悪感や嫌悪感を覚えると、無味乾燥な生活から一瞬解き放たれたように感じれたのだろうか。

 

しかし、刺激を求めれば求めるほど、結局はどんどん屍のように生きている実感も遠のく。

主人公ルイの荒れ果てていく有り様にはリアリティがあった。

 

なんで人間はあのようになってしまうのだろう。

生きてる実感を取り戻した今でもそれは分からないし、分析しようとしてもよく分からないまま終わってしまう。

 

蛇にピアス』を創った人たちはどうしてこんな馬鹿げた私たちの感情を理解したのだろうか。

 

 

認知の歪み

人間いつだって自分自身のことを冷静に見つめるのは難しい。

 

大学初期に作ったTwitter裏アカウントの記録をふと読み返してみたら息が詰まった。

4年分の自分の悲しみが綴られていて、負のエネルギーで胸が押し潰されそうになった。

 

楽しいことや嬉しいことは当然わざわざ裏アカでは書かないものだ。

そこは人目につかないようにひっそりと吐き出した自分の弱さや醜さだらけだった。

 

一方、過去の自分を見つめなおすと「あーなんだかこの頃おかしかったんだなぁ」と冷静に分かってくる。

メンヘラ度合いが酷い時はやっぱり認知の歪みなるものが働いていて、明らかにおかしい思考パターンをしている。

 

「他人が自分に伝える好意は信用できない。」

「自分は周りから見捨てられる存在だ。」

「誰にも頼ってはいけない。不安なのは自分が自立していないせいだ。」

「嫌なことがあっても他人の欠点をありのまま受け入れられない自分が悪い。」

「他者から抑圧されているため自分の感情を表現する自由がない。」

「罪悪感を抱くことでしかその人への愛を認識できない。」

「自分の暗い思考を見せた途端きっと周りの人が離れていくだろう。」

 

 

今になると、なぜあの頃ここまで極端な考えに陥っていたのかよく分からない。

しかし、そもそも今の自分さえまともであるとも言い切れないのが怖いところだ。

 

もちろん今の自分は、上記のような考えをほとんど持ってはいないが、
あの頃自分が吐露した抑えきれない叫びの根っこの部分は、成長によって消えることなく、これからもどこか自分の心の中で生き続けていくんじゃないか、 そんな気がしている。

 

ストレスフルになるとそれが出現して、健全な心身を保つとそれが消えて、そんなことを繰り返していくのではないだろうか。

 

健全さと病はいつも紙一重なのではなかろうか、
ちょうど風邪を引いている私は思うのだった。

 

 

新規営業の精神的負荷

私は新入社員で、管理部門系配属にも関わらず営業の研修を受けている。

とはいっても研修とは名ばかりで、実際の業務となんら変わらないことをやる毎日だ。

 

今行っている業務は、新規獲得の営業で、私は営業部門の新入社員に混じりながら、日々奔走している。

そして現時点で営業成績トップを独走中だ。

 

本格的な営業活動を始める前では、営業って、きっと結果出たら楽しいんだろうなぁ、なんて考えていたが、そんなことは決してなかったというのが現実だ。

長期的な目線で見たら分からないが、今の私はそう思わざるを得ない。

 

 

私の短所はメンタルが弱く、ストレス耐性がないことだ。

その上、人と接することへの苦手意識も強い。

 

実際にスキルがあるのかどうか、または結果が出たかどうかではなく、自分が慣れていないこと、苦手だと認識していることをするのは非常に負荷がかかる行為だ。

その上、自分に無意識のうちにプレッシャーをかけてしまい、ノルマを達成しているにも関わらず、強迫観念のようなものを持ちながら日々の業務を行ってしまっている。

 

家に帰ったらもうヘトヘト。

お風呂に入っても、寝る前でも、仕事のことを考えてしまい、眠りは浅く、目覚ましが鳴る前でも起きてしまう。

そして、起きたあとは、胃の痛みを感じながら、仕事行きたくないなぁなんて思いながら、気付いたら涙が出ていたりするのである。

 

他人から見れば、成績が出せていて、いかにも順調に見えるのかもしれない。

でも本当はこんな毎日を送っている。

しかし、成績1位の人があからさまにみんなの前で「仕事がつらい」なんて喚けば、叩かれる気しかしないので、平然を装っているだけだ。

 

もちろん、周囲とのコミュニケーションに問題もなく、弱音も愚痴も親しい人には話せているのだが、正直今の自分の精神状態は、今後の仕事生活が心配になるレベルである。

 

・どんなにスキルを磨いても、当たる先を考えても、運などの不確定要素に左右されすぎる新規営業

・初対面の人間に、自分から積極的に働きかけるという自分の嫌いな作業

この二つの要素が掛け合わさったことで、仕事の精神的な部分での負荷が倍増しているのである。

 

自分が管理部門系の部署に応募して本当に正解だったという思いがある一方で、今後管理部門の仕事でもプレッシャーに押し潰されるのでは、という懸念を抱き始めている。

 

日々の業務レベルの面では相当の違いがあるので、なんとも言えないが、もし今後もこのような精神状態になりそうであるならば、自分のメンタルコントロールの仕方を真剣に考えなければいけないな、と感じた。

 

面白可笑しい!矛盾だらけの中国社会

GWの休暇を使って久しぶりに中国上海に行った。

 

現代の上海はとにかくすごい。

 

街に漂う高揚感、クレーン車だらけの新開発地区、高騰し続ける住宅価格、ブランドショップとファストファッションに埋め尽くされたモール……

日本で報道される中国の暗い闇とは裏腹に、先進国の持つ巨大な資本力と、途上国の持つ発展への希望が混ざり合い、不思議な熱気を醸し出している。

 

国営企業が市場の大半を占有しながらも、街角では多くの外資系企業がひしめき合い、個人経営商店は多産多死。

外に出かけると、一枚岩ではない中国経済の複雑さを感じるのだった。

 

 

バブル崩壊の気配は、多くの人たちにとってはまだまだ遠いようだ。

上海の住宅価格はあり得ないスピードで上がり続け、東京の相場を凌駕している。

 

知り合いは20代にして15000万円相当のマンションと1600万円近い外車を購入していた。

「こんなの当たり前でしょ。」みたいな顔をしているし、今後価値が目減りすることなんて考えてもないというか、もはやどうでもよいのだろう。

彼らにとっては、「今この瞬間」所有していることが何よりも大事なのだ。

 

 

テレビでは相変わらず北朝鮮のような国家賛美の歌やダンスが繰り広げられ、逆にラジオではイケイケのEDMばかり流れている。

ドラマでは日本は相変わらず「鬼子」などと呼ばれ悪者扱いなのに、モールでは「ここは日本?」と見間違うくらい日本のメーカーで溢れかえっている。

 

矛盾だらけで、都合が良いなぁ、なんて思ってしまうのが面白いところでもある。

共産主義的な建前と資本主義的な本質、対立するダイナミズムが作り上げているのが今の中国だ。

 

 

文化大革命の苦しい記憶がもたらした政府への恨み、しかし忘れることのできない愛国精神。

老若男女問わず国内SNSをまるで日本のJKのように駆使しながらも、頭の中では消し去れないあまりに保守的な伝統観念。

 

それはまるで

①『Always 三丁目の夕日』を彷彿とさせる戦後高度経済成長期

②日本中が消費と投資に翻弄されたバブル期

SNSに傾倒する若者たちが謳歌する現代

3つの時代が一挙に到来しているかのようである。

 

 

 

とにもかくにもカオスな中国。

みんなJKみたいにスマホ依存症なのに、TwitterFacebookYoutubeLINEGmailInstagramまとめサイトも、何ひとつ使えない。

不便で仕方ないけれど、それも含めてなんだか笑えてきてしまうのだった。

 

日常がドラマチックになる営業体験

大学を卒業して入社したばかりの私は研修真っ最中である。
自分の職種は管理部門系で決定しているにも関わらず、最初の約3ヶ月は営業研修をすることになっている。

営業なんて、コミュ力があまりない自分に向いていないし、なんだかつらそうなイメージもあり、私は営業に対してかなり負の感情を抱いていた。
しかし、研修を少し経て、営業に対しての見方がかなり変わった。


私は、内向的で受け身な人間で、積極的に自分から友達を作りに行くタイプでもない。
雑談も正直ちょっと苦手で、人見知り。
そんな自分が、見知らぬ他人に突然話しかけ、良い関係性を築き、商品に興味を持ってもらうなんて、とんでもないハードルである。
自分の人生とは正反対だ。

でも、だからこそ新たな発見ばかりであった。


まず、気付いたのは、コミュニケーションには動機と目的が必要であるということ。

自分のコミュニケーション能力が欠如しているのは、コミュニケーションの動機も目的も大して持っていなかったからである。
「この人のことをもっと知りたい。」「自分を知って欲しい。」「この人と仲良くなりたい。」
そんな好奇心や欲求が生来薄いために、コミュニケーションの動機付けができなかった。
動機がないゆえに、コミュニケーションを取ろうと試行錯誤する機会もないまま、そして成功体験も大して積み重ねないまま大人になってしまい、今の有り様になった、ということだ。

しかし、営業では確固たる目的がある。
大義名分としては、会社に貢献すること。しかし本質的には、結果を残したいだとか、評価されたいだとか、そんな自己承認欲求がダイレクトに働いてくる。
他人への関心はなんとなく薄いが、数字で評価されることが嬉しい自分は、コミュニケーションの大きな動機を得ることとなった。

目的を達成するためには、人に働きかけなければいけない。
そんな義務感が自分を突き動かす。

自分から他人とコミュニケーションを取らざるを得ない状況になった自分は、まるで実験のように、色んな話し方を試し、一喜一憂しながらも少しずつ発見を積み重ねていく。
そしてそこからなんとなく自分の成功パターンを見つけ始めるのである。

こんなことはコミュ力のある人間だったら息を吸うように出来ていたことかもしれないが、自分にとっては初めての体験だった。




そして次に気付いたのは、自分から他人と関わろうとすることで、日常がドラマチックになるということ。

受け身な人生を歩んできた自分は、他人から働きかけられても特段感想を抱くことが少なかった。
しかし、能動的に他人と関わると、他人の言動一つ一つが自分にとってすごく意味を持ったものになる。
必死な思いで他人とコミュニケーションを取ろうとするからこそ、優しい言葉も、厳しい言葉も、重みが倍増するのである。
営業先で思いがけず優しくされただけで、驚きと感動とうきうきが自分の心を支配するのだ。

ブルーな日も、ハッピーな日も、そこには自分の主体性と、それを投げかける生身の他者があってこそなのだと気付いた。


当たり前なことに、実感を伴って気付かされる毎日は、ほんとに貴重である。
コミュ障にとってこそ、強制的に試行錯誤させられる営業は、通るべき道なのかもしれない。


「すれちがう人の数だけ ドラマチックになるの」
YUKIの歌がいつもよりも心に響いて、なんだか嬉しくなった。

 

ドラマチック

ドラマチック

 







「どうして価値に理由をつけて ポーズを執らされているのかな」

数年前に、なんとなく惹かれあった人がまさかの彼女持ちだったことがある。

好きな気持ちに嘘をつけずに一緒にいたら、私はいつの間にか浮気相手に成り下がっていたのだった。

 

彼は私に対してはすごく優しかった。

ただ、自分の財力を顕示するのも好きだったし、私におねだりさせるのも好きだった。

彼のお金を使って1泊十数万のホテルに泊まり、グルメに買い物にカジノに、贅沢の限りを尽くした旅行をしたりした。

昼間からホテルで飲んだくれ、欲に溺れる生活を過ごしながら、私は思った。

これってなんだか売春みたいだなぁ、と。

 

もちろん、彼に対して好意も愛情もあったけれども、私は遊ばれていて、彼にとっての1番ではなかった。

それは結構悲しい事実だ。

だから、心が折れてしまわないように防衛機制が働いて、あーこれは売春なんだ、と思っていつの間にか割り切るようになっていた。

 

そうやって、自分のセックスに値段をつけることを覚えた。

好きだからこそ、その人としたはずのセックスは、気付けばもはや消費欲を満たすための手段になってしまっていた。

恋や性への価値観が変わってしまい、自分のかつてのポリシーは消えてしまった。

そして好きだったはずの彼を、心のどこかで憎むようになっていた。

 

自分の気持ちを搾取され続けたせいか、他人の気持ちを搾取することにもとても鈍感になった。

男性を騙したり、傷付けたりしても、どうせこの人はヤりたいだけだし、やらせればいいんでしょ?くらいにしか思わなくなった。

インチキな自己肯定をするようになって、屑のようなことをしていたけど、それでも両成敗だって、世の中そんなもんだって思ってやり過ごした。

人を悲しませたり、失望させては、心のどこかにある罪悪感をごまかしながら、大声でケラケラ笑った。あらゆるものを嘲笑するかのように、心の底からケラケラ笑っていた。

 

あの頃の心境をうまく説明することはできないけど、頭はちょっとイカれかけてたし、心は見えないところでズタズタだった。

一見割り切ったように見えても、夜は眠れないし、時計が深夜3時をまわると、訳もなく涙が出た。

慢性的に虚無感を抱き続けていたんだと思う。

親しい男友達に深夜に「なんのために生きているのか分からない」と電話をかけて、話を聞いてもらっていたら、いつの間にか彼の「セックスしたい」という言葉に応じてしまっていた。謎の負の連鎖。

本当にもうなにがなんだかもうよく分からなかった。

 

当時は、男性の欲望が私の心を消耗させているんだ、と考えたりもしていた。

けれども今思えば、それは誰のせいでもない。

私は自分で自分の気持ちや身体をまるで道具のように扱っていたから、自己肯定感がどんどんなくなっていったのだ。

そしてあの有様だった。

 

他人の気持ちを弄んで嘲笑うのは、かつて逆側の立場だった自分の怒りや悲しみをそういう形で処理して、なかったことにしたかったのだと思う。

でも、途中からそれはもはや自傷行為のような役目を担っていたように感じる。

ナイフで自分を切りつける人がそれに爽快感を感じるように、自分の卑しさや悪魔みたいな部分を自覚したり他人に見せつけるたびに、血を流すような快感を得ていたんだと思う。

疲弊しまくって、藁にもすがる思いになってから、やっとそのことに気付いた。

 

 

性に奔放なのは悪いことではないと思っている。

モノガミーという制度を至上だとして肯定する気もない。

性愛は本来もっと自由であるべきだと思う。

というか、人生は自由であるべきだと思っている。

みんな自分の歩みたい道を自分で選ぶ権利があると思うし、それを周りが後ろ指さすのは、仕方がないとはいえ、なにかが違うと思う。

 

ただ、そこで何か大切なものを犠牲にしていないか、自分に問い続けることは大切だと思う。
そして、自分の目の前にいる人は、本当にそれを望んでいるのか、それに目を瞑ってしまうのは卑怯だ。
そこに搾取や上下関係が生じているならそれはフェアじゃない。

そしてなにより、それが自分の本当に望んでいることなのか、なりたい自分なのか、と考えてみなくちゃいけない。

それに目を背けて、開き直って違和感のある現状を肯定していたら、負の連鎖に入ってしまう。

 

 

こんな文章を書きながら、飛行機の中で、映画『マネー・ショート 華麗なる大逆転』を見た。

www.moneyshort.jp

「華麗なる」なんて言葉がタイトルについていながら、その映画は決して清々しいものではなかった。

でも登場人物の言葉がなんだかぐさぐさと自分の心に刺さった。

欲にまみれた人々の有り様をかつての自分と重ねてしまった。

 

人間の欲望は大きい。

隣の芝はいつだって青く見える。

自分を保つことの困難さ、そして偉大さを実感するには十分すぎる経験をしたなぁ、と思う。

 

 

どろどろに汚れた自分の心に嫌気が差したら、『星の王子さま』を読もう。
「大切なものは目に見えない」
サン=テグジュペリの言葉が自分の救いになるはずだ。

星の王子さま―オリジナル版

星の王子さま―オリジナル版

 

 

印象に残った日本酒 村祐「黒」

私は、味覚がお子ちゃまで、苦い味が嫌いで、アルコールは好きでも、ビールすら未だに飲めない。

しかし、そんな私が、新潟県人の友達のおかげで、数年前から日本酒にハマりだしたのだった。

味覚がお子ちゃまな私は専ら甘口派。
獺祭十四代など、飲みやすくフルーティーなものが大好き。

 

そんな私が最近出会った驚きのお酒が「村祐 「黒」 無濾過本生」である!

 

そもそも村祐とは、、

平成14年に誕生した「村祐」という限定銘柄は、村祐酒造専務「村山健輔氏」が新たに立ち上げた新ブランドで、全生産量のうち40石弱しか造られていないお酒です 

和三盆糖という高級な砂糖をイメージして酒質を研究してきたという事ですが、その時に飲んだ純米大吟醸のキメの細かで、透明感のある上品な甘さ、その余韻を引きながら綺麗に消えていく味わいは、新潟清酒に新しい風を吹き込んでくれるのではないかと感じさせる、個性的で素晴らしいお酒でした。

https://www.sakesake.com/item/kurabetu1/60/1-60.html

甘口でありながら、爽やかで上品な味わいが特徴であり、女性ファンもかなり多い模様。

 

そして村祐シリーズの中でも、村裕「黒」は、通常の倍の甘さを誇るらしい。
最初に飲んだときは、そのかなりの甘さに驚く。
しかしながら、その甘さがまったく甘ったるくなく、くどくなくすっきりとしていることに再び驚くのである。

1年に一度の超限定醸造らしく、なかなか手に入らないらしいが、またいつか飲みたいなぁと思った。
高級酒なので、甘口の日本酒好きの人へのプレゼントとしていいかもしれない。

 

www.sakesake.com